新戸緋沙子は、己の不甲斐なさに激怒し、硬い石の床を何度も叩く。
握った拳の骨ではなく小指側の側面を叩きつけているとはいえ、繰り返すたびにその部分は変色し、痛みが走る。
料理人にとっての生命線でもある利き手を痛めつけるなど愚行以外の何物でもない。だが、緋沙子は溢れ出る怒りの感情をそうやって発散せずにはいられなかった。
『ごめんなさい、緋沙子……』
つい先程のことだ。『食戟』での敗北が決定した、おそらく、カモミールに頼んでその一言を言うのだけは許してもらったのだろう、薙切えりなが、この独房の扉の前にやってきて、短くそう言い残して去っていったのは。
(結局、私は何もできなかった! えりな様の危機をただ指を咥えてみていることしかできなかった! ……ふざけるな、この役たたず! こんなときこそ、命を捨ててでもえりな様のお役に立ってみせるのが、お前の忠義だろうが!)
緋沙子は許せなかった。何もできなかった自分自身が。それこそ、殺してやりたいとさえ思えるほどに。
「……あの、新戸緋沙子さん。他の方の迷惑なんで、やめてくれませんかねぇ」
聞き慣れた女の声が耳に入り、緋沙子は懸命に理性を総動員させて、手を止める。
「もう結果は分かっていますよね? 今回の『食戟』は、薙切えりなさんの敗北です。よって、早速明日から、彼女はこの施設を出ることになります」
「えっ?」
「発言は許可してませんよ。まぁ、気持ちは分かりますから、発言を許可しますよ。まったく、私もカモミールさんの甘いところが伝染りましたかね」
フェンネルが発言を許可したので、緋沙子はすぐさま行動に出た。
「お願い致します! どうか、どうか、えりな様の代わりに私を終身刑にして下さい。いえ、私が身代わりになれるのでしたら、処刑して頂いて結構です。ですから、なにとぞ、えりな様だけは……」
緋沙子は石の床の上で土下座をし、鋼鉄の扉の前にいるフェンネルに懇願する。
「……あのですねぇ。ですから、そんな横紙破りを認められるはずがないですよね? 先日私がしたお話を、もう忘れてしまったんですか?」
フェンネルは呆れた声で言う。
「そのお話は覚えております。そして、それが正しいことも分かっております。ですが、えりな様は特別な存在です。あの方が失われてしまうのは、私達の国だけでなく、世界の、それこそ人類の損出なのです。
私程度のちっぽけな命で、えりな様を助けてほしいということが、どれほど割に合わないかは重々承知しております。ですが、私にはこの生命しか残っておりません。ですから、どうか……」
緋沙子は懇願する。主を救うために。
「なるほど。確かに貴方達の居た世界において、薙切えりなの料理技術と『神の舌』が失われるのは大問題でしょうね」
フェンネルはその部分は同意したが、「ですが、あいにくとそれは解決積みなんですよ」と訳のわからないことを口にする。
「以前、ローリエさんが口を滑らせそうになったことがありましたが、決着がついた今ならもう説明してもいいでしょう。いま、ここにいる貴女達は、新戸緋沙子という人間の魂、そして薙切えりなという人間の魂を、女神ルシリス様が元の肉体から抜き出し、新たな躰を与えた存在なのです」
緋沙子はフェンネルの話を聴きながらも、土下座の体制を崩さない。
「そして、偉大なるルシリス様は、薙切えりなさんがいなくなることで、その世界に不利益が出ることを当然理解されておりました。ですから、薙切えりなさんと新戸緋沙子さんの魂を抜く際に、『貴女達の人格を複写した魂』を作り出し、そちらを代わりに躰に入れたのです。
まぁ、魂を交換したわけですね。ただ、貴女達のような汚れた魂よりは良くなるようにと、改善を加えて、まともな魂になさったらしいですがね」
フェンネルの言葉をそこまで聴いて、緋沙子は土下座したまま躰を震わせる。
「ですから、何の問題もないですよ。『神の舌』を持つ、薙切えりなさんは元の世界でも健在ですし、彼女の秘書である新戸緋沙子さんも、向こうで元気に仕事をしていますよ。自分達が、以前からそうであったかのように、何も疑問に思わずに」
「……それでは、嘘だったのか? えりな様が勝てば、えりな様を開放するという話は……。嘘だったのか!」
緋沙子は立ち上がり、扉を力いっぱい手で叩く。
「もう! 嘘なんか言っていませんよ。私は貴女とは違いますからね。万が一、『食戟』でローリエさんが敗れることになった場合は、貴女達を開放し、元の肉体に戻るか、新しい肉体を望むかを聞こうと思っていたんですよ」
心外だと言わんばかりの口調で、フェンネルは否定し、話を続ける。
「魂を融合させることくらい、ルシリス様にとっては簡単なことですよ。ですが、今の貴女達の汚れきった魂を融合させたくはなかったので、負けてくれてよかったです」
フェンネルの言葉に、再び緋沙子は右手を扉に叩きつける。
「汚れた魂だと? 私を悪く言うのはまだ許せるが、お前なんかに、あの方の、えりな様の何が分かる! あの方が背負ってきた苦しみの何が分かると……」
「黙りなさい!」
緋沙子の言葉は、フェンネルの低くて重い声に遮られた。
緋沙子は、自分の全身が震えていることに気づく。だが、それは先程までの怒りによるものではない。
呼吸が上手くできない。扉一枚隔てたところにいるその存在に、緋沙子の躰と心は恐怖してしまったのだ。
「どこまでも自分達に都合のいい話ばかりをしますね、貴女は。では、訊きますが、貴方は、薙切えりなさんのせいで、不出来だと、落第だと、まずいと言われ、罵倒された方達が、どのような人生を歩んでこられたのかを知っているんですか? そんな事を少しでも考慮していたのですか?」
フェンネルはそこまで言うと、小さく息を吐く。すると、緋沙子の躰はようやくまともに動けるようになった。
「さぁ、答えなさい。貴女達は、相手の立場を考慮したことがあるのですか? それによって判断を優しくしたことがあるとでも?」
「……いいえ、ありません」
えりなの『神の舌』は絶対だ。そしてその判断は、出された皿の上の料理に対して行われるもので、それ以外の事は考慮に入れたことはない。
「主に仕える者の忠義とは、主が間違ったことを行った場合は、命をかけてそれを正すこと。ですから、それができない貴女の薙切えりなさんへの気持ちは、忠義などではなくただの『依存』です。
予定通り、薙切えりなさんは当施設から移送し、今後は会えなくなります。ですが、新戸緋沙子さん。貴女にとってもこれは良いことだと私は思います。自分自身を一人の人間として見つめ直し、明日からは心を入れ替えて、魂の穢を雪ぐことに注力なさい!」
フェンネルの言葉に、緋沙子は「はい」と頷くことしかできなかった。
そして、次の日から、緋沙子の、そしてえりなの、長い苦悩の時間が始まるのだった。