3月11日
ひどい夢を見た気がする。内容は覚えていない。ただ、目覚めの気分は最悪だった。
「おはよう」
亜嵩は既に起きて、考え事をしているようだった。
「おはよう。寝られたか?」
「ええ、貴方がぐーすか寝てる間にお風呂も頂いたわ。シバケンちゃんも入ってきたら?」
「そうするか」
バスルームは、ダイニングの隣にあった。大きな出窓から中庭の樹木が見える広い浴室でシャワーだけを浴び、使ったタオルを洗濯籠に突っ込んだ。
ふと、洗濯も鬼嶋がやっているのだろうかと想像し、妙に可笑しな気分になる。
部屋に帰りがてら、キッチンに寄って何か飲み物はないかと物色し、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを2本頂戴した。庫内には他にも缶ビールや、300グラムほどに小分けされた、真空パック詰めの肉が保管してある。真空パックにラベルは貼っていない。ここにあるということは、これも恐らく人肉なのだろう。私は、そのまま扉を閉めた。
戻ると、亜嵩がこちらを見て「ちょっと、髪ぐらい乾かしなさいよう」と口をとがらせた。
「短いし勝手に乾くよ」
「禿げても知らないわよ」
「お前、良い歳の男子にそれは禁句だぞ」
言いながら、ペットボトルを1本放った。
「あら、ありがとう」
「なあ、今日はどうする?」
言いながら、私はひとつのドアの事を考えていた。それは納戸の隣にあった、妙なドアだった。両隣の部屋のドアとの間隔が、不自然に狭い。隣に納戸があるのだから、単に収納スペースというのも考えづらいだろう。
それを伝えると、亜嵩はふむんと頷いた。
「じゃあ、その部屋はお願いするわ。私は書斎の方を探ってみるから」
「了解。じゃあ、また後で」
「ええ、また後で」
ドアに耳を当て、廊下の気配を確認してから、私は改めて部屋を出た。
例のドアを改めて目の前にしたところで、私は違和感の正体に気付いた。
ドアノブが、結露していた。それにまじまじと見ていると、妙に足元が冷える。床とドアの隙間に手を当ててみると、隙間から冷気が洩れ出ているのだった。3月とは言え、暖房の効いた屋内でこれは余りにも不自然だ。
ノブに手を掛けると、ドアはあっさりと開いた。侵入する現場を見られてはまずいと慌てて中に入り照明を点けると、地下へと降りる階段が目の前に現れた。思わず、牛山のアジトを連想した。階段を降り進むごとに、冷気は増していく。腕を抱くように擦りながら、最下部に到達する。
そこには、レバーハンドルの付いた大仰な扉があった。除き窓の類は無く、中の様子は分からない。この扉が何なのか、私は知っている。業務用の大型冷蔵庫、その断熱扉だ。カニバリストがひっそりと地下に抱える巨大な冷蔵庫の中に何があるのか、大方の予想は付いた。
私は肚を括って、ハンドルを回した。ゴクリという音、パッキンが剥がれる手応えと共に扉が開き、冷気の塊が私の身体に纏わりついた。
気がつくと、私は部屋のベッドに腰かけていた。
時計を見ると、もう夕刻が近い。私は一体、こんな時間まで何をしていたのか?
地下冷蔵庫の扉から先に進んで、そこで見たものは何だったのか?
記憶が、不自然に途切れている。酷い不安感が私を襲った。
部屋のドアの開く音に、跳び上がるように驚く。
「今日は早かったのね」亜嵩だった。
「貴方、すごい汗かいてるわよ」
「いや、何でもない」
「そっちは何か見つけたの?」
「ああ、酷いもんを見たぜ。地下の冷蔵庫に、皮を剥がれた死体がいくつもぶら下がっててよ。精肉所で、天井のフックに牛の死体が吊られてる映像、見たことあるだろ。丁度あんな風に、」
ペラペラとまるで自分の口が自分のものでないように滑らかに動き、私の記憶にない情報を喋り始める様を、私は私という枠の中から呆然としながら眺めていた。
首と内臓のない死体が、10体余りも冷蔵状態で吊るされ保管されていたこと。
ラベルには年齢や性別、性交渉の経験の有無が書かれていたこと。
更に奥には別置きの冷蔵庫があり、中には部位ごとに小分けにされ真空パック詰めされた臓器と、大量の血液パックがラベリングされていたこと。
喋りながら、私の視線は一点に固定されて動かない。私の意志で、それを動かすことは出来かった。
身体の線に不釣り合いなほど大きく張り出し、みっしりと深い谷間を作る、亜嵩の胸。
「シバケンちゃん、何処を見ているの?」
その声で、ようやく私は我に返った。
「悪い、ちょっと喋りながらボーっとしてた。どこまで話したっけ?」と言いながら頭を振る。
「冷蔵庫に人の肉がいっぱいあって、それから鬼嶋に見つかったってところ。ねえ、本当に大丈夫だったの?」
「ああ、ちょっと話を整理するから、先にそっちの首尾を話してくれ」
全然覚えていない。私は鬼嶋に会ったのか?
いや、会った。確かに会ったのだ。そして何かをされた、ような気がする。一体何を?
「書斎の方で、気になるものを見つけたわ」
これ、と言って亜嵩は紙束を差し出した。
「英語か」
表題は『Thaumaturgcal Prodigies in the New-English Canaan』――ニューイングランドの楽園における魔術的驚異、それは牛山のアジトにあった本の中身だった。こんなところにあったのだ。牛山と鬼嶋の接点は、患者と医者というだけのそれではなかった。
だが、二人が組んでいたという線はないだろう。牛山は真実鬼嶋を恨んでいたから、誘拐事件を起こした。それは間違いない。牛山が手に入れた本書を、カウンセリングの一環で鬼嶋が手にしたということだろうか。分からない。
「読み込むには時間が掛かりそうだな」
「ええ、だからそれは私がやろうと思って」
「助かるよ」
英文も読めない事はないが、辞書もないこの状況ではどれだけ時間が掛かるか分かったものではない。これが直接何に繋がるのかはまだ私にも亜嵩にも分かっていない。だが、解読できれば、鬼嶋と牛山、超常的な魔術に魅入られあまつさえ実践の域に足を踏み入れた二人がご執心だった何かに、私たちも触れることが出来るかもしれない。これは、一つの希望だった。
「それで、地下で鬼嶋に何かされたの?」
「いや、酒を探してたとか何とか言って、なんとか誤魔化したよ」
まだ、何が起こったのか思い出せなかった。それは大事な何かだった筈なのに。
その日の夕食は、凛だった。それは言われずとも分かった。
何故なら、ダイニングテーブルの隅に、少女の裸体が横たえられていたからだ。頭髪と恥毛をはじめ、体中の毛がつるりと処理されている。頭の鉢は形だけ元に戻されて、ぎざぎざの割れ目が覗いていた。
その顔の下半分、鼻から下の皮膚がなかった。血が固まって黒ずみ始めた歯茎と、白い歯が剥き出しになっている。下腹部にも、縦に一本、傷跡があった。
「人間の一番おいしい箇所だよ」
そう言って、鬼嶋は私たち2人の前に皿を置いた。そこには小指ほどの大きさの塊が載っており、2色のソースが皿の縁に沿った孤を描いていた。
「唇を、さっと煮てみたんだ」
鬼嶋はもう1度キッチンに引っ込むと、薄紅色の液体の入った手鍋を持って出てきた。
「それにこちらはね」そこで言葉を切り、くぐもった笑い声を漏らす。
「君たちは気付いていたかな。凛はね、妊娠していたんだ。あの男に、いいように弄ばれてね」
調理風景をお見せできなかったのは残念だよ、と芝居がかった仕草で首を横に振る。
「妊娠4ヶ月目だと、胎児は概ね形が出来上がっているが、まだ骨も柔らかい」
とろみがかった不透明な液体を、スープボウルによそっていく。その先を決して聞きたくはないのに、耳を塞ぐことが出来なかった。
「凛の子宮と胎盤ごと、ミキサーにかけたんだ」
私の孫だよ、召し上がれ。そう、口の端に笑みを湛え、鬼嶋は柔らかく言った。
「食えると、思うのか? 俺達がこの娘を、『美味そうだ』なんて言って」
「そうかい? そちらの彼女は、そうでもないみたいだが」
隣を見ると、亜嵩がぶるぶる震えていた。顔は青ざめ、目は皿の上に据えられている。
「おい、食わないんだろう。止めとけ」
止めようとしたが、遅かった。フォークを普段の亜嵩なら決してしないような握り方で乱暴に握り、皿の上の肉塊を一刺し、一息で口に放り込んだ。スープボウルを掴み、直接口を付けて啜った。
亜嵩は、食べながら泣いていた。それを見て、鬼嶋は心底嬉しそうに笑った。
「作った甲斐があるよ」
呆然自失とする亜嵩を抱えるように部屋に戻る際、私は自分の身体の異変に気がついた。
おかしい。身体の熱が、下半身の一点に集中していた。痛いほどに、勃起している。
腕の中にある亜嵩の身体が、欲しくて堪らなかった。
そうだ、今日の日中、私は地下で鬼嶋に何をされたのだったか。
私は確か、鬼嶋を前にしどろもどろに下手な誤魔化しを並べ、
鬼嶋は私を制するように笑いながら指さし、
そして何かを唱えるように、
それは、何だ?
亜嵩の身体をベッドに横たえたところで、私は考えるのを止めた。
それどころではなくなっていたからだ。
自身の内に湧きあがる凶暴な欲情が、すべての理性を塗り潰していた。
胸倉を掴むように、亜嵩のドレスを捲った。
丸く大きな乳房が零れ、仰向けになってなお高さを失わないそれが、胸郭の上で柔らかくたわんで震えた。
「え、ちょっと」
亜嵩が狼狽え、胸を隠そうとしたが、私はそれをもう片方の腕で押さえ込んだ。
「何するの、ねえ、止めて」
大きく色素の薄い乳暈にいきなり歯を立てると同時、亜嵩が悲鳴を上げた。
もうどうにも、止められなかった。
3月12日
裸で目が醒めた。
慌ててシーツを跳ねのけ身を起こすと、先に起きていた亜嵩が丁度服を着ているところだった。
やってしまった、と肚の底が冷える思いだった。勿論、昨夜の自分の行いは覚えている。それもすべて。亜嵩の悲鳴や、許しを請う声。最後に至る体勢まで。
「あの、亜嵩」
亜嵩は、何も答えない。黙ってボタンを留めている。
「ごめん、ごめんなさい」
裸のまま、必死で頭を下げた。
「ここから出たら、覚えていなさいね」
亜嵩は私の方を見もせず、ぽつりと呟いた。
ここから出る。今それだけが、どれほど掛け替えのない希望であることか。
この日、私は気まずさもあって早々に部屋を出た。
鬼嶋の私室でも漁ってやろうかという、やけっぱちにも似た心づもりだった。
亜嵩は、引き続き部屋で解読に当たっている。
私室は邸宅の一番奥、裏口に一番近い部屋で、そこは一見して診察室も兼ねているようだった。
木製の物書き机とは他に、肘掛けのついた椅子が置いてある。
中央にはガラス製のローテーブルと、それを挟むように革張りのソファ。壁の一面には、学術書や医学書らしき本が隙間なく並んでいる。
その中の、少し色合いの違うハードカバーを手に取ってみた。タイトルは英語だが、hypnosisという単語が目に付いた。催眠術だ。接頭語にpostが付いているから、直訳としては、
「後催眠?」
「何か探し物かね?」
後ろから声を掛けられ、跳び上がるように振り向いた。
鬼嶋が、口角を歪めて笑いながら部屋の入口に立っている。
「良く会うね。あまり屋敷をうろつくなと、初日に言っておいた筈なんだが」
「あんたの作る料理が美味いもんだから、どこかにレシピ本が置いてやしないかと思ってね」
我ながら、下手くそにも程がある言い訳だった。鬼嶋は、笑みを崩さぬまま人差し指を向けてきた。昨日のあれだ。
「分かった。分かったから、それは勘弁してくれ」
こそこそしてたのは謝るから、ととりなすように慌てると、鬼嶋は意外そうな顔をした。
「まあいい。レシピはまとめておこう」
それにその本は読み終わったから、気になるなら部屋に持って帰っても構わない。そう言い残して鬼嶋は去っていった。
私は、胸を撫で下ろす思いだった。まったく心臓に悪い。
だが、持って帰ってもいいということは、特にやましいことはないということだろうか。鬼嶋の言う通りにするというのも癪ではあったが、一応部屋に持って帰る事にした。
「よう、どんな感じだい?」
「まだまだね。やっと半分くらいかしら」
目を皿のようにして読み込み、紙に何かを書き付けている。とてもではないが、他に翻訳に必要な本がある、と言い出せる雰囲気ではない。
仕方なく、拙い英語力ながら独力で読んでみることにした。
夕食までに読むことが出来たのは、ほんの一部だけだ。それは後催眠の項で、催眠術の一種について書かれた箇所だった。
『催眠中に仕込んだ指示を覚醒と同時に忘れさせ、特定の合図を起点として催眠状態に引き戻し仕込んだ指示を実行させる』。『自己防衛と自律神経の働きがある為、すべての自発行為を操ることは困難である』。特に、現状の助けやヒントになる事が書かれている訳ではない、要するに本当の学術書だった。鬼嶋が警戒しないわけだ。
夕食は、刺身だった。それも湯気が出るほどに新鮮な。
『彼』はまだ生きていて、意識があった。腕と足を縛られ、猿轡をかまされた状態でダイニングに転がされている。私服姿だが、銀縁の眼鏡に見覚えがあった。誘拐現場で見た、あの警官だ。実直さそのものを湛えていた眼鏡の奥の視線は、今や恐怖に激しく揺れている。
「おいおい、警官殺しはヤバいぜ」私の声は上ずっていた。
「そうかな? 私の目には、美味しそうな肉にしか見えないがね」
躊躇うことなく、鬼嶋は頸動脈にナイフを入れた。噴き出る血に、素早く布巾をあてがう。
「血抜きも大事だが、鮮度も同じくらい大事なんだ。彼は歳はいっているが、きっと野趣あふれる味だろう」
鬼嶋は、こちらをじっと見つめて、「御子柴くんも、捌いてみるかね?」と言った。
私は、必死に首を振った。
肩や首、肋骨の隙間の肉を綺麗にすき取った刺身が、その日の夕食だった。
「ひとつ、色んな部位の食べ比べといこうじゃないか」
亜嵩は食べなかったが、私は何とか口を付けた。美味いとも、不味いとも感じなかった。もうどこかが、壊れはじめているのかもしれない。