薙切えりなは慣れない作業に四苦八苦をしながらも、ボロ屋に予め置かれていた小さなスコップを使い、猫の額ほどの畑を耕す。
どういう環境が望ましいのかという知識はあっても、実践したことはないので、分からないことの連続だったが、それでも楽しかった。適度に頭を悩ませるということがこれほど幸せなことだとは思わなかった。
「ええと、後は……」
やり残しがないかを確認し、えりなは小さな鉢に植えられた苗木を畑の土に植え替える。
それは貴重な苗木だった。
ターメリックという名の少女が、えりなのために用意してくれたもので、たった一つしかない。失敗してしまっては後がない。
「どうか、頑張って花を咲かせて。私も、できる限りのことをするから」
ターメリックの話を懸命に思い出し、えりなはその苗木の成長を見守ることにした。
他にやることがなかったえりなにとって、苗木の世話をするというのは非常に充実した時間だった。
風が強いときや雨が強く降るときなどは、気がかりで仕方がなく、えりなは眠れないことも多かった。
けれど、そんなものは苦労だとも思わなかった。少しずつ、でも確実に成長していく命を観察するのは、それほど楽しくて、幸せで仕方がなかったのだ。
成長をつぶさに観察し続ける毎日。
水をやったり、虫を取ってやったり……。
「まったく、手間がかかるわね、あなたは……」
えりなの口からは、何度もんな文句がこぼれたが、彼女は常に笑顔だった。
そして、冬の終わりに植えたその命は、初夏の頃に花をつけた。綺麗なピンクの小さな花をいくつも咲かせたのだ。
えりなはその花を見て、涙をこぼした。
こみ上げてくる気持ちを抑えられなくて、その花の前で跪き、声を上げて泣いた。
どうして、これほど涙がこぼれてくるのだろうと、えりなは不思議に思う。
けれど、ただ花が咲いただけだとは割り切れない気持ちが、えりなの心を揺さぶるのだ。
――苦労をしたから、こんなに涙が出るのだろうか?
確かに苦労はした。慣れないことの連続だったから。でも、それだけではない。
苦労が報われて嬉しいという気持ちだけでは、こんなに涙は出てこないはずだから……。
――それなら、どうして?
えりなは涙を流しながら懸命に考える。そして、ようやく一つの結論に行き着いた。
「……私は、愛おしいんだわ。この生命が……。ありがとう、花を咲かせてくれて。ありがとう、無事に育ってくれて……」
えりなは物言わぬ花に感謝をし、涙が枯れるまで泣き続けたのだった。
△
……花が咲き誇っていた。
えりなは長い時間を掛けて、ボロ屋の周りで自分が動ける範囲ギリギリまで様々な花を植えた。
そして、雪が降るたびに巾着に入れていた石が、二十五個を超えた頃には、えりなの住むボロ屋の周りは、美しい花で溢れていた。
毎週やってくる牢獄の看守も、もう何人代わったのか覚えていない。
けれど、初めの頃とは異なり、このボロ屋にやってくる看守達は、みんなえりなの育てる花を見て、笑みを浮かべる。
「あの、薙切えりなさん。この娘に花を一輪、分けてくださいませんか?」
新人が来ると、必ず先輩がその娘をこの場所に連れてくるようになっていた。
「あら、可愛らしいわね。そうね、貴女に似合いそうな花は……」
えりなの姿は、このボロ屋に来た頃から何一つ変わっていない。けれど、えりなの纏う空気が、別物になっていた。
「いろいろと大変でしょうけれど、頑張ってね」
えりなは笑顔で花を一輪選ぶと、それを新人の少女に手渡す。すると、その少女は「ありがとうございます」と花よりも美しい笑顔を浮かべて、お礼の言葉を返してくれた。
「ふふっ。懐かしいですね。私も、初めてここにやってきた時に、お花を頂きました。あれから、もう三年が経つんですね」
「あら、もうそんなに経つのかしら。早いわね」
えりなは、気安く話しかけてくれる看守と軽く話をし、今週の食事を受け取る。
「あっ、あの、カモミールさん」
「んっ? どうしたんだ、フェンネル?」
どうやら、この娘が新しいフェンネルのようだ。
懐かしい名前を聞き、えりなは月日の流れを感じる。
「どうして、薙切えりなさんは、ここに一人で暮らされているんですか?」
何気ないフェンネルの言葉に、三年前にその名を受け継いだカモミールが彼女をたしなめ、申し訳無さそうな顔をえりなに向けてくる。
「ふふっ。私は罪人なの。だから、ずっとここにいるのよ」
えりなはにこやかに微笑みながら、フェンネルに説明する。
フェンネルはとても驚いた顔をして、慌てて謝罪をするが、えりなは「気にしないで」と言って微笑む。
もう、自分の事を覚えている看守はいないのだ。
引き継ぎは行われているのだろうが、ここは、花をたくさん育てている女が住んでいる家という認識の方が強いのだろう。
二人が何度も謝罪をして去っていくのを見送った後、えりなは家に戻り、昔を思い出す。
「はぁ。本当に、愚かだったわね、あの頃の私は。……って、今も大して変わっていないわね」
えりなは悲しく微笑み、その名を口にする。
「緋沙子……」
えりなは久しぶりにその名前を口にした。かけがえのない親友の名前を。
いや、親友などと呼ぶのはおこがましい。愚かな自分のせいで一緒にこの世界に連れてこられ、巻き添えの形でひどい目にあっているであろう緋沙子は、きっと今頃私を……。
僅かな可能性だが、緋沙子だけでも開放されているといいとえりなは思う。
こんな自分に愛想を尽かして、憎んで、一人で元の世界に戻ってくれるのが望ましいと。
「ごめんなさい。ごめんなさい、緋沙子。私だけが、こんな幸せになって……」
花を植えてから、えりなを取り巻く環境は変わった。
でも、緋沙子はずっと苦しい思いをしているのではないか?
そんな罪悪感から、えりなは緋沙子のことを極力思い出さないようにしてしまっていた。
……最低だ。
「どうして、私はあんな勝負を受けてしまったの? 負けるわけがないと何故思い上がっていたの?」
もうおぼろげな過去の記憶。けれど、あの頃に戻れるのであればと何度思ったかわからない。
「あんな『食戟』なんて受けなければ……。私は緋沙子と一緒に入られたのに……」
えりなは後悔し続ける。
そして、きっと、永久に自分は後悔し続けるのだろう。
えりながこれからも続く地獄を想像して、絶望したときだった。
『反省したかい? 薙切えりな。自分がしたことの愚かさを、理解したかい?』
その声は、しわがれた老婆の声。でも、どこかで自分はこの声を聞いたことがあると、えりなは思う。
「はい。はい! 反省しました。自分がどれだけ愚かだったのかを、理解しました!」
えりなは声の主に、偽らざる気持ちを伝える。
『それなら、戻っておいで』
しわがれたその声に温かさを感じたその時、えりなの躰は、見えない力で天に向かって引っ張られるような感触を味わった。
……そして、えりなは瞳を開ける。
するとそこには、懐かしい顔ぶれが揃っていたのだった。