車内は酷い臭いだった。いや、臭いが染みついているのは私たちだ。この服は捨てなければならないし、車内もクリーニング業者に依頼するほかないだろう。だがそれも、すべてが終わってからの話だ。
「頂上へは俺が行く。あんたは車で待っててくれ」警察への通報と誘導も頼む、と農道を飛ばしながら私は言った。
「嫌よ」
「なんでだ。いや、言いあってる暇はねえぞ」
「自分の身は守れるもの。シバケンちゃんと同じように」
「……頼むからさ」
「言いあう時間はないんでしょう? 私のことは置いて行っていいわ。後から付いていくだけ」
聞こえよがしに舌打ちしたが、堪えた様子はない。亜嵩は、いつもこうだ。
ただ、時間が無いことはその通りだった。昨日車を停めた草原を無視し、斜面に乗り上げそのまま無理やり登る。SUVとあっても無茶な運転に、車体は馬鹿みたいに揺れた。獣道の左右に蔓延る雑草をなぎ倒し、木々の合間が狭くなって車ではどうにも通れなくなるギリギリまで進んだところで車を停めて、私は運転席から飛び降りた。半ば道のりを残した山道を駆け上がる。亜嵩の言葉通り、彼女を待つ気はない。
私は武器こそ携帯していないが、これでもキックボクシングの心得がある。それにいつも着用しているパンツはストレッチ素材のもので動きは阻害されないし、履いている靴は一見皮革地のスニーカーだが、その実安全靴で爪先には鉄板が仕込んである。体力だって若い頃からそう衰えていない自信はあるし、そして憚りながら、荒事に臨んで気後れするほど清廉潔白な経歴の持ち主でもない。
額に汗が滲む頃、山頂の平屋を目前に臨んだ。亜嵩はまだ遥か後方だろう、足音すら聞こえない。
小屋のドアは開け放たれていた。昨日は確かに閉めていったはずだ。
呼吸を無理やり整え、ドアに近づく。
人の気配があった。
荒く喘ぐような乱暴な息遣い。湿った肉が打ち付けられる音。悲鳴にならない呻き声。
もはや、疑念を挟む余地も無い。
片目だけで室内を窺えば、アウトドア用だろうLEDランタンに照らされた室内には、椅子に後ろ手に括りつけられた少女と、それに覆いかぶさる大男の後ろ姿があった。
男はウェーブの掛かった金髪。牛山だ。
少女の服は見るも無残に破られて、顔は幾度も殴られたのだろう、頬が大きく腫れ上がっていた。脅しのためか、あるいは牛山の歪んだ享楽のためか。猿轡を噛まされているようだったが目は虚ろ、最早口の詰め物が無かったとしても、しっかとした悲鳴を上げる程の気力は残されていないように見えた。ただ、牛山の腰の動きに合わせて、呻き声に似た呼気が口から洩れるばかりだった。
牛山の動きが、大きく速くなった。
今だ。
室内に大きく素早く踏み込み、たった二歩。そこはもう私の間合いだ。
蹴り足から軸足に体重を移し、鉄板を仕込んだ右の爪先で男の側頭部を狙った。
直撃すれば死ぬかもしれないが、躊躇う理由は何もない。
必殺の一撃だったはずのそれは、しかし無様にも虚空を捉えるばかりだった。
牛山は、すんでのところで体幹をひねるように躱していた。
最も無防備な瞬間を狙ったはずだった。まさか、後ろに目でも付いているのだろうか?
牛山が転がるようにして向き直るのと、蹴り足の勢いを殺し損ねた私が体勢を整えるのは、ほぼ同時だった。
薄明りの中、私と牛山は対峙した。
私の身長は180cmをいくらか超えるが、こうして向き合ってみると牛山は更に10cm以上大きい。身体の厚みも段違いで、体重差で言えば20kgは下らないだろう。まともにやり合えば勝負にならない。
更に、実戦慣れという意味でも牛山に隙は無い。ズボンも下着もかなぐり捨て、体液に塗れた男根を晒しているというのに、その表情には些かの気後れも無い。欠けた前歯を剥き出しにして、その顔は赤黒く染まっている。込められているのは、絶頂に達する瞬間を妨げられた事に対する憤怒か。
だが、勝ち目がないからと言って引き下がるわけにはいかない。私が諦めれば鬼嶋凛は死ぬ。私が負ければ私もろとも彼女も死ぬ。仮に亜嵩が間に合ったとして、何かの助力になるとも思えない。私一人で、この男を斃すしかない。
肚は括った。だが、ちらりと少女の方に視線がいくのは避けられず、牛山はそれを何か勘違いしたのか表情を緩め、下卑た笑い声を発した。
「羨ましいか? なあ、おい。一緒に」
交ざるか、と最後までは言わせなかった。
脛横を蹴り潰すつもりで放った右のカーフキックを、牛山は躱さなかった。分厚い下腿の肉で受け、片足のままの私に掴みかかってきた。
何とか振り払い、距離を取る。
牛山の表情は、薄笑いのままだ。多少の被弾は覚悟で、捕まえてさえしまえば後はどうにでもなるという腹積もりだろう。そしてそれは間違っていない。20kgという体重差には、それだけの重みがある。
もう一度、脛を狙った。
牛山は、蹴り足をそのまま掴みに来た。
今度は、私が不意を突く番だった。出足はフェイントに過ぎない。本命はその対角線上、牛山の意識の死角から左フックを放った。
横面に直撃はしたが、怯む気配は全くなかった。それどころか返す私の右拳に、牛山は雷光のようなクロスカウンターを合わせてきた。
何とか相打ちに持ち込めたが、完全なる当たり負けだった。意識が一瞬飛びそうになる。
野の獣のような勘をもつ牛山が、その隙を見逃すはずは無かった。ジャケットの襟をつかみ、そのままのしかかるように地面に引き倒そうとした。
馬乗りになられれば一巻の終わりだ。鼻から脳が飛び出るまで殴られて死ぬ。
だから私も必死で抵抗した。敢えて引き剥がそうとはせず、逆に顔を寄せて親指の付け根に犬歯で噛みついた。
さすがにそこまでのラフファイトは牛山にとっても想定外だったのだろう、掴んだ手を放し、反対の拳で私の頬骨を殴りつけた。
上顎の歯がぐらつくほどの一撃だったが、何とか離れることは出来た。行って来いの駄賃で手に入ったのは牛山の右の親指などではなく、それはただ薄く皮膚を切り裂いただけで終わった。しばらくは痛むかもしれないが、それだけだ。全く割に合っていない。
やはり彼我の戦力に、絶望的な差があった。
その時、牛山の背後の扉、開け放たれたその向こうに人影があった。手に何かを構えていた。
亜嵩が、スタンガンを体の前に構えていた。
助勢が来た、とは全く思わなかった。ただ、この怪物の前に姿を現してくれるなと思った。1秒でもこのけだものの視界に捉えられてくれるなと、それだけを願った。
だから、あらん限りの声で叫んだ。
「来るな!!!」
一瞬、牛山の意識が後ろに向いた。
やめろ。
それを隙だと思う前に、私の右の足刀が殆ど私の意図すらせぬまま、牛山の長い顎を撫でるように打ち抜いた。
牛山はそのままの姿勢で崩れ落ち、意識を手放した。
あまりにあっけない終わりだった。傍にあったロープで牛山の巨体を縛り上げたところで、私も精魂を使い果たしてその場にへたり込んだ。
「お疲れ様」
上から、亜嵩が覗き込んでいる。
「あの娘は」
「大丈夫。ちょっと怪我はしてるけど、生きてるわ」
「でも」
「大丈夫よ」
その大丈夫は、いったい何の大丈夫なのだろうか。だが問い返す気力も起きなかった。
「警察も呼んだわ。パトカーが来るまでちょっとだけ目を瞑って、横になってなさいな」
いっぱい頑張ったわね、膝枕したげましょうか、と問いかける亜嵩の声は、笑いを含んでいる。
バカ言え。そう思ったが、それを口に出せたかどうかは、私の記憶からはさっぱり抜け落ちている。
その後のことを言えば、牛山は逮捕・拘束され、鬼嶋凛は無事に保護された。
誘拐事件を解決し、避けられぬはずの殺人を未然に防ぎ、現在進行形の凶悪犯罪を食い止めた私たちは、警察から感謝状を進呈されることになった。私は固辞しようとしたが、そこは大堂が譲らなかった。警察にも面子があるからというよく分からない言い分だが、事務所の宣伝にもなるわよと亜嵩に言われしぶしぶ受ける事とした。
署長室で畏まって感謝状を受け取る場では、あちこち包帯とガーゼを張り付けた私の姿に、どよめきが上がった。
初めて目にする署長と、私の後ろに、大堂の姿があった。
眼鏡の制服警官の姿があった。
亜嵩の姿があり、話を聞きつけた私の同僚の姿があった。
皆が事件の解決を祝福し、カメラのフラッシュが焚かれる中、皆が手を叩いた。
だが、これで本当に事件はすべて解決したのだろうか? 本当に?
『大丈夫』と亜嵩は言った。生きてるから、と。
そう、鬼嶋凛だ。牛山に思うさま凌辱を受け心身に深い傷を負った、年若いあの少女。
あの娘は、今も本当に大丈夫なのか?
あれから1ヶ月ほどが経っていた。
年も明け、僅かな正月休みは帰省に消え、すっかり日常に戻った事務所の中で、私は壁に貼り付けられた感謝状を眺めながらぼんやりと考える。
牛山は死体遺棄および損壊をはじめ、殺人や暴行、未成年略取などいくつもの罪状で再逮捕・起訴された後、異例ともいえる速さで死刑判決が出された。控訴したという情報はまだ聞いていない。
あれだけの事をしでかしたのだし、明らかに計画性があった。いくら弁護側が心神喪失を主張したとしてそれが通ることないだろう。今後、生きて娑婆に出る事はない筈だ。
あんな奴のことはもう、考えなくとも良い。算盤の勘定に入れる価値すらない。
だから、きちんと生きている人間の事を考えなければならない。あの少女の、あの親娘の事を。
彼らの今とその行く末を思うとき、私の胸には小さな棘が刺さる。その棘には返しがついていて、中々抜くことも出来なければ癒えることも無い。私ですらそうなのだから、彼ら本人については何をかいわんやだ。
そんな折、事務所の電話が鳴った。
亞嵩は、相変わらず出ようとしない。
「シバケンちゃんのお仕事でしょ~」
まあ、今更慣れたものだが。
「はい、亜嵩探偵事務所です」
「ああ、御子柴さん。鬼嶋です」
「鬼嶋さん! どうもお世話になっております」
鬼嶋はあの夜が明け娘の無事を確認するや否や、間髪入れぬ手回しでもって成功報酬を振り込み、その報告と共に感謝の電話を寄こしてくれた。例によって修辞表現に満ちた言い回しには閉口したものだが、殆ど涙声のそれを遮る気にもなれず、「娘さん共々お大事になさってください」と述べるに留めた。
しかし、それで終わったはずだ。また何か依頼でも、という話だろうか。
「先日の件につきましては、重ねて御礼を申し上げます」
「いえ、そんな」
「それで、その」
鬼嶋が口ごもった。娘の事だろう、という事ぐらいは察しがついた。
「実は、お願いがございまして」と、案の定鬼嶋は切り出した。
「娘の入院先に、お見舞いにいらしてはくださいませんでしょうか?」
その頼みも、予想しないではなかった。ただ、それに続く「あの絶望という名の闇が覆う中ひとすじの光が差し込むように貴方の顔が見えたのだと、娘がそう申しておりまして」という科白には少し笑いそうになってしまった。
「図々しいのは承知ですが……」
「とんでもない。私でよければ喜んで伺いますよ」
そう言うと、鬼嶋は快哉の声を上げた。