響子さんが一の瀬さんと、四谷さんへの、一刻館改築の説明を終えた翌日、一の瀬さんは、いつものように管理人室に油を売りに来ていた。
[昨日のお話・・・本気なんですね?・・・・一の瀬さん]
コタツを挟んで話をしている響子さんと一の瀬さん。
響子さんは、もう一度、一の瀬さんが一刻館から出て行くのかどうか、意思の確認をした。
[ああ、本気だよ、管理人さん]
[もう長い事狭いアパート暮らしにも疲れたし]
[何より・・・賢太郎が一人立ちしてくれた事が、気持ちを楽にしてくれたね]
[この前、ここがボヤ騒ぎで閉鎖されて、父ちゃん共々、賢太郎の所に世話になった時・・]
[久し振りにじっくり話してみて決心したんだよ]
一の瀬さんは、この前の正月賢太郎君の所に世話になった事が、田舎へ行く決心の後押しをしてくれたと響子さんに話してくれた。
[実はさあ・・・賢太郎の奴]
[ラーメン屋を開く話、ダメになったみたいでさ]
[散々管理人さんたちに自慢しまくっちまったのに・・・申し訳ないねえ・・・]
そして賢太郎君のラーメン屋独立の話が無くなった事も、バツが悪そうに初めて告白した。
その一の瀬さんの表情は母として、無念の思いがしみじみと滲み出ている物だった。
[そうですか・・・]
[ラーメン屋さんのお話、ダメになってしまったんですか・・・]
[でも、賢太郎君ならまた新しい目標を見つけて頑張りますよ]
[ネ、一の瀬さん]
響子さんは、一の瀬さんからの淋しい告白を耳にし、それでも元気良く、優しく一の瀬さんに微笑みかけるのだった。
[そうなると一の瀬さん、いつ位にこちらを出られるんですか?]
[そうだねえ・・・]
[やっぱり暖かい時期がいいから、“春”になってからだね、引っ越すのは]
一の瀬さんは、春になったら一刻館を出て行きたいと、自分の思いを口にした。
[四谷さんはどうするのでしょうか?]
[なんか昨日はあんまり関心なさそうにしてましたけど]
響子さんが気に掛けているのは四谷さんの事。
なにせ昨日は、ほとんど話が右から左の状態で、全然聞いている様子が無かったから。
響子さんは四谷さんに関しては心配事があった。
その理由は・・・。
“今の一刻館”だから、四谷さんのような住人が容認されるのであって、“新しい一刻館”になったら、四谷さんには“大人しくしててもらわないと”困るからだ。
[今度の一刻館は・・・今の若い人たちの要望に合わせる為に、建物はお洒落なモノにしたいですし・・]
[もちろん、今度は今まで無かったトイレとお風呂は各室に設けて・・・]
[エアコンに、乾燥機、そして今流行りのケーブルテレビみたいな奴ですか?]
[あたし詳しい事は良く分かんないんですけど、・・・インターネットにも対応させて・・・]
[入口もセルフでオートロック式にしようと思ってますの]
新しい一刻館は、今までのような“下宿屋”のような風情ではなく、完全に“個”を重視した、現代的で少し高級な作りにしたいと、
響子さんは初めて“新しい一刻館”のプランを一の瀬さんに打ち明けた。
響子さんのプランを耳にした一の瀬さんは・・・。
[ほほ~・・随分と様変わりしちゃうんだねぇ・・・あたしと父ちゃんには似合わないよ]
[散々風呂だ、エアコンだと騒いだけどさ・・よくよく考えると、あたしたちは、“今の一刻館”の雰囲気が良くて暮らしているんだね]
[所詮“田舎者”だしね、あたしたち夫婦は]
[四谷さんもたぶん、同じなんじゃないかい?]
[それに・・・]
[新しいドライな“今風”の住人と、昔気質のオープンな“下宿屋”の四谷さんとじゃ、水と油だね]
[上手くいかないというか、いがみ合ってどちらかが出て行くようになるんじゃない?]
自分たちと四谷さんは、“新しい一刻館”の住人の基準にはそぐわないと言った。
仮に住んだとしても“新しい人たち”と上手くやれそうもないと。
そう、響子さんは、四谷さんに“新しい一刻館”に住むのなら、今までのような、必要以上に他人に干渉するような癖や態度は、改めてもらわないと非常に困るのである。
今の賃貸の住人は、隣に住んでいる人の名前や顔すら知らない・・・。
何ていう事も珍しくないほどにドライだったりする。
要するに、必要以上他人に“干渉”して欲しくない訳だ。
だから響子さんは昨日、四谷さんに口が酸っぱくなるほど、注意したい事、言いたい事は山のようにあったのだが、本人はどこ吹く風で、暖簾に腕押し状態で帰ってしまったのだ。
[まあ、焦ってもしょうがないし、なるようになるさ、管理人さん]
困った顔で頭を抱えた響子さんを見て、今度は一の瀬さんが温かい言葉を響子さんに掛けるのであった。
春になればこんな暖かく、和やかに時間を過ごす事も出来なくなるだろう。
時代の変化と流れは、大きく響子さんや、一刻館をも飲み込んでいこうとしているのであった。
・
・
~季節は冬真っ只中~
[あ~~、くそ~、今日は寒かったなぁ]
[やってらんねえよな、こんなバイト]
[マネージャーはやたらと細かくうるせえし]
[今日のあの高飛車なお客、むかついた~ッ!]
””あははは!””
賢太郎君は、長期でやっているレストランでのアルバイトを終え、他の若いバイトたちと一緒に居酒屋に飲みに来ていた。
その場のメンバーは最年長の賢太郎君を筆頭に、20代後半のフリーターから、大学生のバイトまで多種多様な人たちがいた。
お客やバイト先の上司たちの悪口を始めとする仕事の話から、下らないジョークに私生活の話など、色んな話に花が咲いていた。
[そう言えば一の瀬さん、今度チーフに昇格の噂がありますよ?]
若いバイトが賢太郎君に昇格の話があると言って来た。
[オイ、それマジかよ?]
[やったじゃないすか、一の瀬さん!]
[チーフならバイトからたぶん“正社員”になれますよ!]
宴の場がにわかにどよめいた。
だが当の賢太郎君は・・・。
[ん、うん、良い話・・・だよね]と、至って他人事のようにクールなのである。
[みんな一の瀬さんがチーフなら喜んでついて行きますよ]
バイトたちの言葉が示すとおり、バイト先での賢太郎君の評価は上からも下からもとても高かった。
が、どうにも賢太郎君本人はどこか満たされていなかった。
それはやはり、“ラーメン屋での挫折”が尾を引いている事もあるが・・・。
実は賢太郎君はラーメン屋を辞める前まで、同じラーメン屋で働くアルバイトの女性と付き合っていた。
~~ しかし ~~
賢太郎君がラーメン屋を辞める辺りから、賢太郎君が溜めたストレスをそのまま彼女にぶつけてしまうような日が続き、とうとう我慢できなくなった彼女は・・・・。
賢太郎君の元を去ってしまったのだ。
別れてからもう半年以上。
賢太郎君は、その女性の事がいまだに心のどこかに引っ掛かって、吹っ切れないでいるのであった。
””じゃ、お疲れ~!””
””また明日~!””
楽しかった飲み会も終わり、酔った賢太郎君はただフラフラと、待つ人の誰もいないアパートへと帰って行った。
[ふぅ、やっとこ帰って来たか]
賢太郎君がアパートへと帰って来る頃には、すでに朝刊の配達が始まるような時刻になっていた。
~翌日~
賢太郎君は仕事が休みだったので、暇つぶしに歩いて最寄駅近くのパチンコ屋へ向かおうとしていた。
[ふぅ、何してんのかな・・・俺]
[休みの日にはパチンコ屋がお友達なんてよ・・淋しいよな・・・“一人は”]
未だに出るのは溜め息ばかり。
その時。
[賢太郎?]
[賢太郎・・・じゃない?]
賢太郎君の背後から賢太郎君の名前を呼ぶ女性の声がした。
[幸恵?]
[幸恵なのか?]
賢太郎君が幸恵と呼ぶ女性。
その女性こそ、賢太郎君がラーメン屋時代に付き合い、そして・・・。
“別れた”女性だった。
[賢太郎・・・元気?]
[あ、ああ、幸恵こそ、元気か?]
幸恵という20代後半と思われる、なかなか綺麗な女性と賢太郎君の偶然の再会。
それは運命の悪戯なのだろうか?
型どおりの挨拶を済ませた二人は、次の言葉に詰まってしまう。
そう、二人は別れた関係なのだから。
[ねえ、賢太郎、久し振りにお茶しない?]
幸恵は一瞬の沈黙の後、ニッコリと微笑み、賢太郎君にお茶しないかと持ちかけた。
[あ、ああ、いいよ]
賢太郎君は少し幸恵の言葉に驚いたけど、素直に彼女の言葉に従う事にした。
~二人は駅近くの喫茶店へと入った~
[エスプレッソコーヒーとダージリンティー、レモンのスライスも一緒にお願いします]
賢太郎君はコーヒーと彼女の好きな紅茶を注文した。
[幸恵はコーヒーダメだもんな]
[ふふふ、よく覚えてるじゃない、えらいえらい]
傍目から見たら、とても別れたような関係には見えない二人。
だが、賢太郎君は幸恵の持っていたバックが気になって仕方が無かった。
それはどこか遠くへ海外にでも旅行にでも出掛けるのような、大きなバックだったからだ。
[あの、幸恵・・・]
[これからどこか旅行でも行くのか?]
賢太郎君は思い切ってそのバックについて幸恵に尋ねた。
だが幸恵は・・・。
[・・・・知りたいの、賢太郎?]
[別れた女の事なのに?]
突然それまでのにこやかな顔つきから一転、厳しい表情に変わった。
[ん、いや、ごめん、変な事聞いちまったね]
幸恵の表情の変化に“マズイ事聞いちまった”と思った賢太郎君だった。
[謝らなくてもいいのに]
[昔とちっとも変わんないね]
そんな賢太郎君を変わらないと、笑う幸恵。
[・・・・・・賢太郎。]
[今から、ちょっと久し振りにドライブしない?]
[あなたの車で]
幸恵は賢太郎の問い掛けをはぐらかすように、何故だかドライブに行こうと言い出した。
[あ、ああ、分かった、今、車取って来るよ]
賢太郎は幸恵に何かあったのだろうと察し、誘われるまま、ドライブに行く事に決めた。
~そして二人は賢太郎君の車でドライブに出掛けた~
[どこ・・・行こうか?]
戸惑い気味に賢太郎君は幸恵に聞いた。
[好きにして、あなたに任せるわ・・と、言いたい所だけど]
[羽田空港・・・お願いできるかしら?]
幸恵は賢太郎君と視線も合わさず、羽田空港へ行って欲しいと言った。
“やっぱりどこか旅行でも行くのか・・・幸恵の奴”
賢太郎君は色々と幸恵の行く先に思いを馳せたが、余計に頭の中がモヤモヤしてくるだけなので、考えるのをやめ、幸恵の言う羽田空港へと車を走らせた。
[ねえ・・・賢太郎]
[楽しかったね、3年の間]
幸恵はポツリと賢太郎君と付き合っていた3年もの月日を振り返りだした。
[ああ、そうだな]
[賢太郎はさ、背が低くて、私がヒールの高い靴履いて並んで歩くと、私の方が目立っちゃって]
[よく他人からジロジロ色眼鏡で見られたりもしたよね]
[ははは、背が低いのは遺伝だからしょうがねえよな]
[父ちゃんも母ちゃんも、本当に低いからよ]
[こうしてさ、賢太郎の車でよく遠くへも出かけたし、お互いのアパートを何度も行き来したの覚えてる?]
[ああ、覚えてるよ]
[まるで昨日の事のようにな]
車は首都高速に入り、羽田までのカウントダウンが始まったが、それでも時間など気にも留めず、二人の思い出話は続いていた。
~まるで恋人同士だった頃のように~
賢太郎君は自分が至らなかった事が原因で、幸恵と別れた事を激しく後悔している。
それが今でも尾を引き、仕事にも、私生活にも、いや、全てにおいて、抜け殻のような生活を送っていた。
それほどまでに愛した人なのに。
[なあ幸恵、もう一度、やり直さないか?]
[あの頃、俺は社長と上手くいかずにいつもイライラしてた]
[その怒りの矛先をお前にぶつけてしまったりもした]
[だけど俺、もうあのラーメン屋辞めて、今はイタリアンレストランで働いてるんだ]
[職場も雰囲気が良くて、上手くいけば正社員になれるかも知れない]
[そうしたら生活も安定するし、だから俺と・・・]
賢太郎君は、もう一度やり直そうと幸恵に切り出そうとしたところ・・・。
[ごめんね、賢太郎]
[私ね、今日・・・田舎へ帰るんだ]
幸恵は衝撃の一言を発した。
“田舎へ帰る”と。
[え!?]
賢太郎君は絶句した。
[賢太郎、別れてしまった理由を全部自分ひとりで背負い込んだら駄目よ]
[確かに去年の春くらいからあたしたち、上手くいかなくなっていたわ]
[賢太郎も仕事の事とかでいろいろと悩んでいたし]
[私も・・・]
[賢太郎以外に“気になる男(ひと)”の存在が日増しに大きくなっていたわ]
[だから、賢太郎が辛くて苦しい時、私・・・賢太郎を支えてあげれなかった]
[目の前に苦しんでる賢太郎がいるのに・・・他の男の人の事考えてた]
[だからね、別れてしまったのは、・・・神様からの天罰だと思うの]
[お互いに相手の事考えてないんだもん、あの頃・・・自然な成り行きなのよ・・・別れた事は]
幸恵は別れた当時、賢太郎以外の人に心が傾いていた、だから、別れてしまったのは、賢太郎一人が悪いのではないと告白した。
[でも結局新しく付き合った男の人も悪くなかったんだけど・・・価値観の違いかな?・・・最近になって別れちゃった]
[結婚も少し考えてた位に深く付き合ったけど・・・そこまでは進まなかったわ]
[もう結構、普通の恋愛の駆け引きも飽きちゃったかな・・・正直疲れたの]
[それと・・・]
[父と母がね、どうしても帰ってきて見合いしろって最近ね五月蝿いのよ]
[私もね・・・]
[東京での生活に丁度疲れてたから、これも良い機会だと思って、釧路へ帰る事にしたの]
[もう部屋も引き払ったし、未練は無いわ]
[そんな、幸恵、またやり直せるよ、俺たち!]
幸恵はもう部屋も引き払い、田舎へ帰る直前だった。
それを知った賢太郎君は、幸恵に何とか思い留まって欲しかったが・・・。
[ねえ賢太郎・・このままなら・・このままなら・・・・ね]
[東京での事、賢太郎との事、どれもこれも、楽しかった思い出として終わらせる事が出来るの]
[だから、だから・・・このまま・・・お別れしましょ、ね?]
幸恵の決意は固かった。
[・・・・そうか、分かったよ]
賢太郎君はそれ以上、何も言わなかった。
何を言っても幸恵の気持ちは、変わりそうもなかったから。
いつの間にか車は渋滞もなく、空港に滑り込んだ。
“キキ!”
“バタン!”
賢太郎君の車は空港の駐車場で停まった。
[ここでいいわ]
[荷物はこれひとつだから]
[賢太郎]
[今まで本当にありがとう]
[私、・・・東京で、賢太郎に出逢えた事がなにより一番・・・]
[嬉しかったよ]
[サヨナラ・・・]
幸恵は少し目を潤ませながら、一度も後ろを振り返る事なく、足早に空港のロビーへと消えた。
[サヨナラ・・・か]
“キィィィィィ~~~ンンンンン!”
しばらくすると、幸恵を乗せた銀色の翼が北へ向けて、賢太郎君の頭上を越えていった。
そしてあっという間に、賢太郎君の視界から消えてなくなった。
”幸恵・・・今までありがとう”
偶然の再会を果たした賢太郎と幸恵。
二人はやり直す事は叶わなかったが、賢太郎は幸恵と再会できたことで、幸恵への未練めいた思いはキッパリと断ち切り、
また明日から新たな気持ちで生きていけるだろう。
以下、次回