冷たく固い床の上で転がり続けて、新戸緋沙子は体中を痛めつけた。
さらに体内に毒を流され、内部もボロボロだ。けれど、今、自分の体は温かな温もりに包まれている。
心地良いその温もりを感じたまま、もう少し目を閉じていたい欲求に流されそうになるが、緋沙子は鋼の意志で目を開く。
自分のことなどどうでもいい。えりな様だ。えりな様はご無事なのだろうか?
「緋沙子! 気がついたのね!」
「……えっ、えりな様……」
緋沙子の瞳に、敬愛する、自分の命よりも大事な主人の顔が映し出される。
どうやら自分は、えりな様に抱きしめられていたようだ。
お互い衣服を身につけていないため、互いの肌の温もりと柔らかさが直に伝わってくる。
同性とはいえ、これは恥ずかしい。そして、それ以上に恐れ多い。
「すっ、すみません、えりな様。ご心配をおかけしました」
緋沙子は謝罪してえりなから離れようとしたが、自分を抱きしめる彼女の腕に一層の力がこもる。
「良かった、本当に。でも、こんな無茶はもうしないで、緋沙子……」
「えりな様……」
緋沙子はえりなの言葉に、自分が彼女を悲しませてしまったことを理解する。
心が痛い。えりな様を悲しませたことへの罪悪感に襲われる。
けれど、自分はえりな様のために存在しているのだ。たとえまた悲しませることになろうと、主人を守るためならば、この躰が八つ裂きにされようが構わない。
「目が覚めたようですね。それでは、私語はここまでです。黙って私についてきなさい。貴女達には、説明をしなければいけない事がありますから」
それまで椅子に座って黙っていたカモミールと名乗った淡い紫色の長髪の女性が、緋沙子とえりなに告げる。
えりなが無言で頷いたのを確認し、緋沙子も頷き返す。
そして彼女達は立ち上がり、カモミールの言葉に従った。
死にたくなるほどの内部からの激痛に襲われていたはずの躰は、もうすっかり回復している。
まったく、訳がわからないことばかりだ。
けれど、明らかなのは、このカモミールを始め、ローリエと名乗った少女も人間離れしており、遠月の力をまるで恐れていないということだ。
(どうにか、外部と連絡を取る手段を見つけないと……)
直接的な腕力勝負では敵わない。それであれば、助けを求めるしかない。
緋沙子は階段を登りながら、これからのことを懸命に考え続ける。
「……私の毒は辛かったはずです。少しは懲りなさい」
こちらを振り返ることなく、カモミールは独り言のように言葉を口にした。
一瞬戸惑ったが、緋沙子はそれが忠告だということに少し遅れて気づく。
えりな様の拷問時間を減らすためにお願いしたことも、先程の口ぶりでは、えりな自身も知っていたようだったので、カモミールがその事を話し、約束も守ってくれたのだろう。
緋沙子は前を歩くカモミールに軽く頭を下げる。
自分達を誘拐した人間の仲間だが、それくらいのことはしてもいいだろう。
そして、地下室から出た緋沙子とえりなは、カモミールに連れられて、シャワー室に案内された。
安全確認のために、緋沙子は自分が最初にシャワーを利用した。
水しか出ない嫌がらせのようなシャワーだったが、躰の汚れを取るためだと我慢して緋沙子は無言で使用する。ただ、心配なのは、えりな様の肌が荒れてしまうことだ。
えりなも緋沙子に続き、冷たい水に顔をしかめながらもシャワーを使い、安物のタオルで水滴を拭く。
「食堂に行きます。ついてきなさい」
緋沙子達が体を拭いて一息ついたタイミングで、カモミールが声をかけてきた。
そして、再び彼女の後ろについて歩く。
ここまで見たところ、通話機の類は一切見えない。
まぁ、収容している者たちの手の届くところにそんなものを置くはずはないと緋沙子も思ってはいる。
カモミールがスマートフォンのようなものを持っているかは分からないが、彼女と今トラブルを起こすのは避けたい。
少なくとも、現在地が分からないうちは無理をしないほうが良いだろう。
電話か何かで遠月に連絡を取れれば、逆探知をしてこの場所を割り出してくれるかもしれないが、えりな様の命がかかっているのだ。無茶はできない。
「着きました。ここが食堂です」
カモミールはそう言って一瞬立ち止まったが、すぐに横開きのドアをノックする。
「はっ、はい! どっ、どうぞ!」
聞いた覚えのある声が、部屋の中から聞こえてくる。
これは、あのローリエとか言う少女の声だ。
「行きますよ」
カモミールの言葉に従い、緋沙子とえりなは再びローリエと顔を合わせることとなるのだった。
△
椅子に座り、テーブル越しにローリエの長い話が続く。
しかも、薙切えりなにとって、それはとても腹立たしいことこの上ない内容だった。
カモミールと名乗った女性はもうこの食堂にはいない。
彼女は、ローリエに自分達を連れてきたことを告げて、広い食堂の後方に移動しようとしたのだが、ローリエが「後は私一人で大丈夫です」と声を震わせながら言い、カモミールを退出させたのだ。
だから今は、この場にいるのは、自分と緋沙子とこのローリエだけだ。
一見しただけでは、こんな小柄な少女一人くらいなら二人がかりならなんとでもなりそうだが、それが間違いだということは、先程痛いほど理解させられた。
「いいですか? ですから、薙切えりなさん。新戸緋沙子さん。貴女達二人は、『矯正調教プログラム』を最低でも半年間は受けなければ、この施設から開放はされません。ですが、ただ漫然と半年が過ぎればいいというわけではないのです!
きちんと身の程というものを知り、わきまえ、自らを高めない限り、ここからは出られないのですよ」
ローリエは懸命に威厳を出そうとして話しているが、無理をしているのは見え見えだ。
それからも、馬鹿げた内容が続く。
いくつもの内容を言われたが、端的に纏めるのであれば、ローリエが言うのは、『女は男に媚びへつらい、それを立てるために生きていくべきだ』という前時代的な男尊女卑の思想だった。
これを男が言っているのであれば、近代の男女平等を理解していない野蛮で愚かな男だということで納得できる。だが、目の前の人間は間違いなく女、少女だ。それなのに、どうしてこんな乱暴な思想を是としているのかが理解できない。
隣を横目で見ると、緋沙子も膝の上に置いた手をきつく握りしめて震わせている。彼女も間違いなく憤りを感じている。
「いっ、言いたいことがあるのなら、後で発言させてあげますから、今は私の話をきちんと聞きなさい! 特に、薙切えりなさん。貴女はただでさえ評価が最悪なのです。このままだと、大変なことになりますよ!」
ローリエは怒った顔をするが、まったく迫力がない。
今は少しでも情報が必要だ。そう自分に言い聞かせ、えりなはこの屈辱に耐える。
「……というわけです。いいですか、自分達は人間未満の雌豚だと理解し、女神ルシリス様を敬って、真人間に一日でも早くなれるように頑張って下さい。私達も協力しますので」
後半になると、ローリエも話し方が流暢になったので、話は聞きやすかった。けれど、それと内容がいいかどうかは別問題だ。
「さて、約束通り発言を許可しようと思いますが、もうお昼はとっくに過ぎていますので、先に昼食にしましょう」
ローリエはそう言うと、静かに席から立ち上がり、食堂の端に置かれたポットから木のコップに何かを入れてそれを二つ持って戻ってくると、えりなと緋沙子の前にそれを置いた。
そして、服のポケットから紙に包まれた錠剤を四つ取り出し、その紙を破いて、二つずつえりなと緋沙子の前に置く。
一つは丸い形をした、薄い茶色の粒。もう一つは、四角い形をした薄緑の粒。外見上は、錠剤のようだ。
「これが、これから貴女達雌豚に提供される食事です。少なく思えるでしょうが、栄養素はしっかり取れますし、吸収率は百パーセントですので、おトイレにもいかなくて良くなります。さぁ、まずは食べて下さい。『いただきます』を忘れては駄目ですよ」
ローリエは真面目な顔でえりな達に怪しげな錠剤を飲ませようとする。
えりなは怒りに震える腕を何とか動かして、薄い茶色の粒を口に運ぶ。
そして、それを舌で、『神の舌』と呼ばれる絶対の器官で味を見て、えりなは堪えきれずに声を上げる。
ただ一言、「不味い!」と。