3月13日
この日、亜嵩が突貫で取り掛かっていた翻訳が終わった。
「これ、魔導書だわ」
そういう亜嵩の顔は、憔悴しきっていた。食事も碌に取っていないのだ、無理からぬことだろう。
内容について取り分けて挙げるとすれば、詳細な手順が記されていた事だ。
『死肉と血を用意する。人ひとり分で足りるが、血は多い方がより強い。すべて非童貞非処女のほうが良い』
『正確な寸法で五芒の頂点に血の門を描く』
『中心に目を記して贄を捧げろ。魂が分離する事が重要である』
『呪術を唱えるとすぐに、希望する神の姿が現れる。あなたは古い印で守られる方が良い。願いは御座で叶う』
そしてこれらの手順を満たした上で唱えるべき呪文。大要はそれだけだ。
「魔導書っていうけど、何だこれ?」
「召喚でしょうね」
「何を?」
「分からないわ」
「分からないって……」
「多分、ここに書いてある、これだと思うんだけど」亜嵩は紙束をめくり、原文の単語のひとつを指さした。
「ニャーラソテプ……? 読み方が分からん」
「そうなのよ……それにこれが神さまだったとして、何を司るのかもちゃんと書いてないの」
「呼び出したところで何が出来るかも分かねえんじゃ、呼び出された方も困るわな」
「そうかもしれないけど、賭けてみる価値はあるんじゃないかしら」
「だな。ここから出してくれるんなら、何にだって祈るさ」
「取り急ぎ必要なのは血と肉だけど、そう言えば地下の冷蔵庫にあったのよね?」
そうだ。そこに行さえすれば血も肉も、処女だろうが童貞だろうが、いくらでも手に入る。
「俺が取ってくるよ。だが、魂ってのは?」
亜嵩が溜息をついた。
「分からない。どうすればいいか……取りあえず、今分かっていて出来る事をやりましょう」
少し、希望が見えた気がした。
夕食は、また凛だった。肉を挽いたものを香辛料と混ぜ、小分けに丸めてシチュー仕立てに煮込んだものだった。「勿論手捏ねだよ。脂肪と赤身のバランスが重要でね」と得意げな顔で鬼嶋が言った。
亜嵩は目を瞑って食べたが、私は口を付けることすらできなかった。
3月14日
地下の食在庫で血肉を物色しているところを、鬼嶋に見つかった。
「手癖の悪い子には、お仕置きをしなければ」
震える私の両手を鬼嶋は縛り上げ、他の肉と同じようにフックで天井に吊るした。
また適当な言い訳を並べてみたが、今度こそ聞き入れられることはなく、黙れとばかりに2本の太いホースを喉の奥まで力づくで捻じ込まれた。目も眩む程の痛みに餌付き、異物を吐き出さんとする反射的な蠕動が、更なる苦痛を呼んだ。
ねえ御子柴くん、と猫撫で声で鬼嶋は囁き掛けてくる。
「フォアグラの作り方を知っているかな?」
私は、涙目で首を振るしかない。哀願の声をすら、出すことは叶わなかった。
鬼嶋は、液体の栄養剤なのだろう、どろりとした粘性の液体を、養牛にでも使うような特大のジョッキに入れて、ホースに次々と流し込んできた。
腹が、どんどん膨らんでくるのが分かった。このまま続けれられれば、腹が破裂するか、溢れた液体で溺れ死ぬかのどちらかに違いない。苦痛と、死への恐怖で涙が溢れた。
2杯目に差し掛かる辺り、意識が朦朧としてきたところで、姦しい足音が聞こえ、重い音と共に食在庫の扉が開いた。
亜嵩だった。
いっかな帰らぬ私を心配して探しに来てくれたのだろう。そして、不自然に開いた食在庫の扉に気付いたに違いない。餓鬼のように腹の膨れ上がった私を見て状況を察したのか、縋りつくようにして、涙声で鬼嶋に許しを請うた。
「お願い、殺さないでください。お願いします」
なりふり構わぬその態度に、鬼嶋は興を削がれたようだった。「好きにすればいい」と言い捨て、手ぶらでその場を去っていった。
「掃除は君たちでしておきなさい」
亜嵩は泣きながら、私の口からホースを抜き取った。無理やりに抜いたホースには血がべっとりついていて、2本ともが抜き去られた直後、私は苦痛と安堵に涙を流しながら胃の内容物を全て吐き出した。
「ごめんなさい。私が、気付くのが遅れたせいで」
そぞろ泣く亜嵩の髪を、私は床に横たわったまま撫でた。
この日、夕食はどうしただろう?
全く記憶にない。
3月15日
喉の内側、ホースを引き抜くときに付いた傷が熱を持っていて、中々眠れない。
朝方、亜嵩がベッドでうわ言を言っていた。
彼女が何と言っているのかは聞き取れなかった。
発熱で朦朧とする中もう一度食在庫に忍び入り、成人一人分に相当する血と肉を手に入れた。
『正確な五芒星』を描く必要があると魔導書にはあった。使用したのは亜嵩のドレスに装飾として付いていたリボンを解いた紐と、同じく布地に描いた簡易の分度器だった。それぞれの頂点の内角は36度。正五角形の一辺の長さと、それに内接する五芒星の頂点を結ぶ線分の長さの比は、所謂黄金比だ。あとはそれを相似形に当て嵌め、出来得る限りの精度で作り上げた渾身の作だった。
描くのに使ったのは血液パックの中身で、描いた場所はダイニングの絨毯の下だった。
私と亞嵩が代わる代わる描き、鬼嶋の気配を察しては合図と共に中断。その場から一時退散し、時には物陰に隠れた。二人とも、体力気力が限界を迎えようとしており、これが殆ど最後の抵抗だと分かっていた。なればこその集中力だった。
朝早くから作業を始め、慎重に慎重を重ねて、終わる頃には日が傾こうとしていた。
「なあ、描いたはいいけどよ、魂ってのはどうするんだ」
浅い呼吸で、私は言った。最早立っているのも辛かった。
魂、その最重要課題を先送りにして、私たちは目の前の作業に取り掛かってきた。だが今や、それだけが残された課題として眼前に聳えていた。
訊くまでもなく、私にも分かっている。私も亜嵩もここで死ぬつもりは毛頭ないし、この場所で立って息をしている人間は3人きり。だったら、答えはひとつしかない。
問題は、どうやって鬼嶋の魂を差し出すか。不意を付いたところで、この体たらくで勝てるかどうか……そう思案している時、ふと亜嵩の視線に気付いた。彼女は、神妙な顔で私の方を見ていた。
「ねえ、どうして凛ちゃんは、最初から最後まで私を無視してたんだと思う?」
「何だよ急に」
「考えてほしいの。ねえ、どうして?」
「そんな事、急に言われてもな」
質問の意図はつかめなかったが、心当たりはあった。凛は確かに、私にだけ纏わりついていた。亜嵩にはそうではなかったし、それは思春期の女子特有の独占欲と嫉妬心によるものだと私は解釈していた。別に取り立ててあげつらう程の事でもないと、そう考えていた、今までは。
「事故現場での事、覚えてる? どうしてあの眼鏡の警察官は、私を無視していたのかしら? 野次馬が、気味の悪い目でシバケンちゃんを見ていたのはどうして?」
今は、亜嵩が気味悪かった。何故今になって、そんな事を問うのだ?
戸惑う態度を無視して、亜嵩は問いを発し続ける。
「どうしてあの警察官は『頑張れ』なんて貴方に言ったの?」
「警察官だけじゃない。警察署の人たちだって、私の名前を出すと妙に神妙な態度になったでしょう、不思議には思わなかった?」
「どうして私ではなく、皆シバケンちゃんにだけ話しかけるの?」
「どうして私の姿が、牛山には見えなかったの?」
分からない。それらに合理的な理由をこじつけることはできる。ただ、それはひどく非現実的で、口に出すのも躊躇われるような事だ。
だから、私は何も言わなかった。
そんな事は、ある筈がない。第一、鬼嶋はきちんと亜嵩との会話が成り立っていた。
「鬼嶋にだけ見えるとしたら? 彼が、全ての元凶だとしたら?」
そして、ついに亜嵩はそれを口に出した。
「貴方、一人で何をやっているの?」
喉が渇いていた。唾を飲み込もうとして、昨日の傷が酷く傷んだ。
「あの日のこと、覚えてる? 鬼嶋から初めて電話がかかってきた日。あの時にシバケンちゃんが事務所で拾って読めなかった紙、今もポケットに入れて持ってるわよね?」
12月7日。事務所の床を掃除する傍ら拾った、くしゃくしゃの紙。中はインクが掠れていたのか読めなかった。そうだ。その紙は確かにずっと持っている。でも、どうしてそんなものを後生大事に持っているのだ?
震える手で畳んだ紙をポケットから取り出し、皺を伸ばす。
「ねえ。今なら、読めるんじゃないかしら?」
読めた。
そこには、『死亡診断書』とあった。
氏名欄に『亜嵩 麗子』。
死亡したとき『2020年11月10日』。
死亡の原因『交通事故 体幹部轢過による失血』。
頭がくらくらした。目の前で世界が、揺らぐんでいく。
それは発熱のせいだけではない。
「貴方が見ているのはね、貴方が作り上げた、貴方の中だけにある私の幻。鬼嶋はその切っ掛けを与えたの」
「あの日の電話で?」
「催眠術を掛けたのはもっと前よ。あの電話は、後催眠でいう起点の合図」
そうだ。それは本で読んだ。『催眠中に仕込んだ指示を覚醒と同時に忘れさせ、特定の合図を起点として催眠状態に引き戻し仕込んだ指示を実行させる』。鬼嶋が、面白がるはずだ。
「スタンガンを改造してたのは?」
「それも貴方。私との会話も、全部貴方の一人芝居。知らない人から見れば、さぞ気味が悪かったでしょうね」
「俺が、襲い掛かったのは?」
亜嵩が、笑いを漏らした。
「可笑しかったわよ、シバケンちゃんったら、一人で腰を振ってるんだもの」
「今、この時も?」
「ええ。今、この時も」
「嘘だろう……」
吐き出す息が熱い。
亜嵩に手を伸ばす。亜嵩はその手を取って、両手で握ってくれた。
少しひやりとした、柔らかな感覚。手指の皺の形。
それは間違いなく、私の知る亜嵩そのものなのに。
「ごめんなさい。今になって、こんな事言いだして」
眉を下げて、申し訳なさそうに亜嵩が言う。
そうだ。何故亜嵩は今このタイミングで私を混乱させることを言うのだ?
「私は今シバケンちゃんの中にしかいないんだけど、こんな私でもいいんですって」
「何が?」
「魂」
魔法陣はもう、最後まで完成していた。
『呪術を唱えよ』。召喚の、最後の手順。呪文も、亜嵩は、いや、私は、解読したのだ。
亜嵩が、私の生んだ幻が、私の手を離して、後退るように一歩身を引いた。
そこは魔法陣の中心。
止める間もなく、亜嵩の口が素早く動いた。にゃる・しゅたん・にゃる・がしゃんな。それは私が言っているのか? それとも亜嵩が?
瞬間、地が震え、空間の歪む感覚があった。
下から光が射し始める。魔法陣を描いた血そのものが、今や赤い光を放っていた。
極めて薄い膜状の、空間の断面のようなものが魔法陣の内側に現れている。それは、ここではないどこか、本来遠く断絶したふたつの時空間を繋ぐ継ぎ目だ。何かがそこを通ってこちら側に顕現する時、その膜には何かの断面が写る事になる。
今、このように。
コールタールのように艶のある、漆黒色の幾本もの触手が、せり上がってきた。それは七色に照りかえる液体をまき散らし、悍ましい断面を膜に投影しながら実体をこのダイニングへと顕現させ、自らの身を持ちあげている。
触手の描く輪の中心には、亜嵩がいる。ロングスカートを虹色の飛沫で汚し、まっすぐに私を見つめていた。
「それじゃあね」
確かに私は、その声を聴いた。何を言う間もなかった。
それまで緩やかにせり上がってきた触手の群れは、朝顔が毎夕花弁を閉ざす様を早送りするように、螺旋を描き粘着質な音と共に亜嵩を包み込んだ。
眩い閃光が視界を包み込み、私は身体を丸め目を覆った。数瞬の後、おずおずと視線を戻すと、亜嵩と触手の姿はどこにもなく、代わりに一人の人物がいた。
それは、褐色の肌に、古代の神官を思わせるような色鮮やかな装束を身に纏う、男とも女ともつかぬ人物だった。長身で、身体の線はゆったりとした布地に隠れていたが、露出した肌に贅肉はまるでない。
一目見て、例えようもなく美しい人物であると感じたが、後になってかの人物の貌を、その風貌を表現するいかなる語彙も、私は持ち得ない事に気付いた。
それが人間でない事だけは、確かだった。
「やあ」とそれは言った。まるで、道端で親しい友人に挨拶をするような口ぶりで。
「君が僕を呼んだのかい」
声は変声期を待つ少年のような声色で、それを聞いてもやはり男女の区別はつかない。
「ああ」
まだ呆然としたまま、私は曖昧に頷いた。
「亜嵩は?」
「それは、僕を呼び出すために贄にした魂の事? もういないよ、どこにも」
「そうか」
「願いを訊こう。魂を犠牲にして僕を呼び出して、君は何を望む?」
「あの壁の向こうに」と私はダイニングの窓から見える岩壁を指さした。「俺を逃がしてくれ」
「お安い御用だ」
「それともうひとつ」
「なんだい?」
「もうすぐここに、男がやってくる。俺より少し年嵩の。そいつの魂をやるからさ」
そう言った辺りで、鬼嶋が廊下から現れた。「何をしている!」
「だから、亜嵩を生き返らせてくれ」
それは、いよいよ笑みを深め、面白くて堪らないという表情で、
「亜嵩って?」
鬼嶋が憤怒の表情でこちらに駆けてくる。私は早口で捲し立てた。
「さっきあんたが食った魂の持ち主だ。
姓は亜嵩、名は麗子。日本人で、歳は34。
亜嵩探偵事務所の所長をしていて、俺の上司。
好きなものは浪費で、嫌いなものは確定申告。
胸と尻がでかい。
早く!!!!」
「承った」
馳せる勢いのままダイニングに足を踏み入れた鬼嶋に、凄まじい速度で触手が殺到した。胴の中心に一本が巻き付いたのを皮切りに、爪先から頭のてっぺんまで、あっという間に無数の触手が覆いつくす。
そして、人の形をした触手の山は、ぞっとするような速度で中身を床まで押し潰した。何の音も聞こえなかったが、中がどうなっているのか、想像したくもなかった。
「君たちは対価を支払った。だから、その願いを叶えてあげよう。今までの君たちの冒険も見せてもらったんだが、実に面白かったよ!」
「そうか。それは良かった」
「亜嵩麗子の死因は、交通事故か。いいだろう、その事故をなかったことにしてあげよう。これでいいかい?」
「ああ、助かるよ」
正直なところ、もう立っているのもやっとだった。
「今、頼めるか?」
「勿論」それは、歯を見せて笑った。
「それじゃあ、今回の君たちの冒険はこれにて幕引きだ、勇敢なる探索者よ」
大仰な仕草で、両腕をかざす。
「君たちの足掻く様は実に素晴らしかった! 君たちの続く人生に、いっそう辛く苦しく、幸せな生のあらんことを!」
その言葉の後、再び閃光が辺りを満たした。
気がつくと、私はオフィス街の歩道に立っていた。
周りの景色には見覚えがある。事務所のすぐそばだ。
ポケット入っていたスマートフォンを確認すると、時計は3月16日の午前10時過ぎを差していた。
「やだシバケンちゃん、ひどい顔色じゃない」
隣には、亜嵩がいた。いつもの、あのドレス姿で。
あの神性らしき存在は、約束を守ったのだ。
空は晴れ渡り、空気は午前中の冷ややかな爽やかさと共にあって、日差しは春先の暖かさを孕んでいる。
通勤の時間帯も外れて、辺りに人はまばらだった。
本来なら、今から事務所でひと仕事と踏ん張るところだが、今はもうくたくただった。
「今日はお休みにする? 事務所もお休みにして、看病したげましょうか?」
「そうだな。頼むよ」
亜嵩は、少し驚いた顔をしたようだった。
「なあ」
「なあに?」
「ハロウィンの時のあのタッパー、返してもらったっけ?」
「さあ、どうだったかしら?」顎に指をあてて、亜嵩はとぼけた。
余りにいつも通りなものだから、思わず笑ってしまった。
<了>