課外作業中、ローリエが仏頂面で渡してきたいつもの二錠の薬のようなものと水を口に運んだ。
しかし、ローリエは何も言わなかったので、薙切えりなも何も言わず、木のコップをローリエに返し、自分は豚舎の外の日陰で休んでいた。
だが、別段えりなはそのことをなんとも思っていない。
否はローリエにあると、えりなは心から思っているのだから。
やがて日が少し傾いて来た頃、ローリエ達が豚舎から出てきた。
みんな作業で汚れ、悪臭を放っている。
何故こんなところに、この私を連れてきて、こんな下賤な作業を行わせようとするのかと、えりなは理解に苦しむ。
「……帰りますよ」
もうこの豚舎の持ち主であるヨシュアとの挨拶は済ませたようで、ローリエは低い声でえりなに声をかけてきた。
「あら、そうですか」
気にした様子は微塵もなく、えりなは応え、ローリエの近くによる。
ここに来る時に、そうしないと一緒につれていけないと言われたので仕方なくそうするが、より一層悪臭が鼻について不快だった。
それから収容施設に戻ったえりな達は、ローリエに頼まれたのか、フェンネルが監視を行う中で冷水のシャワーを浴びた。
「薙切えりなさん。貴女は食堂に来なさい」
皆のシャワーが終わった頃に、身を清めて服を着替えたらしきローリエがシャワー室に現れ、えりなにそう告げる。
えりなは何も言わず、踵を返してあるき始めたローリエの後を追い、食堂に向かった。
まだ夕食には早い時間なので、食堂には誰も居なかった。
いまこの場にいるのは、ローリエとえりなだけ。
「そこに座りなさい」
ローリエの命令に、えりなは無言で椅子に腰を下ろす。それを確認して、テーブル越しの対面に、ローリエも座った。
「薙切えりなさん。どうしてここに呼ばれたのか分かりますか? 発言を許可しますので、答えなさい」
ローリエの言葉に、えりなは小さく嘆息する。
「さぁ、分かりませんね。ですが推察するのであれば、私に対して八つ当たりでもするためでしょうか?」
「……八つ当たり? どういうことです?」
ローリエの声は低い。一触即発の様相を呈している。
「あら、的外れでしたら失礼。ですが、あの不衛生な施設での私とのやり取りに対して、貴女が的はずれな怒りを覚えているようにしか思えないものですから」
えりなは皮肉たっぷりの声で言い、口元に笑みを浮かべる。
「貴女達の更生のために、善意で機会を与えて下さったヨシュアさんを愚弄したことを、貴女はなんとも思っていないと?」
「更生? 誰がそのようなことを頼んだと言うのです? 貴女達が勝手にやっていることでしょう。私がそんな事を理由に、下手に出る必要が何処にあるというのです?」
「……そうですか。反省もできないのですね、貴女は」
「何を偉そうに言っているのですか、ローリエさん。貴女達は私と緋沙子を誘拐し、訳のわからない労務を課しているのです。これは明らかな人権侵害です。にもかかわらず、貴女達の行いを肯定的に捕らえろと貴女は言っているのです。どれほど支離滅裂なことを口にしているのか分かっていますか?」
えりなは、自分の発言が間違っているとは思わない。
「それに、この私と遠月を先に愚弄したのは貴女です。ですから私も、思うがままのことを口に出させて頂いただけです。ですが、私は真実しか口にしていません。あのヨシュアさんという方の飼育方法では、真の美食につながる食材を生み出すことは出来ません。絶対に」
「真の美食?」
「ええ。そうです。本来、この神の舌を持つ私の食卓には、最高の高級品だけが並ぶのです。それは、調理する人間も最高であるのはもちろん、食材も最高でなくてはいけません。それを満たせない二流以下の仕事を、私は絶対に認めません」
えりなは断言する。
たとえこれからローリエが激昂して襲いかかってこようと、また死にそうな目にあったとしても、この信念だけは揺るがないのだと。
「……はぁ、そうですか。では、聞きますが、貴女はヨシュアさん以上に上手に豚を飼うことができるんですか? この国で継続的に商いをし、顧客の信用を得て、生活を営んでいくことができるんですか? この国の地理を理解していますか?」
矢継ぎ早に、ローリエは尋ねてくる。
「豚の飼育方法は知っています。後は設備さえきちんと整えられれば、あの方以上に養豚を行うことも可能でしょう。それと、私はこの国に来て日が浅いですが、すぐにその程度のことは覚えてみせます」
「つまりは、現時点ではやはり勝てないということですよね」
ローリエは嘆息し、話を続ける。
「何処まで貴女は頭が悪いんですか? 食事は人間が生きていく上で欠かせないもので大事なものなのは否定しませんが、人の価値はそれだけではないでしょう? 貴女の人間の良し悪しを図る根拠は、食に偏りすぎです。だから、人よりも優れた味覚を感じることができるという程度のことで、自分が優れた人間であると錯覚するんです」
そこまで言うと、ローリエは持っていた資料をパラパラとめくる。
「もちろん、貴女が困った性格になったのは、周りの影響も大きいのは知っていますよ。貴女のお父様の教育の影響もあることは知っていますし、あの遠月と呼ばれる学校の仕組みも良くないのでしょう。だから、たった一回の失敗を貴女は恐れてしまうんでしょうね」
「黙って聞いていれば、好き勝手なことを! 私が何を恐れているというのですか⁉」
えりなは立ち上がり、ローリエを睨みつける。
最も触れられたくない部分に触れられて、えりなは感情を抑えきれなかった。
「ええと、幸平創真さんという方の編入試験の際に、貴女は試験官を務めていますよね。そして、その際に貴女は、底辺料理人と馬鹿にしていたその方の料理が美味しかったことを認めてしまうと自分が間違っていたことを認めることになるので、自分の舌を裏切ったと言うことですが……」
「なっ! あれは、あの男の態度があまりにも……。いえ、その、料理が不味かったから……」
否定の言葉を口にするが、えりなの言葉には勢いがない。
「薙切えりなさん。貴女は矮小な人間ですね。自分の失敗を認める勇気もない。そして、通っておられる方には申し訳有りませんが、私はこの遠月茶寮料理學園というもののあり方がいびつにしか思えません。
一度の失敗で若者の未来を断ち、捨てていく。それは教育者の怠慢です。
そんないびつな教育も、貴女というどうしようもない愚か者を生み出す一端だったのでしょうね」
「部外者である貴女に、何が分かるの!」
「その言葉をそのままお返ししましょう。部外者であるはずの貴女に、どうしてヨシュアさんの事が分かるんですか? あの人がどれだけ頑張っているのかを、貴女は知りもしない。それなのに、貴女はあの人を愚弄した。それは、決して許されることでは有りません」
「こっ、この!」
えりなは怒りに身を任せてローリエに平手打ちを加えようとしたが、次の瞬間、ローリエの右手が彼女の顔の前に置かれていた。
そして少し遅れて突風が起こり、えりなは吹き飛ばされそうになる。
えりなは何とか踏ん張れたが、彼女の後方の窓ガラスの窓が割れて、ガラス片が飛び散った。
「何の騒ぎですか?」
「ローリエ、無事かい?」
緑髪の少女、フェンネルと小柄な老婆であるジンジャーが慌てて食堂に駆け込んできた。
「ああっ、フェンネル先輩。お婆ちゃん。その、すみません。手をあげようとしてきたので、つい……」
ローリエは立ち上がってフェンネルに頭を下げる。
だが、すぐに頭をあげて、えりなの方にきつい視線を向けてくる。
「薙切えりなさん。私は構いませんよ。暴力に訴えたいのならどうぞ。私も同じ様に対処しますから」
ローリエは静かに警告してくる。
「くっ……」
えりなは悔しそうに躰を震わせ、両手を下におろす。
「……なるほど。そういうことですか。しかし、本当に困った人ですね、薙切えりなさんは……」
フェンネルはそう言うと、しかし不意に何かを思いついたようで、ポンと手を叩く。
「そうですね。暴力に訴えてくるのならば暴力で対処する。これは物事の優劣を理解させる上ではすごく効果的な方法です。ですから、このあたりでしっかりと薙切えりなさんには、身の程というものを知って頂きましょう!」
フェンネルは嬉しそうにそう言うと、えりなとローリエの顔を交互に見て、にっこり微笑んだ。
「薙切えりなさん。ここで一つ私、フェンネル看守から提案があります」
「提案?」
「ええ。貴女の通っていた遠月という学校で行われていた勝負を、『食戟』を、ローリエさんとしてみませんか?」
思いもかけない提案に、えりなは驚く。
――敵対する者、此れ全て、料理を持ってねじ伏せるべし。
その理念に則って行われる、遠月伝統の料理勝負一騎打ち。それが『食戟』。
正式な勝負である事を証明する認定員。奇数名の判定者。そして対戦者両名の勝負条件の合意があって初めて成立するそれは、神聖な勝負であり、その結果は絶対だ。
「たしか、『食戟』には<対価>を差し出す事が必要でしたよね。今回は大サービスで、その対価の範囲は、薙切えりなさん。貴女に決めさせてあげましょう。ただし、当然ですが、対価ですので、無茶な要求をすればするほど、負けた時のリスクも高くなりますよ」
「食戟……。そのうえ対価の範囲を自由に決められる……」
えりなは思いもしなかった幸運に、口元に笑みを浮かべる。
だが、そこで。
「待ちなさい、薙切えりなさん」
えりなを止める声とともに、淡い紫髪の女性――カモミールが更に食堂に入ってきた。
「これは、カモミールさん」
「フェンネル。いくらなんでも越権行為でしょう、それは。マジョラム看守長の許可もなしに、そのような馬鹿げた勝負など認められません」
「ああ、大丈夫です。看守長から許可はとってますよ。後処理は私に任せると言って頂いておりますので」
「……そうか。それほどのことをしたのか、彼女は……」
フェンネルの言葉に、カモミールは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「いや、そうだとしても! 薙切えりなさん。忠告します。この勝負は受けてはいけません。もしも、この勝負に負けたら……」
カモミールは心配そうな表情をこちらに向けてくるが、えりなにはその意味が分からない。
「カモミールさん。ご心配頂きありがとうございます。ですが、どうして、私が負けることが前提なのでしょうか? 私には、これは何よりものチャンスに思えますが?」
えりなは傲慢と思えるほど、自身に満ちた笑みを浮かべる。
「フェンネル先輩の提案でも、私はそんな勝負は受けられません。罪が勝負によってなくなるなど、おかしいです」
けれど、ローリエは乗り気ではないらしく、『食戟』を受けようとはしない。
此れではまずい。そう考えたえりなは、ローリエを挑発する。
「あら、逃げるのですか、ローリエさん。さんざん今まで御高説を口にされていたのに」
「……何とでも言って下さい」
ローリエは断ったが、彼女が一瞬不快な表情を浮かべたことに、えりなは気づいていた。
「そうですか。では、何とでも言いましょう。私のことを矮小と誹って置きながら、逃げ出す意気地なしのローリエさん」
こんなやり方はえりなの望む優雅さとはかけ離れている。
けれど、自分と緋沙子が日本に戻れるチャンスはもうこれ以外ないだろう。
「止めなさい、薙切えりなさん」
カモミールが止めるが、えりなはもうその言葉を聞くきはなく、挑発を続ける。
ローリエはしばらく無視を続けていたが、次第に顔を怒りで紅潮させ始め、ついには、
「いいでしょう! 『食戟』だかなんだか知りませんが、私が受けてあげますよ! 貴女のような高慢ちきな愚か者には、身の程というものを教えてあげますから!」
と真っ赤な顔で『食戟』を受けることを了承したのだった。