塵歌壺の夜はとても静かだ。
璃月港やモンド城内のように人々の喧騒があるわけでもなければ、奔狼領のように狼の遠吠えが聞こえるわけでもない。そもそも塵歌壺には俺達以外の動物は住んでいないのだ。
月と星のかすかな明かりの下には虫や鳥の声すらなく、ただ風に葉が揺れる音だけがする。夜ふかしが苦手なパイモンは夢の中へ。モナは星空の下へ。俺は時々それに付き合ったりする。それが我が家の夜だった。
…いつもなら。
「…ちょっと。 レディが話をしてる時はお酒を置いて目を見なさい」
丸テーブルを挟んで、蒼銀の髪とは対照的な
「君も貴族の礼儀作法を学ぶべきね」
「でも俺貴族じゃないしなぁ…」
「『栄誉騎士』なんて、要は騎士爵みたいなものでしょう? 似たようなものじゃない」
そう言って、最近増えた塵歌壺の新たな同居人──エウルアは、酒精交じりの溜息をついた。
「おまけにこんな屋敷まで構えて。
「そうなの?」
「そうよ。 これで貴族じゃないって言うんだから、まったく…この恨み、覚えておくわ」
「いま恨まれる要素あったかなぁ…」
俺も飲まされてはいるが、ほとんど自分で酒瓶一本を空にしてすっかり出来上がった様子のエウルアが益体もない愚痴をこぼす。
ディオナが見たら溜息つくこと請け合いの、立派な『酔っ払いさん』の姿だ。
どうしてこうなった…。
エウルアが酒を持って部屋に押しかけて来てから…いや、もっと言うと五日前にエウルアを
幸いにも、エウルアはファデュイ先遣隊との交戦で深刻な怪我は負わされていなかったらしく、教会で治療を受けたのち丸一日の静養を経て彼女は復調とあいなった。
どうも打撲と感電で綺麗に意識だけ刈り取られたらしい。診断の結果、後遺症の心配もないだろうとの見解だった。
むしろエウルア奪取のために敵陣に強行突入した俺の方が負傷は深刻で、青ざめたバーバラの治癒魔法をして四日は安静にしているようにとの診断を受けてしまった。
岩元素で壁を作るまでの、ほんの数秒でこのざまだ。モナの虚実流動で強引に撤退することができなければいったいどうなっていたか…。多勢に無勢とはまさにこのこと。ファデュイ恐るべし。
マル曰く、正式な洞天通行証は完成まであと一週間程かかるという。
エウルアを洞天に匿う都合上、俺は洞天を離れることができない。外のことは仮発行の通行証を持つモナとパイモンに任せざるを得なかった。
そんなわけで、俺よりも先に回復したエウルアは、利き腕を動かせない俺のかわりに洞天内のあれこれを買って出てくれた。それはいい。実際助かったし。
問題は、やたらと距離が近いことだ。
唐突にはじまった同居生活の中、事あるごとに体が触れ吐息がかかる距離のエウルアに世話を焼かれる日々は、率直に言って刺激が強すぎる。
三ヶ月前なら素直に喜んでいたかもしれないが、今の俺にはモナがいる。「近すぎる」とたびたび苦言は呈しているのだが、効果はみられなかった。
しまいには酒持って部屋に押しかけてくる始末である。ちょっと何を考えているのかわからない。
それに輪をかけて、モナの態度が俺をさらに混乱させた。
あまりにもいつも通りすぎるのだ。
距離の近すぎるエウルアに対してやきもち的な反応があるかと思えば、「何か問題ですか?」と意外にもこれをスルー。
かと言って拗ねて冷たい態度なのかと思えば別にそんなわけでもなく、いつものようにキスはくれるしスキンシップも頻度以外はおおむね普段通り。さすがに客人を泊めている都合上、がっつり絡み合うというわけにはいかないが。
おまけにエウルアとはなんだか妙に仲がいい気がするし、たまにアイコンタクトで意思疎通してる節があるし、夜はモナの部屋で二人してなにやらやっているみたいだし、今日だってエウルアが酒持って部屋に突撃するのも止めなかったみたいだし…。こっちもこっちでよくわからない。
エウルアとモナ。
「なにかあるんだろうけどわからない」というこの奇妙な混乱の板挟みの中で俺にできることといったら、「まぁ別に悪いことではなさそうだし」とこの謎の流れに身を任せるくらいしかないのだった。
「…なによ。 人の顔見ながら急に黙り込んで。」
エウルアが酔いに浮かされた目を細めて糾弾の視線を向けてくる。
「目を見なさいとは言ったけど、そんなに熱心に見つめろとは言ってないわよ」
「あー…いや、エウルアってモナと妙に仲がいいよなぁと思って」
「…ふん。 レディを前にしておきながら恋人のことを考えてるなんて、いい度胸ね。 このことは覚えておくから」
じぃっと糾弾の視線を強くすること数秒、エウルアは「まあいいわ」と溜息をついた。
「 …モナには特大の恨みがあるのよ」
「恨み…特大?」
「ええ、それはもう過去最大級の恨みがね」
エウルアの「恨み」は、額面通りの意味にとどまらない。実際にはあまり気にしていない些細なことや、されて嬉しかったこと、恩なども彼女の「恨み」の範疇に入る。
だが、エウルアの艱難辛苦の過去をして最大級のそれとなると話が変わってくる。
「いったい何をやらかしたんだモナ…」
「言っておくけど、君も同罪だからね?」
「えっ?」
「とぼけても無駄よ。 全部覚えてるんだから」
「同罪」発言に戸惑う俺を尻目に、コップを傾けるエウルア。
「エンジェルズシェア十一回、キャッツテール三回、鹿狩り八回」
「…?」
「君と相席した回数よ。ああ、騎士団隊舎の食堂でも二回あったわね」
「回数まで覚えてるの?」
「当たり前よ。 恨みはきっちり覚えておかないと、復讐する時に困るじゃない」
当然とばかりに鼻を鳴らすエウルア。でも、それと恨みに何の関係が…?
「店で私を見るたびに相席して…特に酒場なんて、君、お酒飲まないじゃない」
「エンジェルズシェアのバジルフライドポテトはパイモンのお気に入りだから…」
「私がいるかバーテンダーに聞いてるくせに」
「……なんで知ってるの?」
確かにたびたび「エウルアいる?」って聞いてたら、バーテンダーに覚えられて何も言わなくても来てるかどうか教えてくれるようになったけど。
「一度ほかの客と喧嘩になりかけたこともあったわね。 二度目の相席だったかしら」
「…よく覚えてるね。 あったあった」
ローレンス家の血筋を引き合いにウザ絡みしてくる酔っ払い相手にイラっとして、つい言い返したらそのまま口論になりかけたこともあったっけ。
あの時はウェンティの仲裁に助けられたんだった。
「『たかが苗字ひとつに固執して、それで「自由」なつもりか』とか。 あの時君が言ったセリフだってちゃんと覚えてるんだから」
「…そんなこと言ったような気はする」
去年のことなのにそこまで細かく覚えているエウルアにちょっと呆れる。
「野外任務中に突然君たちが野営地に湧いて出てきた時もあったわね」
「湧いて出てきたって…小隊とバーベキューした時のやつ?」
「そうよ。 あれ以来隊員達から『次のバーベキュー任務はいつですか』なんてせっつかれて困ってるんだから!」
「その節はパイモンがご迷惑を…」
「野営といえば、朝起きたらテントの前に君の置手紙とお酒が…」
「まだあるの…」
酔いで頬を赤くしながらつらつらと挙げ連ねられる「恨み」の数々。
だいぶ酔ってるなーなんて苦笑しながら相槌を打っていると、しばらくしてふとエウルアの語勢が落ちた。
「…エウルア?」
「…君が相席するようになってから、空いてる時は入口が見える席に座るようになった。 一人で飲んでる日も、君が来ないか気になって目の前のお酒にあんまり集中できなくなった」
「……」
「城内で揉めるたび、酒場で怒ってくれた君の言葉を思い出すようになった。 野外任務中でもそこらの木陰から君たちが出てこないかって探すようになった。 君からの冒険の誘いを、心待ちするようになった。 …なのに…」
コップの水面を見つめるように俯いたエウルアから表情はうかがえない。
「なのに、最近酒場にあまり来なくなって、隊舎からも引っ越して会う機会も減って…噂に聞けばモナと恋人関係になったって…」
「あー…」
ここにきてようやく、「過去最大級の恨み」の正体に思い至る。
「
一瞬、躊躇うように言葉を詰まらせたエウルアは、手元の酒をぐいっとあおると──
「私だって、君が欲しい!」
カン!と空のコップで天板を叩いて、据わった目でそう言い放った。
頬を染めた彼女の黄金色の瞳に射抜かれて、思わず気圧される。
「だいたい、君が悪いのよ! 嫌われ者の罪人相手に目を合わせてくれる人すら貴重だっていうのに、君ときたら会うたびいつもいつも嬉しそうにして! そんなの、好きになっちゃうに決まってるじゃない!」
「……」
「私には恋愛なんて無理だって諦めてたのに! 君がそんなだから…恋人だとか伴侶だとか、過ぎた願いを持っちゃうんじゃない!」
「す、過ぎた願いって…」
あんまりな言い草に思わず口を挟んでしまう。が。
「罪人に良縁なんてあると思う? わざわざ罪人を伴侶に望む住民なんて、モンドにいるわけがないでしょう」
「…騎士団員とかは? 遊撃小隊の隊員とか、今はもう罪人扱いしてこないんでしょ?」
「はぁ…全っ然わかってないわね! いい? 罪人を身内に抱えるってことは、自分も罪人と同列の扱いをされるってことよ。 今までの人間関係を壊して、店も物を売ってくれなくなって、それで今まで通り生活できると思う?」
「…あぁ…」
エウルア自身の実体験に基づく悲観はしかし、考えすぎと一笑に付せない説得力があった。
エウルアと深い仲になることで背負う、モンド社会そのものから弾き出されかねないという多大なるリスク。安全圏から一息に蔑視される側へと回り日常生活そのものが滞る可能性を、モンド人は無視できない。今現在がどうあれ、かつて彼女を一度でも罪人として見た過去の自分こそが何よりの証明だからだ。
アンバー並みの前向きさやジン団長並みの人望がないと、恋愛以前にそもそも交友関係の成立すら困難なのだ。確かに相手を探すのは至難かもしれない。
「だから諦めてたのに…」
「のに?」
「君は外来者でありながらモンドでの立場もある。 罪人の悪評なんて気にしないでいられるだけの強さがある。 君は旅人だから、罪人が生活に与える影響だって最小限で済む。 滅多にいない『私が好きになっても大丈夫な人』の君が、それで距離まで近いなんて…そんなの! 好きになっちゃうわよ!!」
酔いの勢いに任せて、責めるような口調で心中を吐露するエウルアに、なんで俺怒られてるんだろう…と微妙な心持ちになる。
別に言われるほど距離が近かった覚えもないが…元々交友関係が壊滅的なエウルアのことだ。世間一般でいう普通の距離感程度ですら、俺が思う以上に貴重だったのかもしれない。
というかそもそも最近距離が近かったのはエウルアのほうで…と、そこで本来の話の趣旨を思い出し、そしてふと疑問が生じる。
「…あれ? それでなんでモナと仲良くなってるんだ…?」
恋敵というならもっとこう、仲が悪くなるような気がするんだが。
「…その前に、君からまだ答えを聞いてないわ」
俺の疑問には答えずに、顔を赤くしたままただじっとこちらを見つめるエウルア。
「答え?」
「そうよ。 私は君が好きって、ちゃんと言ったわ。 君はどう?」
「……」
答えに詰まる。残酷な問いだ。お互いにとって。
「……エウルアも知ってるでしょ。 俺にはもう、モナって恋人がいるんだ」
エウルアの好意は嬉しい。
生まれとともに課せられた理不尽とさえ言える境遇に、逃げもせず正面から立ち向かうことを選んだ孤高の騎士。冷酷なように見えて、けれど本当は誰より
俺だってエウルアは嫌いじゃない。嫌いになれるはずもない。もっと報われて欲しい。幸せになって欲しい。
でも、俺にはもう心に決めた人がいる。俺を『運命』とまで呼んで、世界すら越えても愛してくれると言ったモナが。
だから──
「だから…」
「理由はそれだけ?」
「えっ」
「『お断り』の理由はそれだけか、って聞いてるの」
好意を無下にする気まずさに俯いた俺の顎をエウルアの指がテーブル越しにすくい上げ、手ずから目を合わされる。いつもの
じっと探るような視線。今まさに袖にされようとしているというのに、その表情に憂いはない。
「…まぁ、そうだけど…」
「なら問題ないわね。 モナから許可は貰ってるもの」
「えっ」
ふふん、と鼻を鳴らして、エウルアの声がにわかに喜色を帯びる。
許可…?
「……許可ぁ!?」
「ええ。 君が許すなら私も恋人になっていいって」
「聞いてないんだけど!?」
告白に次ぐ爆弾発言の衝撃で頭がくらくらする。
「なんでモナと仲がいいか、教えてあげる。 協定を結んだのよ。 『できる限り仲良くしましょう』とか『人のアプローチの邪魔や割り込みはしない』とか『フラれても文句言わない』とか、そういう約束事と引き換えにね」
「ええぇ!?」
いったいなんのつもりなんだうちの師匠は…!
「…ちょっとモナ起こしてくる」
「私が
「うそぉ…」
ホントなんのつもりなんだうちの師匠は!!!
「色々と助言も貰ったわ。 『君はお酒が弱い』とか『スキンシップに弱い』とか」
「やたら距離が近かったのはモナの入れ知恵か…!」
「『最後の一押しが欲しくなったら誕生日プレゼントを開けさせるように』とも言ってたわね」
「た、誕生日ぃ…?」
去年の誕生日にモナから貰ったプレゼントは、占い師らしく『助言』の入った小さな袋だった。
誕生日プレゼントなのに貰ったその場では開けさせて貰えず、「この先一年でいずれ開ける時が来る」とか言ってたけど…。
「今がその時なのか…?」
混乱冷めやらぬ頭で、言われるままにバッグから袋を取り出す。
手のひらサイズの巾着袋の封を解くと、中から出てきたのは小さな木箱。そして箱の中身は…
「紙…と、小瓶?」
二つ折りに畳まれた紙と、赤い液体の入った親指サイズの小瓶がひとつ。
なんだか見覚えのある小瓶に軽い戦慄を覚えながらも、おそるおそる紙を開く。
『これも運命です。
私のことはいいので目の前のことにちゃんと向き合いましょう。
あなたのモナより』
「うわぁ…」
見慣れた筆跡で記されたあまりにも簡潔すぎる『助言』に思わず頭を抱える。
「なんて書いてあったの?」
「…『ちゃんと向き合いましょう』って」
「そうね。 人がせっかく告白したんだから、ちゃんと向き合ってくれないと恨むわよ?」
いつの間にやら椅子から立って傍にきていたエウルアが頭上で愉快そうに言う。さては最初からこの流れ知ってたな!?
ここ数日の違和感の正体に、今になって理解が及んで愕然とする。
「それで、『お断り』の理由がなくなった訳だけれど」
「…なくなったね…」
「答え、聞かせてもらえる?」
「……っ」
退路を潰され、あらためて対峙を余儀なくされる。
俺とてエウルアのことは好きだ。恋愛どうこうではなく人として。
苦境にあっても誠実さを失わない姿は素直に尊敬できるし、日々口にする「恨み」や「復讐」といった恐ろしげな言葉の裏に彼女なりの優しさがあることも知っている。
だが、いきなり二人目の恋人にと言われても…正直困る。心が追いつかない。
なにより、いくら許可があるといっても、そんな気軽に恋人を増やすのもモナに不義理な気がする。モナの真意も測りかねるし。
「……エウルアは、それでいいの?」
困惑と逡巡の末に俺の口から漏れ出たのは、そんな及び腰な言葉で。
「普通の恋人みたいに、俺はエウルアだけのものってわけには……」
「それでもいいから今
そしてエウルアはそれをばっさりと切って捨てた。
「別に法的に問題があるわけでもないし、そもそも第二夫人だの妾だのなんて、貴族的には普通よ。 少なくとも、私はそう教えられた」
「だから俺は貴族じゃ…」
「似たようなものじゃない」
ついさっき聞いたような問答がリフレインする。まるで最初からここに着地するのを図っていたかのように。…いや、実際そうなのだろう。エウルアはモナの手引きのもと、準備万端整えたうえで今ここに臨んでいるのだから。
おそらくモナは、全部わかった上でこの状況を作った。俺が一度断ることも、そして俺がどんな答えを出すのかすらも見通して。
…それでもせめて事前に一言くらい欲しかったけど。
「ずっと…ずっと欲しかった。
「エウルア…」
「それとも…やっぱり君も、罪人は嫌? 」
「っ…!」
絞り出すように吐き出された彼女らしくもない弱音が胸をうつ。
手の中の助言がくしゃりと鳴った。
…思い返せば、「らしくない」ことばかりだった。普段はアンバーにすら恨み言で照れ隠しするようなエウルアが、物理的に距離を近づけてきたり、酒の勢いまで使ってこうして素直に心中を口にしたり。
並々ならぬ決意だっただろう。エウルアはそうまでして想いを伝えてくれているのに…俺ときたらなんだ。幸せになって欲しいとか、報われて欲しいとか、消極的なことばかり考えて。
俺に求められているのは、そうじゃないだろう。エウルアの気持ちに、そして自分自身の気持ちに向き合うってことは、決してそんな後ろ向きな考えで誤魔化すことじゃないはずだ。
目を閉じて、深呼吸する。混乱で過熱していた頭が、すうっと冷えていく感覚がする。
幸せになって欲しい、じゃない。
幸せにするんだ。俺が。
罪人の末裔に生まれた身の不幸なんて塗りつぶせるくらいに。
いつかエウルアが俺を好きになってよかったと、幸せな人生だったと、そう胸を張れるように。
いつか現れるかもしれない、エウルアを真っ当に幸せにできる誰かに、だなんて。そんな曖昧で無責任な人任せにはもうしない。
覚悟が、決まる。
「エウルア」
顔を上げて、彼女を見やる。
いつもの冷たく凛々しく、そして優しい騎士の姿はそこにはない。いるのは勇気を振り絞って立っている、ただの普通の女の子。
この勇気には、報いなければ。
「俺も──」
微かに震える彼女の手を取って、俺は決意と覚悟を口にした。