※この作品はR-18です。

最愛の狐の糜爛に鴉は、あるいは贔屓の鴉の惰性に狐はどう向き合うか   作:雷之電

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「飯綱丸様!典を……見失いました」

 あのボンクラどもが最大の焦燥を屋敷まで運んできたのは、時にして九つ。〝見失っ〟てから半刻も経って後のことだった。そして自ら探そうともせず、報告から家へ直帰した、どのみちボンクラには任せられないが。

 どの店で飲んだ?聞きそびれてしまったがだいたい奴らの集まる店は限られる。その帰路で野ションして戻ったら消えていたという。

 とても一人で動ける状態ではなかったことも聞いた。最悪を覚悟せねばなるまい。

 そしてその覚悟は、あろうことか実る。

 最速のブン屋を薙ぎ倒す勢いで捜索を試みたところ、一人の白狼天狗が慌てて呼び止めた。

「つっ、典さんのことです。えと……診療所に運びました。狭い道でうずくまってて、傷だらけで、その、……暴漢に襲われたようで」

「ありがとう。落ち着いて。典から聞くよ。今度麦飯を贈ろう」

 この繁華街で診療所といえばあそこしかない。ほぼ酔っ払いの対応専門となっているところ。

 

 屋敷の自室では浴びない、清々しい朝日が目を刺した。見知らぬ天井から垂れる青いカーテンが部屋を囲んでいるのが見える。その外側ではすでに忙しそうに何人もが物音や声を立てている。

 消されたラジオ、巨大な輸液バッグと小瓶が吊られた点滴台、自分の右手を諸手で握ったままベッドの端に突っ伏す龍……

 起きて、泣き腫らしたらしい目を開けこちらを見つめる。

「んへへ。やられちゃいました」

 小さな処置室の簡易ベッドで血まみれの毛布にくるまれながら第一声、私ははそう言った。

 やられた。しかし昨日のことはよく覚えていない部分も多かったし、それでいいと思う。

「……強がるんじゃない」

 外で壁を打つ音が三回。続いてカーテンが滑り、医師と若くガタイのいい看護師が入ってきた。

「やあおはようございます。回診、とはいえ一組ですが」

 こいつムキムキでしょ、みんな酔った勢いで暴れるもんだから、強い人集めてるんですわ。ははは。和ませるつもりか二人勝手に笑う。

「昨日飯綱さんにはお話したんですが、改めて。えー、後頭の裂傷は、診た時点で既に痂……かさぶたで綺麗に塞がっておりました。それから、厄介な……腹の傷ですね。粘膜という粘膜がとにかく広く擦り傷になってまして。人間なら諦めるところなんですがね、できることといえばこれ。抗生剤入れるくらいしかないんですわ」

 小瓶を爪でつついてみせる。

 どうでしょ、昨日と比べて、気分は。

「……右耳が、聞こえないです。」

 耳鏡がこの場にないらしい。手で耳のわさわさに触れる。

「んゃっ、ちょっ、やめて」

 無神経な触り方で気力を吸い取られた自分をよそに説明を続けるに、一、二週間で鼓膜も塞がるだろうと。

「敗血症で亡くなった妖怪なんて聞きませんから、今日出ても問題ないでしょう。これが、うちに入院患者がいない直接の理由なんですがね。それと飯綱さん。向こうで少しお話を」

 

 飯綱さん、あの子けろっとしてますがね、ありゃ健忘です。いつまたその記憶を掘り返すことになろうか……ほんの些細なことであってもです。他人の無神経な言動、その時と似た空間、……箸を落とす音でさえあるかもしれません。何が記憶を逆撫でするか……

 それと、どうかいつも通り接してあげるように――

 

 最速を超えて替えの服を屋敷から取り、診療所の寝間着から着替えさせてわざわざ徒歩で帰る。

「麦飯握ってきたんだが」

「……いいです」

 今にも飛ばされそうなほどにふよふよ歩く典の背中に腕をまわして進む。こんな状態でも、常時見ている必要はないとしてここから出された。

 龍が歩調を合わせているつもりだったが典が龍に合わせているらしかった。自分の意思で道を曲がらない。

 式じゃないが、式が抜けたような。

 道行く人々がやたらこちらを見て気の毒そうな視線を置いていく。噂の伝達だけはいつも早い。まったく憎たらしい奴らだ。普段の指示もこれくらいに早く伝えてほしい。

「腹、痛むか」

 少し考えて首を横に振る。

 抜け殻と話しているようだった。そこに典はいない。いかなる陰惨な辱めを受けたかなど龍は聞けるはずもなかったが、虚ろな管からのこだまを相手しているような異常から程度はわかる。

 ……いずれ知ることになる。人間社会でいうところの旧町奉行が首を突っ込んでくるだろう。暴漢への憤りよりも現状への悲しみが強く、本音ではしばらくの間誰にも干渉されず、ただ二人でいさせてほしかった。

「何か飲もうか」

 唐突な大天狗との目見えでがちがちに緊張している茶屋の娘に煎茶、水、日本の串団子を注文し昇りかけた陽の注ぐ長椅子に二人腰かけた。

 典は団子を断り冷ました茶をちびちび啜っている。結局龍が二本とも片付けるが、いくら噛めどまったくの無味で、乾ききった口に粘土を押し込むような苦行となった。

 何を食ってもまずい。世界にグレースケールのとばりが下りた。

 屋敷に着けば、きっと世界は輪郭すら失うだろう。粘土を喰らうことも、わざわざ店の娘を怯えさせることもなくなってしまう。それが何よりも怖かった。

 もっと言えば、虚ろになったこの管と正面から向き合わねばならなくなる。

 

 しかし時は進むし、足も進むのだ。

 屋敷の門をくぐり歩く。二人ともにとって最も気の緩むところであるはずなのに、土間へ近づくにつれその足はみるみる重くなる、またそれに連動して、龍の心の臓を締める悪魔の手に力が入る。

 足は、進む。

 六枚もの引き戸の端を引き、ついに足を屋敷へ乗せた。

 下駄も脱がぬまま、堪えられず強引に典を抱き寄せる。これが最悪手であろうことは龍もわかっていたが、典はそれでも黙って身を預けていた。

 

 そして典の乱れた髪に息をかけたまま、何もできず過ぎる時を遮り、

「……何もしてくださらないんですか」

 彼女の頬が濡れていた。いつものようにはにかみながら。

 この顔を、龍はよく知っている。

「頑張ってからかわなくたっていい」

 典は龍が何もできないことを勘づいていた。そしてそれが最良手であろうことも。




ただ書きたいものを詰めただけのものなのでオチまで書くつもりはありません。
気が向いたら続きまで書くかもしれません。

2022/08/27 追記:気が向きました。加筆修正して連載しています。
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