「えりな様!」
新戸緋沙子は、壁にめり込んで動かなくなってしまった主人に駆け寄る。
これでは、あのルシリスとかいう女神を名乗る女の時の二の舞だ。
「えりな様! えりな様!」
近くに寄って名前を呼んでも、えりなは一向に目を覚まさない。だが彼女の首元に手をやり、脈を測ると、それが止まっていないことに気づき、緋沙子は主が死んではいないことに安堵する。
「あっ、新戸緋沙子さん! そっ、その、私語は禁止だと聞いていないんですか?!」
いつの間にか、小柄で青髪の少女――ローリエが緋沙子達の前に立ち、たどたどしい文句を口にする。
「まぁ、その、お友達が心配なのも分かりますし、今日は初日ですから、特別に許します。けれど、次からは懲罰の対象にしますからね!」
懸命に強がっているが、ローリエの足は震えている。
「貴様!」
「えっ?」
緋沙子は不意をついてローリエに掴みかかり、彼女の右腕を掴んで、背後に周り関節を極める。
「あっ、なっ、何を!」
「うるさい! よくも、よくもえりな様に危害を加えたな!」
敬愛する主人を傷つけられて、緋沙子は完全に頭に血が上っていた。だから、判断がつかない。彼我の戦力の差を、その程度の不意打ちで埋められるはずがないことが分からない。
「はっ、離しなさい!」
ローリエは力任せに右腕を振ろうとする。
愚かだ。そんな事をしても、痛みが増すだけなのに。
けれど、緋沙子のそんな思惑は、一瞬にして裏切られる。
「がっ……」
気がつくと、緋沙子は背中を痛打し、えりなと同じ様に吐血していた。
ただ、えりなと違うのは、彼女が激突したのは天井だったということ。そして、なまじ関節を極めていた事から、ローリエの力も半減し、壁にめり込みきってはいなかったため、緋沙子は天井から落下し、地面に体の前面も痛打することになった。
「かっ、看守に手を挙げるとは何ですか! あっ、新戸緋沙子さん! 貴女もえりなさんと同罪です。私が……」
ローリエが何かを言っているが、緋沙子の耳にはもうその言葉は入っていない。
床に落下した衝撃で、彼女はすでに気を失ってしまったのだから。
△
うめき声が聞こえる。
それは苦悶の声。懸命に声を押し殺そうとしているが、それでも堪えられずに漏れ、薙切えりなの耳に入ってきた。
えりなは重いまぶたを開ける。すると、自分はどこか暗い部屋に、たった一つ、燭台の蝋燭の明かりでかろうじて辺りが灯されている場所で、全裸で拘束されていることに気づく。
動こうとしても、えりなの躰は僅かにねじることができるだけ。
両手と両足を手首と足首に付けられた枷のようなものから鎖が伸びているようで、えりなは大の字に躰を開く格好になってしまっている。こんな辱めは受けたことがない。
だが、今はそれよりもこの声だ。この声は、まさか……。
「緋沙子!」
全裸で床にうずくまり、七転八倒しながらも口を両手で抑えて声を押し殺しているのが、自分の大切な従者であり友人でもある緋沙子だと言うことに気づく。
「緋沙子! 緋沙子!」
身動きができないえりなは、ただ緋沙子の名前を呼ぶことしか出来ない。
「静かになさい。それ以上騒ぐと、彼女の努力が無駄になりますよ」
淡い紫色のロングヘヤーの女が、燭台を置いたテーブルの椅子に座っていた。
「初めまして、薙切えりなさん。私の名はカモミールと言います。担当であった看守のローリエが負傷したので、一時的に彼女の代わりに貴女達の担当を任されているものです」
カモミールと名乗った女は、静かに立ち上がって簡単な説明をすると、燭台を手に、苦しみ続ける緋沙子を踏まないように部屋の端を歩き、えりなの眼前までやってきた。
「貴女、緋沙子に何をしたの? 答えなさい!」
えりなは物怖じせずに命令する。
「初めから説明をするつもりです。だから黙りなさい。私は私語を許可していないはずです。どうしても、新戸緋沙子さんの苦労を水の泡にしたいというのならば話は別ですが……」
カモミールの言葉に、えりなは仕方なく口を噤む。
「……良いでしょう。それでは、説明します。貴女達二人は……」
カモミールの説明はこうだった。
えりなと緋沙子は気絶しているうちに、あの小柄な青髪の少女ローリエに逆らった罪で、この地下の拷問部屋に運ばれた。
どのような方法化は分からないが、怪我は彼女の仲間が癒やしたのだと言う。
そして、えりなよりも先に緋沙子が目を覚まし、カモミールがその事を説明し、今から拷問を加えると宣言したのだが、緋沙子がえりなを庇ったのだという。
直接ローリエに襲いかかろうとしたのは自分だけだ。えりな様は状況がわからずに混乱していたのだと主張し、えりなの分の拷問も自分が代わりに受けると主張した。
「罪に対する罰は、その個人が負うものだと何度も説明したのですが、最後には土下座までして貴女のことを庇おうとしたのです。そこで、私は一つの賭けを彼女に提案しました」
カモミールは無表情にそう言う。
「今回の拷問は、私の生成した致死量ギリギリの毒に一時間苦しみ続けるというものでした。ですので、二人分の二時間、大声を上げずに堪えられるのであれば、貴女の主人の罰は半分の時間にすると。
そして、すでに一時間五十分近くが経過しています」
(そんな……。緋沙子……)
えりなは、明かりでわずかに見える、床で悶え苦しむ緋沙子の姿に涙を浮かべる。
「薙切えりなさん。私も貴女に関する資料を読ませて貰って、正直、この牢獄に来るよりも、もっと重い罰を受けるべきだと考えていました。
けれど、貴女を庇った新戸緋沙子さんの思いは本物です。彼女に慕われるほどの美点が貴女にあるとは思えませんが、約束は守ります。貴女は自分の行いを反省するのとともに、新戸緋沙子さんの思いに感謝していなさい」
カモミールはそこまで言うと、また部屋の端を通って席に戻った。
緋沙子の横を通る際に、何故か彼女が申し訳無さそうな顔をしたように、えりなには見えた。
(……ごめんなさい……緋沙子……)
えりなは声を発さずに、心のなかで緋沙子に謝罪をする。
「看守に逆らうというのは、こういうことです。少しは反省しなさい」
カモミールの声は少し震えているような気がした。
それからは、長い十分間だった。
えりなはこれほど長い十分を体感したことがない。
けれど、時間は確実に流れていた。
緋沙子は結局最後まで大声をあげずに、カモミールが「時間です」と言うまで声をあげなかった。
「……新戸緋沙子さん。貴女の勝ちです」
カモミールは立ち上がり、床で苦しむ緋沙子に掌を向ける。
何をしているのか、えりなには訳が分からなかったが、緋沙子の苦しそうなうめき声が聞こえなくなった。
「……えっ、……えり…な……さ…ま……を……」
緋沙子は最後に小さな声でえりなの名前を呼び、這いつくばりながらも、カモミールを睨みつける。
「約束は守ります。安心して、そのまま少し眠りなさい」
カモミールの言葉に促されるように、緋沙子は気を失った。
「それでは、薙切えりな。貴女の番ですよ」
「……」
えりなは何も言わずに、カモミールを見据える。
「これから、貴女の躰に毒を流します。死にはしませんが、激痛を伴います。ですが、これは貴女の罪に対する……」
丁寧な説明の途中で、えりなは右腕を動かし、鎖の音を響かせる。
「……その行動は、早くしろという意味に受け取れば良いのですか?」
こちらの行動の意図を理解したカモミールに、えりなは頷く。
「良いでしょう。時間は三十分です」
カモミールの掌が、えりなに向けられると、すぐに全身に何かが流れ、内部から躰を切り刻まれるかのような激痛が襲ってくる。
しかし、えりなは涙を流しながらもその痛みに耐える。
自分のために躰を張ってくれた緋沙子の苦しみを少しでも理解するために、決して声はあげないと心に誓う。
そして、大粒の涙を零し続けながらも、えりなも声をあげずに三十分間を耐えきった。
(ごめんね、緋沙子。こんな辛いことを、私の四倍も……)
カモミールの「時間です」という言葉を聞き、心のうちで謝罪しながら、えりなは意識を失った。