このような記録を残すことに何か価値があるとすれば、それはただ私の正気を保つという一点に尽きる。
親愛なる相棒、亜嵩麗子へ。
もしこの文章を目にすることがあれば、今すぐにこの日記帳を閉じてほしい。もしこのようなものが存在する事自体何かの気に障るというのであれば、捨ててもらっても構わない。私の君に対する敬愛の念はこれからも変わる事はないし、また君にもそうであって欲しいからだ。
3月10日
鬼嶋は、まず15日間という期間を提示した。
曰く、極度の緊張状態における人間の空腹の限界が15日間なのだそうだ。このラインを超えると急激に衰弱し、死に至る。
その間、食卓には1日1回の人肉料理しか並ばない。つまり、私たちの理性が生存本能に敗れる瞬間を、鬼嶋はかぶりつきの特等席で見物できるという訳だ。
「私はそれを待ちます。貴方がたにも、カニバリズムの素晴らしさがきっと分かる筈だ。共に暮らしましょう」
そう言って、鬼嶋は目を細め微笑んだ。
鬼嶋礼二は全き狂人であり、加えて超常の力を持つことを今や私たちに隠そうともしない。
それに凛の鉢を割る時の、熟練の職人じみた慣れた手つき。容易に人骨を毟り割る、おこりのように盛り上がった前腕の筋肉。
今や鬼嶋の見せた振る舞い全てが、私たちを圧倒していた。善良で温厚な中年医師は、たった数十分で地獄の生き物へと変貌した。少なくとも、私にとっては。
鬼嶋に逆らってはならない、怒らせてはならない。紳士然たるその仮面を薄皮一枚分剥いだ先にあるに違いない恐ろしい何かの存在に、ただひたすらに怯えた。
すっかり逆らう気力を無くした私たち二人を、鬼嶋は寧ろ恭しく客室に誘った。
この館で過ごすにあたって守らなければならない幾つかのルールを、優しく噛んで含める様に言い聞かせて。
ひとつ。むやみに家の中をうろつかないこと。ただしトイレや入浴はこの限りではない。
ひとつ。毎夕18時には、必ずダイニングで食事を共にすること。準備は、すべて鬼嶋自身の手で行う。
部屋にはシングルベッドがふたつ。照明も簡素なシーリングライトで、壁にはそっけないアナログ時計がかけられたばかりの、まるでビジネスホテル然とした飾り気のない部屋だった。
ここに、亜嵩と二人で?
「何か問題でも?」
曖昧に、首を振る事しかできなかった。
「なあ」
「なあに?」
「あいつ、何がしたいんだと思う?」
「何って、お仲間を増やしたいんじゃないのかしら? 彼が言っていた通りに」
「凛ちゃんのことは?」
「……残念だけど、あれじゃ助からないわ」
「そういう事じゃねえよ」
最後に見た時、つまりダイニングから逃げ出した時はまだ、彼女は生きていた。頭の鉢と、大脳皮質のほんの一部を損なっただけで。だが、人間がその状態で生命活動を維持できるものだろうか。きっともう、手遅れだ。それを受け入れるしかない事ぐらいは、私にも分かっていた。
私たちは、部屋のベッドにそれぞれ腰かけて、目を合わせることなく、ぼそぼそと会話を続けた。
「多分、今日この日、食べる為に育ててたんじゃないかしら」
養殖の魚を太らせるみたいに、と亜嵩はあっさり言った。
「……実の娘だぞ」
「あんな狂人の考えることは分からないわ、ただ予想してるだけ。凛ちゃん、ベジタリアンだって言ってたでしょう?」
肉食や雑食の動物は、どうしても肉に臭みが残る。だから人肉の味を追求するのであれば、摂取する食事に動物性蛋白質が含まれないように管理する必要がある。彼女の食事の好みは、鬼嶋によって彼女の意図せぬまま誘導されていたのではないか、と亜嵩は言う。
「で、美食を追求して布教しようってか、いかれてるな」
「私に言わないで頂戴」
「それで、どうする。言われるまま1日中ここに籠ってるか?」
「まさか。何とかして脱出するわよ。人食い族の仲間入りなんて御免だわ」
「だよな。取りあえず屋敷ん中探ってみるか」
ただ、それには鬼嶋にバレないように、という但し書きが付く。このように鬼嶋のいない場で勇ましい事を言えるだけの気力は残っているものの、ひとたび鬼嶋に直接睨まれれば、悪戯を暴かれた童子のように気持ちが萎えてしまうかもしれない。想像するだに恐ろしい。それはとりもなおさず。完全なる洗脳に至るまで残すところ数歩の地点に到達したということだからだ。
「俺は、そうだな、物置かどこかで何か武器になりそうなものを探してくる。何かリクエストはあるか?」
亜嵩は少し考えてから、ドレスの襟ぐりに手を入れて、胸の谷間から小振りのスタンガンを取り出した。長さは手のひらからはみ出す程度、小型乾電池で動作するスティックタイプだ。私も見たことがある。
「何てとこに隠してんだ……」
「携帯性を重視したせいで容量が小さいのよ。これじゃネズミだって殺せやしないわ」
私も亜嵩もスマートフォンの類は取り上げられていたが、このスタンガンだけは隠し通せていたのだ。
そして、亜嵩の口から「殺す」という直接的な単語が発せられたことに、私は少なからず驚いていた。だが、それぐらいの気概をもって行動しない事には、どうにもならないだろう。
「要は改造できそうな部品だな、探してみるよ。で、亜嵩はどうする?」
「取りあえずこの部屋ね。隅から隅まで、探ってみるわ。もしかしたら何かあるかも」
この部屋から出て何をするにせよ、それは神経をすり減らしながらの地道な作業になるだろう。何せ今ここにいるのは鬼嶋を除けば私たちだけなのだ、この部屋以外に気配があればすぐに私たちの仕業だとばれてしまう。常に周囲に気を配り、気配を殺しながら捜索を進める必要がある。
まずは無理にでも仮眠をとる。探索はそれからだ。
納戸は、玄関ホールのすぐそばにあった。如何にも几帳面そうな鬼嶋だが、さすがにこのスペースは雑多な物置として使用しているようだ。これだけの広さの屋敷となれば、当然物も多い。目的のものを探し出すためには骨が折れそうだった。
スタンガンの威力を上げるのであれば、電池を増設し出力を抑制するための安全装置を殺す必要がある。半田ごてにバッテリー、あとは作業用のピンセットと、電池を固定し絶縁するためのゴムシートなどは最低限手に入れなければならない。
窓のない納戸で気配を殺し物色する中、幾度も廊下を行き来する人の気配があった。言うまでもなく、鬼嶋だ。いつこの納戸に足を踏み入れられるか、気が気ではなかった。
豪邸だけあって納戸も広くとってあり、結局ほとんど半日がかりではあったものの、何とか目的の品を手に入れることが出来た。
何とか部屋まで戻り後ろ手にドアを閉めた瞬間、安堵から危うくその場にへたり込むところだった。
「ちょっと、大丈夫?」
「ああ、うん」
小型の無線機から拝借したバッテリーに半田ごて、ゴムシートの切れ端とたこ糸を渡しながら「そっちの首尾は?」と問うたが、暗い顔で亜嵩は首を振るばかり。
「ごめんなさい。隅々まで探したんだけれど」
「気にすんな」と言いながら、ベッドに倒れ込む。
「悪い、ちょっと横になる」
亜嵩が電気工作に勤しむ間、私は束の間の休息を味わった。
そして、無情にも夕食の時刻が訪れた。
誰に促されることなく、私と亞嵩は暗い顔でダイニングに向かった。
「ああ、時間通りに来てくれたんだね」エプロン姿の鬼嶋が微笑む。
「本当は数日を掛けて凛を隅々まで味わい尽くすつもりだったんだが、今日は良い肉が手に入ったのでね。趣向を変えたんだ」
良い肉、という言葉には嫌な予感しかしなかった。
オーブンから電子音が鳴り、いそいそと鬼嶋がミトンを填めて取り出したのは、人間の頭部だった。首から上が、輪切りの根菜の上にごろんと転がっている。髪は短く刈られていた上に皮膚は焼き色が付き所々変形していたが、固く食いしばった前歯の欠け具合に見覚えがあった。
牛山だ。
「房内で自殺していたそうだ。死刑が免れないと分かっての、司法への反抗かもしれないね」
あちち、と軽口を叩きながら、大皿に盛っていく。
「肉汁の染みた野菜が美味いんだよ。だが、メインは煮込みだ。大腿と背中の筋肉をとろとろになるまで煮てある」
座っていてくれと促されるまま、席に着いた。だが、事ここに及んでもまだ、肚が決まっていた訳ではない。人肉を食してでも生きるという覚悟をもってここに来たのではなく、ただ逆らったらどうなるか分からないという恐怖から、ここにいる。
「さあ、熱いうちに頂こう」
配膳を終え自身も席に着く鬼嶋に、亜嵩はしかし、明確に反抗した。
「折角だけれど、私は遠慮しておくわ。小汚い男を食べる趣味は無いの」
唇が震えていたが、声は硬かった。
「そうか、残念だが仕方ない。では先に部屋に戻っていると良い」
鬼嶋は、意外にもあっさりと受け流した。
「御子柴くんはどうするんだね? 折角作ったのだから是非食べてほしいんだが」
「ああ、もらうよ。亜嵩は先に戻っといてくれ」
亜嵩は正気か、という顔をした。多分私も同じような顔をしていたと思う。
彼女の判断に口を挟むつもりはないが、ここで食事を拒否して体力を削り鬼嶋の心証を悪化させる方が悪手である、と私は判断した。
ダイニングからしずしずと去っていく亜嵩をテーブルから見送ってから、私は食事に手を付けた。まずは鬼嶋が自慢げに語っていた、スープ仕立ての煮込みからだ。
一口大に切ったジャガイモや玉ねぎに混じって浮いている肉が、牛山なのだろう。料理だけを見るならば、生前の面影はどこにもない。
「さあ、遠慮なくどうぞ」
ポトフのような見た目のそれに、意を決して口を付ける。
それは、美味の一言に尽きた。
鬼嶋の言う通り、肉は繊維の一筋ひとすじまでが解れるほどに煮込まれていて、口の中でほどけていくよう。臭みはまるでなく、強い旨味が舌の上で弾け、豊かなハーブの香りが鼻に抜ける。人肉とは、こんなにも美味いものなのか。今まで、この美味を知らずに生きてきたことが、人生の損失のようにすら思えた。この一口によって、明確に一つの線を踏み越えたと感じながらも、それに対する後悔はまるでなかった。
目の色を変えて料理を頬張る私の姿を、鬼嶋は目を細めて見ていた。
「それにしてもこの旨味は、牛山くんの身体なればこそだね。凛の華奢な肉付きではこうはいかない」
話を振られて、ぎくりとする。そう言えば、凛はどうなったのだろうか?
「娘ならまだ生きてるよ。小脳さえ無事なら、意外と長持ちするんだ」
脳裏をよぎったのは、顔をまだらに染め歯を食いしばり、脳をむき出しにして笑う少女の姿だった。
思わず、口の中の物を吐き出しそうになった。
「俺の肉は、美味そうに食うくせに」
牛山が言った。皿の上で。焼けて肉汁の滴る頬を動かしながら。
白く濁った水晶体で、私をひたと見据えながら。
「羨ましいか? なあ、おい。一緒に交ざるか?」
悲鳴を上げて、私は椅子から転がり落ちた。
「どうしたんだね」
「こいつが……」私は震えながら焼けた頭部を指さす。
「ああ、幻覚と幻聴だな。気にしなくていい、よくある事だ」
鬼嶋はそう言ったものの結局それ以上食べる気にはなれず、私は退散するように無言で部屋に戻った。
牛山は、私の背に向かってずっと話しかけていた。
恨み言と呪詛と、凛を犯した感想を代わる代わるに。
「あら、早かったわね」
亜嵩が顔を上げた。スタンガンの改造中だったようだ。
「シバケンちゃん、すごい顔色よ。大丈夫?」
答えず、自分のベッドにどさりと腰かける。髪を掻きあげ、髭の辺りをばりばりと掻いた。
1日目にして、早くも限界を感じていた。食べれば確かに体力はもつ。だが、それと引き換えに確実に精神は削れていく。これが少なくとも15日間続くと鬼嶋は言った。勿論、それで終わりではないだろう。15日間という時間は、そこに至るまでに死ぬか、鬼嶋と同じ側の精神性を獲得するかのボーダーラインに過ぎない。
たった1日でこれなのに、それをあと2週間も?
とてもではないが、耐えられそうになかった。
「スタンガン、完成したか?」
「ええ、まあ何とか」
「じゃあさ、それを使って、今日のうちにやっちまわねえか?」
「やるって、鬼嶋を?」
「他に誰がいる?」
亜嵩は、手を身体の前で組んで黙考した。
「まだ、その時じゃ無いと思うのよ」
「これから先、俺達は衰弱するか頭がいかれていくかの2択だ。なら1番まともな今が『その時』だろ」
「鬼嶋を殺して、どうするの? どうやってここから逃げるの?」
「殺してから考えればいい」
「鬼嶋が生きていることが何らかの条件だったら? あんなに頭の回る人間がそれくらいの保険を掛けてないとも思えないわ」
その問いに、私は答えることが出来ない。それに、亜嵩の言っていることも一理あると、心の中では分かっていた。
「この家の中を、もう少し探索してみましょう。情報を集めるの」
「……分かったよ。あんたが、そう言うなら」
溜息をついて、私は降参した。情報収集は探偵稼業のいろはだ。亜嵩は、この状況下でなお、自らを律し探偵としての本分を全うしようとしている。ならば、助手としてはそれに応えなければならない。
「で、食べないんだな?」
「分からないわ。食欲に負けて食べちゃうかも」困ったような顔で、亜嵩は笑った。
誰がそれを責められるだろう。少なくとも、進んで口を付けた私にその資格はないし、もし亜嵩の衰弱が著しくなれば、無理にでも食べさせるつもりでいた。頭がおかしくなろうが一線を越えようが、まずは生き延びてこそだ。
「寝るよ。おやすみ」とだけ言って、私はベッドにもぐりこんだ。