五代君が妻の響子さんと娘の春香ちゃんとの念願である家族水入らずの生活を実現する為にようやくローンではあるが購入が出来たマンションに引っ越した翌年の3月末日。もう少しで桜の開花予想がテレビや新聞で報道され始める頃、そう桜前線などと称して。
二人が結婚して既に10年が過ぎていた。今年の4月中旬には11年目を迎える。今年度には五代君は36歳、響子さんは38歳、春香ちゃんはもうすぐ10歳で小学4年生になる。
学校は春休みであり、毎日を家族三人で元気一杯な春香ちゃんを中心に楽しく賑やかで心穏やかに暮らしていた五代家。商店街などに家族で買い物に出掛けるだけでも楽しさが満杯だ。
無邪気で可愛い春香ちゃんが嬉しそうに両親の五代君夫婦に話し掛けて、夕食のおかずとか取り留めの無い話を楽しげに目一杯して手を繋ぎながら連れ立って歩いている姿がご近所さんからしたら微笑ましい時計坂商店街での風物詩だ。
『ねえ、パパ。晩御飯は何食べたい?』と春香ちゃんは母親の響子さんそっくりの話し方で尋ねる。
『ん~・・ママの作ってくれるものなら何でも美味しいから何でもいいよ』と優しく五代君が返答すると
『あ~!何でもいいってのが一番むつかしいんだよ!ねえ、ママ?』春香ちゃんはいつもの調子で響子さんに振り向いて同意を求める。
『うふふ、そうね。でも今晩のおかずはもう決まってるから、ね!?』と響子さんはにこやかに娘に語り掛ける。
『え~?何?何だろう・・教えて、ママ!』無邪気な春香ちゃんの会話は途切れない。
『う~ん、秘密。秘密だけど当ててみる?』響子さんは優しく娘を見詰めて応じる。
『う~んとね、う~ん、あ、分かった・・・・・・・』春香ちゃんは一生懸命考えて答えの候補を言い続ける・・・。三人はいつも一緒だ。絵に描いたような、ではなく絵よりももっと幸せそうだし事実そうなのだ。
そんな日々の中で響子さんの実家から1つのお願いが届いた。今度の日曜日に孫の春香ちゃんと祖父母だけで遊園地か動物園にでも行かせて欲しいというものだった。
本来であればパパとママと一緒に5人で遊びに行くものだが、それは何度もしているし今回は春香ちゃんも大きくなったことだし両親に親孝行の意味で許可をくれと言われ、二つ返事で了承した五代君と響子さん。
結局行き先は動物園に決まり当日は大好きな祖父母と一緒にお出掛けすることに大張り切りの春香ちゃんは心配顔の両親に対して「パパ!ママ!春香が居るから、おじいちゃんとおばあちゃんは大丈夫だよ!」と全然自分の心配をしていない、おませな背伸びした発言を耳にして、
祖父などは「うんうん・・全部お任せするよ、春香ちゃん」と目尻が下がりっ放し、祖母の律子さんは「こういう所が春香ちゃんは響子の小さい頃にホントそっくりね?」と必死に笑いを堪えて破顔寸前になり・・賑やかな出立だったのである。
お弁当を作りマンションに出迎えてくれた響子さんのご両親と春香ちゃんを見送り、こうして夫婦二人だけの1日を過ごすことになった。
普段からとても仲睦まじい五代君夫婦。出掛けても良かったのだが、特に用事も無いし何か緊急事態が起きた時に連絡を受けやすいように自宅でのんびりと待機を選択したのだ。
それでも別に二人とも構わなかった。どこに居ようが二人きりならば、それだけで元々幸せなのだから何も問題は無い。・・・無い筈であった・・・。
他愛も無い話を繰り広げ居間で過ごす二人・・・。夫婦として、小学生の娘の両親として会話をする。
一昨年7歳での七五三で春香ちゃんが千歳飴を口に頬張って3歳の時よりもたくさん食べれて嬉しい!と大はしゃぎだった話や先月のバレンタインデーで響子さんお手製による毎年恒例のチョコレートケーキを中心にして記念写真をいっぱい撮影したりなど取るに足らない事
ばかりだったけれども・・たったそれだけでも幸せが溢れて来て嬉しい。昨年まで住んでいた一刻館の管理人室でも会話する内容は同じであったが12,3年前まで彼らは夫婦でも恋人でもなかった。
昭和の匂い漂う古いアパート・・風呂は無し、トイレも共同、電話も1階にある桃色の共同電話のみで木造の2階建て家賃も格安な”一刻館”。商店街や銭湯は近いので生活する上での周辺環境だけは悪くないが住環境はお世辞にも宜しくない建物。
そこの管理人が響子さんで5号室の住人が五代君であった。長らく響子さんは五代君のことを”五代さん”と苗字にさん付けをするだけ、五代君は響子さんのことを”管理人さん”と職業名にこれまたさん付けをするだけ。
名目上は本当に赤の他人。だが今、現在では響子さんは五代君のことを愛する夫として”あなた”と呼び、五代君は響子さんのことを愛する妻として”響子”と呼んでいる。ここまでの関係に至るまで本当に紆余曲折があって大変だったのだ。
奇人変人揃いの一刻館の住人たちは二人の恋路を応援もしてくれたが邪魔も妨害も目一杯してくれた。彼らにとって宴会での酒の肴になれば良かったので玩具みたいに思われていた時期もあった。それでも負けずに何とか恋人となって結婚まで漕ぎ着けたのだ。
何しろ響子さんは誰もが目を見張る美貌の持ち主でありながら気取らず上品で慎み深い大和撫子の様に女としての魅力に溢れた素敵な女性でスタイルもモデルみたいに上から下まで抜群であるのに対して、五代君はお人好しで善人ではあるが少々頼りなくて危なっかしい性格で
周囲から心配と忠告をされる若者だった。背丈や体格だけはラグビーに熱中しただけのことはあり、そこそこ背も高くて若々しい逞しさもある。その点だけは何とか釣り合うが、だが顔は平凡で引き締まってもいないから高い評価を得たことは全然無い。
よって何事もスマートでしっかり者の美女と頼りないダメ男の組み合わせであるからには無事に恋愛成就など夢のまた夢と酷評されていたのを5年も6年もの長い歳月を費やして全面的に、完全に覆したのである。奇跡は起きるものだとは幾人もの友人に散々と言われたが。
そして二人の間には文字通り愛の結晶である一人娘の春香ちゃんが誕生していた。見た目は母親の響子さんに良く似ていてそっくりだが内面は父親の五代君にそっくり。響子さんも五代君も春香ちゃんを溺愛していて、娘の春香ちゃんもパパとママが大好きなのである。
とっても綺麗な女性で子供の目から見ても本当に美人!料理もすっごく上手で美味しい手作りのおやつも用意してくれる優しいママの響子さん。”大きくなったらママみたいに綺麗な美人で、お料理得意な女の人になりたいの”が最近の娘の口癖でかなり本気である。
(結構年齢の割りにしっかり者の娘だが乳離れだけは比較的にかなり遅かった。それは母親の響子さんが余りにも立派で見事な巨乳で美しい乳房の持ち主だからで、今でも一緒に入浴すると母親の大きくて美しい乳房にべったりと張り付いて甘えてしまう位だ。
春香ちゃんが”えへへ・・ママのオッパイすっごく柔らかくて気持ちイイな~♪”と無邪気に甘える様子には、”やれやれ・・全くパパと一緒ね”と呆れる響子さんではある・・滑らかな乳房に幾つか点在する夫の五代君によるキスマークには幸いまだ年齢的に気付かない様子である)
(学校の遠足で牧場を見学した帰りに土産話として”お牛さん、凄かった!ママよりオッパイでっかいの!”と言われた時は五代君も呆れるよりも嘆いてしまったが・・。響子さんも”もう、何よ。母親のあたしを牛みたいに”と内心でちょっぴり憤慨してしまったのは今では笑い話だ)
常に子供目線で遊びにもお話しにも最後まで必ず付き合ってくれる子煩悩な温かい人柄のパパである五代君。いつも友人たちから本気で羨ましがられて春香ちゃんにとって最高に自慢の両親だ。
もっとも両親が仲良しなのはきちんと理解しているのだが極々稀に響子さんが夫に”え?何ですって、あ・な・た?”と微妙に眉を吊り上げて言うと、五代君は即座に”い、いや。何でも無いよ、無い無い!”と慌てて首を振って降参するので二人の力関係は何となく把握はしている。
(娘の春香ちゃんにとってパパとママが熱烈にキスしたり{食後に”ご馳走様”と”お粗末様でした”と挨拶で交すのもキスで凄く自然にする}、ぎゅうっと抱き締め合っているのは{正面に向き合い体を密着させて五代君が響子さんの漆黒に輝く髪の毛を優しく丁寧に撫でる行為が主で、
そうされるとママがとっても上機嫌になるのである}とても見慣れた日常茶飯事な光景であるから父親と母親、夫婦とは普通そういうものだとの少々世間とは異なる認識を持ってしまっている)
娘を響子さんの両親に託した本日は夫婦二人だけの休日。そして娘に手渡したお弁当とほぼ同じ内容の昼食に舌鼓を打つ夫の五代君。相変わらず絶品の腕前だ。妻である響子さんが料理の達人に近いことには夫の五代君も最大限の敬意を払っている。
(ところで五代君の実家は定食屋で本来であれば姉がいるものの立場的には跡取り息子であったのだが、大学卒業前に姉の夫、つまり義兄がサラリーマンを辞めて跡を継ぐこととなり、自力で職を決めて自活する必要性が出来てしまった)
(そして右往左往の挙句、何とか目標を見出して決めて苦労して手に入れたのが現在の保父という仕事である。なお料理の腕前は何も修行を行っていなかったので一人暮らしが長かった割りに、はっきり言って下手なままである)
だが・・・昼食後に居間のソファーでついついラグビーの中継に熱中してしまった五代君が試合終了後に気付いた時に傍らに居なかった妻を不思議に思って、呼んでも返事が無いので捜し寝室で発見した時、そこに居た響子さんの様子が普段とは全く違っていた。
いつもピンク色が差した頬に朗らかな表情を浮かべている彼女が顔面蒼白であったのだ。まさか何か春香たちに関することで悪い知らせが?・・だが電話の音などは一切しなかった。ならば何故?体調でも悪くなったのか?
心配した五代君が妻の響子さんに伺うと・・・『ううん、違うの・・病気とか体調じゃないの・・・』と暗い声で返答をするのみ。
ベッドの上に腰掛けていた響子さんの横に座り様子を伺うと小刻みに身体を震わせ、更に顔が真っ青になっていた。
(え?だったら何故・・)と当然ながら考えた五代君は・・・すぐに思い当たった。
(そうか・・・もうすぐ惣一郎さんの命日か・・・。何か涙が止まらないような哀しい記憶を思い出してしまったのか?)
五代君は何も言わず響子さんの肩を抱くと彼女の身体を引き寄せて密着させる。妻の体より震えが伝わって来るが俯いたままの響子さんは何も言葉を発しない。何も言葉を紡ぐことが出来ない様子だ。
そう、その時の響子さんは五代君が即座に思い当てた通りに亡くなってしまった男性・・かつて響子さんと結婚して新婚の半年足らずで急死した夫・音無惣一郎さんの葬儀での記憶と感情が甦ってしまったのだ。・・・何の前触れも無く。
これは彼女の・・響子さんの精神的外傷、トラウマだ。年に1,2度或いは0の年もあった。昨年は引越しなどの雑事で気が紛れたのか全く起きなかったのであるが・・・。
夫の五代君に優しく寄り添ってもらいながら響子さんは内心で様々想いが駆け巡っていた・・・・・。
・
・
★あたしは・・・惣一郎さんという男性と恋愛して結婚して幸せに・・凄く幸せに暮らしていた・・・・そう、あの日までは・・・・・。
★男の人と愛し合って一緒に暮らす・・1年前にはこんなに近い将来に自分が毎日そういう生活を送るだなんて夢にも思っていなかった。
★でも知り合って気になる人だと考え出して・・・知らない間に好きになって・・・告白して・・受け入れてもらって恋人になって・・・あっと言う間に結婚していて・・・毎日が嘘みたいに・・本当に羽が生えたみたいに楽しかった。
★それまで大して手料理も作れなかったのに、あっと言う間に料理の腕も上がって惣一郎さんも喜んでくれた。日に日に美味しくなるねって・・・。
★大好きな男性と愛し合って・・その場所で朝まで一緒に眠って・・・あたしも処女だったし、惣一郎さんも経験豊富じゃなったから最初はお互いにぎこちなかったけど・・・でもそのうちに段々と慣れてきて・・・・赤ちゃんだって近いうちに出来るわよねって思ってた・・・
★そんな風に色々と今までの生活には無い新鮮な気持ちがいつも味わえて・・・こんなに好きな男性と一緒に過ごすことが楽しくて嬉しいんだなんて・・・本当に・・本当に信じられないくらいに幸せだった。・・・・あの日が訪れるまでは・・・・・・・。
★もう18年も前の話・・愛していた男性が急に何の前触れも無く、その日の朝も普段と変わりなくて玄関で見送ったのに夕方には冷たい体になってしまって・・あたしが何を言っても叫んでも、体に触れても揺らしても・・・冷たい体のまま、もう何も答えてくれなかった。
★お葬式、火葬場、納骨・・・その場にいた記憶だけはあるの。でも呆然として何も・・何も出来なかった。
★喪服を着ていたはず、大泣きに泣いたのは覚えている、涙が枯れた状態でもまた涙が目から零れた記憶が・・・嗚咽した感情で混じり合って何も整然としない。
★もう時間の経過すら意識が無かった・・生ける屍でしかなかった・・・音無の家で・・あの人と一緒に暮らした部屋で何日経っても、何もする気が起きなかった。
★両親はもちろん心配してくれて実家に戻りなさいと何度も声を掛けてくれていたのは確かに・・何となくだけど覚えている。でも無反応に近かった。何もかも・・全てに対して心を閉ざしていた。
★生きる上で必要な食事をしたりとかトイレや風呂にも入っていたと思うけど何の記憶も無い。ただ朝起きて夜寝るまでの間に何度も・・・何度も・・・知らない間に目に涙が浮かんで・・滲んで・・・零していた。
★朝に目が覚めても・・もう惣一郎さんは横には居なかった。何回朝を迎えても・・・居てはくれなかった。布団で眠る時は・・このまま眠りながら亡くなって、あの人の・・惣一郎さんの所へ行けるのなら行きたかった。そう、すぐにでも・・・。
★そんな日々がしばらく続いていたけれど・・このままもしも死ねたとして、あの世で再会できたとしても惣一郎さんは喜んでくれるんだろうか?でも・・あの人は”寂しかったよ、僕も君に会いたかった”とは言わない人だと・・・ふっと思えた。
★むしろ逆に”僕は死んでしまったけれど、響子・・君は生きているじゃないか?だったら精一杯生きないと駄目じゃないか!”って心から励ましてくれる人だと・・あたしの愛した人はそういう人だったと思い出して・・・ようやく、ようやく少しずつ自分を取り戻して・・・
響子さんの瞳は遠くを見詰めていて、直ぐ傍にいる五代君も自分たちが今居る寝室の風景も何も目に入ってはいない。涙ぐんだ瞳はまだ過去の情景を眺めている様子だ。
右腕で響子さんの肩を抱いてぴったりと寄り添う五代君の右肩に響子さんは頭を傾けて預けている。彼女の頭髪の心地良い香りが鼻をくすぐるが何も言わず、ずっと夫の五代君は横に妻を抱き締めたまま様子を見守る。
今現在はそれしか出来ないし声を掛けずにいることが妻の思考を邪魔しないことだと思い敢えて何も口にしなかった。
☆そうして音無のお義父様から一刻館の管理人の仕事を紹介されて・・赴任して・・・色んな人たちに出会って・・徐々に徐々に昔と同じ自分を取り戻して・・・その中には五代裕作という男性が居てくれた。そう、未来の今・・あたしの愛する夫で旦那様が。
☆最初は大学の浪人さんだった・・そしてやっと合格して大学生になって・・でもアルバイトばかりで学業は大丈夫なのかしらって思ってたら・・卒業しても就職に失敗してまたアルバイト・・・。
☆五代はあたしが未亡人だということを知ってとても驚いていたけれど・・でも・・そんなあたし、音無響子という女を本気で好きなんだと告白してくれたわね。
☆苦学生に近い状況なのに自分のことより、あたしの心情を気持ちを心配して・・凄く不器用なのに何かにつけて骨を折ってくれて・・・お人好しにも程があるわって思ったけれど・・・彼だって神様じゃない。
☆そう、ただの一人の人間で男性。その彼が、五代があたしに温かい真心を開いて優しく柔らかく誠実に接してくれるのは・・あたしのことが本気で好きだから。恋愛感情があるから。
☆”頼りないわね・・駄目な弟を持った気分よ”って思っていたけれど・・そんな頼りないのに・・あたしを本気で好きで、恋人になって欲しい女性はあなたなんですって態度を崩さなかった。
☆優しい・・本当に裏表泣く性根から優しい男性とは思っていたけれど・・駄目な弟から可愛い弟分には思えるようになったけれど・・恋愛対象の男性とは最初の頃は思えなかった。
☆・・・恋愛の対象?いいえ、あたしは一生死ぬまで惣一郎さんのことを思い続けるの!って固く決心していたから申し訳ないけれど、あたしでは恋の相手にはなれないって思っていたのに・・・知らない間に、本当に知らない間に何故か・・
☆五代が他の女性と親しく話したり接しているだけで・・・”何よ!あたしのことを好きだと言ったじゃない・・それなのに、それは嘘なの?どうなの?”って内心で無意識に考えてしまうようになって嫉妬の感情が湧き上がって・・
☆ヤキモチまで妬いて口論したり・・・”え?!あたし・・・この人のこと、五代さんのことが好きなの・・かしら?”、そう自問自答しても自分に回答が出来なくて・・。
☆そんな奇妙な・・ぬるま湯のような微妙な関係が続いて・・何年も。でも五代のあたしへの気持ちは何も変わらなくて。ずっと待ち続けてくれた。・・そう彼は、もしもあたしがはっきりと”嫌い・・だから絶対にお断りします”なんて言われない限りは諦めない人だった。
☆我慢強いのか、諦めが悪いのか、でも本気で好きでいてくれたのは分かっていたわ。
☆知り合えて5年が過ぎていて、まだあたしたちは何もはっきりした関係ではなかった。手も握らせない間柄だったわね。
☆けれどもう・・その頃にはあたしの気持ちは決まっていた。”あたしも五代さんが好き”・・それは確かだった。
☆あと一歩踏み出せば恋人同士になれる、それは確信があったのに・・どうしても勇気が湧かなかった。
☆その弱気の原因はあたしの過去の記憶。
☆もしも恋人同士になって・・・愛し合って結婚して幸せに暮らせても・・・急にまた同じようにこの人もあたしの目の前から、腕の中から消えてしまうんじゃないか?って思ってはいけないのに、そう考えてしまう自分がいたわ。
☆惣一郎さんが亡くなってしまった時、本当に本当に運命を呪ったわ。
☆どうして?・・どうして?・・50年も60年も過ぎていたら話は分かる。寿命ならば悲しいけれど現実を受け入れるわ。
☆でも、でも結婚して半年足らずで未亡人になるだなんて・・そんな不幸があるの?って。
☆あの時期にあたしの心が砕けなかったのはただの偶然よ。もし・・もし・・もう一度同じ運命が待っていたら・・・間違い無く砕ける。砕けなくても絶対に自分で砕く。崩壊させる。
☆そんな心理が・・意思が・・考えがあったから五代の気持ちに応じ切れなかった。
☆五代のことが好きなのに心のブレーキが原因で何も出来ない女だったから・・・彼も離れて行きそうになった。当然よね。
☆でも・・五代から”俺はあなたしか抱きたくないんです”と魂の叫びを・・ううん、これまでも何度もしてくれていたわ。何度目かの心からの叫びを聞いて、ようやく、ようやく・・きっかけが欲しくて、一歩を踏み出せて・・それから・・・・・・。
少し響子さんの瞳に輝きが戻って来たような感じがした。過去の悲しい記憶の時期から歳月を費やして段々と未来を歩み、その記憶を振り返りだしているのだ。不幸ではなく幸福な時代の到来だ。
一刻館で五代君と出会えて・・痴話喧嘩を数え切れないくらいに繰り返して・・言い争いの末に五代君が2階の窓から転落して片足を骨折して入院するなんてことまであった・・・他にも上手く恋の物語は発展しなくて・・失敗と挫折と落胆と失望だらけ・・・
でも、五代君が響子さんを好きなこと、響子さんが五代君を好きなこと、これだけは何も変わらなかった。時間を費やすだけ費やしながら逆に好きな気持ちは大きくなっていって・・誰の目にもそれは明らかだった。
▽五代さんと何も関係も築けていない事実・・このままでは何もしないまま別れてしまう。会えなく・・・会わなくなってしまう・・・赤の他人として。
▽赤の他人?誰よそれ。あたしは何の関係も持たない人のことに興味があるの?・・・・お弁当だって作るの?その人のことを心配するの?
▽・・・・・・だって、あたし・・・あの人のことに興味が・・・あるわ!・・・だって・・・好き・・なんだもの。2つも年下で定職も掴めずにいて苦しんでいるあの人・・・が。
▽目標を大学卒業してから、やっと初めて見付けて決めて・・・幼い子供たちの面倒を見て一緒に笑って、悲しんで、楽しんで・・・世話をしながら成長を見守って・・・卒園するのを見送る・・・保母さんの男性版、保父さんを目指して頑張ってた。
▽男の人なのに折り紙や人形細工がとても上手くて・・・手先だけは器用なんですって照れて笑ってた・・・・馬鹿みたいにお人好しで・・頼りなくて・・・危なっかしくて・・・あたしに目が離せない男の人ねって思わせて・・・いっぱい憤慨させて、怒らせて・・・
▽あたしのことが本気で大好きなんですって言いながら・・・でも優しいから・・他の女性にも誠実だから興味を持たれて・・・あたしみたいな年上の未亡人なんて見放してくれても・・・離れていっても・・・何も言えない・・言えなかったのに・・・
▽でもまだそれでも意地を張って・・あたし色々言い返したら・・・・『おれ、複数の女の人に手を出せるほど器用じゃないですよ』『分かりませんか?おれは!あなたしか抱きたくないんです!』って五代さんは告白してくれた。
▽だからあたし・・・・『もっと素直になりたいけど・・・切っ掛けが掴めないんです・・・・だから・・・』・・・知り合って5年が過ぎて、ようやく、ようやく・・・大人の男女関係を結ぶことに同意できて・・・・。
▽近くにあったラブホテルに入って・・やっと二人きりの空間を持てて・・・先にシャワーを浴びながら・・・・色んなことをあたし考えてた・・・・。
▽遂に結ばれる・・五代さんと大人の関係になれる・・・ドキドキしていたけれど・・・・何故か冷たい現実が頭を巡って消えなくて・・・彼のこと、五代さんをあたしは・・あたしもずっと好きなんだからって思ったけれど・・・あの人に聞いてみたいことがあったの。
▲ねえ五代さん・・・あたし、処女じゃないのよ。男性経験があるのよ。音無惣一郎さんという男性と愛し合っていて、毎日キスだってして・・・セックスだって何度も何度もたくさん・・・したわ。だってあたし、その人と結婚していたから。たった半年だったけれど・・。
▲赤ちゃんが欲しくて子作りだってしてたの。一緒にお風呂にだって入ったわ。男性の精液だって、セックスしていて避妊していなかったから性器で・・膣で何回も飲み込んだわ。精液を舐めた事だって口で飲んだことだってあるわ。だってあたし、その人の妻だったから。
▲男の人の性器だって、あたし口で愛したことあるわ。だって・・・その男性のことをあたし、愛していたから。本当に大好きで、大好きで、愛していて・・・・でも、でも・・・そんなにあたしが愛した惣一郎さんは・・もうこの世に居ない。地球上のどこにも居ない。
▲あたしに無断である日突然・・あの世へと去ってしまった。・・・・五代さん、あなたも同じなの?あたしが愛しても黙って消えてしまうの?・・どれだけ愛しても勝手に心臓の鼓動を止めてしまうの?・・・どうなの?答えて!・・答えてよ!・・お願い。
▲・・・・でも、そんなこと言えなかったし、聞けなかった。そんなこと百も承知で五代さんは・・・あたしという女を好きになってくれたんだから・・・・別に自分を卑下しているんじゃないわ。・・・自信が無いから。あなたに愛してもらえる自信が・・・無いから。
▲もしも五代さんが・・あたしのことを真剣に愛してくれないとしたら・・・・その理由を勝手に作っているだけ・・・・言い訳を・・・自分が、自分の心が傷を負わないようにしているだけ・・・情けないけど、これがあたしの弱さ・・ひ弱な心・・・・。
▲そんなことばかり考えていたら・・・ふっと飼い犬に餌をやるのを忘れていたことを思い出してしまって・・・『五代さんも時間無いんでしょ?・・あたしも(犬の)惣一郎さんのことが気になるから』そう無意識に呟いてしまった。
▲五代さんから『やっぱり気になるんですか?・・・惣一郎さんのことが』って言われて、やっとあたし、はっと気付いたけれど・・・・遅かった。本当に・・・愚かの極みだった。
▲あたしがどんな女で誰のことを常に心に秘めているのか、それを理解してくれている五代さんならば・・・誤解するのは当然だった。慌てて否定しても・・・もう遅かった。
▲だって・・・傷心の五代さんは・・・立たなくて・・・挿入できなくて・・・結局そこでは・・・・結ばれることはなかった。
▲傷心?・・違うわ。あの人は・・・五代さんはあたしがまだ・・・吹っ切れなくて・・・五代さんのことを好きな気持ちが足りなくて・・・・迷っているどころか・・・・五代さんを愛する男性として見ていないんじゃないのかって考えてしまったから・・・彼は出来なかった。
▲”あの・・あたしがいけないんでしょうか?”って呟いたけど・・・・そう、あたしがいけなかった。あたしが・・余計なことを・・言わなくてもいいことを・・・言ってしまった・・・だから、いけないのは・・あたし。・・五代さんじゃないわ。
響子さんは夫の五代君に更に身を寄せて胸板に体を預ける。顔は俯き加減だが斜め下の方角を見詰めているので彼女の瞳は五代君から見える。滲んでいた涙はもう流れていない。何とか止まったみたいだ。
視線も中を彷徨っていない。寝室の床の絨毯を見詰めているだけだ。果たして響子さんの精神状態は・・情緒不安定なままで元に戻らないのか?五代君は心配な気持ちが収まらないが・・・今は妻の心が落ち着くまでとにかくこのまま、このままで待とうとした。
△響子さんが回想していたのは最初は18年前・・・そして次は12年前の時代。その時点のその日、そう響子さんと初めてラブホテルへ行った夜だ。でも結ばれることに、繋がることに失敗して・・・そこをチェックアウトすると響子さんは一刻館へ戻り、五代君は
△アルバイト先のキャバレーでの福利厚生部長として出勤していた。そこではガールフレンドだった七尾こずえちゃんという女性が五代君に話があって会うために職場を訪れていた。
△五代君の仕事振り・・ホステスさんたちの子供たちの面倒を見る彼を見て、こずえちゃんは”いい保父さんになれるわね”と感心して褒めてくれた。
△仕事も終わり夜の街を歩きながら、こずえちゃんは目的を語った。
△最初はいきなり、”わたしのこと嫌いにならないで!”なんて、涙ながらに叫ぶから五代君も驚いて・・驚いたけれど、自分の気持ちを正直に伝えないと駄目だと思ったから・・自分の意中の女性はこずえちゃんでなく、別の人だと・・やっと言えた。
△こずえちゃんには”非道い!わたしのこと捨てる気?”とか言われて泣かれるかと思っていたら・・・銀行員の先輩である男性と結婚することになったと言った。
△先日に朱美さんとラブホテルから出て来た五代君を見てショックを受けたけど、誤解と分かったし、それが原因じゃないけど、とにかく別の男性と結婚するから・・だから、お別れを言いに来たと話してくれた。
△こずえちゃんには”ねえ、五代さんの好きな女性ってどんな人?”って聞かれたけど、すぐに”やっぱりいい”と言われて結局は言わず仕舞いだった・・・。
△五代は内心で返答していた。
△”こずえちゃん、俺の好きな女性はね・・・ヤキモチ妬きで・・早とちりで・・泣いたり怒ったりだけど・・だけど・・おれ、その女性(ひと)が笑うと・・・とっても幸せなんだ・・・”
響子さんは目を瞑っていたが眠ってはいない。時々目を開けて視線は今度は空いた片方のベッドを見詰めている。
”だって、2つ年上だし・・・それに・・・二度目・・だし”
”え?”
五代君は響子さんが突然呟いた台詞を耳の中で反芻しながら・・・いつの話なのかを思い出す。・・割と直ぐに思い当たった。響子さんが五代君の実家に結婚する挨拶に来てくれた時、乗車していた上越新幹線の中で呟いた言葉だ。
□自分が結婚をする女性として本人は勿論、彼女の両親からも遂に承諾を得たので五代君は響子さんを新潟にある実家の定食屋・五代に連れ帰ったのだが・・・彼女は少しだけ気が重そうだった。
□彼女自身の責任でも何でもないが”2歳年上の未亡人”であることを五代本人は全く気にしなくても、そのご両親は?・・・そう思うと少しだけ心配であったのだろう。
□五代君が”大丈夫ですよ、響子さんなら”と彼女の手を握りながら笑顔で言ってあげたのだが・・・それらは本当に全くの杞憂で取り越し苦労だった。
□ゆかり婆ちゃんの魂胆で営業中の定食屋を見てもらってこそ、本当の実家が分かるということで臨時休業するはずが営業をしていた実家の定食屋。それなりに流行っていて忙しい最中に到着し、ろくに挨拶も出来ないままであったが店の繁忙を目にして自ら
□響子さんはお手伝いしますと言い出して・・・そのテキパキした気配りの利いた仕事振りには皆も感心したものだった。常連客も彼女が店の一人息子の嫁になる女性と紹介されると口々に”お人形さんみたいに綺麗だな”と褒めてくれたりした。
□そしてようやく正式にきちんと両親に挨拶も出来て、更にはゆかり婆ちゃんからは爺ちゃんの形見である指輪を孫の嫁になる響子さんに渡してくれた。その指輪を五代君が響子さんの左手薬指に嵌めてあげる光景を見て婆ちゃんは物凄く心から安堵してくれたのだ。
□・・・もっとも安心の余り、ゆかり婆ちゃんに亡くなった振りをされたのには参ったし響子さんも苦笑いをしてもいいのかどうか対応に困る表情だったのを覚えている。
◎その日の夜、五代君の実家での自室。狭い部屋だが何とか二人分の布団は敷ける。そこで五代君は本当に感無量だった。6年前に初めて出逢って一目惚れした素敵な女性、響子さんが自分の奥さんになってくれるのだ。
◎本当に今の自分の状況は夢か幻かと何度も思い返した。そう頭の中で思案していたら・・・寝巻きに着替えて布団の上に正座していた響子さんが五代君に向かって話し掛けてくれた。
◎『五代さん・・あたしも安心出来ました。・・本当にほっとしています。あなたのお父様とお母様にもご挨拶が出来て、歓迎して下さって・・・嫁として迎えて頂きましたから』
◎優雅に微笑んで、嬉しそうな気持ちが声を聴くだけで分かった。
◎『はい。・・ええ、あの、だから言ったとおりだったでしょう?響子さんなら何も問題なんて無いですよって』
◎五代君も嬉しい気持ちが込み上げてくる。自分が彼女の両親、特に父親に”大丈夫なのか、こいつは?”と不信感を持たれてしまったのは仕方ないが・・響子さんのような素晴らしい女性は・・清楚で魅力的な美貌なのに何も気取らず上品で慎み深く人当たりも優しい女の人など
◎一体全体誰が問題視などするのだ!と常々考えている彼からしたら、両親にとって、”本当にこんなに綺麗でしっかり者の上品な女性がウチのボンクラ息子の嫁になってくれるのか?”と驚きつつも大喜びなのは当然だとの認識どころか確信があったので心配などしていなかった。
◎『ふふふ・・・あたし・・本当に五代さんの・・あなたのお嫁さんになるんですね?・・・今更ですけど・・・』
◎とっても上機嫌な表情と口調で響子さんは婚約者である五代君に呟く。ニコニコとした屈託の無い、無垢な笑顔で・・いつも彼を魅了する素晴らしく眩しい微笑みであった。
◎今この瞬間って人生で最高じゃないのかな?と五代君も思った。自分が憧れ続けた理想の女性・・・その女の人と本当に相思相愛の恋人になり長年夢見ていた念願の結婚も承諾してもらい、お互いの両親への挨拶も済ませた。
◎まだ婚姻届だって何も出していないし、肝心の結婚式だって何も日取りは決まっていない。でももう・・・響子さんは自分と結婚して正真正銘の夫婦となることに承諾して同意をしてくれたのだ。
◎両親はともかく、口の悪い姉などは”あの、本当に裕作なんかでいいんですか?後悔しません?”などと弟の目の前で響子さんに聞いてしまったり、五代君が流石に反論したくなり”何だよそれ、身も蓋もない言葉だな。可愛い実の弟に”と文句を言うと
◎姉は”ああ、ゴメンゴメン。つい、姉貴と言うよりも女として本音が・・・”などと全然フォローになっていない言葉を吐いたのには困ったし正直なところ参ったが。
◎『・・ええ、そうですよ。おれたち結婚するんです。だから・・ずっと一緒です。どこでもずっと』
◎五代君も自分としては優しい表情をしているとの自覚はあったが、あんまり気の利いた格好良い台詞が出て来なくて、それでも精一杯自分の決意を述べたのだ。
◎『・・・・・・・・・・・』それには何も答えずに自分を真正面から見詰めてくれている響子さん。そしてそれから正座した彼女を抱き締める五代君。彼もまた言葉が出て来ない。
◎そうして響子さんがようやく言葉を発する。
◎『・・・ずっと?・・・ずっと一緒に・・・傍に居てくれるのね・・五代さん?』輝くような白い歯を見せながら彼氏で婚約者である五代君に、確認をするように言葉を紡ぐ彼女。
◎『はい・・・ずっと・・・ずっとずっと一緒です。おれは・・・響子さんの傍に・・・夫になるんです。大好きな響子さんの夫として頑張ります・・・ですから、・・うん、ありがとうございます。おれの奥さんに・・お嫁さんになってくれて・・・その、式はまだですけど』
◎どうしてこう・・・支離滅裂な言い方になってしまうんだろうと自分でも少し情けなく思うが嬉しさと決心をそのまま、飾らずありのままに伝えたかった。
◎『うふふ・・まだ少し・・・ほんの少しですけど・・・・気が早いですよ?・・五代さん』
◎相変わらずの美声で返事をくれる彼女。声を聞くだけで心地良いのは・・・彼女の声の調子とか話し方が自分に対してだけ他の人と異なる、明らかに違うということになるんだと思う。
◎柔らかい大人の女性らしい肢体をしっかりと抱擁し髪の毛の芳醇な香りを堪能する。それだけでも贅沢だと思えるが・・それだけで済ます気など無い。そう、それだけでは決して・・・・・・でもその前に。
◎『ええ、そうですね。だけど・・だから東京に戻ったら早急に式の段取りをしましょう』
◎『え?・・・だけど・・その・・あんまり・・・焦らなくても、ね?・・あたしは大丈夫ですから』
◎響子さんは結婚式の費用などを五代が頭を悩ませて貯金をし始めているのを知っていて、無理に急がなくても・・と気を遣ってくれていたのだが。でも幸いに何とかなったので極端な話すぐにでも式を挙げたいぐらいの気持ちだった五代君。
◎『ありがとうございます、響子さん。でも、今回婆ちゃんが資金を貸してくれたんで・・逆にさっさと手配して挙げてくれないとこっちの寿命が間に合わん!なんて言って自分の葬式代だから、死ぬまでに返せ!・・なんて言われてしまって』
◎『・・・・そうなんですか・・・嬉しい・・・。お婆ちゃんが・・また、あたしたちの心配をして下さって・・・・』
◎響子さんは少し涙目になって感激していた。
◎考えてみれば彼女もゆかり婆ちゃんとは長い付き合いだ。なんせ五代君が浪人時代に上京して来て出会ったのだ。大学の合格へ向けて、響子さんと五代君の二人を・・恋愛成就の為に骨を折ってデートの手配をしたり、五代君が就職浪人で苦しんでいる時に響子さんへ
◎弁当を作って渡してくれと材料費まで送金してお願いしたりと本当にキューピットのような役割を果たしてくれたのだ。そしてようやく結婚するに至り今度も式の費用を渡してくれたりと・・本当に申し訳ないくらいに至れり尽くせりで素直にありがたかった。
◎この日、駅で出迎えてくれたゆかり婆ちゃんが再会の時に。”久し振りらな~管理人さん。いんや、ウチの響子さんら”と完全に新潟弁丸出しで歓迎してくれ、その言葉の意味に涙声になってしまうほど嬉しくて感激した響子さんである。
◎それだけでも十分に嬉しかったのに、不肖の孫息子である五代君に自分との結婚資金まで用意してくれて・・・どんな御礼の言葉を返そうか正直なところ思い付かないくらいだった。
◎『うん・・ちょっと自分でも申し訳ないし・・正直情けなかったけれど・・・そんなプライドなんて、婆ちゃんから”どっちが大事なんだ”って説教食らって・・確かに言われるまでもなく、響子さんの方が大事なんですから・・ここは好意に甘えてから恩返ししようって思って』
◎『・・・・はい、そうですね。人の・・お婆ちゃんの好意は素直に受けないといけませんね。・・あたしも”ゆかりお婆ちゃん”の・・もう孫娘なんですから・・・』
◎それを聞いたら、婆ちゃんはすっごく喜ぶだろうなと予想が付く。
◎ましてや来年か再来年に響子さんと自分の間に子供が生まれて・・ひ孫が誕生したら・・・婆ちゃん泣いて喜ぶだろうな・・それもずっと嬉し涙が止まらないだろうと想像できる。結婚費用を返すことよりも、それこそが本当の恩返しだなと考えていた。
ふっと五代君は我に帰る。情緒不安定になった妻の響子さんを心配し、彼女が呟いた言葉を・・・彼女がこの瞬間に何に対して思いを馳せているのかが気になり自分も想い当たることを思い出していた。
夫婦の寝室・・そのベッドの上。2つのうち、いつも妻が寝ている片方に今・・響子さんと五代君が腰掛けている。五代君の右に響子さんは位置し、夫の右腕で肩を抱かれて寄り添っていた。
二人とも何も喋らない。・・・だが、響子さんの唇が動き小さな、小さな声で言葉を発した。『新潟で・・・言えなかったの』
・・・新潟?おれの実家?
五代君は妻の言葉から連想される事柄を頭に思い浮かべた。彼女は東京生まれで東京育ち。新潟とは本来関わりのない人間であった。そう、新潟生まれ新潟育ちの夫である自分と関わるまでは・・・。
妻はおれの実家へ結婚の挨拶に行くまでに新潟へ行ったことは無かったと言った。そう、全くの初めてであった。
(後編へ続く)