輪廻の蛇 〜退魔兎姫ハヤテの世界で、TS転生者は日常を守りたい〜 作:黒庵
追記:1章7話のシンダラの名乗りを原作者さんの監修した内容に変更しました。
先導する、道着を着た男の人に案内される形で戻ってきた楓さんと一緒に進んでいく。
道場の中は当たり前だがかなり広かった。ちょっとした体育館だ。
恐らく、男の退魔師が超人的な訓練を行うことを前提として作られているのか、歩く床板も一般的な素材とは何処か違った踏み心地を感じる。
「……来たか、牙咬の後継者たち」
道場の壁際、掛け軸の前で座禅を組んで待っていたのは左の額に傷のある、白い袴を履き、上半身の筋肉を黒いスーツで覆った寡黙な男性だった。
俺たちを見て、"牙咬の後継者" と表したのは我道相剋さんという男退魔師さんらしい。楓さんとは何やら旧知の仲らしいが、詳細は教えてもらっていない。
「それではこれより、我道と牙咬の訓練試合を始める」
我堂さんと門下生の一人が簡単な説明をしてくれる。
訓練試合で使えるのは道場内の事前に正方形の線が引かれた範囲内のみとのこと、床は砕けても簡単に直せる特殊なモノなので、試合中に砕けても気にしないこと。試合時間は1時間であり、訓練試合の勝敗の判定はここの門下生の一人が担当すること。
正方形の試合場の外に観客席………といっても、道場なので床にそのまま座る感じだ。既に門下生の人たちが二人の試合を見守るべく座っている。
俺は楓さんと一緒に試合の観戦ができる場所に座った。
……とはいえ、観戦をするのは俺たちだけではない。ここの門下生の人たちが座る場所の中で空いてるスペースにお邪魔する形で座らせてもらっている。……むっと漂う、道着に染みついた男衆の汗の匂いがすこし気になるのは致し方がないだろう。
加えて、女子が道場内に来ることが珍しいのか、若干の視線が俺たちに向けられる。………すこし、そわそわするな。
ネネちゃんは既に退魔装束に着替えた上で道場に来ている。対する我道さんも既に身に纏っていた黒いスーツと白い袴が退魔装束らしく、つまりはお互いに『退魔師同士での正式な訓練試合』として試合の場に立っている。
「牙咬の娘、まずは名乗れ」
「えっ、あっ、はい! あたしは牙咬 猫音です! 今年の春から三年生になります! 8歳です!」
「よろしい、俺は
お互いが名乗り合いを行い、訓練をする相手への認識の擦り合わせを行う。
我堂さんが年齢を言う必要性は無かった気がするが、ネネちゃんの言葉に合わせてくれたのだろう、真面目な人だ。
「────では、試合開始!」
「………」
「…ッ!」
とうとう試合が始まった。
だというのに、お互い動かない。我堂さんは自然体で、ネネちゃんは攻め方に悩む─────いや、何かを恐れるように。
楓さんが今のネネちゃんの経験として必要な相手として、訓練試合を頼むような人だ、退魔師としてもかなり強い方なのだろう。だからこそ、ネネちゃんも飛び込むことが出来ないでいるのだろうか。それとも、何か別に直ぐに挑みにいけない理由があるのだろうか。
………それにしても、大人の男性とまだ子どものネネちゃんではかなり体格差がある。命気で肉体を強化するのだろうが、それは双方とも同じ。つまり、単純に考えれば体格で勝り、男の肉体を素体に持つ我道さん側が有利なのだろうが。
(ネネちゃんは牙咬の後継者。つまり、少女の肉体を降ろした獣でブーストした上で、命気の強化が可能……!)
更に言えば、ネネちゃんは退魔師の先天的な特性─────
つまり、大雑把に考えれば『ネネちゃんの肉体+退魔特性の強化+獣降ろしのブースト+命気の強化』という三段階の強化が行われているということ。
故に、ネネちゃんの武器は通常一段階の強化しかできない普通の女退魔師とは掛け離れた『超強化能力』にある。
「立ち回りさえ間違えなければ、あの子の小さい身体も有利に使えるはず」
「……いえ。それは難しいわね」
「え?」
俺の呟きを耳に拾った楓さんが厳しい表情で二人を見つめる。
「確かにネネの三段階の肉体強化は破格と言ってもいいわ。加えて『瞬間的なエネルギー付与』を含めれば将来的には四段階の強化が見込める──────」
瞬間的なエネルギー付与。
ネネちゃんの降ろした獣……確か、シンダラとか言っていたが、その獣降ろしによる加護は大きく言えば2つあるらしい。
①常に行われる身体強化ブースト
②命気を消費することで発動可能な、運動エネルギーの付与
ただし、実際には命気の同時併用がまだネネちゃんはできないので、『通常の【強化】をオンにしたまま戦う』か、『通常の【強化】をオフにして、②を使用するか』の二択となる。
つまり、どちらにしろ三段階の肉体強化までなら可能ということだ。
「だけど」
睨み合っていた双方のうち、我道さんから動く気はないと悟ったネネちゃんの方が漸く動く。
「────それだけでは足りないの」
瞬間、消えるように飛び出して撃ち込んだネネちゃんの拳を、一切のブレなく我道さんは片手で掴んでいた。
☆
牙咬猫音は訓練試合が始まった直後にも撃ち込めないでいた。それは相手が自身より体格に優れた相手だからでも、歳上の男の人だからでもない。『自分が殴っても壊れないかどうかが判らない』からだ。
猫音が今まで自身の身体に宿る退魔師としての才能を人に向けた経験は少ない。
元々、父が生きていた頃から自身と他人との肉体性能の差に振り回されてきた猫音は『普通の人間は容易く壊れるもの』だと知っていた。
命気の【強化】と先天的に備わった退魔特性による二段回強化の組み手でさえ、先に何年も母の下で修行してきたはずの姉弟子の雪果はキツそうだった。
三段階目の肉体強化が常に行われる【獣降ろし】、更にはシンダラの運動エネルギー付与を纏った拳を真っ当に受け止めたのは母親である楓しか居ないのが現状だ。
故に猫音は迷っていた。
この拳がこの男の退魔師さんを壊してしまうのではないか? と。
猫音は自身、そして身内の危機に関する『勘』は鋭い。
父、母、妹、そしてマシロに対しては避けるべき力加減が明確に分かるのだ。
しかし、姉弟子である雪果や目の前の男退魔師に対してはそれが判らない。怯えを僅かに覚えながら拳を握るしかない。
故に、猫音の胸中に「獣降ろしを解除してから
母であり師である楓からは「我道相剋が相手なら最初から獣降ろしをしていて良い」、と言われてはいたが、それでも怖いものは怖いのだ。
しかし、その怯えを感じ取ったのか、眼前の男退魔師は静かな声で、少女の固まった身体を叩いた。
「……お前の考えは分かっている。まずは撃ち込んでこい」
「ッ……やぁ!」
もうどうにでもなれ。
そんな考えで【獣降ろし】をしたまま、しかし命気の強化は入れずに拳を突き出して───────ぱし、と片手で軽く止められた。
「は、ぇ?」
「ふむ、なるほど。命気の強化なしでコレか。凄まじいな」
声には偽りは無いのだろう、平坦ながら僅かに驚きが含まれている。
だがしかし、猫音が幾らまだ8歳とはいえ、退魔特性と獣降ろしの二段回強化によるブーストは軽く小岩程度なら即砕けるくらいの威力はある。それは並の男退魔師が【強化】をした拳ほどの威力を、命気なしで可能ということを意味する。
それを熟練の退魔師なら受け止められる、それは確かかもしれないが……問題はこの男が『片手で』『一切身体を揺らさずに』『猫音の拳を受け止めた』ことにある。
「次は
掴まれていた拳を放される。
「まだ "本気" は出していないのだろう?」
「ッ……ほんとに、ケガしてもしらないんだからっ!」
☆
結果から言うと、牙咬 猫音は負けた。
『退魔特性』による先天的な身体強化。
命気による基本的な【強化】。
【獣降ろし】による身体強化ブースト。
更には瞬間的なエネルギー付与を乗せた攻撃さえ解禁して─────負けた。
我道相剋は牙咬猫音の今出せる全力の拳と蹴りを全て受け流し、猫音は攻撃をし続けた。
"訓練試合" という名目通り、男は終始『壁』として立ち続け、少女の命気の底が着いたことで決着が着いた。
全く歯が立たない。
猫音は生命エネルギーである命気の過剰消耗による枯渇で動けなくなっているというのに、我道相剋には未だ余裕がある。
「はぁ、はぁ……くっ」
「……素質は最上だが、力に任せ過ぎている。腕を磨いてからまた来い」
「ッ………! 次は、負けないんだから……!」
「その意気や良し。楽しみにしている」
ともかく、これでネネちゃんと我道さんの訓練試合は終わった。
単に負けただけ、という一見収穫の無いようにも見えるかもしれないが、『素質だけは最上位のネネちゃんが楓さん以外に負けることがある』という経験値自体が重要だったらしい。つまり、この試合の真意はネネちゃんの退魔師としての視野を広げることにあったのだと楓さんは語っていた。
実際、ネネちゃんの全力を受け続けられる退魔師は貴重らしく、楓さんですら今の未熟なネネちゃんを相手に全力を受け流し続けるのはそれなりに苦労するらしい。……もっとも、話し方的に技術面というよりは身体の耐久性の問題のようだが。
そのあとは我道一門の修行風景を見せてもらったり、小休憩ですこしは回復したらしいネネちゃんが我道さんに軽く稽古をつけてもらったりしていた。
そうして一通り道場でのイベントが終わったあと、三人一緒に家に帰って、俺は無事に雪果ちゃんの家事の手伝いに間に合うことが出来た。
後日。
今まで『女児ヒロインもの』しか観なかったネネちゃんが『男ヒーローもの』も観るようになっていた。
自分が成るべき退魔師のモデルイメージが増えたというか、弓などの遠距離攻撃に対応できる楓さんのファイトスタイルとは違い、近距離オンリーに偏っているネネちゃんの能力構成的に、蹴る殴るの近接系がメインになる男のヒーローが登場する特撮とかの方が参考になりそうだと気づいた結果なのだろう。
……のだが、その成果は妙な方向にも出ていた。
☆
「ネネちゃん、ちょっとお願いしてもいい? このダンボールを冷蔵庫の近くに運んで欲しいんだけど」
「おう! そのくらい大丈夫だ! この姉ちゃんに任せな! ウハハハハハ!」
「………う、うん。ありがと」
最近観た特撮ヒーロー番組に影響されたのか、明らかに違和感のある不慣れな男口調が混じるようになった。
……まぁ、気が済むまで付き合うか。