“あの日に帰りたい”
この一言で彼女が今置かれている状況は、幸せとは縁遠い場所なのだろうと感じ取った五代君。
何を聞いていいのか、切り出していいのか分からない五代君は、じっとこずえちゃんが何かを話すまで黙っていた。
[あたし・・・再婚するかも知れないの・・・・]
覚悟を決めたようにこずえちゃんは話し始めた。
[え???再婚???]
予想だにしていない告白に驚く五代君。
[あの、結婚した銀行の先輩とはどうなったの?]
それはそうだ、再婚とは穏やかではない。
[あの人とは・・・別れたわ・・・結婚して3年もしないうちに・・・]
信じられないことにこずえちゃんはかなり前に離婚していたのだ。
[私が社会人になって、五代さんと逢う機会が減ってちょっと淋しいなって・・・ぽっかりと私の心に隙間が出来た時に現われた人だったの]
[最初は何度か食事を一緒にしてたくらいだったんだけど、そのうちいろいろと相談に乗ってもらううちに、何となく・・・・]
[プロポーズまで受けて必然的にあんな流れになって・・・]
[だから・・・・・・・“いい人”だとは思う]
[けど・・・・心の底から、愛し合う関係にはならなかったの・・夫婦としてね]
[もし・・もし、子供が生まれていたら別だったかも知れないけれど・・・精神的にすれ違いが続いていて、別れるのなら・・離婚するなら子供が居ないうちにって思い始めたら・・・もう駄目だった]
[あの人に他の女性が居た訳でもないし、生活も安定していたから表面上は何も問題が無いように見えたけど・・・お互いに掛け替えの無い相手とは思えなくなって・・一緒にいる意味が無くて、最後には家庭裁判所の調停も不要でお互いに慰謝料も無しであっさりと離婚したわ]
悲しげな表情でこずえちゃんは言った。
[家の両親に驚かれたわ]
[別れた亭主を家に招いた時]
[だって、家の両親、私が五代さんと結婚するもんだとばかり思ってたから・・これ本当よ]
この言葉に五代君の胸は痛む。
成り行きとはいえ、何度も何度も七尾家を訪ねては夕飯をご馳走になっていた若かりし日々。
彼がバイト三昧の苦学生で自炊もろくにしていない状況を見兼ねて、豪勢とかではなく単純に美味しい家庭料理をたくさん用意してくれた。
図々しくもほとんど遠慮などせずにたらふく平らげていただけの五代君を笑顔でいつも迎えてくれた。
結婚するかどうかは別にして、少なくとも大事な一人娘の交際相手としては認めてくれていたと思う。そうでなければあんなに歓待してくれなかった筈だ。
もっとも調子に乗って頻繁に行き過ぎて響子さんから嫉妬される破目になったのはご愛嬌・・ではなく、かなり怖い思いを五代君はした。
愛しの管理人さんが表情の内に秘めた嫉妬は五代君も直感で即座に分かるので(惚れた女性・・いつも一番気に掛けて追い続けた彼女の感情は一目瞭然で分かった)、それ以降は控えめにはした。
でもとても楽しく気さくで素敵なご両親だった。こずえちゃんの弟もまだ小学生だったが、ませた質問をするも楽しい男の子だった。とても良い家庭で笑顔が溢れていた。
そう、だからこそ余計に胸が痛む。
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一癖も二癖もあり過ぎて、付き合うだけで本当に相当な骨の折れる曲者である、妻の響子さんの両親とは完全に人種が違うのだ。
今思い出してみても義父母たちは・・・その異常振りは物凄かった。
五代君が響子さんのご両親と初めて出遭った時はまだ彼女とは恋人同士ではなくアパートの住人と管理人という関係に過ぎなかったのだが・・・。
両親の反対を押し切って音無惣一郎という男性と結婚したものの半年足らずで未亡人となった響子さんを何としてでも実家に戻らせようと、その策略と策謀だけでなく実力行使で管理人室から荷物を持ち出したり
音無家まで巻き込んで両親と娘のとの壮絶な親子喧嘩が(特に母親と響子さんの二人は互いに声が枯れるまで)繰り広げられ、お互いに意地と意地の張り合いで五代君だけでなく変人揃いの一刻館の住人達ですらも唖然呆然とさせられ本当に圧倒された。
響子さんが一の瀬さんに『いいですか、ウチの両親は異常なんです』と最初に断言した時は信じてもらえなかったが、その親子喧嘩をつぶさに拝見した後はあのおばさんですらも『・・・納得しました』と溜め息混じりに答えていたくらいだ。
そして五代君が響子さんと遂にようやく恋人同士となった後もまた、相当になかなか手強かった。
義父は最初から愛娘の響子さんを再婚させる気がそもそも皆無で五代君という男性と交際することすら不機嫌で全く聴く耳持たずで相手にしてくれていなかった。
何とか苦労の末に五代君と響子さん二人の絆の深さを理解してもらい結婚を渋々と認めてはくれたのだが・・実際に響子さんと正真正銘の夫婦になっても実家にお邪魔した時にはあんまり歓迎はしてくれなかった。
その際には最低限の儀礼上の挨拶と社交辞令ぐらいは口を聞いてはくれたが、上辺だけの付き合いにしか見えず、それ以上でもそれ以下でもなかったと思う。
響子さんが同席している限りは言葉にも表情にも不愉快であったろう気持ちを出さなかったが(娘が本気で怒った場合の睨みが怖いから・・それはそうだろうなと逆に納得していた・・その恐ろしさは体験した者でなければ分からないので)
娘を実父である自分から奪った憎い奴との認識はなかなか消えず、孫の春香ちゃんが誕生してからようやく溺愛する孫可愛さからか五代君のことを倅と認めて接してくれるようになったことが思い出される。
孫娘の春香ちゃんから”パパとお爺ちゃんは男同士だから仲良くしてね?”と可愛くお願いされると土砂崩れのように顔をくしゃくしゃにして”もちろんだよ!春香ちゃん”と即答していたのが忘れられない。
義母も実は最初は五代君のことを三鷹さんと比較して両天秤どころか、一人前の男として考えず大事な娘の再婚相手としては全く眼中に入れてもくれていなかった。
三鷹さんが色々あって見合い相手と結婚することとなってようやく最強のライバルが消えてから、実は五代君が響子さんの好きな男性なんだと気付いてそこからやっと、反対する義父を尻目に交際と結婚を応援してくれるようになったのだから。
もっとも義母は途中からは応援する側になってくれたし結婚後は娘の婿として最初から応じてくれたから頑固な義父と比べたら会うのに緊張の度合いが違ったし正直に言えば遥かにマシな存在であったのだ。
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[あたし、昔からすっごく鈍いから、五代さんの好きな女の人が・・本当に大好きな女性が実は管理人さんだなんて知らなかった]
[別れ間際、五代さんの仕草で”“え?もしかしたら“”と思ったけど]
そう、こずえちゃんは五代君が好きな人が響子さんとは知らないまま別れてしまったのだ。
お互いがそのまま幸せに生きていれば、それはそれで美しい記憶になる筈だったのだが・・・。
[結局、ずっと私の片思いだったのかしら?]
[五代さん・・・あたしの事、好きじゃなかったのかしら?]
こずえちゃんが意味深に投げかけてくる。
答えに窮する五代君。
“好きではなかった“わけではないし、だからと言って“二股”を掛けていた訳でもない。
と、自分自身はずっと思ってきた。
でも結果的に一人の女性を中途半端な気持ちのまま引きずってしまった。
“もっと早い段階でこずえちゃんと響子さんとの関係をはっきりさせておけば良かった“
余りにも辛い過去の思い出。
時間の重みも更に拍車をかける。
[ごめん、結果的に二股掛けることになっていたと思う]
[正直あの時こずえちゃんが、会社の同僚と結婚すると言ってくれてホッとね、安堵したんだ]
[もしも、もしも・・・あの場所でこずえちゃんに泣かれたりしていたとしても・・・僕は何もしてやれなかったと思う]
ボソリと力無く五代君が話し始めた。
そして・・・。
[ごめん・・・・]
一言そう言うのがやっとだった。
[ふふ、いいのよ、五代さん。あたしも別れた亭主と天秤に掛けたんだから]
ひたすら頭を下げる五代君に優しくこずえちゃんは言った。
その言葉にほっとして顔を上げた五代君。
しかし・・・。
[あたし、あたし、実は・・本当は・・・追い駆けて来て欲しかったの!]
[ホントは“結婚するなって”言って欲しかったの・・・・、五代さんに]
[朱美さんと五代さんがラブホテルから出て来るのを目撃して・・・衝撃的過ぎて・・それから本当にどうでも良くなっちゃってプロポーズ受けちゃったけど・・]
[後で二階堂君から誤解だって聞いて・・・・それから・・・心のどこかで後悔してた]
[だから、結婚しても・・・その気持ちがずっとくすぶってしまったの]
[断ち切れなかった・・・五代さんへの思い・・・]
[銀行員ってね、待遇は確かに普通より良いけれど遅くまで残業なんてほとんど毎晩で・・出張だって少なくなかったし・・休日も疲れて寝ているだけ。でもあたしだって銀行員だったから分かっているつもりだったけれど・・・]
[本当に恋する気持ちが無かった人と、そんな生活だと、ね。何にも楽しい気分になれなくて・・・もし五代さんとだったら・・それくらい忙しくてもある程度我慢できたと思うし・・]
[それに実際は五代さんは保父さんなんだから、そんな深夜遅くまで毎晩仕事なんて無いから夫婦として二人だけで過ごしたりして楽しむ時間が持てた筈だって・・。別に贅沢したいわけじゃなかったし、ね]
[そう思って考え出したら・・もう続けられなかった。先輩との夫婦生活・・・。あの人には悪いことしたなって反省はあるの。結局はあたしのワガママだしね・・・]
朱美さんとのラブホテル事件。
彼女が連れ込んだ男が逃げて金が無く、無理矢理に呼び出された五代君がラブホテルから朱美さんと一緒に出て来る瞬間を目撃されてしまった。
あの時は悪夢とは本当にこの事かと思ってしまった。
早とちりしたこずえちゃんはそのまま勢いで先輩社員からのプロポーズを受けて承諾してしまった。
しかし、勢いで、当て付けでした結婚なんて・・・残念ながら上手くいく筈もなかった。
[ふふ、離婚して名古屋から引き上げて来たんだけど、親がイマイチ納得しない結婚だったから・・あんなに五代さんのこと好きだって言ってたのに急に違う男性を連れて来るなんて”本当に大丈夫なの?”って心配してたら、案の定・・・ってね、ブチブチと小言言われたりして]
[出戻り娘なんて親だって歓迎しないわよね。・・五代さんとケンカ別れしたんだったら諦めずに仲直りするまで頑張れば人生が変わったんじゃないの?・・なんて嫌味じゃないけど愚痴をね、結構言われ続けたわ]
[それで実家に居づらくなって・・・仕事も何とか見付けて自活して、今は時計坂とは離れた場所に一人で賃貸物件借りて住んでます]
この長い年月彼女にも色々とあった。
辛いこともたくさんあったに違いない。
それでも、それを感じさせないほどに、綺麗できりっと凛とした姿のこずえちゃんだった。
[管理人さんと五代さんが結婚したのは風の噂で聞きました。確か三鷹さんという男性が管理人さんのお相手だったと思ったけれど、実はそうじゃなかったのがこれも予想外だったけれど]
[奥さんの管理人さん、響子さんって何度もお会いしたことあるし話もしたことあるから知っていたけど・・本当に見目麗しい美人よね。なのに派手さが無くて上品で慎み深いのに堅苦しくなくて、とっても素敵な女性なのは分かってました]
[昔にね、管理人さんが飼い犬を連れて買い物してる時に急な夕立で困っていたら、あたしが偶然通り掛って一緒に相合傘したことがあるの。そしたらその犬にあたしのスカートを汚されちゃったことがあって]
[そのスカートを拭いて乾かす為に一刻館に立ち寄って、替えのスカートをお借りした時・・””うわっ腰がきつい・・ウエストがこの人細いなぁ。なのに胸が大きくてスタイル抜群でグラマー過ぎる!””って感じたけど]
[本当に女性視点から見ても・・贔屓目なんか無しで八面玲瓏か何か、女優さんみたいに正しく類稀な美貌の持ち主だなあって思ってたけど、まさかその女性が・・管理人さんが五代さんの結婚相手とは夢にも思っていなかったわ]
[そんな妬ましくて羨ましい位な美女と相思相愛の熱烈な恋人同士になって、そしてそのまま目出度く周囲から祝福されて結婚した翌年には可愛い娘さんも生まれて凄く幸せに暮らしているって]
[五代さんは幸せに暮らしてて良かった。風の噂でも評判でした・・とっても綺麗で優しい家庭的な奥さんと無邪気で可愛い娘さんに囲まれて両手に花の状態で、仲が良い三人家族でいつも一緒に過ごしてる幸せな五代さんのこと]
[うん、心の底から本当にそう思ってる]
[さっきあの日に帰りたい・・・何て言っちゃったけど、忘れて下さい]
彼女の思いはどこにあるのだろうか?
[そうか、色々と大変だったんだなぁ・・・こずえちゃん]
しみじみと五代君は言った。
[それで、僕に逢いに来たのはどうしてなんだい?]
ようやく話の核心を突いた五代君。
[それはね・・・]
長い年月を経て図らずも再会を果たすことになった二人。
こずえちゃんは何故今になって五代君の前に現れたのだろうか?
[うん、それはね・・・気持ちの整理がどうしても着かないの]
[気持ちの整理???]
こずえちゃんは五代君に気持ちの整理がつかないのだと言う。
その“気持ち”とは何なのだろうか?
[再婚・・・するって、さっき話したわね?]
こずえちゃんは再婚の話を持ち出した。
[あ、ああ]
[まだ心のどこかで迷ってる、というのもあるし]
[もしまた・・・失敗したら・・・そう考えると・・・・恐いの・・・]
一度結婚に失敗しているこずえちゃん。
同じ轍を踏んでしまったらどうしよう?
その過去の選択の誤りが・・・・。
その記憶が・・・。
彼女が新しい道へ進もうとするのを阻もうとしている。
[そうか・・・・]
黙って頷く五代君。
そしてしばらく考えた後、五代君は意を決して話し始めた。
[僕は君に何をしてあげられるだろうか?]
[え?]
五代君の言葉に耳を疑うこずえちゃん。
[僕はいつまでもこうして過去に縛られているこずえちゃんを見てるのが辛いよ]
[僕が・・・若い頃、もっとハッキリした態度でこずえちゃんと接していれば、その時はお互いに涙したとしても]
[こんなにも長い間・・・心を傷付けさせずに済んだかも知れない]
[だから・・・今度は、今度こそは、本当の明るい笑顔で、その男の人の元へ飛び込んで欲しい]
[その手助けくらいしか・・・・今の僕には出来ないから・・・]
管理人さんの・・響子さん一筋。
一刻館で響子さんに出会った時から心に決めてた筈なのに・・・いつしか自分にはもう一人、何故か心惹かれる女の子がいた。
もしも・・もしも自分が響子さんと出会えていなければ・・響子さんの存在が心に無ければ・・・自分は彼女と・・七尾こずえという女性ともっと真剣に恋愛をして
ひょっとしたら・・・彼女と結婚していたかも知れない。もちろん、あくまでもその可能性がかなりの確立で高いというだけではあるのだが・・・。
そしてその女の子は、十年以上も遠回りをしながらも、今やっと幸せを掴みかけようとしている。
“幸せになって欲しい”
その思いだけが、五代君の心を突き動かしていた。
それから二人はちょくちょくと逢うようになった。
お茶をしたり、映画を見に行ったり。
あの若い学生の頃を懐かしむように。
こずえちゃんも少しずつ自分自身への自信を取り戻しつつあった。
~そして話は8話の公園へと戻る~
天気のいい昼下がり、こずえちゃんはだいぶ落ち着いたと言う。
再婚相手と何かあったのだろうか?
[ふふ、もうこの人の腕に黙って飛びこむぞ!って決めたそばから・・・]
[“中国へ転勤することになったんだけどどうする?“なんて突然言わけたけど]
[ふたつ返事でOKしたわ]
[ありがとう、五代さん]
こずえちゃんの再婚相手はどうやら突然海外への転勤命令が出ていたようだ。
しかし、迷う事無くそれでも構わないと返事をしたこずえちゃん。
五代君へ感謝の気持ちを表わした。
[い、いやあ、僕は何もしていないよ]
[ただ単にお茶したり、映画に付き合ったくらいさ]
五代君はこずえちゃんの言葉に照れて謙遜する。
[ふふふ、あたしは40過ぎたもういいオバちゃんだし、それに・・・バツイチだし]
[かなり決断するまで悩んだけど]
[五代さんが自信を取り戻させてくれたから・・・五代さんが応援してくれてなかったらあたし・・・]
[このお話を断っていたと思うの・・本当にありがとうございました]
残念ながらもう若くはない自分。
そんな人生の分岐点に、五代君が居てくれたことの有り難さを噛み締めるこずえちゃん。
再び二人には別れの時が近付いていた。
[もう・・・ここには来ることもなさそうね]
[そうか、今度こそ本当のお別れだね]
二言三言、言葉を交わした二人。
[さようなら・・・お元気で]
こずえちゃんはそう言うと、静かに頭を下げ、公園を後にして行った。
[さ~てガキどもが待ってるから戻らないとな]
小さくなるこずえちゃんの後ろ姿を見送った後、晴れやかな笑顔で五代君は保育園へと戻って行った。
以下、次回