五代君の勤めるしいの実保育園に頻繁に現れる女性。
それは・・・。
こずえちゃんであった。
しかし、彼女は五代君と別れた後、同じ職場である銀行の先輩と結婚し、名古屋へと転居。
幸せな結婚生活を送っているはずであったが。
そんな彼女が何故今頃時計坂にいて、そして頻繁に五代君のもとを訪れているのであろうか?
謎は深まる。
保育園の近くを歩く五代君とこずえちゃん。
[ごめんなさい。いつも押し掛けてしまって。お仕事の邪魔じゃないかしら?]
申し訳なさそうにこずえちゃんは言った。
[いや、いいんだよ。気にしないで]
苦笑いで返す五代君。
ふたりは喫茶店に辿り着いた。
いつもの時計坂の駅から少し離れた喫茶店。
この店で五代君は黒木さんと一緒に張り込んでいた響子さんに、こずえちゃんと一緒にいるのを見られてしまったのだ。
そんな思いが脳裏をかすめたのか、五代君は店へ入るのを躊躇してしまう。
妻がどんな気持ちでそれを見ていたのだろうと思うと胸が苦しい。
彼女の怒りと悲しみは完全に正当なもので自分に弁解の余地など無い。怒りが大きければ大きいほど、悲しみが深ければ深いほど、それは響子さんの五代君への愛情の大きさと深さなのだ。
思い起こす必要など不要で五代君は妻への申し訳無さと、自分が妻をどれだけ大事に思っていても実際には響子さんに”夫に裏切られた”と感じさせ繊細な心を傷付けたかと思うと己の馬鹿さ加減に対して本当に自己嫌悪に陥ってしまう。
[どうしたの?五代さん?]
五代君の態度がおかしいのに気づいたこずえちゃんは言った。
[あ、いやあ、べっ、別に]
言葉を濁す五代君。
[・・・・・ヨシ、お天気もいいし、公園でも行こう!ね?五代さん]
数秒の沈黙の後、五代君の様子から何かを察したこずえちゃんは、そのまま五代君の腕を取り、近くの公園へと向かって行った。
“ビー、ガタン!”
[お待たせ~!]
こずえちゃんは自動販売機でジュースを買い、ベンチで待っていた五代君に差し出した。
公園を吹き抜ける風は、春の風から初夏の風に代わろうとしていた。
ふたりの目の前では子供たちが遊んでいる。
そんな子供たちの姿を見ながらこずえちゃんは・・・。
[あたしにも子供がいたらなぁ・・・・]
空を見上げて淋しそうに呟いた。
[だいぶ・・・落ち着いたの?]
五代君が話し掛ける。
[ええ、何となく・・・だけど]
にこりと微笑むこずえちゃん。
そしてこずえちゃんは話を続けた。
[本当にごめんなさいね。五代さんには色々とご迷惑掛けて]
[あたし、誰に頼っていいか分かんなくて・・・気付いたら五代さんの姿を探してた・・・・]
こずえちゃんは何故五代君を探していたのだろうか?
[いやあ!別に迷惑だなんて思ってないよ]
優しい五代君はただ笑ってこずえちゃんを和ませた。
[僕も・・・ずっと君が・・こずえちゃんがどうしているのか気掛かりだったから・・・]
そんな台詞を吐いた後、五代君はある記憶を思い出した。
それは・・・。
去年の暮れの茶々丸での出来事。
[おお、五代君ではありませんか!]
[いい所にいた!]
[お金無いんです。おごってくださいね]
その日は一の瀬さんと四谷さんに運が悪いことに五代君が捕まってしまった。
そしてそのまま五代君は、ずるずると引きずられるように茶々丸へと・・・・。
[そ~いや~こずえちゃんは元気でやってるかね~?]
その日の宴も終わりに近くなった頃、一の瀬さんが思い出したように言った。
一瞬ビクッとした五代君。
[い、いやあ、幸せなんじゃないですか?]
と、取り敢えずだが言ってみた五代君。
しかし・・・・。
[だといいんですがねぇぇぇぇ。五代君]
四谷さんが意味ありげにニヤニヤと笑いながら五代君を見て言った。
[色男の五代君だもんね~]
朱美さんがカウンターから茶々を入れた。
[結婚して名古屋行ったんだろ?それから全然姿見てないね~]
と一の瀬さんが言った。
[どうしてるんですかね?]
四谷さんも少しばかり心配そうに言った。
ところが朱美さんから驚きの一言が!
[実はさ~、こずえちゃん最近何度かここに来てんだよね~]
[ええ!?]
酔いも吹っ飛ぶ一言。
四谷さんも一の瀬さんももちろん五代君も驚いた。
[何だい、こっちに帰って来てるのかい?こずえちゃんは?]
[それならこっち(一刻館)にでも顔出せばいいのに水臭いね~]
一の瀬さんは勢いよく言い放った。
[な~んか沈んだ感じに見えたなぁ・・・私には]と朱美さん。
[・・・何かあったんじゃないんだろうか?彼女には色々と。]
今まで黙って一の瀬さんたちの話を聞き流していたマスターが口を開いた。
[一刻館の方には顔を出しづらかったんだと思うよ。きっと]
マスターの言葉が店内に染みる。
誰もがその言葉に押し黙るだけだった。
[で、朱美さんはこずえちゃんとどんな話したんだい?]
少し間を置いてから一の瀬さんが朱美さんに尋ねた。
[ん~?どんなって~っ?そ~ね~]
[みんな元気でいるかどうかなんて話くらいよ]
その時の情景を思い出しながら朱美さんは言った。
[・・・ああ!そ~言えば、“五代さんは幸せそうですか?”]
[な~んてさぁ五代君のことやたら気に掛けてたわ!]
突然朱美さんは記憶を呼び起こして言い放った。
[五代君人気ありますね~]
四谷さんがいつもの口調で五代君を一瞥して言った。
[幸せじゃないのかね~。こずえちゃんは]
朱美さんの言葉から何かを感じ取った一の瀬さんはしんみりと呟いた。
そんな去年の暮れの記憶を思い起こしていた五代君。
“幸せそうじゃない”こずえちゃん。
そのこずえちゃんが何かを抱えて五代君の元へとやって来た。
それは今年の初め、五代君の勤務先の保育園にかかってきた1本の電話だった。
[もしもし、五代ですが?・・・・・・・・・・]
[え!?・・・こ、こずえちゃんなの?]
[久し振りだね~。元気かい?・・・・]
[・・・逢いたい?・・・え、いやあ、め、迷惑じゃないけどさ]
“逢いたい”電話口でこずえちゃんは五代君に言った。
心の中では“逢ってはダメだ”・“逢ってはダメだ!おれには愛する響子が、絶対に掛け替えの無い響子という最愛の女性が居るんだ!”という気持ちが支配しながらも、優柔不断で断りきれない性格が昔の彼女と“逢う”ことを選択してしまった。
墓穴をどうして掘ってしまうのか自分で自分が嫌になるが、それが自分の性分だ。変えられるものならとっくに変えている。
しかし・・・断れないのが本当の本心なのか?別に浮気をする気なんて全然無いし興味すら無い。無いが・・・七尾こずえという女性にもう一度逢うことは・・ひょっとして自分の望みでもあったのか?
自問自答してみると・・逢いたくもない人間に対して拒絶くらい出来る。そう、八神ならば申し訳ないが即座に断っていただろう。だが、こずえちゃんならばキチっと別れることが出来なかった過去もあり、だから逢う承諾をしたのだという結論に思い至った。
待ち合わせの喫茶店、五代君は仕事を終えると急いで駆けつけた。
響子さんには“仕事で大事な打ち合わせがあるから”と、嘘まで吐いて。
[五代・・・さんですね?]
五代君が店内に入るとひとりの女性から声が掛かった。
この声、間違いない。
振り返ると“あの頃の面影を”たたえたこずえちゃんの姿があった。
[あ、げ、元気ですか?]
緊張からか五代君はそう声を掛けるのがやっとだった。
[プッ、やだあ、五代さんたら改まって]
[元気です。五代さんこそ・・お元気ですか?]
そう軽く挨拶すると、にこやかにこずえちゃんは微笑んだ。
ひとしきり雑談を交わすふたり。
[電話もらった時はビックリしたよ]
[もう・・・僕の事なんて記憶の隅から消えてるんじゃないかと思ってたから・・・]
[それに・・・“あんな別れ方”しちゃったし・・・]
[まさか・・・またこうやって、逢うことになるなんて想像すらしてなかったよ]
十何年振りに訪ねて来たこずえちゃん。彼女は五代君のガールフレンドとして5年近い付き合いがあった。(恋人と言えるほどの深い関係などは無かったのだが)
突然どうしたと言うのだろうか、“あんな別れ方”した日から一度も自分の前に姿を現すことは無かったのに。
五代君の言葉の中には戸惑いの色が見え隠れする。
[やっぱり・・・迷惑でしたか?]
そんな五代君の心の中を読み取ったのか、今までの笑顔から急に淋しそうな表情を浮かべたこずえちゃん。
[い、いやあ、全然迷惑なんかじゃないよ]
[一の瀬さんや四谷さんも懐かしくて会いたがってたし]
心にも無いことを口走る五代君。
[茶々丸に何度か来たようなことをマスターと朱美さんから聞いたよ]
[みんな知り合いなんだから一刻館の方にも顔出してくれたら良かったに]
五代君のその一刻館の方にもという言葉にこずえちゃんは“ビクッ”と反応した。
[あ、知ってたんだ・・・五代さん・・・]
少しばかりバツの悪そうな顔をしたこずえちゃん。
[ごめんなさい。一刻館の方に寄ろうと近くまで行ったんだけど・・・]
[行ったんだけど・・・・]
こずえちゃんは一刻館の近くまでは行ったらしいが・・・・。
[あの、管理人さんの傍にいた可愛いお嬢さん・・五代さんの娘さんよね?]と、こずえちゃん。
[ん、春香の事かな?そうだよ。ああ、なかなか母親の響子に似てるだろう?]
[管理人さんと何かとっても楽しそうに話しているお嬢さんと・・・あの二人の姿見たら・・・・]
[入れなかった・・・。あそこには・・・]
一刻館の近くまで来たこずえちゃんだったが・・・
偶然響子さんと春香ちゃんの仲睦まじ気な母娘の会話をする光景を目にしてしまい、そのまま引き返してしまった。
[え、響子と春香がいると何か都合悪いのかな?]
[・・・・・・・・・・・・・・・・・・・]
響子さんと春香ちゃんがいるとどうして引き返してしまうのか?
その問いにただ無言で俯くこずえちゃん。
[うん・・・相変わらず管理人さんって羨ましいくらい美人だなあって・・すっきりした目鼻立ちで年齢を感じさせないしスタイルも変化無さそうで。お幾つかは大体知っているけど10歳以上は若く見えるし通るわよね]
[お嬢さんもそっくりで可愛くて・・結構な美少女よね。五代さん、奥さんと娘さん相当に自慢でしょ?とっても美人な母娘で]
[もちろん挨拶したかったけれど・・・入り込めそうになかったの・・あそこには。・・・だって、だって凄く・・凄く幸せそうなんだもの]
[二人で五代さんのことで・・パパって単語が何度も聞こえて・・・笑顔で楽しそうに盛り上がっていたから見るからに・・]
[本当に・・幸せそうなんだもの・・・・]
“幸せそう”その言葉を繰り返すこずえちゃん。
そのとっても幸せそうな響子さんと春香ちゃんのしていた話題とは・・・。
『ねえ、ママ。バレンタインのチョコってパパに初めてプレゼントしたのって本当に結婚する直前だったの?』
『ええそうよ。それまで一言も欲しいなんて言わなかったから・・・でもひょっとして本当は欲しいのかな?って思ってチョコレートケーキを作って初めてプレゼントしたら・・・・』
『したら?やっぱり目茶苦茶に喜んだでしょ?パパってば』
『うふふ、そうね。想像以上だったわ・・・震えながら喜んでくれて・・パパったら”響子さん・・か、家宝にします!”とか何とか訳の分からないこと断言してたけど・・・結局殆ど一人でね、ケーキを平らげちゃったわよ』
『え?家宝?・・家宝にする?あっはは~パパらしいなぁ・・。ほんと子供みたいで可愛いね・・。だから今でもバレンタインは我が家ではチョコケーキなんだ?』
『そうよ。パパが毎年あんなにはしゃいで喜んでくれるから作らない訳にはいかないでしょう?』
響子さんは当時を思い出してくすくすと嬉しそうに優しく笑い、春香ちゃんは自分の父親の余りにも子供っぽい反応と喜び方が面白過ぎて笑いながら涙が出そうになっていた。
それは五代君のバレンタイン狂想曲であった。
もっとも結婚する前の年までは2月の時もまだ響子さんと恋人同士になってはいなかったのだが、義理チョコの発想が全く無かった響子さんから気持ちだけの挨拶代わりのチョコすら貰えなかったのだ。
響子さんと知り合ってから毎年欲しくてたまらなかったバレンタインのチョコ。悶々した気持ちで毎年待ち続け毎年貰えず落胆するの繰り返しであった。それが6年越しに恋人になれて初めて貰えたのだ。
だからあんまり物に執着心の無い五代君が欲しがる数少ない品物が、響子さんからのバレンタイン特製チョコケーキなのである。
春香ちゃんからしたら小さい頃バレンタインデーは甘くて美味しい母親お手製のチョコケーキを単純に父親と一緒に頬張って無邪気に楽しんでいたが、段々自分が成長するに連れて・・・
毎年必ず父親が異常にはしゃいで喜ぶ姿が(普段はそんなに大して甘党でもないのに??)とっても不思議で母親の響子さんに真相を確認したのがこの時であった。
もっとも妻の響子さんによるバレンタインのチョコケーキに対する五代君からのお礼・・ご褒美は物凄く濃厚な夫婦の営みで精魂が本当に尽き果てるまで、響子さんの腰が抜けるくらいに目一杯・・とことん可愛がることだ。
いつものように響子さんの美しい黒髪を優しく撫でる行為から始まり何度も何度も五代君が嵌め続け交わり、夫からの溺愛する証として深夜遅くまで寝かさない行為に響子さんも嬉しさと気持ち良さ、肉体と精神の両方で感じる幸福に酔いしれるのが毎年の恒例である。
言葉でも『おれ、響子のことが大好きで大好きで仕方ないんだ・・本当に愛してるよ。響子がおれのお嫁さんになってくれて夢が叶ったのが嬉しくて・・最高に幸せなんだ』と夫の五代君が真剣な告白を綴り続けながら、熱烈に愛し可愛がってくれるバレンタイン日の
濃密で極甘な交わりを神聖な夫婦の営みとして、妻の響子さんも毎年特別な日として・・心待ちで楽しみにしているのが本音だ。夫が精根尽き果てるまで愛してくれた情事の事後に響子さんも呟いてしまう。
『あたしね・・あなたにこんな風に可愛がられたいから・・・あなたと結婚したの。・・・本当よ。だからこれからも・・ずっと傍に居てね・・・あなたに抱き締められて・・愛されていないと・・その、あたしって本当に・・もう駄目なの・・・生身の女として・・・・』
『あたしはあなただけの女なのよ・・だけど・・・あなたもあたしだけの男なの・・・・だから、お願い・・・ね?』
麗しい女体を一切、何も包み隠さずヴィーナスの化身のような美しい全裸を晒しながら尊い真摯な愛の告白(年に一度言うか言わないかの稀にしか聞けない本心からの言葉)を返してくれる響子さんが心の底から愛しくて・・五代君もずっと抱き締めて熱いキスをして応じるのが
彼ら夫婦の愛し合う聖バレンタインの夜なのである。
(あんなに喜んでくれるのなら、もっと早くチョコでもケーキでも作ってあげた方が良かったかしら?とは響子さんも毎年思うことなのだが・・・)
(その2月14日の頃は既に五代君と響子さんは正真正銘の恋人同士で婚約者の間柄であった。結婚式の日取りも決まりラブラブ状態であったのだが実は下らない痴話喧嘩も何度かしていた)
(もっともそれまでのもどかしい関係とは異なり大人の男女関係であったから喧嘩しても冷戦とはならずに管理人室などでずっと寄り添い気持ちを確かめ合ったりしていた)
(喧嘩の原因も結局はお互いに相手を大事に思う気持ちが強過ぎて、それが上手く伝わらなかっただけであり、あっと言う間に仲直りを済ませてイチャイチャして愛し合い始めるのが常であった)
(だからそれまでの痴話喧嘩ならば一刻館の住人たちも面白がって冷やかしていたが、この恋人同士の時の言い争いなどは仲が良過ぎての夫婦みたいなイザコザなので冷やかすのも馬鹿馬鹿しくて皆は遠巻きに見ているだけであった)
・
・
五代君は茶々丸でのマスターの言葉を思い出した。
“”・・・何かあったんじゃないんだろうか?彼女には色々と””
五代君はこずえちゃんにどんな言葉を掛けていいのか見当も付かない。
ただ黙って彼女の言葉を聞いてあげることしか出来ない。
[あの日に帰りたい・・・]
[ね?あの日に戻れたら、どんなにいいかしら]
早い冬の日暮れ時、灯りのついた外の景色を見やり、こずえちゃんはぽつりと寂しそうに言った。
“あの日に帰りたい”
この一言で彼女が今置かれている状況は、幸せとは縁遠い場所なのだろうと感じ取った五代君だった。
以下、次回