普通に支度して、普通に学校に行って、普通に授業を受けて、普通に彼氏と遊んで。なにもおかしくなんてない、いつも通りの私の1日……の、はずなんだけど。
代わり映えのない日常にどこか違和感を拭えない私。あれ?そもそも私って……。

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デイ・メイカー

 

 

 

 

 

 

 カーテンの隙間から差し込まれた朝の日差しに起こされ、ぼんやりとしながらも気怠げに布団を持ち上げた。

 冷え込み始めた今日この頃、青色のシーツも相まってとても寒々とした気分になる。が、二度寝でもして学校に遅れるなんてわけにもいかない。

 

 ベッドから降りてリビングに向かう。母、父、兄。家族は既に朝食に取り掛かっていた。

 

「はよー」

 

 とりあえず挨拶を済ませる。眠気が取れていないからか、気の抜けた口調になってしまった。

 

「おはよう晴太(せいた)。朝ごはん出来てるから早く食べちゃいなさい」

 

 ベーコンと目玉焼きを2枚のパンで挟み込む。軽食に近い感覚だが、これが意外と美味いのだ。

 

「晴太、あなたサラダもしっかり挟みなさいよ」

「朝から野菜なんて食いたくないって」

 

 ある程度ガッツリとしたものを食べて、1日を乗り切る活力にするのだ。野菜を入れてる余裕なんて、俺の腹にはない。

 10分と掛からずに平らげ、食器もそのままに身支度に向かう。

 

「ちょっと、食器漬けるくらいはしなさいよ!」

「そんな時間ないって」

 

 母さんの文句を適当に流し、洗面所で歯磨きと洗顔を済ます。

 目が覚め切らない寝ぼけたような吊り目。歳を重ねるにつれ太くなっていく眉。肌は日に焼けて浅黒い。

 我ながら絵に描いたような野球少年が鏡に映し出されていた。

 部活のために短くしているにも関わらず捻れに捻れた寝癖。これは少し手を加えるべきかもしれない。

 

「……あー、めんど!」

 

 若干跳ねたままだけど、まあ学校に行く分にはまったく問題ないだろう。

 部屋に戻り着替えに取り掛かる。特筆するところのない普通の学ラン。カッコ良くもないが、格別ダサいわけでもない。

 高校に入学して半年以上にもなれば、着付けに時間は掛からない。慣れた手つきで袖を通して、あっという間に普通の男子高校生が出来上がった。

 散らかった部屋から学校で使うもの、放課後に遊ぶためのゲーム等を掻き集め、雑にカバンへ放り込む。

 支度を終えて玄関に向かうと、そこに母さんが立ち寄ってきた。

 

「寝癖そのままよ?あと服に埃ついてる」

「面倒だし時間ない!」

「ちょっと、身だしなみくらいしっかりしないと……」

「いってきまーす」

「あっ!……もうっ」

 

 母さんのお小言を聞いてるほどの余裕はない。男子高校生の朝は遅刻すれすれ、時間との勝負なのだ。

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 1時間目の授業が終わった。各々が短い休み時間を満喫し始める。

 さてどうするかと数秒考えてから席を立つ。そういえば先日発売の漫画雑誌にはなかなか好みの新連載が掲載されていたのだ。なので俺は漫画好きの友人、吉澤秀雄とその感想を語り合うことにした。ちょっと胡散臭いところもあってクラスに馴染めてないやつだけど、漫画に関してはけっこう語れるから日頃よりそこそこ親しくしている。

 

「主人公が熱くていいんだよな、泥臭さもあって。応援したくなるわ」

「晴太くんはそういうの好きだもんね。でも今週号なら僕は『勉学不能』かな」

 

『勉学不能』とは以前からそこそこの人気を維持しているラブコメ漫画だ。男性人気は今ひとつだが女性人気がやたらと高く、少年誌にああいうのを載せることに不満を持っている読者も少なくない。

 

「秀雄は相変わらずだな。まあ俺も展開は嫌いじゃないが、主人公のキザったらしさにどうしても虫酸がな」

「あはは、でも女子向けの作品だからね。その気持ちもよく分かるよ」

 

 秀雄は真性の漫画好きである。読み物のジャンルには拘らず、ひたすらに雑食。なんでも楽しく読めるその性分がこんなとき少し羨ましい。

 

 ひとしきりの感想を語り終えると、時刻は次の授業まで残り数分といったところまで差し迫っていた。

 

「おっと、話しこんじゃったな。席に戻るわ」

「あ、晴太くん」

 

 自分の席に戻ろうとしたところを呼び止められた。

 

「なんだ?」

「今日の放課後は暇?うちでゲームでもしない?」

「お、いいな!ちょうど野球部が休みで退屈するとこだったんだ」

「じゃ、決まりで」

「おう!」

 

 思わぬ申し出に二つ返事で応じる。

 秀雄が自分から遊びに誘ってくるなんて珍しい。なんなら初めてではないだろうか。それだけ親交が深まってきたのかと考えると悪い気はしなかった。

 

 このときの俺は、そのことに浮かれてしまっていたのだ。

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

「あー、やっとおわったぁ」

 

 毎週のことなのだが、やはり体育はしんどい。

 俺の身体能力の問題、というわけではない。うちのクラスは不幸にも昼食後が体育。つまり昼に食べたいだけ食べること、これすなわち自殺行為に等しかった。もっとも、学習もせず大型の弁当を母に頼んでる自分が悪いのだが。

 

「女子はいいよな、3キロだけ走って終わりなんだから」

 

 肉体の性差はさておき、事実俺たちは女子の倍、すなわち6キロの完走を強いられるのだ。疲労と吐き気もあって、つい愚痴がこぼれた。

 

「女々しいなぁ神田くんは」

「そんなに3キロのほうで走りたいんなら女子に混ざって体育受けたらよかったのに、あはっ」

「女装でもしてみる?案外目覚めちゃったり?」

「ええいっ、からかうな鬱陶しい!」

 

 俺の愚痴を聞き取ったらしい女子たちが俺をおもちゃにしてくる。体育の直後だというのに元気なことだ。やっぱりこいつらも6キロ走るべきではなかろうか。

 

 

 

 最後にホームルームを済ませて学校は終わり。いよいよ待ちかねた放課後。

 

「どうする晴太くん、一度帰る?」

 

 喧騒に包まれた教室で秀雄が控えめにそう聞いてきた。

 なるほど、たしかに体育で汗をかいた。シャワーでも浴びて一度さっぱりするのもいいかもしれない。

 しかしたかだかこの程度のことで遊びにロスタイムが生じるのはあまり好ましくない。

 

「いや、直で行くわ。臭ってたら悪いが、遊ぶ時間減るほうがつまらん。秀雄はいいか?」

「うん。じゃあ行こっか」

 

 こうして俺たちは寄り道もせず、秀雄の家へと向かうことにした。

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 いちいち数えたわけでもないが、ゲームの勝率はおよそ7割ほどになった。だいたいいつもこのくらいになる。秀雄もけっこうな腕前だが、終盤で詰めが甘くなるタチは直らないままらしい。

 

「はー、こんなことになるなら練習でもしとくんだったかな」

「なんだ?まるで予想外の戦績みたいに言うんだな」

「戦績っていうか、このゲームやることを予想してなかったから」

 

 俺を誘った張本人がなにをわけのわからないことを。俺たちが集まってするゲームといえばこれ以外なかろうに。

 

「ところで今日、家に誰もいないんだけどさ」

「へー」

 

 対戦を続けながら秀雄が口を開く。

 

「せっかくだし泊まっていかない?」

「へ?」

 

 これには驚いた。秀雄は人見知りというわけでもないが、社交的なほうでもない。

 

「でもいいのか?親御さんに許可もらったりとか」

 

 そういうと秀雄は目を瞬かせた。

 

「晴太くんってそういうとこ律儀だよね」

「いや律儀ってか当たり前のことじゃ……」

 

 俺がそういうと秀雄は脇に置かれていたスマホを手に取り、ポチポチといじり始めた。

 

「……」

 

 対戦相手の試合放棄のため、手持ち無沙汰になってしまった。仕方なく俺は秀雄を尻目に置物と化したキャラクターをサンドバッグにして弄ぶことにする。

 

「オーケーだって。どうする?」

 

 サンドバッグをケーオーしたところで秀雄がそう尋ねてきた。

 

「あれ?なんで試合終わってるの?」

「秀雄がコントローラーほっぽったから?」

 

 そう返すと秀雄は至極残念だといった表情を器用にも作り呆れてみせた。

 

「晴太くんにはスポーツマンシップってものがないのかな?」

「ないらしいな」

「……ポーズ押さなかった僕が馬鹿だったね」

 

 そう言って睨みを効かせる秀雄。口元から笑みがこぼれているわけだが、それはまあお互い様だろう。

 

「で、どうする?」

 

 改めて聞いてくる秀雄。特に断る理由もない。俺は好意を素直に受け取ることにした。

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 よその生活環境というのは、入ってみると不思議な感覚になるものだ。ただ遊んでいると感じにくいが、こういうときにふと思う。勝手が分からずたどたどしくなっているのが自分でも実感できた。

 いつもならカゴにガサツに放り込む洗濯物も、今日はわざわざ持つ手をカゴの上にまで動かしてから手離した。シャツにパンツ、靴下、それから体操着。洗濯すべきものがすべて揃っていることを確認してから風呂場に入る。洗濯は秀雄がしてくれるという話になった。

 低めのシャワー。俺の体格だとやや狭い浴槽。秀雄の父親はそこそこ長身だと聞いていたが、これだといささか不便ではなかろうか。

 適当に身体を洗い終え、湯船に身を置く。少しぬるい。

 

 ほどほどの時間で上がり、タオルで身体を拭く。

 リビングに戻ると、秀雄は驚いた。

 

「はやっ。カラスの行水ってもんじゃないよ、10分も経ってなくない?」

 

 自分が長風呂をするタチではないということは自覚していたが、言われるほどカラスだという感覚もなかった。

 

「それに髪とかちゃんと拭けてなくない?ちゃんとドライヤーかけた?」

「お前はおかんか」

 

 とはいえ他人の家で雫をこぼして歩くのは悪いので、髪に関しては入念に拭き直すことにした。面倒だったので、ドライヤーはかけなかった。

 

 

 

「少しサイズ小さいかもだけど、まあ大丈夫そうかな?」

「おう、サンキュ」

 

 お泊まりは突発的に決まったわけで、であれば俺が着替えを持参していないのは当然のことだった。ここから俺の家までは40、50分程度。今から一度帰宅して、改めてここに戻ってくる面倒は選択肢になり得なかった。

 俺の身長は170cm、対して秀雄は165cm。秀雄の父さんの服を借りるのはさすがに憚られ、贅沢を言わず少々窮屈なこの寝巻きで我慢することにした。ただ伸びてしまわないことを願うばかりだ。

 

「悪いな、パンツまで」

「提案したのはこっちなんだから、気にすることないって」

 

 フランクに応じる秀雄にありがたみを感じつつ、食事の準備に取り掛かることにした。

 

「っても、料理なんて俺まともにできないぞ」

 

 チャーハンくらいなら、まあ適当に作れるが、味の保障はできない。手伝うといってもせいぜい野菜かなにかを雑に切ったりするくらいのものになる。

 

「うーん、僕もあまり得意じゃないし……せっかく客人がきてるとこ悪いけど、やっぱりレトルトでいい?」

 

 悲しいが賛成だった。野郎2人で踏み込むには、料理という家事は難敵だった。

 ただ温めただけのレトルトカレーを食べるのに、そう時間は掛からなかった。

 

 秀雄は、薄気味の悪い笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 

 

「もう日付が変わるな」

 

 ベッドメイキングを済ませ、なんとなく部屋に飾られていたアナログ時計を見ると、あと数分で翌日らしいことに気づいた。

 せっかくの泊まりとはいえ明日も学校はある。幸い明日の授業分の教科書は置き勉してるので、弁当代わりの昼食さえ用意しておけばわざわざ荷物のために早朝に帰宅するということはない。が、寝坊しては世話もない。そろそろ就寝するべきだろう。

 

「もうこんな時間か、楽しみだなぁ」

 

 振り返り時計を確認する秀雄。その表情は、まるで新しいゲームをこれから始めるかのような興奮を表していた。

 

「なにわけわからんこと言ってんだ。寝るぞ」

 

 そんな秀雄に呆れつつ、俺は就寝を勧める。しかし秀雄は聞く耳を持たず、どころか日付変更までのカウントダウンなんて始めた。

 

「10、9、8、7……」

 

 なんだなんだ?深夜テンションか?ただ困惑するばかりの俺を気にも留めず、秀雄はカウントを続ける。

 

「3、2、1、ゼロ。さあ、ゲームを始めよう」

 

 そう気色ばみ意気揚々と引き出しからなにかを取り出した。

 黒いキューブ状のそれはまるで某ゲーム会社が10数年前に開発した据え置き機のように見える。しかし大きさは3、4倍あるだろうか。上部に位置する表面にディスクを差し替えるような仕組みは見受けられず、代わりにそこがゲーム画面のパネルになっているように見える。

 乾電池式だろうか。プラグのようなコードは見当たらず、瞬時に小さな駆動音が響いた。

 

「なんなんだ?それ」

 

 なんだか薄気味の悪い物体だ。秀雄のおかしなテンションも、俺の不安に拍車をかけている。

 問いかけた俺に目もくれず。しかし話は聞いていたようで、秀雄は俺の質問に答えてくれた。

 

「これはね、1日を作り変えるゲームなんだ」

「1日を?タイムスリップするRPGゲームかなんかか?」

 

 違う違うとかぶりを振って、秀雄は嬉しそうに説明を続けた。

 

「これはゲームだけど2次元じゃない。このゲームで入力した情報は現実に反映されるんだ」

 

 なにを言っているのか、いまいち理解できない。

 

「1日の終わりに、今日のあれはこうすればよかったーとか、あれがこうだったらよかったのにーとか、そう考えちゃうことってあるでしょ?」

 

 それならまあ、寝る前に思い浮かべたりすることもあるか。

 例えば、朝もう少し早く起きてたら遅刻すれすれにはならなかったろうし、弁当の量を少なくしておけば体育も辛くはならなかった。

 そういう日常のちょっとした出来事を秀雄は言っているのだろうか。

 

「自発的にどうこうできたものはもちろん、どうにもならなかったことまで、このゲーム……『デイ・メイカー』を使えばそれを書き換えて1日をやり直すことができる。時間を、望む形で巻き戻せるんだ。この現実世界で」

「……」

 

 どうにもならなかったことまで。それはつまり、今日あった男子の体育を、例えば女子のそれと同じ3キロだけ走って終わらせることさえ可能になるということだろうか。だとするとなんでもありになってしまいそうだ。

 しかし気にすべき点はそこではない。こいつは『この現実世界で』と言った。荒唐無稽の妄言だと笑い飛ばしてやりたい。が、なんだかそんな空気でもなさそうで、背筋に薄ら寒いものを感じた。

 

「じょ、冗談……だよな……?」

「冗談かどうかは、遊んでみてのお楽しみだよ。さて……」

 

 しばらく考え込む素振りを見せてから、ゲーム画面に触れていく秀雄。タッチパネルでの操作になるのかコントローラーのようなものは見当たらない。

 

「僕が今日1日を過ごしてみて思ったのは、これ」

 

 そういってこちらに画面が向けられた。見ると、映っているのは俺らしき人物。いや、どう見ても俺だ。いつのまに盗撮でもされていたのだろうか。

 

「なんだ、これ……」

 

 しかし驚くべきは画面の節々に書かれている俺のプロフィールだ。『神田晴太』という本名から始まり身長や体重等の、あまり知られることのない細かな個人情報までもがずらりと並んでいる。中には俺しか知らないはずの性的な嗜好なんてものまで記載されていて、自分の顔が強張りだす。

 俺に関するすべてのデータが、詳らかに開示されてしまっているのだ。

 

「僕はね、晴太くんに変わってみてほしいなって思っちゃったんだ」

 

 いよいよ真実味を増す秀雄の妄言に、顔が青ざめていく。もしさっきの話が本当で、今のような前置きを入れるとしたら、秀雄はおそらく俺のなにかをこのゲームで変えようとしている。

 

「男友達と一緒に遊ぶのはもちろん楽しいよ。でも僕もこれで男の子なんだ。もし晴太くんと同じくらい仲良くいられる女子がいてくれたらって、思っちゃったんだ」

「それは……」

 

 どういう意味なのか。秀雄は、彼女が欲しいということ。それだけの話なのだろうか。

 

「教室で睦まじくお話したり、放課後は家まで遊びに来たり、そこから手料理なんかを振舞ってくれたり、なんなら一緒に一夜を明かす……そんな彼女が身近にいてほしいなぁって。……だから」

 

 パネルに何かを入力し終え、俺に向き直る秀雄。

 

「だから晴太くん、女の子になってよ」

 

 俺のプロフィール、そのある箇所でカーソルが点滅を繰り返す。

 項目は『性別』。しかし入力されているのは……。

 

「待てっ!!とまれ!!」

「じゃあ決定っと」

 

 視界が急激に狭まる。思考もぼんやりとしてきた。

 いしきが、うすれて……。

 

「あ、うぅ……んっ。……すぅ…すぅ…」

「おやすみ、晴太くん。……これから、またよろしくね」

 

 

 

 

 

 

 ★★★

 

 

 

 

 

 

 

 カーテンの隙間から差し込まれた朝の日差しに起こされ、すっきりとした目覚めを感じながら布団を持ち上げた。

 冷え込み始めた今日この頃、しかしオレンジ色のシーツがイメージだけでも気持ちを暖かくしてくれているように思えて、なんだか妙にほっこりとした。

 

 ベッドから降りてリビングに向かう。母、父、兄。家族は既に朝食に取り掛かっていた。

 

「おはよー」

 

 語尾を伸ばしはしたものの、はっきりとした口調で家族への挨拶を済ませる。

 

「おはよう晴美(はるみ)。朝ごはん出来てるから早く食べちゃいなさい」

 

 1枚のパンにサラダを乗せ、折りたたんで食べる。これだけあればお昼までお腹が空くことはない。

 

「晴美、あなたベーコンもしっかり挟みなさいよ」

「朝からそんなガッツリしたもの食べられないよー」

 

 これでもしっかりエネルギーは湧いてくるわけだし、別に問題はない。朝はさっぱりしたもの以外は喉を通る気がしない。お肉を入れてる余裕なんて、私のお腹にはないのだ。

 

 20分ほどの食事を済ませ、使った食器を流しに置き水で浸す。

 

「時間は大丈夫?」

「全然へーき」

 

 お母さんにそう返しつつ洗面所に向かい、歯磨きと洗顔を済ます。

 冴えきって大きく開かれた両目。やたらと長く伸びた睫毛。細く整えられた眉。肌は白く、しかし頬にほんのりと赤みを帯びている。

 いつも通りの私が鏡に映し出されている。

 

「……うーん?」

 

 なんか、変な気がする。しばし鏡の自分と睨めっこして、私はその原因に気づいた。

 寝癖がピョンと跳ねていた。あまり癖のない私の髪の毛でこんな付き方がするのは珍しいことだった。

 

「よし、完璧っ」

 

 丁寧に髪を梳かして寝癖の存在をかき消す。これでもう大丈夫かな。

 部屋に戻り着替えに取り掛かる。特筆するところのない普通のセーラー服。特別可愛いと言えるものでもないけど、制服を目的に学校を選んだわけでもないから気にはならない。

 高校に入学して半年以上にもなれば、着付けに時間は掛からない。慣れた手つきで袖を通して、リボンを結び、お次はスカート。最後にニーハイソックスの黒い靴下を履けば、あっという間に普通の女子高校生が出来上がった。

 

「っと」

 

 少し前髪が伸びてきたから、引き出しからヘアピンを取り出して付けてみる。うん、いい感じ。……あれ?

 

「……?」

 

 なんだろう。姿見に映る自分に、なぜだか不思議な違和感がある。

 

 支度を終えて玄関に向かうと、そこにお母さんが立ち寄ってきた。

 

「お母さん。私、どこかおかしくない?」

「身嗜み?大丈夫よ、バッチリ」

「ほんと?なんだか違和感があって……」

「服は綺麗だし、髪もちゃんとしてる。顔も小さくて可愛い……うん、どこも問題なしっ!」

 

 途中に親馬鹿が混ぜられた気もするけどそこはスルーしておこう。第三者のお墨付きがあるんなら、違和感は気のせいだよね。

 

「そう?ありがと」

「じゃあ気をつけて行ってらっしゃい」

「はーい。いってきまーす」

 

 お母さんに見送られながら家を出る。なにひとつ変わり映えのない、いつも通りの朝だった。

 

 

 

 

 ★★★

 

 

 

 

 1時間目の授業が終わった。各々が短い休み時間を満喫し始める。

 さてどうしようかと数秒考えてから席を立つ。特になにも思いつかなかったので、私は以前からお付き合いをしている彼氏の吉澤秀雄くんのところに向かった。

 

「今週も『勉学不能』が面白かったよ」

「そうなんだ。楽しみー」

 

 秀くんはとても漫画が好きだ。読み物のジャンルには拘らず、ひたすらに雑食。故にその幅広い読書経験から私に合いそうな漫画を見繕い紹介してくれる。『勉学不能』もその中のひとつで、今ではすっかり私もハマってしまっている。

 いわば漫画ソムリエとして私の信頼を集めつつ、今日もいくつかの漫画を紹介してくれた。今度貸してくれるらしい。楽しみが増えた。

 

「でも『勉学不能』以上の作品と出会えるような気はしないなぁ。あれ、ほんとにすっごく面白いんだもん」

「あはは、女子に大人気の漫画だからね。そう思う気持ちも分かるよ」

 

 

 

 ひとしきり他愛のない雑談を楽しんでいると、時刻は次の授業まで残り数分といったところまで差し迫っていた。

 

「あ、話しこんじゃったね。そろそろ席に戻るよ」

「あ、神田さん」

 

 自分の席に戻ろうとしたところを秀くんに呼び止められた。

 

「なに?」

「今日の放課後は暇?うちでゲームでもしない?」

「わ、いいね!ちょうど料理部がお休みで退屈するとこだったの!」

「じゃ、決まりで」

「うんっ!」

 

 思わぬ申し出に二つ返事で応じる。

 秀くんが自分から遊びに誘ってくるなんて驚いた。それだけ親交が深まってきたのかと考えると悪い気はしなかった。

 

 ……うん?「親交が深まってきた」……?別にヒデくんからのお誘い自体、初めてでもないはずなのに?

 

「なにか用事でも入ってた?」

 

 私のおかしな面持ちが気になってそう尋ねたのだろう。私は顔に笑みを浮かべて大丈夫だと明るく返した。

 

 

 

 

 ★★★

 

 

 

 

「ふー、おわったぁ」

 

 毎週のことなんだけど、体育の時間は少ししんどい。

 私の身体能力の問題、というわけじゃない。うちのクラスは不幸にも昼食後が体育。私は少食だからそこまで問題でもないけど、それでもやっぱりこの時間に運動はしたくなかった。

 

「男の子は大変だよね、6キロも走らされるんだから」

 

 肉体の性差はさておき、事実男子は私たちの倍、すなわち6キロの完走を強いられている。なんなら吐き気を催す子だって出てきても不思議じゃなさそう。そう思いつい哀れみの言葉がこぼれた。

 

「そう思うだろ?神田さんも先生に言ってやってくれよ」

「俺も女子に混ざって3キロで済ませたいわ」

「女装でもしてみるか?案外目覚めちゃったりするかもしれんぞ」

「冗談言えるくらいの元気は残ってるんだ……」

 

 私の小言を聞き取ったらしい男子たちが息も絶え絶えながら盛り上がり始めた。さっきまで走り続けていたというのにとても元気だ。やっぱり男の子って体力あるんだなぁ。

 ふと秀くんのほうを見やると、たしかにそこまで疲れているようにも見えなかった。

 

 

 

 最後にホームルームを済ませて学校は終わり。いよいよ待ちかねた放課後。

 

「どうする神田さん、一度帰る?」

 

 喧騒に包まれる教室で秀くんがそう聞いてきた。

 男子ほどではないにせよ体育で汗をかいたし、シャワーでも浴びて一度さっぱりしたほうがいいかもしれない。秀くんに嫌な匂いのする女子だなんて不名誉な印象を持たれたくもない。

 

「うん、ごめんね。一度帰ってから行くことにする」

「それがいいよ。じゃあまた後で」

 

 こうして私たちは一度別れ、後ほど秀くんの家で待ち合わせることにした。

 

 

 

 

 ★★★

 

 

 

 

 いちいち細かく数えてるわけでもないけど、ゲームの勝率はおよそ3割ほど。だいたいいつも通りだ。秀くんは格闘ゲームが上手で、私もそこそこ腕に自信はあるけどなかなか勝ち越せないでいる。

 

「ふふん、また僕の勝ちだね」

「うーん、このゲームなんか苦手……」

「たしかに神田さん、他のやってるときより動きがぎこちないよね」

 

 なんていうか、こう……自分が思った通りにキャラを動かせないっていうか。

 

「あ、もしかしてコントローラーが大きいから?」

「……あー、それかも。私の違和感」

 

 キャラ以前に手が思った通りに動かせてなかったんだ。言われてみるとすんなりと納得できた。

 

「まあ女子が掴むには大きすぎるかもね」

「こればっかりはどうしようもないかな、完敗だよ」

 

 そういって露骨に残念がってみせると、不公平な勝敗に罪悪感を抱いたのか秀くんの視線が泳ぎ始めた。ふふん、ちょっとした仕返しである。

 数秒の間を挟み、秀くんが口を開いた。

 

「ところで今日、家に誰もいないんだけどさ」

「へー……へっ?」

「せっかくだし泊まっていかない?」

 

 おっと、挙動不審はそういう意味か。まったく、なにがせっかくなのやら。対戦を続けながらも、私は動揺を隠そうと平静に努める。

 

「ま、まあ、秀くんがどうしてもっていうなら泊まってあげなくもないけどっ」

「なんでそんな上からなの?」

 

 ええいうるさいっ。こっちだって緊張してるんだから、いちいち気にしないでほしい。

 

「でもいいの?泊まるんだったら、ご両親に許可もらったりとか」

 

 そういうと秀くんは目を瞬かせた。

 

「神田さんってそういうとこ律儀だよね」

「いや律儀ってか当たり前のことじゃ……」

 

 私がそういうと、秀くんは脇に置かれていたスマホを手に取ってポチポチといじり始めた。

 

「……」

 

 対戦相手の試合放棄のため、手持ち無沙汰になってしまった。仕方なく私もゲームを中断して、スマホで時間つぶしをする。

 

「オーケーだって。どうする?」

 

 そう待たないうちにご両親は返事をしてくれたらしい。

 

「じ、じゃあせっかくだし泊まってこうかな。どう?嬉しい?」

「まあ、そりゃあね」

 

 素っ気なくも素直な反応。なんか私がひとりで勝手にドギマギしてるみたいで、少し気に入らない。

 

「じゃ、この試合ちゃっちゃと終わらせとこうか」

「負けないからねっ!」

 

 そう言って睨みを効かせてみせる。今、私の口元はほころんじゃってそうだけど、それはまあお互い様だから気にしてはいけない。

 

 

 

 

 ★★★

 

 

 

 

 よその生活環境というのは、入ってみると不思議な感覚になるものだ。ただ遊んでいると感じにくいけど、こういうときにふと思う。勝手が分からずたどたどしくなっているのが自分でも実感できた。

 いつもなら気兼ねなくカゴに入れる洗濯物も、羞恥心によるものなのかそれを手から離すことがなんとなく躊躇われた。シャツに下着、靴下、それから体操着。洗濯すべきものがすべて揃っていることを確認してから風呂場に入る。

 洗濯は後でまとめて私がするという話になった。同年代の男の子に下着まで委ねるのは、彼女といえど容認できなかった。代わりに私が秀くんの下着に触れることになっちゃうけど、それはまあ仕方ない。やましい気持ちは少ししかない。

 ちょうどいい高さのシャワー。私の体格だとやや広い浴槽。秀くんの父親はそこそこ長身だと聞いていたけど、私でこれなら日ごろ随分と不便な思いしてるんじゃないかな。

 入念に身体を洗い終え、湯船に身を置く。けっこう熱い。

 

「……」

 

 なんだか不思議。

 これ、ほんとに他人のお家だからとかって感覚なのかな?環境というより、私自身ががらっと変わっちゃったような……今までの自分じゃないような不思議。

 服を脱いだり、身体を洗ったり、そんななんてことないことに、おかしな違和感がつきまとう。

 

「……のぼせちゃったのかな。そろそろあがろ」

 

 立ち上がりタオルを手に取る。

 身体をひとしきり拭き終えてリビングに戻ると、秀くんが声を掛けてきた。

 

「やっぱり女子って長風呂するものなんだ?」

 

 ガス代がもったいない、みたいな皮肉でもなさそう。私がお風呂に割く時間に、純粋に驚いてるようだった。

 

「ごめんね待たせて。寂しかった?」

 

 上目遣いにそう聞いてみる。見る見るうちに秀くんの顔が赤く染まる。これじゃどっちが風呂上がりなのかわからない。

 

「からかわないでよ」

「ふふっ、ごめん。でももうちょっとだけ待ってね。髪ちゃんと乾かさないと」

 

 拝借したドライヤーの電源を入れる。髪の手入れは欠かしたらいけない。

 

 

 

 

「少しサイズ大きいかもだけど、まあ大丈夫そうかな?」

「うん、ありがと」

 

 お泊まりは突発的に決まったわけで、であれば私が着替えを持参していないのは当然のことだった。ここから私の家までは1時間程度。今から一度帰宅して、改めてここに戻ってくる面倒は選択肢になり得なかった。

 私の身長は157cm、対して秀くんは165cm。秀くんのお母さんの服を借りるのはさすがに憚られ、贅沢を言わず少々ぶかついたこの寝巻きで我慢することにした。ただ、胸の部分だけ伸びちゃいそうなのが少し心配だ。

 下着に関しては、今は付けていない。そういうとまるで痴女みたいだけど、こればっかりは仕方ない。現在ストーブの前で絶賛乾燥中だ。恥ずかしいけど我慢。

 

 時間もいい頃合いだったので、食事の準備に取り掛かることにした。

 

「よしっ、ここは私に任せてもらおうかな」

 

 自分で言うのもなんだけど、料理にはけっこう自信がある。なんたって料理部なわけだし。愛しの彼の胃袋をキャッチ……なんてわけじゃないけど、ここで特技を振るわないのももったいない。

 

「うーん、僕はあまり得意じゃないし……客人にお願いするのは申し訳ないけど、じゃあ頼めるかな?」

「そんなかしこまんないでよ。……それに私、客人以前にか、彼女なわけだしっ……」

 

 おかしな空気が私をおかしくしてるのか。羞恥心というストッパーが、今日は機能してないらしかった。自分で言っといて顔が火照っていくのを感じた。

 手作りのカレーを挟みつつ、私と秀くんは長く楽しい夕食を共にした。

 

 

 

 

 

 ★★★

 

 

 

 

 

「もう日付が変わっちゃうね」

 

 ベッドメイキングを済ませ、なんとなく部屋に飾られていたアナログ時計を見ると、あと数分で翌日らしいことに気づいた。

 せっかくのお泊まりとはいえ明日も学校はある。明日の授業の教科書は他のクラスの友人に借りることにしたから、お弁当代わりの昼食さえ用意しておけばわざわざ荷物のために早朝に帰宅するなんて必要はない。けど、寝坊しては世話もない。そろそろ就寝するべきだろう。

 

「もうこんな時間か、楽しみだなぁ」

 

 振り返り時計を確認する秀くん。その表情は、まるで新しいゲームをこれから始めるかのような興奮を表していた。

 

「なにわけわかんないこと言ってるの?もう寝るよ」

 

 秀くんの言動に戸惑いながらも、私は彼に就寝を勧める。しかし秀くんは聞く耳を持たず、どころか日付変更までのカウントダウンなんて始めた。

 

「10、9、8、7……」

 

 どうしたんだろう?深夜テンション?ただ困惑するばかりの私を気にも留めず、秀くんはカウントを続ける。

 

「3、2、1、ゼロ。さあ、ゲームを始めよう」

 

 そう気色ばみ意気揚々と引き出しからなにかを取り出した。

 黒いキューブ状のそれはまるで某ゲーム会社が10数年前に開発した据え置き機のように見える。しかし大きさは3、4倍あるだろうか。上部に位置する表面には、ディスクを差し替える仕組みが見受けられず、代わりにそこがゲーム画面のパネルになっているように見える。

 乾電池式だろうか。プラグのようなコードは見当たらず、瞬時に小さな駆動音が響いた。

 

「なんなの?それ」

 

 なんだか薄気味の悪い物体だ。秀くんのおかしなテンションも、私の不安に拍車をかけている。

 問いかけた私に目もくれず。しかし話は聞いていたようで、秀くんは私の質問に答えてくれた。

 

「これはね、1日をやり直せるゲームなんだ」

「1日を……?タイムスリップするゲーム?」

 

 違う違うとかぶりを振って、秀くんは嬉しそうに説明を続けた。

 

「これはゲームだけど2次元じゃない。このゲームで入力したことは、現実に反映されるんだ」

 

 なにを言っているのか、いまいち理解できない。

 

「1日の終わりに、今日のあれはこうすればよかったーとか、あれがこうだったらよかったのにーとか、そう考えちゃうことってあるでしょ?」

 

 まあ、寝る前にそういうことを思い浮かべたりすることならある。

 例えば、朝もう少し早く起きてたらいろんな髪型をセットできるだろうし、なんなら秀くんのためにお弁当を作ってみちゃったり、なんて妄想もしたこともある。

 そういう日常のちょっとした出来事を言っているのかな。

 

「自発的にどうこうできたものはもちろん、どうにもならなかったことまで、これを使えばそれを書き換えて1日をやり直すことができる。時間を、望む形で巻き戻せるんだ。この現実世界で」

 

 どうにもならなかったことまで。それはつまり今日あった男子の体育を、例えば男子の望み通り3キロだけで終わらせる、なんてことさえ可能ってことなのだろうか。だとしたらほんとになんでもありになっちゃうけど。

 しかし気にすべき点はそこではない。秀くんは『この現実世界で』と言った。荒唐無稽の妄言だと笑い飛ばしてあげたいけど、なんだかそんな雰囲気でもない。

 

「じょ、冗談……だよね?」

「冗談かどうかは、遊んでみてのお楽しみだよ。さて……」

 

 しばらく考え込む素振りを見せてから、ゲーム画面に触れていく秀くん。タッチパネルでの操作になるのかコントローラーのようなものは見当たらない。

 

「昨日の僕が望んだのは、これ」

 

 そういってこちらに画面が向けられた。見ると、映っているのは私らしき人物。いや、私で間違いない。いつのまに盗撮でもされていたのだろうか。

 

「なんなの、これ……」

 

 しかし驚くべきはそこじゃない。画面の節々に書かれている私のプロフィールだ。『神田晴美』という本名から始まり身長や体重等の個人情報がずらりと並んでいる。中には私しか知らないはずの性的な嗜好なんてものまで記載されていて、自分の顔が赤らんでいくのを感じた。

 私に関するすべてのデータが、よりにもよってヒデくんの前で、詳らかに開示されてしまっている。

 

「僕はね、神田さんを変えちゃったんだよね」

「変えたって、なにを……?」

 

 言いながら秀くんは画面の『変更一覧』という枠を選択した。

 すると、1人の男の子が映し出された。

 

「神田……晴太……?」

 

 名前の欄にはそう記されていた。なんだか、私の名前によく似ている。

 

「それに……」

 

 どことなく面影が私に似ている気がする。もしお父さんの学生時代だと言われたら信じちゃうような、そんな感じの男の子。

 

 頭が痛くなってきた。

 

「なにか……忘れてるような……」

 

 頭を抱えてうずくまる。もう少し、あと少しで、なにか大切なことを思い出せる気がする。

 

「わ、わたし……は……?あ、あれ……?わたし、おれ?……え?ひで、くん……?」

 

 ふと、頭に触れていたはずの両手が除かれた。秀くんが手首を掴んで引き寄せたからだ。

 

「画面まで見せたのは失敗だったかな?僕的には思い出してほしくない内容だし、神田さんには忘れたままでいてほしいな」

「……や……」

「?」

「いやっ!」

 

 秀くんの手を払って距離を取る。

 

「ダメ!今ここで思い出さなきゃ、私が私じゃなくなっちゃう。そ、そんな気がするからっ!」

 

 私はなにか大切なことを忘れちゃってる。絶対に思い出さないといけないって、本能が警鐘を鳴らしてる。

 弾いた手に引っかかったらしく、お気に入りのヘアピンが飛んでいってしまった。留めていた長い前髪が目に掛かってきて鬱陶しい。

 

「……?」

 

 ……あ、あれ?

 

「……私の髪って、こんなに長かったっけ?」

 

 私、野球をするのに邪魔だからって髪は短くしてなかったっけ?

 

「あれ?野球部……?私、料理部のはずじゃ……」

 

 自分の手を見る。日々の練習で作られた勇ましいマメの痕、そんなものはなかった。ただ、頼りない白く小さな手のひらがある。

 その手で髪の毛を触ってみる。さらさらとした、肩まで届く女の子らしい柔らかい髪質。

 下を向くと胸部に大きな膨らみがある。それは女の子なら当たり前の体型で、疑問に思うべくもないこと。

 

「……女の子、なら……」

 

 この服装も、髪の長さも、撫で肩も、胸も、体格も。そして。

 

「……ない」

 

『ない』のも、全部全部、女の子なら当たり前のこと。しかしそんな当たり前が、瓦解していく。なぜなら。

 

「わたし……いや、俺は男……」

 

 自分は、神田晴美は。神田晴太は、男子だったのだから。それを、思い出せたから。

 

 

 

「あーあ、思い出しちゃったんだ」

 

 愕然とする俺を見て、つまらなさそうにそう呟くヒデ。

 

「秀雄っ!これはお前の仕業だな!?」

「口が悪いね。今の君にはふさわしくない」

 

 冷や汗をかきながらもスマホを取り出し、画面を付けずに鏡として見る。映っていたのは『神田晴太』でなく、ひとりの女の子だった。

 

「っ!……俺を元に戻せ!」

「なんで?」

「なんでって……俺は男なんだ!女子になんてなりたくない!」

 

 そう怒鳴りつけてやるが、秀雄は顔色ひとつ変えずにいる。

 

「大した違いでもないでしょ?ここは君が女の子だった場合の世界。そして君は女の子。それだけの話だよ」

「大違いだ馬鹿!」

 

 ありえない!人の性別はそんな軽々しく考えていいものじゃない!

 

「とにかくそのゲームを寄越せ!」

「取られるわけにはいかないよ」

 

 秀雄はそう言ってゲームをタンスの上に置く。

 

「ふっ!くっ!と、届かないっ……!」

 

 ただの一時凌ぎかに見えたが、そうか。今の俺は女子になってるから身長も縮んでるのか。なにか足場代わりを探さないとゲームは手に入らない。

 

「さて、とっ」

「ぐっ」

 

 必死に飛び跳ねる俺を秀雄が抑えつけにかかる。

 男子対女子。腕力の差は歴然で、あっという間に身動きが取れなくなってしまった。

 

「も、もどせっ!おれを、男にっ!」

「そうか、アイデンティティに揺れているんだね?でも大丈夫。君は君だ、安心していい」

「か、勝手にひとりで結論づけてんじゃねえっ!……あっ!」

 

 こともなげに押し飛ばされ、尻餅をついてしまう。歴然な力の差に顔が青ざめていく。

 数秒かけて視線を秀雄に戻すと、またゲームをいじっていた。

 

「こ、今度はなにを……」

「自我の揺らぎを落ち着かせてあげるよ。『君が君らしくあれたら』、そう設定した」

「俺が、俺らしく……?」

「そう。つまり君が自分をどう思うのかで君自身が決まる……君が自分をしっかり男だと思えたなら、明日は元の世界に戻ってるはずだよ」

 

 分の良い条件だ。俺はもう全部を思い出している。俺として生まれ育ってきた自分を、今さら男だと思えないわけがない。

 

「でも僕には君が男の子だなんてとても思えないんだよね。だって……」

「わっ」

 

 瞬間、身体を抱き寄せられる。顔を少し上げれば、そこには秀雄の顔がある。

 

「ち、ちかいっ!ちょ、離せっ!」

「ほら。こんなにも可愛らしい」

「んむっ!?」

 

 秀雄はそのまま顔を寄せ、俺の唇にキスをした。

 

「ん〜っ!!」

 

 必死に逃れようとするも秀雄の力が強すぎて身動きが取れない。

 

「ん〜っ」

 

 いや、俺の力が弱すぎるからかもしれない。

 

「ん……」

 

 ……『強すぎる』?『弱すぎる』?それってどうして?

 彼が男子で、私が女子だから……?

 

 

 

 

 10分は続いたかもしれないし、数秒で終わったかもしれない。

 秀くんが私を離したときには、もうそんな感覚に意識を割いてる余裕なんてなかった。

 

「男にキスされちゃうんだから、君は女の子だろう?」

 

 したり顔でそう言う秀くんに、睨みつけることで反意を返す。

 これは勝負だ。それも、私にとんでもなく不利な、負けるわけにはいかない大一番。

 私の自分らしさが男性として残ったら、私の勝ち。女の子に染まっちゃったら、秀くんの勝ち。

 

「絶対に負けないから!絶対、男の子に戻ってみせるんだからっ!!」

 

 気持ちを奮い立たせながらそう宣言してみせる。しかし秀くんは怯むことなく、再び私に近づいてくる。

 

「強がっちゃって。足、震えてるよ?」

「む、武者震い……だからっ!」

 

 秀くんの手が私に伸びてくる。思わず目を瞑る。

 

「わ、わたしは男の子なんだ。ぜったい、屈しないんだからっ!」

 

 次の瞬間、その手は優しく頭に置かれた。

 

「……へ?」

「別に君と敵対したいわけじゃない。ただ、なりたい自分になってほしいんだ」

 

 そう言って私の頭を撫で始めた。

 ……なんだかとっても心地いい。ヒデくんの大きな手のひらが、私に不思議な安心感を与えてくれていた。

 

「ふあ……秀くん、わたし……」

「……くくっ、『わたし』って!」

「っ!!ち、ちがうのっ……!!」

 

 ヤバい!このままじゃほんとに、自分が自分じゃなくなる!男の子だった私がいなくなっちゃう!

 

「そんな喋り方、女の子以外ありえないよ」

「こ、これはっ、私がしたくてしてるんじゃっ……」

「自分をよく見てごらん。服だって男子が着るようなのじゃない。女の子として可愛くなりたいからお洒落してきたんでしょ?」

「ち、ちがうっ!これは秀くんが好きそうだからで!私が女子だからとかじゃないからっ!」

 

 必死に秀くんを否定する。納得してしまったら、受け入れてしまったら、私はもう……!

 

「くす。……じゃあ、これはなに?」

「えっ?……きゃっ!」

 

 秀くんの手が私の胸に触れた。形を確かめるように撫でた。次第に強く、指で揉みしだき始めた。

 

「ちょっ、むねは、だめっ」

 

 抵抗も虚しく、秀くんの手は私を離そうとしない。

 

「こんなに大きな胸があって、それでも君は男なの?」

 

 胸。女性が赤ちゃんに、母乳を飲ませるための双丘。

 今の私には、それがある。……なら私は、女性なのかな……?

 

「それから、ここもっ!」

「っ!!やぁっ!!」

「……ほら!股間にだってないじゃないか。なら君はどうやって、男として精子を女性に送りこむつもりだい!?」

「え、えと……えっと……っ!」

「いや、なくていいんだ!君は、それを注がれる側だからねっ!!……うん?」

「……あ」

 

 もはや突き出すものはなく、代わりに慎ましくも生命を受け入れる秘部……女性器がそこにある。

 のみならず、濡れていた。

 頭が痛い。割れるように痛い。自分という概念が、塗り替えられていくような危機感。

 しかしそれでいて本能は、変わりゆく自分に心地よさを感じている。

 暖かい気持ちになれる。まるでこれこそが本来の自分であったかのような安心感。これまで味わうことのなかった様々な刺激に迎合し、内外を擦り合わせていくことで本当の私に近づいていけるようなこの感じ。

 

 きもちいい。

 

「せっかく親もいないんだし、いいよね?」

 

 秀くんが下着を脱ぐ。彼の股間には、私と違って逞しい男性器が見られる。

 ほしい。ほしい。本能が、女としての本能が、男性器を欲しがる。我が身に、女体に受け入れたいと騒ぐ。

 

「……」

 

 嫌なはずなのに、ダメなはずなのに、身体が秀くんに向かっていく。いけないはずなのに、凹凸を合わせたがっている。

 

 繋ぎ目が触れ合う前に、秀くんの顔を覗く。

 火照った彼の顔はカッコよく、可愛らしく、とても大好きなものだった。

 胸が高鳴って、気づいた。

 

(ああ、わたし……)

 

 私は、女の子だ。だって私は秀くんに……。

 

「ひでくん」

「なに?晴美さん」

「……しちゃっても、いい?」

「もちろん。だって君は、僕の『彼女』なんだから」

 

 

 

 男の子の秀くんに、恋をしちゃってるんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カーテンの隙間から差し込まれた朝の日差しに起こされ、すっきりとした目覚めを感じながら布団を持ち上げた。

 暖かな今日この頃、オレンジ色のシーツが雰囲気にマッチしていてなんだか妙にほっこりとした。

 

 ベッドから降りてリビングに向かう。当たり前だけどこの時間にはまだ誰も起きていない。彼氏のためのお弁当を作るべく早起きしたのだ。

 

 手早く料理と盛り付けを済ませ、朝食もとる。その頃には家族もリビングに降りてきていた。

 

「時間は大丈夫?」

「大丈夫だよ」

 

 お母さんにそう返しつつ洗面所で歯磨きと洗顔を済ます。寝癖が少しだけ付いてたので、しっかりと手を加えていく。よし、完璧っ。

 部屋に戻り着替えに取り掛かる。特筆するところのない普通のセーラー服。特別可愛いと言えるものでもないけど、私はこれを気に入っている。以前、彼氏にこれが一番似合ってて、しかも可愛いとまで言われた。そんなんでコロコロ服に対する評価が変わっちゃうんだから、我ながらチョロい女子だと思う。

 高校に入学して1年以上にもなれば、着付けに時間は掛からない。慣れた手つきで袖を通して、リボンを結び、お次はスカート。最後にニーハイソックスの黒い靴下を履けば、あっという間に可愛らしい女子高校生の出来上がりだ。

 

「あとは……」

 

 背中まで伸ばしたこの長髪を、今日はどうセットしていこうか。

 

「ま、悩んだらこれかな?」

 

 彼好みのポニーテールを結わえて支度は完了。以前はあまり伸ばしてなかったけど、いざ長くなってみるといろいろ試してみたくなる。今度ほかにしてほしい髪型があるか聞いてみよう。

 学校の準備は前日に済ませてあったけど、時間にはまだ余裕がある。私は鞄を開いて必要なものを改めて確認しておくことにした。

 

 すべての支度を終えて玄関に向かうと、そこにお母さんが立ち寄ってきた。

 

「ほら、もう来てるわよ」

「えっ?来てたの?言ってよ!」

「あんた焦ると忘れ物とかしちゃいそうだし」

「もー!いってきますっ!」

 

 お母さんに見送られながら家を出る。出てすぐ脇の電柱に、彼はもたれかかっていた。

 

「おまたせ!ごめんっ!」

「いいよ。僕が好きで待ってるんだし」

 

 ……臆面もなくそういうことを言っちゃえるの、なんだかズルい。

 ……でも。

 

「……ふふっ」

「?なに?」

「なんていうか……幸せだなって!」

 

 

 

 なにもかも輝いて見える、とっても素敵な朝だった。

 

 

 


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