時計坂厚生病院での検査を終えた律子は、その後も体調が思わしくなく、響子さんはごねる律子を説得し、五代君の所で一緒に生活する事になった。
・・・それからしばらくして、律子に診察結果が言い渡された・・・
~その日の夜 五代君たちのマンション~
[それで検査結果、どうだったのお母さん?]
夜遅く、春香ちゃんに聞こえないように配慮しながら、響子さんと五代君は、律子の検査結果を聞いた。
[しばらく入院ですって]
[入院して治療に専念しろと先生に言われたわ]
平然としかし明るくはない声で律子は医師に入院を言い渡されたと告げた。
[それで、いつから入院するんですか?お義母さん?]
五代君も気が気でならない。
[空きベッドの関係から来週の月曜になりそうなのよ、裕作さん]
顔色も良くなく、声に張りも無い律子。
五代君と響子さんは、普段がとても気丈な女性なだけにそんな律子を見ているのがとても辛かった。
この場には居ないが孫の春香ちゃんも祖母が元気の無いことに心を痛めて心配していた。
~一方 賢太郎君~
[いらっしゃいませ~!]
[本日はこちらがオススメでございますが]
幸恵との事は綺麗に吹っ切れたようで、気合を入れて仕事に勤しんでいた。
[おおい、一の瀬君、ちょっといいかな?]
ある日賢太郎君は、勤務中上司に呼ばれた。
[あ、ハイ、今行きます!]
急いで駆けつける賢太郎君。
[ちょっと今から本社まで俺と一緒に行くぞ]
上司は賢太郎君に本社まで行くと告げ、二人でタクシーに乗り店舗を後にした。
~ タクシーの車内 ~
[あ、あの、一体どんな話ですか?]
[ははは、着いてからのお楽しみだ]
[ま、少なくとも・・・お前さんにとっちゃ、悪い話じゃないんだから安心しろ]
上司は賢太郎君の話をはぐらかすが、本人にとって、“悪い話”ではないと断言した。
~ 賢太郎君の勤める会社の本社 ~
賢太郎君は、社内の会議室へ通されていた。
[それでな、一の瀬君]
[今日君をわざわざこんな所まで呼んだのは他でもない]
[まあ・・・]
[一部のバイトたちが噂してるようだけど、今度、君をチーフとして正社員に登用したいと思うんだ]
[もちろんチーフでそのまま終わりということではなくて、その間にいろいろと仕事を覚えてもらって]
[来年の“桜が咲く頃には”、新規店舗の責任者になってもらいたいんだ]
[どうだろうか?]
遂に賢太郎君の上司は、賢太郎君に正社員への登用を打診した。
“噂”には聞いていたが、改めて本当に耳にすると、不思議な感覚が賢太郎君を包んだ。
賢太郎君は即座にその話を了承すると思われたが・・・。
[すいません、しばらく考える時間を頂けませんか?]
と、返事を保留したのだ。
上司の方も。
[うむ、君の一生に関わってくる事だから、じっくり考えるといいよ]
[そうだな・・・]
[一週間!]
[一週間ほど時間をあげよう]
[一週間経ったら、今日の返事を聞かせてもらうことにするよ]
賢太郎君の申し出を快く了承した。
~その日の夜 賢太郎君のアパート~
[うう~~~~ん]
[とっても良い話には違いないんだよなぁ・・・]
缶ビールを飲みながら、賢太郎君は今日の返事をどうしようか悩んでいた。
賢太郎君が悩むのにはひとつ理由があった。
それは。
まだラーメン屋への夢を、心の奥のどこかで捨て切れていないからだった。
母の前ではもうラーメン屋はやりたくないと言い切った賢太郎君だったが、それでもまだ、ラーメンへの愛情がくすぶり続けていたのだ。
自分なりに追求したい味もあったし独立した後の展望や研究などを、それなりに何年も真面目に考えていたのは事実だからだ。
が、しかし、
今の職場は賢太郎君にとってはとても居心地も良く、将来的な展望も明るいのも事実。社内の社員達も理不尽な人間はおらず、風通しも良い。
頑張って将来を賭けてみたくなる素晴らしい企業だと思う。曲がりなりにも自分だって10年以上社会の荒波を経験しているのだ。それ位は判断できる。怪しさや変なところも無いのは確かだ。
幸恵とも別れた事で、“過去”とは完全に決別したいという思いも彼の中にはあった。
今の所、嬉しい悩みではある。
~数日後~
[どうだったんすか?]
[一の瀬さん、みんな噂してますよぉぉ?]
バイト先は賢太郎君の話題で持ちきりだった。
[ははは、うん、そうだね]
[ま、なるようになるさ]
賢太郎君は、バイトたちの話を適当にかわしていた。
~その時!~
[いらっしゃいませ~!]
[お客様何名様でしょうか?]
[・・・・・え?]
[ひょっとして・・け、賢太郎君?]
[い、郁子ちゃん?]
偶然、賢太郎君の店に、郁子ちゃんが友人たちと食事に来た。
・
・
・
同じ日、律子が時計坂厚生病院へと入院した。
[はぁあ、嫌ねえ、入院生活なんて]
律子は自分の病室を見回して憂鬱そうに溜め息を吐いた。
[少しの辛抱ですよ、お義母さん]
[すぐに良くなって退院できますから]
[体調が戻ればウチのマンションでもう一度のんびり過ごして下さいよ。お義母さんの娘も孫もいるんですから気兼ねなんてそれこそ何にも必要ないですし]
[僕もお義母さんには響子との結婚で反対するお義父さんを尻目に色々と応援して頂きましたから、ご恩は忘れてなんかいませんよ。ですからちょっと病院で寝泊りするだけですって]
五代君が優しく義母の律子さんに語り掛ける。
[そうよ、おばあちゃん、元気出して。誰でも1週間やそこら体調が悪くなることくらいあるわよ]
[あたしだっておばあちゃん家に何回行ってゴロゴロしたか数え切れなくて覚えてないくらいなんだから、えへへ・・散らかし過ぎてママによく叱られたね]
[ね、だから退院したらうちでものんびりあたしの相手してよ。一応あたしも高校生なんだしね]
[女2人対男1人が女3人になるけど、大丈夫だよね?パパ]と春香ちゃんも明るく祖母を励ます。
[ああ。まあ女性2人が3人になっても状況はほとんど何も変わらんさ。どうせ頭が上がらんのだから今までと全く一緒だな]と五代君も気安く応じて返答する。
[え~?それママに言えるの~?言えないでしょ!言わないほうがいいと思うよ、娘としても]
[ママのことだからその場ではまぁ怒んないだろうけど、パパのお弁当がひょっとしたら・・日の丸弁当になっちゃうよ]
[もしくはね、減らず口を叩いた罰として真っ白な白旗弁当か、500円玉が1枚か2枚貼り付けただけの弁当箱になったりして?]
悪戯っぽく春香ちゃんが父親に忠告めいた言葉を投げ掛ける。
[いやいやいや、それは困る。だから言えるわけなんか・・・ないじゃないか。春香、お前はパパのその・・ママに対するだな、この非常に・・微妙な立場をちゃんと理解しているのか?]
[高校生のお前にはまだ分からないだろうが、夫婦円満というのはなかなかこれで難しいんだぞ!娘と違って夫というのは気配りが欠かせないんだからな]
[・・まあ、お義母さん。うちでのんびりして頂くのは元々は響子の希望なんですから、今のうちに何して過ごすか、あれこれ考えておいて下さいよ]
冗談を言いつつも五代君は不安を抱える律子さんを気遣うのを忘れない。
父娘の他愛も無い寸劇か漫才のようなやり取りで律子さんの退院後の生活を楽しく明るいものに想像させる二人の気遣い。
何の遠慮も要りませんよという裏表の無い心遣い。
病気に不安を抱える律子を一人娘の婿である五代君と、孫の春香ちゃんが飾り気のない優しさで笑わそうとそんな風に温かく励ました。
[ありがとう・・・二人とも]
そんな二人の思いに、珍しく少しばかり涙を見せた律子だった。
そんな時、響子さんは一人律子の担当医に呼ばれていた。
[ええ!?]
[ガン?]
[それも末期のすい臓ガン・・・・]
[ええ、お母様は残念ながら・・・すい臓ガンの末期状態にあります]
[自覚症状がつい最近まで無かったせいもありますが、すい臓の病巣もかなり大きくなってますし、他への転移も見られます]
[もう少し発見が早いか、お母様がご高齢でなければ、或いは開腹手術で病巣を切除する事も可能かと思われるのですが・・・]
[病状の進行も早く、もう外科的には手の施しようがありません]
[薬で何とか延命治療を試みますが]
[桜が咲く頃まで]
[たぶん・・それ位までのお命と思われます]
担当医からは、絶望的な言葉が響子さんに告げられていた。
[分かりました]
[先生、何卒、宜しくお願い致します]
響子さんは、母親の律子を絶望の淵に追いやるような医師からの告知にも、気丈に取り乱したりせず、
ただ淡々と、医師の話を聞き、そして一礼して診察室を出た。
・・・途端に、
[う・・・お母さん・・・]
響子さんの目からは大粒の涙が。
声にならない声。
抗う事の出来ない現実。
響子さんはそのまま近くにあったソファーに腰掛け、動かなくなってしまった。
賢太郎君と律子。
~桜の咲く頃まで~
二人の運命の時計は今、大きく動き始めた。
以下次回