夜、独房の中で、新戸緋沙子は今日も自身の不甲斐なさを悔やみ続ける。
明日からいよいよ『食戟』が始まる。
けれど、そんな重要な時に、えりな様に仕える自分は、何の手伝いもできなかった。
あの完璧を具現化したようなえりな様に、自分の手助けなど必要ないとは思う。それでも、せめてお側にいて、何か言葉をかけて差し上げたい。
それは、単純に「美味しい」という言葉一つでも構わない。たった一言でもあの方の背中を押して差し上げたい。あの方を、孤独にしないで上げたいのだ。
「……えりな様……」
弱い心が溢れ出し、緋沙子は敬愛する主君の名を口にする。
何故だろう? こんなに不安な気持ちが胸をよぎるのは。
あまりにも『食戟』の代償が大きすぎるから、自分は怖気づいているのだろうか?
えりな様が負ける訳がないと思いながらも、不安が拭えない。
躰が震える。寒いからではなく、心配なのだ、恐ろしいのだ。
何故か今回の食戟に限っては、自分が側に居ないということがマイナスに働いてしまう気がしてならない。
緋沙子は自分の力量はわきまえているつもりだ。
自分の技術など、えりな様の足元にも及ばない事を認識している。
けれど、予感がするのだ。
このままでは大変なことになると。……いや、もっとはっきりしている。このままでは、えりな様が敗北する予感が頭から離れないのだ。
相手であるローリエの力が未知数なこと。そして、一週間、朝昼晩の食事をすべて作るという変則的な食戟。高級食材に慣れ親しんだえりな様には、不利な食材選び。
(そもそも、本当に判定者は公正なのか? 調理器具の程度が異なるくらいで、えりな様が問題にするとは思えないが、そういった事が積み重なれば……)
考えれば考えるほど、不安が増していく。そんな事を考えても意味はないのに。詮無きことなのに。
「……駄目だな。他のことを考えよう……」
このままでは、また眠れなくなってしまう。昨日もそれで殆ど眠っていないのだ。これ以上は流石に支障が出てきてしまう。
緋沙子は万が一の事を考えることにした。
そう、万が一のはずだ。
普通ならありえない事。『食戟』にえりな様が破れた場合の対応策を考えることにする。
不敬この上ないことだが、それを考え始めた緋沙子は、自分が少しだけ先程よりも心が軽くなっていることに気づく。
(万が一のためだ。念のため……。後で考えれば杞憂に過ぎなかったと笑うための事……)
緋沙子は自分に暗示を掛けて、頭を切り替える。
課外労働での休憩時間に、他の囚人の少女達から、この牢獄を出る方法を聞くことが出来た。
一つ目は、『矯正調教プログラム』とやらを終わらせることだが、終身刑になってしまっては、これは叶わない。
二つ目は、極稀に訪れる男性の訪問者が、引き取りたいと申し出てくれた場合らしいが、海に小石を一つ投げて、運良く水面に顔を出していた魚の顔に当たる確率よりも低いらしいので、これも現実的ではない。
三つ目は、看守に逆らい続けて『処理場』に運ばれることらしいが、これは極刑の隠喩だと緋沙子は解しているので、これは当然却下だ。
となると、四つ目。最後の手段。神殿と呼ばれるところで働く、高位の『神官』によって『従者』として引き抜いてもらうこと。これしかない。
ただ、もしも、えりなが終身刑になってしまった場合、見ず知らずの誰かが彼女を従者に引き立ててくれるとは考えにくい。
楽観的に考えるのならば、今回の『食戟』でえりなの料理技術を学びたいと思う人物が出て来てくれればいいのだが、そもそも前提としてこれは、えりなが敗北した場合なので、それはありえないだろう。
であれば、方法は一つ。
自分が、この新戸緋沙子が、神官になるしかない。
そのためには、当然、自身がこの牢獄から開放されなければならない。
しかしそれであれば、一つ目の『矯正調教プログラム』とやらに自分が耐えればいいだけの話だ。
そのプログラム過程が終了すれば、自動的に神殿の従者にはなれるらしい。
あとは、そこでも頑張り、神官を目指せばいい。
おそらく、これが唯一の方法だろう。
主人であるえりなを、自分の従者になどというのは、想像するだけでも恐れ多いが、何事も最悪の事態を想像しておくのは悪いことではないと、緋沙子は自身に言い聞かす。
「えりな様……。どうか、何事もなく『食戟』に勝利をし、こんな不敬なことを考えてしまった私を叱って下さい」
緋沙子は小さく声に出して、えりなの必勝を神に祈る。
この世界には、緋沙子の願いを叶える神など存在しないというのに。
△
翌朝、緋沙子は不安な気持ちを押し殺し、課外活動に励んだ。
万が一のために、看守に悪感情を持たれるのは避けたかったので、懸命に働いたのだ。
もっとも、仕事をしている間は、不安な気持ちにならずにすむという事もあるからだが。
やがて、日が暮れて仕事も終わり、シャワーの後に夕食を終えて、部屋に戻ってくると、いよいよ緋沙子は不安で胸がはちきれそうになってしまう。
今日の結果はどうだったのだろうか?
一週間で総合的に判断する『食戟』だから、まだ判定は決まらないにしても、えりな様の料理は判定者にどのような評価をされたのだろうか?
しかし、それを知るすべはない。
そう、緋沙子は悶々とした気持ちを抱えていた。だが、不意に足音が聞こえた。
靴を履いている足音なのと、えりなのそれでないことは明らかだったので、緋沙子は対して気に留めていなかったのだが、通路の奥にある自分の独房の前まで、その足音の主は歩いてきた。
「まだ起きていますよねぇ、新戸緋沙子さん。発言を認めますので、答えて下さい」
この声は聞き覚えがある。あの、フェンネルという女の声だ。
「……ええ、起きています」
緋沙子は憎らしい気持ちを押し殺し、従順に返事をする。
「うんうん。薙切えりなさんと異なり、少しは態度を改めてくれたようで何よりですよ」
扉越しにフェンネルは言うと、
「今回の薙切えりなさんとローリエさんの『食戟』。その今日現在の点数を報告してもいいですが、聞きますか?」
フェンネルの口から、思わぬ言葉が漏れる。
「はっ、はい! ぜひ、教えて下さい!」
深く考えるよりも先に、緋沙子はそう口に出していた。
「それでは、言いますね。今日の『食戟』は、三人の判定者がそれぞれ十点を持ち、三十点満点で行われました。結果は……」
フェンネルはそこで一区切りすると、パチパチと手を叩き始めた。
「おめでとうございます。初日は三十点 と 二十一点 で薙切えりなさんの勝利でしたよ」
その言葉に、緋沙子は思わず立ち上がり、両手を宙で強く握りしめて、喜びのあまりそれを躰に引き寄せた。
「毎日、結果は報告しますからご安心を。それでは、良い夢を」
フェンネルはそう言って、緋沙子の独房から遠ざかっていく。
「よかった。よかった……。流石、えりな様……」
自分の心配などやはり杞憂だったのだ。
緋沙子は涙を流して喜んだ。
まだ、一日目が終わっただけだと言うのに。