八神さんと春香ちゃんが喫茶店で相談事をしている時、以前響子さんが心配していた一組の夫婦に動きが出ていた。
~九条家~
一台の車がその大きな屋敷の前に停まった。
[ふぅ・・・ここに来るのも久方振りだな]
それは三鷹さんだった。
三鷹さんが同じ社内の部下の女性に心が少しばかり傾いているのを・・そして浮かれている事実を明日菜さんに察知され、娘達の主導で別居状態になってしまった三鷹瞬、明日菜夫妻。
若い頃から女性に苦労などしたことがほとんど無く、振られてしまったことなど響子さんが相手の時を除けば・・ほぼ無かった三鷹さんが十何年振りかで心を動かされて・・・
擬似的な恋愛気分に浸って妻以外の女性からの視線を気にした身嗜みや行動を無意識に繰り返した結果、妻の明日菜さんを悲しませてしまった。
別に本当に肉体関係を持って浮気をした訳ではないのだが、お嬢様育ちで純粋培養なのにこれまでとことん夫の三鷹さんに尽くしてきた妻をうっかり眼中から逸らしてしまった・・・。
3人もの可愛い娘を産み育て家庭を守ってくれていた妻を・・その存在を空気のように見てしまっていた。
その態度に対して、いくら世事に疎くてもそれくらいは女性として勘が働くのは当然だ。
その結果が・・・今の情けない状況だ。
明日菜さんは3人の娘ともども、実家の九条家に帰ってしまっていた。
響子さんが三鷹さんの元に戻るように以前、説得したが結果は実らず今日に至る。
三鷹さんはある覚悟を胸に九条家を訪れた。
[ご、ごめんください!]
大きな門をくぐり、気合を込めて奥まで通る声で三鷹さんは言った。
[まあまあ、大きな声を出されて]
お手伝いさんが応対に出た。
[明日菜お嬢さまでしたら、お出掛けになられていますが]
明日菜さんは不在だとお手伝いさんは言う。
[そうですか・・・あの・・・お義父さんとお義母さんは?]
恐る恐る申し訳なさそうに聞いた三鷹さん。
[奥様ならおりますが。お会いになられますか?]
お手伝いさんは少し冷たく三鷹さんに言い放った。
その態度が九条家の三鷹さんに対する感情として表面に表れているようだった。
家の中に通された三鷹さん。
[奥様、三鷹様がおいでになられておりますが]
お手伝いさんが障子越しに声を掛けた。
ここ数年体調を崩し、床に伏せる事の多い明日菜さんの母。
[分かりました。応接間の方へお通ししなさい]
そう言われ、応接間で待つ三鷹さん。
しばらくすると、義母が現れた。
[どうも・・・ご無沙汰してます。お義母様]
立ち上がり深々と頭を下げる三鷹さん。
[まあまあ、そんなにかしこまらなくても]
硬い表情の三鷹さんを見て明日菜さんの母は言う。
[それで・・・今日はどうされたのですか?]
明日菜さんの母は少し間を置いてから三鷹さんに用件を尋ねた。
[あの、その、すいませんでした!]
[すべて僕が悪いんです。本当に申し訳ございません]
突然三鷹さんはそう言うと、明日菜さんの母の前で土下座して謝罪をし始めた。
[まあまあ、よしてくださいな]
突然の義理の息子、三鷹さんの行動に驚く義母。
[大体の事情は孫達から聞いてます]
[でも・・・娘は・・・明日菜は・・・愚痴ひとつこぼしていませんわよ]
にっこりとそう言うと義母は笑った。
[芽衣や萌たちが無理矢理に明日菜の事を連れ出したみたいですしねぇ]
[母親思いなことのはまあ確かにいいことなんでしょうけど。・・双子ですから強引さも2倍で]
[孫達の話を間に受けて主人が離婚させてやるなんて息巻いてましたが、娘夫婦の問題に口出しは無用ですよと釘を刺しておきましたのでね]
[ふたりでよくお話し合いなさい]
[私はあなたたち夫婦がどんな結論を出そうとも何も言うつもりはありませんから]
[ただ・・・明日菜と孫達が悲しむ顔は出来れば見たくはありませんが]
義母は思いのほか優しかった。
その言葉が胸に染みる三鷹さん。
[今日はなんでもお友達の家に遊びに行くと言ってましたが。明日菜は]
[あんまりお友達の数はご存知のとおり多い方ではないのですが・・・]
義母は明日菜さんは友人宅へ行っていると言った。
[じゃあ・・・また日を改めてお邪魔します]
それならまた改めて来ると言う三鷹さん。
[孫達・・あなたの娘達には・・・会わないで帰るのですか?]
グサリと義母の言葉が三鷹さんの胸に突き刺さる。
[今・・・・会っても・・・まともに話してくれないでしょう娘達は・・・]
[まだ・・・早いような気がします]
[まだ・・・]
そう言い残すと三鷹さんは九条家を後にした。
一方その頃、明日菜さんはというと、三鷹さんが実家を訪れているとも知らずに、何と驚いたことに響子さんと会っていたのだ。
~響子さんの実家近くの喫茶店~
[お電話とても嬉しかったですわ]
にこやかに微笑む明日菜さん。
[いいえ、私もどうしてもまたお会いしたかったもので]
響子さんから誘いの電話をしたようだ。
喫茶店で待ち合わせた響子さんと明日菜さん。
この二人の話の中身とは?
[先日はわざわざお越し頂いてありがとうございました]
[その後お礼のお電話も差し上げませんで・・・]
申し訳なさそうに明日菜さんは響子さんに言った。
[いえいえ、こちらこそ突然押し掛けまして]
[それなのにあたしったら、明日菜さんのお気持ちも考えずに好き勝手言ってしまって・・・・・]
[すいませんでした・・・・]
響子さんはそう言うと小さく頭を下げた。
[あ、五代さんの奥様、止めて下さいませ]
[私は全然そんな風には思ってないですから・・・・]
明日菜さんは響子さんにそう言った。
しばしの沈黙。
少しばかり気まずい空気。
そんな時にタイミングよく運ばれてきたティーポットの紅茶。
それをさり気なくカップに注いで場を持たせるふたり。
そんな間も、自分たちの思いをどう口にしていいか考えを巡らせたりしてみる。
しばらく間を置いてから、明日菜さんは独特のおっとりした口調で話し始めた。
[嬉しかったんです・・・・私]
少しばかり顔を赤くして恥ずかしげに一言。
[嬉しかったんですか?私がそちらにお伺いした事が]
明日菜さんの言葉に驚く響子さん。
[ええ]
[五代さんの奥様が私の家に来て下さらなければ・・・・]
[今頃自分の意志とは無関係に流されて・・・・・]
[ひょっとしたら・・・夫と別れさせられていたかも知れません]
[だから・・・奥様がこちらに見えられて、私に言われた言葉が胸に響きました]
[それで・・・・自分の意志をはっきりとさせようと思いまして・・・]
黙って明日菜さんの話に耳を傾ける響子さん。
ひとしきり明日菜さんが話し終えると響子さんは口を開いた。
[という事は・・・旦那さんの、三鷹さんの元へ戻られるのですね?]
響子さんの表情に明るい色が差した。
[はい。そのつもりです]
[父は最初夫の元へ帰ると言ったら渋い顔をしていましたけども・・・・]
[きちんと自分の意思で帰りますと言い切ったら・・・諦めたようです]
明日菜さんはそう言うと、にこやかに微笑んだ。
その笑顔は曇りひとつない爽やかなものであった。
[あの・・・お嬢さんたちは何て?]
響子さんは尋ねた。
[帰ってから・・・話そうと思います・・・・]
[パパを信じてあげなさいって]
[少しばかり強引にでも・・・連れて・・・帰るつもりです。・・・これでも三人の娘たちの母親ですから]
[それに・・・私は三鷹の妻です。帰る場所はひとつしか・・・ないのですから・・・]
言葉からはいつものような中途半端な物言いが消えた明日菜さん。
どこか力強ささえも感じられる。
三鷹さん御夫妻だって20年近い歴史を歩んできたのだ。その絆は簡単には解けない。
結婚するまでの経緯はごく普通のお見合いとは・・・少しばかり事情が異なって複雑だったかも知れないけれども嫌ならば大昔とは違うのだ。
いつでも別れて生きることは可能だったはず。如何に資産家同士の結婚とは言え・・・。
もっとも彼らの婚姻には響子さんも五代君も実は大きく関わっていたのだ。 だから現在でも赤の他人と簡単に言い切れるものではない。
当時、三鷹さんは響子さんに真剣に結婚を前提とした交際を常に申し込んでいて・・だがはっきりと拒絶まではされないが受け入れてもらえない状態が続いていた。出来ていたのはレストランやコンサートへの健全なデートだけであった。
それは響子さんにとって五代君という年下だが心惹かれる男性がいて、三鷹さんと五代君は長年のライバルであったのだ。響子さんという女性を賭けて・・・。
その争いの中で幾つかの偶然が重なり・・飼い犬同士の結び付きなどというにわかには信じられない要素もあって結局三鷹さんは明日菜さんと結婚を決意するに至り、響子さん争奪戦から脱落した経緯があるのだ。
その経緯とは・・・・。
三鷹さんは実は幼児体験のせいで犬が大の苦手であった。ただ愛しの響子さんが犬を飼っていたので、その障害を乗り越えるためにペットショップでオス犬を購入し(名前はマッケンローくん)自宅で飼育し遂に苦手意識を克服し犬が平気となった。
だが逆に見合い相手の明日菜さんは元々が物凄い犬好きでその飼い犬(メスで名前はサラダちゃん)が本人たちの予期せぬところで交尾して赤ちゃんが出来たこと(マッケンロー×サラダ)それを明日菜さんが三鷹さんに伝えたのを(犬同士の妊娠)
三鷹さんが明日菜さん本人が自分の子供を妊娠してしまったと誤解し、慌てて結納を挙げて婚約し結婚したのである。無論婚約後に真相を三鷹さんも知ったのであるが、今更婚約を破棄などを言い出すことなど出来ず・・また婚約した段階で響子さんからは驚かれたが
残念な様子も伺えず、更にはその婚約が犬の妊娠が原因と響子さんも後で知ったのであるが、それでも落胆すらなく単純に(少々複雑な事情を理解してはくれたが)『お幸せに』としか言ってもらえなかった。
三鷹さんにとってはそういう事情もあって当然ながら途轍もなく残念な気持ちがあったのだが、彼自身で自分を、そして響子さんのことを分析していくと結局のところ最初から勝ち目は無かったのだという結論に至った。
未亡人であった響子さんの気持ち・・本当の心や考えを理解できていたのは実は自分ではなくて他の誰でもない、五代君だけだったのである。
亡くなった旦那様を忘れず大切に記憶し愛する気持ちが消えない、消せない彼女の良く言えば繊細、悪く言えば不器用で割り切れない心を精一杯、全身全霊で守り抜こうと足掻いていた五代君。
そんな傍から見れば馬鹿が付くほどのお人好し・・自分に何の得にもならない頼りない年下の、定職にも就けていない・・もっとも保父という目標を決めて国家試験に挑戦はしていたが・・・
無力としか思えない男性である五代君を響子さんはその何年も前から好意を持っていて応援し、遂には二人は結ばれて恋人同士となり結婚したのだ。
要するに響子さんという女性は・・彼女自身が心惹かれる愛しい男性で恋愛対象と考えていたのは結ばれる何年も前からずっと五代君だけだったのである。
何年もデートを重ねていた三鷹さんは響子さんとは一度も大人の男女関係どころかキスすら一度も無い清い交際で終わってしまった。
響子さんという女性は心を開いた愛する男性にしか身体に触れることを許せない人であったのだ。古風な考えであり身持ちが固いと言えばそれまでだが恋愛に対して臆病な考えも影響はしていたと思われる。
下衆の勘繰りかも知れないが男性経験が既にあり、それも結婚生活を夫である音無惣一郎という男性が亡くなるまでの僅か半年足らずとはいえ人妻として日々送っていたのだから響子さんは当然ながら男を知らない処女ではなかった。
だがそれでも・・・本当に心の底から彼女自身が惚れ込んで愛さなければ、そのような男性が相手でなければ身を預け捧げることが出来ない不器用で頑固な・・身持ちの固過ぎる、本当に古風な大和撫子であるのが響子さんという女性なのだ。
でもだからこそ・・何の関係も築けなかったからこそ今でも響子さんと三鷹さんは友人関係のままでいられて、それは五代君とも同じことである。
三鷹さんと五代君が長年のライバル関係を乗り越えて今現在友人関係であるのも五代君にとって妻である響子さんと何の関係も無かったことが大前提なのだ。
そうでなければお互いに家を行き来など出来ない。これは三鷹さん、明日菜さんにとっても同様だ。三鷹さんが妻の明日菜さんに響子さんとは恋人になりたかったが結局深い関係には一度もなれなかったと正直に告白し、それが真実であるからこそ
明日菜さんも響子さんとこうして今話が出来るのだ。
三鷹さんのことが非常に気に入っていた明日菜さんにとって響子さんは実際には恋敵に当たるのだが面と向かってはなかなか引っ込み思案の為に言えずに苦悶するしかなかった。
お嬢様学校にしか通わず、人付き合いも不得手ではないが積極的ではなかった明日菜さんから見て響子さんは同性から見ても素直に美しい女性で、ほんの少し会話を交すだけでも自分とは異なる慎み深さを持ちながら堅苦しくない気さくさと明るさがあって魅力的だから
三鷹さんが心引かれているのは当然だと思った。ひょっとしたら・・ひょっとしなくても自分は敗北するのかと不安になったが幸いにして結婚できることに安堵したが、正直幸運過ぎて信じられない気がしていたのは事実だ。
そして20年近く無事に結婚生活を夫婦として暮らしてきたのは無理矢理我慢していたわけでは決してない。
三鷹さんだって女性に不自由をしていたわけではないが過去に全く出会わなかった明日菜さんというタイプの女性。彼女は物凄く控えめで無口な深窓のご令嬢であるが献身的で花嫁修業を仕込まれていたのか自ら望んだのか不明だが家事全般は得意であり、
一緒に過ごしていてやはり女性目線でする家事は違うなと感心させられた。三鷹さんは料理も好きで自らする男性なのであるが、女性から見られることを意識して格好付けていた、またそれらが器用に出来るから周囲にアピールを無意識にしてしまっていたが・・・
別にコックを目指すほど料理好きではなかったし、女性を家に招いた時に綺麗好きさを見せたいから掃除もマメにしていただけで本心から家事が好きなわけではない。
だから明日菜さんには全て安心して任せられ自分はほんの手伝いすら不要であるのが気楽で、結婚前とは意外に異なる安らぎを得られてのんびりと出来たことには感謝していた。
また響子さんとは美しさのタイプが異なるが妻となった明日菜さんだってとても美しいし若くて可愛い女性だ。自分でも最初は見合いの理由が叔父による資産家同士の婚姻が狙いであったことから不本意で、その後の特殊な経緯が非常に独特であるのは確かだが
結果として自分という男には彼女が最もしっくりくるのだという結論に思い至った。それに明日菜さんは三鷹さんを最初から凄く気に入り一目惚れしていたから結婚できて嬉しく思い、控え目ながらずっと微笑んでくれていた。
三鷹さんは仕切るタイプで男らしく強引さも持ち合わせているが、独身時代とは異なり妻の明日菜さんが喜ぶ選択肢を推理し決めて事を運ぶのも案外楽しいものだとも思っていた。それに色々考えても決めているのは自分だから性格を無理に捻じ曲げているのではないからとも。
どうも順番が普通の結婚とは真逆だなと苦笑することもあったが、それでも楽しいし幸せと思い三鷹さんも彼女を自分の妻として大事にしてきたし、明日菜さんだってそれはすぐに感じ取れる。
それだからこそ20年近くも連れ添ってきたのだ。
外はトワイライトに染まり始めていた。
“”そろそろ帰らないと・・・”“
店内の時計をちらりと見た二人がまるで口裏でも合わせたかのようなタイミングで言った。
[ふ、ふふ]
[おかしいですわね]
[主婦なんですね・・・骨のずいまで]
その絶妙なタイミングにおかしくて思わず噴き出してしまう響子さんと明日菜さん。
今日は電車で来たと言う明日菜さん。
響子さんにはとても意外だったようだ。
何せ・・・独身時代は運転手つきの高級車で移動していたのだから・・・。
その辺りにも結婚して母になり、歳を重ねて意識の変化があったのだろうなと感じ取る響子さん。
そんな明日菜さんを響子さんは、近くの駅まで見送る事にした。
駅に着き、改札で別れの挨拶をしようとする二人。
ラッシュの時間も近付きつつある。
[あの・・・もしかして奥様・・・]
[何か・・・私に話されたいことがお有りではなかったのですか?]
今日は珍しくも一方的に、自分の方がしゃべってばかりいた事に気づいた明日菜さんは言った。
[いいえ、そんな事はありませんよ。とても楽しかったです]
そう言うとにっこりと響子さんは微笑み、改札の中へ消える明日菜さんを見送った。
“”嘘吐き、あたし・・・嘘吐きだ・・・””
“”人のこと言える立場じゃないのに・・・あたし・・・””
三鷹さん夫妻にはヨリを戻すように働きかけているのに・・・。
一方の自分は・・自分達夫婦は正反対の行動を起こしている。自分達にだって、ささやかながらも長年築き上げて来た大事な家庭があるのに・・・。
もしも・・・もしも万が一それが崩壊してしまったら・・自分と夫だけでなくたった一人の娘までを大いに不幸のどん底に叩き落すこととなってしまう。
娘は・・春香は絶対に認めないであろう。考えたくもないが自分たち夫婦の離婚など。
あの子は自分たち二人の娘だけあって・・・絶対に譲れないと思い込んだことに対して妥協など出来る性格ではない。あの子にとって家族とは三人一緒でなければならないのだ。
だから両親が別れるなどということによって精神が傷付くだけでなく崩壊し兼ねない。高校生という若さ溢れ幸せな時間が消え失せてしまうくらい、それこそ生ける屍のようになってしまうかも知れない危険性がある。
ほんの一瞬それを想像するだけで悪寒が止まらない。だからこそ・・・何としてでも解決したいのに現状は何も改善していない。・・・夫も自分も。
そんな自分に腹立たしさを覚える響子さん。
今の自分の本音を明日菜さんに話したかった。
喉の奥まで言葉が出掛かっていたのを懸命に飲み込んだ。
せっかく修復されつつある夫婦に水を差したくなかったから・・・。
自分の気持ちを心に閉じ込めたまま、夕暮れ時の町を響子さんは“実家”へと戻って行った。
以下、次回