※この作品はR-18です。

七国漫遊紀行   作:うさみの

10 / 20
一年目 五月末~六月初頭


敗北の美酒に酔う ①

 雲海に浮かぶ島々のような頂(いただき)に、青々と広がる草原。

 灰色の岩肌を晒し、見上げれば首が痛くなるほど高らかに聳(そび)える山。

 山頂から滔々(とうとう)と流れ落ちる滝は、霧のようなしぶきをあげて川となり、そしてまた滝となって雲海の果てへと流れていく。

 

 壺洞天の土地は広い。それはもうとんでもなく広い。やたら広大な草地だけならまだしも、山やら川やら滝やら吊り橋やらまであるのだ。もはや庭と呼んでいいものかすらあやしいところだ。

 だが、これほどまでに広大な土地を所有者が生かせているか、という問いには、残念ながら否と答えざるを得ないのが現状だった。

 

 だだっ広い草原に、屋敷がぽつんとひとつ。あとは木々がちらほら生えている程度で、残りはただ広がるばかりの芝生。

 洞天屋敷の家具を作り、内装を整え、途中で急遽増えた住人(エウルア)の家具も作り……などと、ひと月程もかけてようやく生活環境の整備を終えた俺達を次に待ちうけていたのは、この余りに余った広大すぎる土地(庭)の整備だった。

 

「武器の手入れができる鍛冶場とか、あとは合成台とか欲しいかもなぁ。 来客用に屋外に飲食スペースも用意して……いやいっそ屋外にも調理場を……うーん……」

「私は占星術関連の道具や書籍の置き場が欲しいです。 諸々全部を広げようとすると、さすがに私の個室では手狭で……いや、もういっそ研究棟とか建ててしまいましょうか。 これだけ広いんですし」

「はいはい! オイラ、おっきな食糧庫がいいと思うぞ! エウルアの氷で食べ物を冷やして、それでいつでも新鮮なお肉とか果物とか食べれるようにするんだ! あとは家庭菜園とか~、オイラ専用のリンゴの木とか~……へへ……」

「ちょっと、人のことを冷蔵設備かなにかみたいに言わないでくれる? ふんっ、このことは覚えておくから! ……食糧庫を作るのなら、キッチンに裏口も欲しいわね。 直通できないと何かと不便だもの」

 

 俺、モナ、パイモン、エウルア。

 洞天の住人皆で頭をひねり、思い思いに欲しい設備を挙げていった中のひとつに、それはあった。

 

「ワインセラー?」

「おう! 旅人のオマエはこれからいろんな国へ行くだろ? 旅先でいろんなお酒を買ってきて、テイワットじゅうのお酒をそこに集めるんだ! で、エウルアとか吟遊野郎がそれを飲む係で、オマエはおつまみを作る係で……」

「パイモンは?」

「もちろん、おつまみを食べる係だ!」

「なるほど」

 

 パイモンがむふー!と胸を張る。相も変わらず食い意地が張った提案ではあったが、確かにそれは悪くない案に思えた。

 

 テイワット各地に散らばるワープポイント。古代の遺物だというそれは非常に便利だが、色々と難点もある。

 一度訪れたことがある場所にしか移動ができないし、あまり多くの荷物も運べない。そもそも、誰もが皆使えるというわけでもないらしい。だから結局、テイワットにはこんなにも便利な移動手段があるというのに、貿易などの貨物輸送はキャラバンや船隊が主となっている。

 人件費や輸送中の事故のリスク、宝盗団などから荷を守る護衛の雇用費などが嵩んで、交易品の価格はどうしても高くなりがちだ。酒類などの嗜好品ともなればそれは特に顕著で、陸続きの隣国である璃月のお酒ですら、モンドで買うと最低でも三倍くらいの値段になってしまうのだと、海灯祭土産を持って行ったときにガイアが言っていた。

 

 だがその点、塵歌壺ならどうか。

 各地のワープポイントと塵歌壺を組み合わせれば、俺が行ったことがある場所のものなら現地の値段で買えるし、キャラバンのように輸送中の事故や宝盗団の襲撃に脅えることもない。

 そして先日完成した洞天通行証があれば、洞天への滞在を許可した仲間は移動時間を気にすることなくいつでもここを訪れることができる。モンドからでも、璃月からでも、いつでも飲みに来れるのだ。モンドの酒場ではいつも一人寂しく飲みがちなエウルアにだって、ここでなら酒飲み友達が増えるかもしれない。

 

「……いいわね、それ。 小さいのにしては、なかなか冴えた思い付きじゃない」

「へへん! ……って、おい! 『オイラにしては』は余計だろ!!」

「ご褒美に冷蔵庫のチーズケーキ、食べてもいいわよ」

「え!ホントか?!やったー!!」

「……いくらなんでもチョロすぎませんか?」

 

 ものの十秒で、ドヤ顔から膨れっ面を経由して、最終的に笑顔でキッチンに飛んで行ったパイモンの姿にモナが苦笑する。

 その後も誰からも異論が出ることはなく、ワインセラー案は無事可決。したのだが──

 

「ワインセラー……外の建物じゃなくて、こう、お屋敷の地下とかにある印象ですよね。マルに掘ってもらいましょうか」

「というか、そもそもどんな設備が必要なのかわかんないね……」

 

 立地や必要な設備、酒の保存に関する注意点等々、ワインセラーを作るにはあまりにも知らないことが多すぎた。

 

「うーん、これはちょっと勉強が必要かも……図書館に行けば参考資料あるかな?」

「むぐむぐ……どうだろうなぁ。リサさんに聞いてみようぜ!」

「……君達、何言ってるのよ」

 

 悩む俺達を不思議そうに眺めるエウルアに、パイモンと顔を見合わせる。

 

「君達の知り合いにいるじゃない。 よく知ってそうな人が」

「……あ」

「ディルックの旦那!」

 

 

       ◇ ◇ ◇

 

 

 と、いうことで。

 

「ほ、本気なのよね……?」

「もちろん!」

 

 洞天整備の家族会議から一週間後。昼食にはちょっと遅いくらいの、昼下がりの『鹿狩り』。俺の向かいの席には、食後だというのにどこか落ち着かない様子の波花騎士の姿があった。

 服装こそ普段の騎士装ではあるものの、いつもの毅然とした態度はどこへやら。そわそわと気もそぞろな様子には、昼のピークタイムを乗り切ってカウンターで一息ついているサラさんも「珍しいものを見た」とニヤニヤ顔だ。

 

「いくら君が立場にこだわらないからって、『罪人』と、よりにもよってモンド城内でデートだなんて……正気とは思えないわ!」

 

 困ったように眉根を寄せ、唇を尖らせるエウルア。抗議の声が心なし小さいのは『罪人』と一緒にいる俺の風評を気にしてか、それとも気恥ずかしさ故か。

 どちらにせよそんなことを言われても、引き下がるつもりはない。今日は強気に押していく所存だ。

 

 実のところ、エウルアと恋仲になってからずっと、デートに連れ出す機会を伺ってはいたのだ。が、モンドでは『罪人の末裔』で通っているエウルアのことだ。デートに及び腰になるのは想像に難くなく、中々うまい口実を見つけられずにいた。

 今回ようやく「ワインセラー作りのため」と理由をつけて連れ出しても、いざ「デート」と意識してしまえば案の定こんな感じだ。恋人になる前だって、一緒に買い物や食事くらいはしたことがあったはずなのに。

 

「ワインセラーについて聞くだけなら、君たちだけで充分でしょう? やっぱり私は……」

「エウルアが一緒に来てくれなきゃお酒のことよくわかんないんだし、必要なんだって! それにエウルアの好みのお酒とかも知りたいし、酒器とか小物も買いたいし」

「だ、だからって立場を危うくしてまで……!」

「まぁまぁ」

 

 実際問題、お酒の種類や味の違い、それに合った酒器選びなどは、今まで酒というものにほとんど触れてこなかった俺達には荷が勝ちすぎる案件だ。デートの件を抜きにしても、酒飲み(エウルア)の意見は切実に必要だった。

 それに一応、白昼堂々デートすることにだって意味はあるのだ。エウルアとの今後のために、ひっそり立てた作戦が。

 

「大丈夫だよ。 俺達、好き勝手言われるのは慣れてるし。 ね、パイモン」

「むぐむぐ……おう! そんなに気にすることないと思うぞ」

 

 「旅人」「栄誉騎士」「モンドを救った英雄」「帝君暗殺の容疑者」「璃月の恩人」「弟子」……おまけに「公子」(タルタリヤ)からは「相棒」だとか。旅の先々でこれだけ好き勝手呼ばれ続ければ、些細な風評の変化にはもうすっかり慣れっこだ。これらに「罪人の恋人」とかが加わる程度、何も問題はない。好きに呼ばせておけばいい。

 エウルアとのデートだっていうのに、ごはんの気配に釣られてついてきちゃったパイモンも、デザートのミントゼリーを堪能しながら相槌を打っている。

 

「それとも、エウルアは俺とデートするの、嫌?」

「……っ!! その物言いは卑怯でしょう!」

 

 デートはおそらく、彼女が「ローレンスだから」と諦めていたことのひとつのはずだ。口では文句を言いながらも、こんな些細な駆け引きで揺らぐあたり、エウルアもデート自体が嫌というわけではないのだろう。

 なら俺がエウルアの手を引くのを躊躇う理由はない。

 

「ほら、行こう? 大丈夫だから」

「…………はぁ……」

 

 パイモンがデザートを食べ終えたのを見計らって席を立ち、エウルアに手を差し伸べる。

 いまだ踏ん切りがつかずにいるエウルアは、しばらく俺の手と顔を交互に、睨むように見上げていたが、やがて根負けしたのか、大きなため息とともに俺の手に自分の手を重ねた。

 

「もう……これだけ言っても聞かないなんて。 ふん! この恨み、覚えておくから!」

「ん。 今日だけでいくつ『恨み』が増えるか、楽しみにしてる」

 

 恨めしげな視線に軽口を返すと強めに睨まれたが、それでも重ねられた手が離れることはなかった。

 

「サラさん、お代、テーブルに置いてあるから」

「はーい、また来てくださいね。 ……ふふ、エウルアさん、ファイトです!」

「っ、サラっ!!!! ……もうっ、覚えてなさいよ!」

 

 サラの激励に真っ赤になったエウルアを連れて、鹿狩りを出る。

 

「それじゃあオイラは、アルベドのとこでおやつ食べてくるな!」

「まだ食べるんだね……」

「アルベドのおやつは甘いものが多いからな! へへっ、別腹だぜ! また後でな!」

 

 噴水広場を前に小さな健啖家は高らかにそう言うと、元気よく手を振って騎士団方面へ飛び去って行った。バター魚焼きにモンド風ハッシュドポテト、デザートにミントゼリーまで食べてまだパイモンのお腹には余裕があるらしい。もしかしたら、あとは二人で、というパイモンなりの気遣いかもしれないが。

 

 今日は、騎士団本部でモナとアルベドの定例学術交流会が行われている。毎回クレーもいると言うし、茶菓子でクレーの遊び相手が釣れたと考えればまぁ、パイモンが勝手に参加しても怒られはしないだろう。たぶん。

 

「まったく、騒々しいんだから」

「まぁ、あれがパイモンだし。 さ、俺達も行こうか」

 

 瞬く間に小さくなっていくパイモンの背中を見送って、俺達も歩きだす。

 

「はぁ……もう。 どうなっても知らないんだから」

 

 諦めたようにそう呟いて歩みを合わせるエウルアの手は、照れのせいかほんのり温かかった。

 

 

       ◇ ◇ ◇

 

 

 『ローレンス』に対するモンド人の反応を抜きにすれば、エウルアとの買い物はそれだけでも結構楽しい。

 

 幼少期の貴族教育のたまものか、エウルアは非常に教養豊かだ。物品の歴史的背景やモンドの文化、デザインの変遷からちょっとした雑学まで、幅広い学識が会話の端々に自然と表れて心地よく知識欲を満たしてくれる。璃月の雑学王と違って財布を忘れたオチもつかないので、安心して聞いていられるのも嬉しいところだ。

 

 雑貨屋でエウルアの目にかなったデザインの酒器と小物を、ガラス細工の工房でワイングラスを注文して。休憩に寄ったキャッツテールの特製ドリンクを手に二人、恋人繋ぎで目抜き通りを闊歩する。

 カップルらしく「エウルアのやつもひとくち頂戴?」なんてやっていれば当然、群衆からの奇異の視線は刺さるほどだが……それだけだ。罪人とのデートに直接文句を付けるだけの勇気がある輩はどうやらいないらしかった。

 

「……正直、驚いてるわ。 まさかここまで何もないなんて」

 

 指を絡めて隣を歩くエウルアが、不思議そうに独りごちる。

 

 それもそのはず。エウルアがよく顔を出すキャッツテールだけならまだしも、雑貨屋でもガラス工房でも、驚くほどになにも起きなかったのだ。

 『ローレンス』の来店に眉を顰められはしたものの、販売を拒否されることも、値段を釣り上げられることも、普段彼女を悩ませている種々の問題はついぞ何一つとして起きなかった。

 

「君が『大丈夫』って言ってたのは……もしかして、こうなるってわかってたから?」

「うーん、まぁそう期待してのことではあったんだけど……思った以上に効果があって、俺も驚いてる」

 

 表情に疑問をありありと浮かべたエウルアに、手をぎゅっと握って笑みを返す。

 

「考えてみたんだ。 エウルアは前に『罪人と恋仲になると同じ扱いを受ける』って言ってたけどさ、裏を返せばその逆もまた然り、ってことにならないかなって」

「逆?」

「そう、逆」

 

 罪人と深い仲になると同じ扱いを受けることになる、と、前にエウルアは言っていた。なるほど確かにそうなのかもしれない。

 外来者の俺にはいまいちピンとこないが、ローレンスの名前はモンドの歴史において決して拭えない悪夢の象徴なのだという。それに味方する奴がいるなんて、きっとモンド人には認めがたいのだろう。

 

 だが、そんな中にも例外は存在した。

 『ローレンス』を親友と公言してはばからないアンバー。

 『ローレンス』であろうと実力によって評価し、騎士団へと抱え込んだファルカ大団長。

 歴史上においては『ローレンス』と相対した家に生まれながら、現代においては『ローレンス』と戦場で肩を並べることすらあるジン代理団長。

 いくら罪人に味方する発言をしようと決して同列に扱われることはない突出した個人が、モンドには確かにいるのだ。

 

 ならば──『栄誉騎士』はどうか。

 

「 『罪人』の恋人が『罪人』と同じ扱いを受けるならさ、理論上は『栄誉騎士』の恋人が『栄誉騎士』と同じ扱いを受けてもいいわけじゃない?」

「はあぁ!? そんなこと……」

「まぁ、これはさすがに極論だと俺も思うけどさ。 でも、多少の相殺くらいならできるかもしれないでしょ?」

 

 風魔龍を下し、執行官(ファトゥス)を退け、魔神を撃退した『栄誉騎士』。ヒルチャールに囲まれた人あらば通りすがりにこれを助け、宝盗団だろうがファデュイだろうが、喧嘩を売ってくるなら返り討ちにする流浪の旅人、なんて詩人には歌われていると聞く。

 話を真に受けるならこんな歩く災害みたいなやつを、いくら『罪人』と恋仲だからって、同列に扱える人がはたしてどれだけいるだろうか。

 むしろ、エウルアが『栄誉騎士の恋人(オンナ)』だという風評は、『罪人の末裔』に対する種々の嫌がらせへの抑止力になるのではないか。というのが今回、俺が立てたささやかな作戦なのだった。

 

 エウルアが地道に功績を積み上げ、アンバーが『追い風』となってそれを宣伝する。これが今のエウルアの『復讐』への道。

 なら俺は恋人として、エウルアへの『向かい風』を弱めることに注力する。題して『風除け作戦』だ。

 

 驚きか、それとも呆れか、ぽかんと小さく口をあけて呆けたエウルアの表情に思わず笑いがこみ上げる。

 

「エウルアに何かすれば、栄誉騎士(こいびと)が黙っていない。 そういう構図が作れれば、エウルアへの意地悪も少しは減るかなって」

「……」

「『ローレンス』はそりゃ有名らしいけどさ、俺だってこれでも結構、名前が売れてきたと思うんだよね。 討伐懸賞とか住民の依頼(リクエスト)に対応したりとかで、騎士団から感謝状と特別な風の翼まで貰ったんだから」

 

 それに詩人にも歌にされてるらしいし?と、わざとらしく胸を張ってみせる。

 名前を呼べばどこからともなく現れる騎士団メイドほどではないが、モンドにいる間はちょくちょく騎士団からの依頼をこなしていたおかげもあって、モンドでの俺の評判は上々だ。

 別に名声目的で依頼を受けていたわけではなかったが、名が売れたことでこうして間接的にエウルアの役に立ったのだと思えば悪くない。今後のこまごました人助けへのモチベーションも上がろうというものだ。

 そして──

 

「だからさ、まずは『栄誉騎士の恋人』って部分を宣伝して回ろう? こうやって手、繋いでさ」

「……だからわざわざ、城内でデートだなんて……」

「そういうこと」

 

 俺が抑止力として機能するためには、まずはエウルアが俺の恋人だと、モンドの住民に周知しておく必要があった。だからこうして、エウルアをデートに連れ出したというわけだ。多少強引にはなってしまったが。

 

「……考えてくれていたのね。 色々と」

「恋人だからね」

「……ふん!」

「なんならもっと仲の良さをアピールしてみる? 広場でキスとか」

「しないわよ! はしたない!」

 

 あとに恨み言が続きそうだったからと遮るように茶化せば、エウルアが頬を染めて怒る。握った手は離さずに、隣にぴったりと寄り添ったまま。

 見ているかモンド人よ。こんなにかわいいエウルアを『罪人』としてしか見れない君らの目は間違いなく節穴だ。教会に行ってバーバラにでも治療してもらったほうがいいぞ。

 

「……もし思った通りにいかなかったら、どうするつもりだったのよ」

「その時はこう、エウルアのセリフを借りて『この恨み、覚えておくから』って……」

「やめなさい! 私ならともかく、君が言ったら恫喝になるでしょう!」

「そしたら俺も『罪人』の仲間入りか……」

「なにを馬鹿なことを言ってるのよ、もう……」

 

 軽口でじゃれ合いながら次の目的地へと歩いていく。奇異の視線を引き連れて、しかし堂々と胸を張って。

 『罪人の末裔』と『栄誉騎士』。異色のカップルの行く道を阻める者は、どうやらモンドにはいないらしかった。

 

 

       ◇ ◇ ◇

 

 

 実のところ、エウルアとのデートに集中するため、ワインセラーの件に関しては事前に、ディルックさんのほうに根回しを済ませてあった。

 アカツキのメイド長(アデリン)のサインが入った『旅人でもわかるワインセラー解説 初級編』の小冊子をカウンターで受け取って、入店してわずか一分でデートの口実だったはずの要件が片付いてしまった時のエウルアの表情には笑いを堪えるのが大変だった。

 で。

 

「ワインが赤白ロゼ、蒲公英(ダンディライオン)酒、林檎酒(シードル)、蜂蜜酒(ミード)、ブランデー……こうして見ると、お酒って色々あるんだねぇ」

 

 日は傾きかけ、混んでくる時間帯の少し手前のエンジェルズシェア。

 先に到着してバジルフライドポテトをもぐもぐしていたパイモンと合流して、カウンター席で三人、バーテンダーのチャールズにお酒の紹介を受けている。

 

「モンドじゃあビールやウイスキーなんかの穀物酒はあまり人気がなくてね。 アカツキワイナリーでも作ってはいないんだ。 かわりと言っちゃあなんだが、こういうのもあるぞ」

 

 そう言ってチャールズが茶色い瓶をカウンターに置く。ラベルには精緻な筆致で描かれたスイートフラワーの絵。

 

「あら、ラム酒……エンジェルズシェアにも置いてたのね。 それも結構いいやつじゃない」

 

 蒲公英酒のコップを傾けながら、隣のエウルアが解説してくれる。

 

「ラム酒はスイートフラワーから作るお酒よ。 風神バルバトスがモンドに伝えたお酒のひとつね。 砂糖を作った残りや種の絞り汁を発酵させて、それを蒸留するの。 蒸留酒だから当然、酒精は強いわ」

「砂糖の残りって……あの黒いやつ?」

「そうよ。このラベルの『フラワーラム』はその中でも特別。 熟成の際にスイートフラワーの花を一緒に漬け込んで、香りをうつしてあるの。 古くは祭礼に際して風神への捧げものとされた、由緒正しい高級品よ」

「へぇ……」

「ラム酒ってあれだろ? お菓子に入ってるやつ!」

「まぁ、香り付けに焼き菓子に使ったりもするわね。 クッキーとかケーキとか」

「ケーキ!」

「パイモン、よだれ」

「じゅるり……へへっ、なあなあ!」

 

 今日だってアルベドのところで食べてきたんだろうに、甘い単語に目を輝かせたパイモンがこっちを見て、視線で訴えてくる。

 

「……一本いくら?」

「こいつは四万五千モラだな」

「け、結構するね……とりあえず一本もらうよ」

 

 少々……いや結構値は張るが、ワインセラーの件ではオーナーに世話になった。多少は売り上げに貢献するつもりで予算は多めに見積もってある。パイモンのおねだりに応えるくらいは問題ない。

 

「まいどあり! ラム酒はうちじゃ中々在庫が捌けなくてね、助かるよ」

「まぁ、ラムが飲みたいならキャッツテールに行くものね。 カクテルにも出来るし」

「客の住み分けができるのはいいことなんだが、バーテンダーの技術で客が流れてると思うと悔しくもあってなぁ……」

「ディオナ本人としては不本意らしいけどね」

「ソーセージセット、おかわり!」

「相変わらず、チビ助なのによく食うなぁ」

 

 日が落ちて少しずつ客足が増えてきた酒場の喧騒と吟遊詩人の指慣らしの琴の音を背景に、エウルアとチャールズのお酒講座を聞きながら商談を進めていく。

 デートの最初こそ緊張していたエウルアの表情も、お酒が入ったせいもあってか、今はすっかり和らいで自然な笑みを浮かべていて。

 

 

 だから少し、油断した。

 

 

「……早く帰らねぇかな、あいつら。 ローレンスがいると酒がマズくなる!」

 

 

 呟くようでいて、しかしタイミングのせいか妙に響いた声。一瞬で酒場の空気が冷え、しんと静まりかえる。

 

「っ……!!」

 

 不意うちの罵声に一瞬爆発しかかった怒気を、理性で無理やり押さえこむ。ここで殺気立つのはまずい。

 沸きたちかけた血を鎮めるように深く息を吐きながらゆっくりと酒場を見渡してみると、バツが悪そうに顔を逸らした客がひとり。見つけて少し冷静になった。……まぁ、たまにあるよね。こういう、思ったより声が響いちゃって、場の空気が変わっていたたまれなくなることって。

 

 隣のエウルアは何も言わない。ただ俯きがちに、諦めたようにじっと目を閉じている。

 拭い去れない血のしがらみ。時を選ばずついてまわる罪人の悪評と偏見の目。彼女にとって、これは日常なんだろう。今まで何度も何度も、同じ目に遭ってきたんだろう。

 

 目を閉じ、もう一度だけ深呼吸。

 

 以前もこんなことがあった。『ローレンス』だと突っかかってきた酔っ払いを相手に、口論になりかけたことが。

 でも、もうあの時とは違う。あれから俺だって、ガイアに酒場での戦い方を教わったりもしたんだ。

 

 怒りの気配を表に出すな。相手の酔いを醒まさせるな。頭を回せ。口を回せ。

 酒の値段で目を眩ませろ。詭弁でもなんでもいい。酒が入って判断力の鈍った相手から、望みの言葉を引きずり出せ。

 

 ──よし。

 

 

「チャールズさん。 今ある一番高いお酒ってなに?」

 

 

 静まり返った酒場の空気を断ち切るように、声をあげる。

 俺の突拍子もない発言に、驚きもあらわにエウルアが顔をはね上げ俺を見る。

 流し目でニヤリと笑ってみせる。できるだけ不敵に見えるように。

 カウンターテーブルの下で、彼女の冷えた手の甲をそっと撫でる。大丈夫、まかせて。

 

「チャールズさん?」

「……ヴィンテージの蒲公英酒がある。 二十二年モノだ。 俺も飲んだことはないが、この年の『風』は格別に甘くまろやかで、蒲公英酒独特の苦みを全く感じないほどらしい。 一本八十七万モラだ」

「あれ、意外とお手頃価格なんだね? 高いお酒は家が買えるくらいだって聞いてたけど」

「ウチみたいな回転のはやい酒場に置くんじゃあそんなもんだ。 宝盗団に入られても困るし、なにより最高級(これ)以上が欲しいなんて客はワイナリーに直接買い付けるしな」

「それもそうか。ならとりあえずそれ、あけてもらえる? それとグラスをいくつか」

 

 そうだ。これこそが、エウルアの『向かい風』。俺が、『罪人の伴侶』が立ち向かうべき問題。

 ならば、受けて立たなくては。エウルアの、恋人との初めてのデートの思い出に、苦みなんて残させはしない!

 

 チャールズが、カウンターの奥の棚から褐色のボトルを取り出す。黄ばんだラベルが、この酒が重ねてきた時間の長さを感じさせる。風格ある一本だ。さすが八十七万モラ。

 さざ波のようにどよめく空気の中、最高級の酒に万が一がないように、ゆっくりと丁寧にコルク栓が抜きとられた。

 

「ちょ、ちょっと……! なにを……」

「よっ、と。 まぁまぁ、見ておきなって。 ふふっ、きっと面白いものが見られるよ」

「わ、吟遊野郎! いたのかよ!」

「そりゃあいるよ。 ボクは吟遊詩人だからね、これからが仕事の時間さ」

 

 二階の吹き抜けからひょいと飛び降りてきた緑色の吟遊詩人が、戸惑うばかりのエウルアの気を逸らしてちらりと目くばせ。追い風のつもりかな?時間稼ぎどうも。

 

 エウルアの戸惑う声とウェンティの面白がる声を背に受けて、デキャンタに移された銘酒とグラスを手に、暴言を吐いた客へと歩み寄っていく。こつん、こつん、と大きめに足音をたてて客達の視線を集める。こういうのは演出が大事だとガイアが言っていた。

 

「な、なんだよ! 俺は事実を……」

「ここはひとつ、試してみようか」

 

 たじろぐ客の目の前にグラスを置いて、つとめて穏やかな声で言う。

 グラスにとくとくと注がれる酒。二十二年の時を経て今封を切られた銘酒が香りたち、その芳醇な香りに客の喉がごくりと鳴った。

 

「試してみよう。 本当にローレンスがいたら酒がマズくなるのか」

「は、はぁ?」

「エウルアがいることで本当に酒がマズくなるなら、これを飲んでもマズくなるはずでしょ? そうだよね、パイモン」

「え、あ、そ、そうだな! それがたとえ『タダで飲める』『超高いお酒』だとしても、マズいならマズいってはっきり言えるはずだ!」

 

 冒険で鍛えられたパイモンの対応(アドリブ)力は、あれで中々のものだ。意図を察した最高の相棒が、急な振りにうろたえながらも話を合わせて援護をくれる。

 そう、パイモンはよく知っているのだ。人に奢ってもらうタダ飯は格別の味がするのだと!

 

「かわりに、もし美味しかったらさっきの言葉は取り消して、宣言してもらおうか。 『アカツキワイナリーの酒は、エウルアがいても美味しいです』って」

「い、いやでもこりゃあモノが……」

「飲まないんならそれでもいいよ? そしたらその目の前のお酒は、あんたの言う『罪人』の喉を潤すことになるけど」

「っ! 飲む! 飲むよ!」

 

 エウルアを引き合いに出したら、途端に客が慌てだす。この一杯で、はたして何万モラか。せっかく手の届くところに出された極上の酒を罪人に取られてたまるか、という彼の焦りが手に取るようにわかった。

 

 震える手がグラスを取り、小さく回して香りをたて、堪能し、逡巡ののち、一口。ざわめいていた店内が一様に息を飲み、再び静けさを取り戻す。

 ややあって漏れたのは感嘆の吐息だった。

 

「っ、う、美味ぇ……! っく、畜生! この酒の味に嘘はつけねぇ! 美味ぇ!」

「ほらね? 『罪人の末裔』がいようと、美味いもんは美味いんだ!」

 

 おぉ、と酒場にどよめきが走る。それほどまでに美味なのか、と期待かあるいは羨望で満ちた空気感に、もはや罪人の入り込む余地はない。

 

「これでお酒の味にエウルアが関係しないって、証明されたね?」

「……っ!」

 

 悔しそうに、しかしあまりの美酒に頬は緩んだままに、客が顔をしかめる。手の中の空になったグラスに再び酒を注いで、高らかに宣言する。

 

「さあ誓ってもらおうか、この酒と風神バルバトスに! 『アカツキワイナリーの酒は、罪人と飲んでもとびきり美味い』、はい復唱!」

「あ、アカツキワイナリーの酒は、罪人と飲んでもとびきり美味い!」

「『もうお酒の味をダシにして、エウルアに暴言吐きません。 デートの邪魔してごめんなさい』、はい復唱!」

「ぐっ……も、もう酒の味をダシにして、エウルアに暴言吐きません! デートの邪魔してごめんなさい!」

「ん。 その言葉、覚えておくから。 ……飲んでいいよ」

 

 美酒の誘惑で、言質を引き出す。他の客を見渡せば、皆一様に視線を向けてくる。おねだりする時のパイモンの目そっくりの、これは期待の眼差しだ。

 応えるか、釣るか。二択で一瞬迷って、ここはあえて黙って席に戻る。エウルアのグラスにお酒を注ごうとデキャンタを傾けると、はたして期待通りに別の客から声がかかった。

 

「な、なぁ、旅人さんよ。 俺にも一杯……」

「え~? そうだなぁ……今後俺の恋人に、罪人だなんだとうるさいこと言わないって約束できるなら、あげてもいいかなぁ」

 

 エウルアのグラスにたっぷりとお酒を注ぎながら、振り向きもせずに客のおねだりを受ける。

 

「する! 約束するよ!」

「バルバトスに誓って?」

「っ……風神バルバトスに誓って!」

「ならよし。 チャールズさん、グラス貰える?」

 

 一人釣れてしまえば、あとはもう入れ食いだった。

 やはりモンドの酒飲みにとっては美酒の誘惑は抗いがたいらしい。次から次へと客が集まってきては、風神に誓いをたてて酒を受け取っていく。すぐそこにいる緑色の詩人が風神その人だと知ったら、きっとみんな面白い顔になるだろう。

 

「ねぇ、ボクには~?」

 

 ちゃっかり酒飲み共の列に加わっていたバルバトスご本人(ウェンティ)からもおねだりがきた。

 

「じゃあ、今日の誓いの履行を見届けてくれるなら」

「やりぃ! へへっ、そーゆーのは本来契約の神(じいさん)の領分なんだけどね。 まぁ任せてよ! ん~~、いい香り!」

 

 そうやってしばらく美酒を餌に言質を釣りあげ続け、あとから来た客も列に加わるせいでデキャンタが空になっても列が捌けず、仕方なくもう一本追加で注文して。

 

「や~っと終わった……」

 

 エウルアの隣に戻ってくる頃にはすっかり酒場はピークタイム。満席となっていた。

 ばら撒いた美酒のせいか店内はやや宴会ムードで、『罪人』を咎める空気はどこへやら。ウェンティも客から曲のリクエストを受けて楽しそうにしている。

 

「……なんで、こんなことしたのよ」

 

 時間が経ってさすがに落ち着いたのか、俯きがちのエウルアが 睨め上げるように俺を見て呟く。

 不安そうな、不思議そうな、酒場の喧騒に紛れるくらいに細い声。

 

「こんなの、私にとってはいつものこと。 気にすることなんてないのに……」

「いや無理。 気にするよ。 だってもう、エウルアは俺の恋人だもん」

 

 弱気と迷いに満ちた声を、だから俺は即答で切り捨てた。目尻に浮かんだ涙を、指の背で拭う。

 

 今まで俺は、エウルアが『罪人』扱いを受けて何かトラブルにあっても、極力エウルアの流儀に合わせるようにしてきた。一線を超えず、踏み込まないようにしてきた。

 多少なり言い返すことはあっても、「俺達はモンド人じゃないから問題の根本への理解が足りていないんだ」とか「エウルアがそれでいいのなら」とか、もっともらしい理由をつけて。

 

 でももう、それはできない。一線はあの夜に、自分の意思で踏み越えたんだ。

 

 俺はモナとエウルアの恋人だ。

 エウルアの幸せの責任の一端を担うと誓って、それをモナに許された人間だ。

 だから俺は、二人に胸を張れることをする。二人が誇れる男になる。そう努力する義務がある。

 

「大事な恋人に暴言を吐かれて、いつものことだからって笑って見逃してやれるほど、俺は心が広くないんだ 」

「……」

「それに、言ったでしょ? 『エウルアに何かするなら、栄誉騎士の恋人が黙ってない』、そういう構図を作るって。 ここで黙って受け入れる理由も選択肢も、俺にはないよ」

「ふふん! オイラにもないぞ!」

 

 エウルアを挟んだ向こう側で、腕組みしたパイモンも渾身のドヤ顔を決めている。

 たくさん食べたからだろうか。今日の相棒はなんだかキレッキレだ。

 

「はぁ……もう。 君達って本当に……」

 

 照れ隠しのように呟いて、エウルアがグラスに残った美酒を一気にあおる。

 呆れたような、『恨み』の籠った嬉しげな声に、パイモンとニヤッと笑い合って、エウルアの頭越しにハイタッチ。

 

「ほら、俯いてないで乾杯しよう? せっかくいい感じに穏便に済ませられたんだし」

「よく言うぜ。 オマエ一瞬、戦いのときの顔になってたからな? オイラびっくりして身構えちゃったぞ」

「そこは喧嘩にならなかっただけマシと思って欲しい。 せっかくだからチャールズさんも飲む?」

「いいのか?」

「お祝いみたいなものだし」

「なぁ、オイラもひとくち……」

「う~ん……ちょっとだけね? パイモンは酔うとすぐに寝ちゃうんだから」

「やったー!」

 

 みんなのグラスに、デキャンタから残りのお酒を注いでいく。

 

「……なによ、お祝いって」

「だってさ、千年続いた『ローレンス』の悪評が今日、お酒の味に負けたんだよ? みんなお酒欲しさに誓いたてちゃってさ」

「な~? まったく、現金なもんだぜ!」

 

 二十二年モノの美酒が、千年モノの怨恨に勝った。これはモンド酒造業の勝利と取るべきかローレンスの敗北と取るべきか。

 

 ……いや、多分どちらも違うのだろう。

 

 血の宿命に抗いながら、ひたむきに努力し続けてきた孤高の騎士。

 日々『恨み』だ『復讐』だと恐ろしげな言葉を口にして、しかしそれでも隠しきれないほどに善良で心優しい波花の騎士。

 そんなエウルアだから俺達は好きになれたし、俺達が大好きなエウルアに何かしてあげたくなってしまったから今がある。エウルアが今まで積み重ねてきたものが、風向きを変えたのだ。

 

 この場に勝者がいるとするならきっと、彼女をおいて他にいないだろう。

 

「それじゃあ、千年続いた悪評がアカツキワイナリーの二十二年モノに負けた──敗北の美酒に」

「「「「乾杯」」」」

 

 美酒の水面を揺らして、勝者(エウルア)のグラスにグラスを合わせる。

 賑わう酒場の片隅で、チン、と小さく、よっつのグラスが凱歌を奏でた。

 

 

       ◇ ◇ ◇

 

 

 グラスの中で微かに揺れる水面を見つめて思う。

 

 彼はいつもそうだ。

 パイモンをからかって笑っている顔。一緒に料理している時の横顔。鍛錬で模擬戦をしている時の真剣な表情。彼の膝枕から見上げた微笑み。安心しきった寝顔は可愛くて、寝起き直後はちょっと甘えんぼで。

 普段は見た目相応に幼げで、でもどこか落ち着いた表情ばかりなのに、たまに驚くほどに大人びて背中が大きく見える時がある。

 

 酒場の酔っ払い相手に語気を荒げて私を庇った、彼の言葉を覚えている。

 暗く冷たい洞窟の床、朦朧とする意識の中、助けに来た彼に抱きしめられた、その熱を覚えている。

 お酒の力を借りなければ気持ちの一つも言えなかった臆病な私の告白に、真剣に悩んで答えをくれた、決意の籠った彼の眼差しを覚えている。

 今日、躊躇うばかりの私の手を引いた、指を絡めて隣を歩いた、落ち込む私の手を撫でた、彼の手の温もりがまだ残っている。

 

 顔が熱い。心臓が熱い。お酒に酔うよりもずっと。

 体の芯からじくじくと、痛みにも似た疼きがやまない。

 

 沸き上がる熱に浮かされながら、ふと「惚れた弱み」という言葉を思い出す。

 恋愛を戦いにたとえるなら、好きになった方が負けなのだという。色恋に明るくない私でも、そのくらいは知っている。

 

 ならきっと、私は君に勝てないのだろう。

 

 胸の高鳴りがうるさくて、彼の顔がまともに見れない。

 過去一番に火照った頬はきっと、お酒のせいになんてできっこない。

 体が、心が、思い知っている。昨日までの私がいたのはきっと、まだ恋の入り口に過ぎなかったんだ。

 

「敗北の美酒に」

「「「「乾杯」」」」

 

 チン、と鳴るグラスに水面が揺れて、銘酒の香りがふわりと立ち上る。

 口に含めば果実の甘酸っぱさが広がり、こくりと飲み下せば酒精の熱が喉を通る。蒲公英酒の独特の苦みは風の中に埋もれ、鼻に抜けるのは春風のように暖かく爽やかな風味だけ。

 

 あぁ、恨み言すら、美酒の酔いに溶かされていく。

 今まで飲んだ中で一番のお酒は確かに、甘い甘い敗北の味がした。

 

 

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