その性質上、「同居人」のネタバレを多分に含みますので未プレイの方はご注意ください。
鼓膜をつんざく音がした。世にも恐ろしい音が。
バンパーに乗り上げた肢体が宙を転がるように舞い、鈍い音を立ててアスファルトに落下した。勢いは止まらず、そのまま酷い布ずれの音と共に地面を舐める。
一体、何が起こったのだろう。
あまりに瞬く間の出来事で、誰もがその動きを、思考を止めた。世界が止まった。
永遠に思えた静寂の後、皆の意識を引き戻したのは驚くほどの速さで地面に染みを広げる真っ赤な色彩と、焼け焦げたゴムの臭い。
「おい、誰か! 誰か救急車を!」
堰を切ったように、叫びと怒号、そして悲鳴が辺りに満ちた。
私と亞嵩麗子の関係を一言で言い表すのは難しい。
婚姻関係では勿論なく、恋人同士でも決してない。かと言って腐れ縁の一言で片付けるには淡泊に過ぎ、同僚や友人というのも言葉が足りない。
あるいは、居を共にするだけの、余人が距離を測りかねるような一種奇妙な距離を保って過ごし、当人達にしか分からない価値観を共有する、『同居人』。
そう、この単語が一番しっくりくるかもしれない。
少なくとも人生のごく一時期、私たちは同居人だった。
「はい探偵さん、ハッピーハロウィン」
「……どうしたのシバケンちゃん」
亞嵩が目を丸くしながらも受け取ったタッパーには、南瓜のそぼろ煮がみっちりと詰まっていたはずだ。
はずだ、というのは渡したのがかれこれ1ヶ月以上前の出来事だったからで、なぜそんなものを渡したのかというと、それはハロウィンと言えば南瓜という極めて短絡的な発想によるものだ。付け加えるに、亞嵩の生活力の無さと中年独身男性につきものである華のないレパートリーも、この選択に至る一因であったかもしれない。
因みにシバケンというのは私のあだ名だ。御子柴剣介、当年とって35歳。人生のどの部分を切り取ってもこの呼び名から逃げおおせたことはない。亞嵩などは出会った次の日からシバケン呼びであったような気がする。
(そういや、あのタッパー返してもらったっけ?)
下らぬことを考えながら、毛足の長いカーペットに掃除機をかける。
場所は、亞嵩の事務所だ。私は留守番の暇を持て余し、私がやらなければ散らかる一方であるワーキングスペースの掃除と片付けに精を出している。
私の本職は記者である。まあ、今はフリーの立場だが。しかし決して亞嵩の助手では、ましてハウスキーパーではない。
「だいたい、何で本人がいねえんだよ」
ぶつぶつと零しながら、それでも片付けの手を止めないのは私の美点だろう。本棚に薄く積もった埃をふき取り、出鱈目に積み上げられた卓上の書類を選り分け、床に隙間なく掃除機を掛ける。あろうことか国勢調査の書類が出てきたので、当てこすりのように書類束の一番上に置いておいた。提出の期限は10月、とうに過ぎている。
開け放った窓から風が舞い込む。冬の朝に特有の清廉な冷気が、頬を撫でた。
そう言えば、私としたことがエアコンを付けっ放しにしてしまっていた。慌ててリモコンを探し電源を切る。コンプレッサが停止し、今までそれと意識していなかった静寂に、訳もなく居心地の悪さを覚えた。ついでにとばかり、テレビの電源を付ける。
『あの事件の続報です』真剣な面持ちでニュースキャスターが原稿を読み上げているところだった。たった今入った速報のようだ。
『「女性連続生皮はがし死体遺棄事件」の新たな犠牲者です。つい先ほど警察から発表がありました。遺体の状況はこれまでの3件と同様損壊が激しく、警察は身元の確認を急いでおり……』
ここ数ヶ月、世間を騒がせている連続猟奇殺人事件だった。1件目は8月、それからきっかり1ヶ月ごとに犠牲者が増えている。若い女性ばかりを狙った犯行で、全身の表皮を剥がすという残虐な手口、そして誰にでも発見できる場所に段ボール箱などに詰めて遺棄するという無造作な処理、そういったある種のちぐはぐさが一層事件のグロテスクさを際立たせていた。なおかつ、今に至るまで犯人逮捕に至る糸口は全く掴めていない。今こうして4件目の犯行が発覚したのがその証左でもある。
いきなり目に入った穏やかならぬニュース。職業柄、ある程度耐性はあるはずなのだが、それでも少し胸が悪くなってしまった。手に持ったままだったリモコンで、慌てて電源を落とす。
再び、事務所に静寂が訪れた。
出鼻を挫かれたかの如く、掃除を続ける気は失せてしまっていた。勝手に備品の紅茶でも頂くかと思い、窓を閉め、掃除機を片付ける。(私から見れば)無駄に豪奢な亞嵩の趣味は、事務所の内装だけでなく嗜好品にももれなく反映されている。一度頼まれて専門店に買いに出かけた事もあったが、目玉が飛び出るほどの値段だった――経費で落ちるしいいのよ~、と亞嵩はのほほんとしていた、が、その領収書を整理するのは誰だいうのだ?
ただしかし、一口飲んでみれば確かに、貧乏舌の私にも分かる程に美味なのだ。
ティーセットを用意しようかと簡易キッチンに向かった所で、電話が鳴った。デスク上の業務用電話が安っぽい電子音を奏でている。
受話器を取る人間は、勿論私しかいない。溜息をひとつ、やれやれと受話器を持ちあげた。
「はい、亞嵩探偵事務所です」と言おうとしたが、出来なかった。
その瞬間、ひどい眩暈に襲われていた。
視界がコールタールを塗りたくったように突如として暗転した。
かと思えば、事務所内のあらゆる家具の輪郭線が浮き立つように七色に発光した。
時計の針が曲がっている。曲がりながら有りうべからざる速度で回っている。
ゆるやかな周期で、そして大きな振れ幅で脳髄が揺らぐ感覚、鈍りゆく意識。
突然泥酔に陥ったかような状態だが、それは始まった時と同じくらい唐突に止んだ。まるでつむじ風が一瞬、目の前を通り過ぎたかのように。
『あの、済みません、大丈夫でしょうか? 先ほどからお声がけしているのですが……』受話器の向こうから、いぶかし気な声が掛けられる。そうだ、自分は電話をとったところだった。
「ああ、いえ、済みません。少しお声が遠かったようで」私は慌てて言葉を濁した。
鬼嶋礼二、と電話の相手は名乗った。張りのある深い声の持ち主だった。
『この度、貴社に依頼を致したくお電話を差し上げました』
折り目正しい言葉遣いとは裏腹に、声色はやや震えていた。冷静さを欠こうとしている自身を必死に抑え平静を保とうとしている、そんな印象を受けた。
『そちらにお伺いして依頼の詳細をお話ししたいと思うのですが、この電話でアポイントを取らせて頂いて宜しいでしょうか?』と鬼嶋は言う。
「ええ、それは勿論構いませんが」
亞嵩の居場所はおろか予定も知らないが、どうせ事務所は閑古鳥が鳴いている。用件を聞くだけなら私だけでも十分用は成すはずだ。
『では早速で大変恐縮ですが、後ほど……そうですね、午前中の内にお伺いしたいと存じます』
簡潔ながら丁寧な挨拶と共に、電話は切れた。
ふむん、と私は溜息をつき、スマートフォンを取り出した。亞嵩にLINEで短文をいくつも送り付ける。
「夕方にお客がくるぞ」
「依頼したい事があるって」
「今どこにいる?」
「掃除もしといた」
そのままぐっと画面を睨みつけるが、一向に既読が付く気配はない。
(あんにゃろうめ)
「紅茶もらうぞ」
そう打った時、
「あら、お客さんがくるのねえ」
すぐ後ろで声がした。後ろというより肩と耳の間から、亞嵩がスマートフォンの画面を覗きこんでいた。
「うわっ」と叫んで首を竦める。滅茶苦茶驚いてしまった。一体いつの間に入ってきたのだろう。
心臓が口から飛び出そうになっている私を面白そうに眺めながら、亞嵩は「紅茶が飲みたいの? いいわよ~」とにこにこ笑っている。
亞嵩は、いつも通りのドレス姿だった。絹のような(というか多分絹だ)重さを感じさせない柔らかく艶のある生地が、ふわりと踝までを覆っている。色こそシックな黒だが、毛皮のストールと大きく開いた襟ぐりが、華やかな夜会から抜け出してきた主役のように彼女自身を飾り立てている。だが油断してはいけない。これで幾人もの依頼人の意識の隙を突き、タフな交渉を何度となく乗り切ってきたのだ。
「どこ行ってたんだよ」
「別に~。さっきからいたわよ」
「嘘つけ」
この事務所を開設してから早10年になろうとしているが、亞嵩とはその頃からの付き合いだった。当時の上司づたいに紹介され、簡単な仕事を手伝っただけの仲だったはずなのだが、いつの間にかすっかり懐かれてしまった。
探偵としては優秀そのもの、どんな相手にも怖気づくことのない胆力を持ち、勘働きもいい。どこからか高額の依頼を取り付けてきては難なく解決に導く。その筋でも、決して事務所の評判は悪くない。
だが一方で、この女にはそれ以外の能力がまるで欠如している。確定申告の手順は未だ全く覚えていないし、誰かが用意しなければ食事もとらない。脱いだ服はその辺に放っちらかし、放っておけばいつまでも寝ている。なぜ私がそれを知っているのか? それは、それらすべての世話を私がこなしているからだ。
そしてもはや癖になった、浪費につぐ浪費。なぜ探偵事務所にクリスタルのシャンデリアがあるのだろうか。
正直に告白すれば、手を出そうと思った事は一度ならずある。亞嵩は魅力的な女だ。だが、そうはならなかった。亞嵩はしょっちゅう私の賃貸アパートに泊まり込む。お揃いの食器や箸置きや、亞嵩の持ち込んだヘアアイロンがある。それらを使うだけ使ってその辺りに投げ出しては、炬燵でぬくぬくと眠り込む。しかしそれだけだ。そうならずお互いの間に時間だけを積み重ねた男女は、もはや決してそうはならない。だから、今日も私はぶつくさ文句だけは垂れながら、亞嵩の世話に余念が無い。そういった距離に安住する事を、私は良しとした。
「お掃除してくれてたのはいいけど、まだ紙屑が落ちてるわねえ」
足元にくしゃりと落ちた薄い紙っぺらはむしろ亞嵩の近くにあるのだが、自分では動こうともしない。
「全くもう……」
「偉いわねえ」
「うるさいよ」
少しは謙虚さであるとか、感謝の心はないのだろうか。
「あら、私はいつも感謝してるわよう」
「ほんとかなあ」
拾い上げた紙きれは何かの書類の様だったが、文字が掠れているのか上手く読み取る事が出来ない。
「捨てるぞ、これ」
「ええ、それと、もうすぐお客さんが来るんだったら尚更お茶を淹れなきゃだわねえ」
「どうせ俺が淹れるんだろ」
こっそり飲もうとしていたのは事実なので、それについて文句はない。それに、
「だって、シバケンちゃんが淹れてくれるお茶、とっても美味しいんだもの」
亜嵩は、必ずこう言うのだ。
「はいはい、わかったよ」
「ダージリンでお願いねえ」
「はいはい」
確かダージリンは買い置きがあったはずだ。
鬼嶋は電話の印象通りの人物だった。柔和な物腰の中年男性で、彫りの深い顔には憂いが浮かんでいる。いかにも高級そうな、しかし派手さを抑えたスーツを自然に着こなして、きっと時計も靴も値の張る物なのだろうと察しがついた。
「初めまして、先ほどお電話を差し上げた鬼嶋です」
「亞嵩ですわ」
「助手の御子柴です、どうぞ中に」
鬼嶋は亜嵩と私とそれぞれ握手を交わし、事務所の応接ソファに腰を下ろした。握った手は、少し震えているように感じられた。
「早速依頼の内容をお伝えしたいと思うのですが……宜しいでしょうか?」世間話もそこそこに、鬼嶋は切り出した。
「ええ、勿論」と亞嵩。まずは訊いてみない事には始まらない。
実は、と鬼嶋は一拍を置いた。
「誘拐された娘を、助けて頂きたいのです」
殊の外重い依頼内容に、私は二の句が継げなかった。亞嵩は妙な形に口を窄めている。これは熱すぎる紅茶で口を火傷したのだ。
想いが溢れるかのように、鬼嶋は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。
「事の経緯はつい昨日に始まるのです」
「その日は偶々娘が休みで、普段から忙しく時間が取れぬ私は久しぶりに食事を取ろうとレストランへ昼食に向かいました。そこでのひと時は、ああ、今思えばなんと尊い時間だったでしょうか」
「私が娘と昼食を終え共に家へ帰っていると、突然正面から大きな物音がしました。車が私たちの下に走り込んでいたのです」
「私は娘が危ない、庇おうと必死になりましたが、重量を持つ鉄のかたまりには無力でした。私は跳ね飛ばされ、地面に転げまわりました」
「これはその時に負った傷で……。今も深く痛みます。地面に伏した私は、お父さん、お父さん、と悲痛の声をあげながら連れ去られ、乱暴に車に押し込まれていく娘を、ただただ見ることしかかないませんでした。そこからの記憶は曖昧です。気がつけば真っ白な天井。病院のベッドの上だったのです」
鬼嶋は悔しそうに拳を握りしめた。
「お願いします。どうか娘を助けてください。私の大切な……育て上げた娘を」
「失礼ですがこの件、警察には?」と私。
「連絡は行っているはずです。といいますのは、白昼堂々の犯行でしたので、近隣の住民による通報があったそうです」
警察の捜査を待つだけでは不安が拭えず、こうして依頼に来たということらしい。どこかでウチの評判を聞きつけたのだろう。
亜嵩は、親の仇を見るようなめでカップを見つめている。そんなに熱かったのだろうか。
「いきなり報酬の話をさせて頂くのは大変に恐縮なのですが……前金で500万円、如何でしょうか?」
危うく紅茶を噴き出すところだった。
「成功報酬は500万円、勿論経費は別途お支払い致します」
ちらりと亞嵩の様子を覗うが、こちらは毛筋一つ動かさず「ええ、構わなくてよ」と即答した。おためごかしにせよ、娘の安否を気遣う様子すらないのはまったく大したタマだ。
「ああ、良かった」と鬼嶋は心底安堵した様子を見せた。
「では取り急ぎ前金を」現金にて失礼、と鬼嶋は鞄から分厚い紙包みを差し出した。
中を覗くと、ぴんと角の張った札束が5つ。わざわざ現金を持ち歩いてきたとは、相当焦っているのだろう。状況が状況なので、無理からぬことではあるが。
「そういえば鬼嶋さん、お仕事は何をされておいでで?」と私。
「この近所に、医院を構えております」
外科専門の開業医らしい。道理で羽振りが良い筈だ。
その後連絡先を交換し、鬼嶋は早々に事務所を辞した。
「まだ手術が控えているので」と鬼嶋。どうやら仕事の合間を縫ってここまでやってきたようだった。昨日の今日で、仕事などまだ手に付かないだろうに。
「お身体、大事になさってくださいね」亞嵩が玄関まで見送り、社交辞令にしても珍しく気遣いを見せた。
ローテーブルの上、熱を失った紅茶が、カップの中で所在なげに漂っていた。