「……子! ……沙子……、緋沙子……。こっちを見て、緋沙子!」
声が聞こえる。
女の声? いや、そもそも男の人の声などもう何年も聞いたことがないが……。
でも、すごく懐かしい気がする。
ああっ、本当に何処かで聞いたことがある声で、すごく惹きつけられる。
そして、目から一滴、涙がこぼれ落ちてきた。
もう、何の感情も無くなったはずなのに……。どうして、こんなに……。
両肩に温もりを感じる。
誰かが私を掴んで、躰を揺らして呼びかけている。
ああっ、こんな温かさを感じたのはいつ以来だろうか?
「緋沙子! 緋沙子!」
綺麗な声だ。
でも、こんな風に切羽詰まった声でなければ、もっと綺麗だろうに。
「薙切えりな。少しどいときな。保存しておいた記憶を戻してやれば大丈夫だよ」
しわがれた老婆の声が聞こえた。
けれど、私はその事に不快感を覚える。
私が今聴きたいのは、そんな声じゃない。先程までの綺麗な声だ。
ヒサコとかいう言葉を口にする、綺麗な……。
「それじゃあ、いくよ」
不意に、パンッ! と手を叩く音が聞こえた。
そして、それと同時に、膨大な情報が流れ込んでくる。
けれど、不快な感じはまるでしない。外からの情報と、私の中で眠っていた情報が互いに融合していき、私は自分が何者なのかを思い出す。
自分が、新戸緋沙子という人間であり、薙切えりな様の秘書であるという一番大切なことを思い出したのだ。
「あっ、ああっ……」
それまで薄暗いモヤが掛かっていた視界が、鮮明になる。明るくなる。光が差し込んでくる。
そして、そして、そのまばゆい光の中に居るのは、私の視界を埋め尽くすのは、天使と見まごうばかりに美しい少女の姿。
どうか、夢なら覚めないで欲しいと願いながら、私はその美しい少女の顔を、優しく、壊れ物を扱うように両手で触れた。
「……えりな……様……」
温かな温もりが両手に伝わってくる。
夢ではない。私の目の前に、今、本当にえりな様が居る。
「緋沙子……。緋沙子!」
一糸まとわぬえりな様は、距離をいっそう詰めて、私を抱きしめた。
ずだ袋を身に着けている私をそんなふうに抱きしめたら、チクチクと不快なはずなのに……。
けれど、その温もりと、息遣いと、甘い香りを感じた瞬間、私はそんな事を気遣う余裕はなくなってしまった。
「……えりな様! えりな様!」
私はえりな様をきつく抱きしめる。もう、絶対にこの手は離さない。私の前からいなくなったりさせないように。
「あっ、あああっ、うあああああああああああっ!」
歓喜、懐かしさ、悲しみ、切なさ、怒り、寂しさ……。いくつもの感情が織り交ぜになり、私は慟哭した。
「緋沙子。緋沙子……。ごめんなさい。ごめんなさい。私のせいで、つらい思いをさせて。ごめんなさい。ごめんなさい……」
えりな様に謝罪をさせるなど、恐れ多いにもほどがある。
でも、そうは思いながらも、私の口から漏れるのは慟哭のみだった。
私は喉が枯れるまで叫び続けた。
けれど、えりな様はずっと私を抱きしめ続けてくれた。
そして、私はようやく理解できた。
あの未来永劫に続くのではと思っていた孤独な時間が、ようやく終わったのだと。
△
泣き叫んでいた緋沙子が落ち着くのを見計らって、看守のカモミールさんが、私の記憶では一番古いその名を冠する少女が、緋沙子に眠りの魔法をかけてくれた。
もう、眠らせても大丈夫だと判断したのだろう。
あのまま錯乱状態で眠らせてしまうよりは、溜まりに溜まった気持ちを吐き出させてから眠らせた方が良さそうなのは、私でも分かる。
「カモミール看守。ありがとうございます」
私はそうお礼を言い、緋沙子の躰を持って立ち上がろうとしたが、力が足りずにバランスを崩してしまう。
「もう、無理はしないでください」
だが、そんな声とともに、私ごと、小さな躰で支えてくれる人物が居た。
そんな彼女は、私の最も古い記憶のローリエさんだった。
「新戸緋沙子さんは、私が椅子に座らせておきますから、貴女はフェンネルさんの問に答えてください」
ローリエさんは少し怒ったような口調で言うと、緋沙子を軽々とお姫様抱っこで運び、近くの椅子に座らせてくれた。
きっと、緋沙子に同情してしまいそうになるので、敢えて怒った顔を作っているのだろうと私は察する。
「すみません、フェンネル看守。私は少々ぼんやりしていたみたいです。誠に申し訳有りませんが、もう一度、同じ質問をして頂けませんか?」
私は床の上に正座し、緑髪のフェンネルさんに頼み込む。
「もう。きちんと話を聴いていないと駄目ですよ。……まぁ、仕方有りません。重要なことだから、特別にもう一度だけ言ってあげますよ」
フェンネルさんはそう言うと、何処か芝居がかった声で、懐かしい言葉を私にかけてくる。
『どうします? 薙切えりなさん。自分がすべてを失うのは怖いですか? 尻尾を巻いて逃げますか?』
その言葉を耳にした瞬間、私は不思議な感覚を覚えた。
つい先程聴いた言葉であるはずなのに、ひどく懐かしい言葉でもあるように思えたのだ。
だが、私はそんな感情を振り払い、静かに頭を下げて土下座をする。
「はい。私は、全てを失うのが怖いです。どうか、この『食戟』の話は、なかったことにして下さい」
それは、心からの言葉だった。
よく分からないが、きっとジンジャーさんの魔法の力で、私は未来の出来事を体験させられたのだと思う。
そして、それは看守であるフェンネルさんやローリエさん、カモミールさんに都合のいい、作られた未来だったのかもしれない。
けれど、その最悪の未来を知ってしまった私には、軽々に自らの、そして何よりも緋沙子の運命を賭けの代償にすることなどできなかった。
「おやおや。先程までの勢いは何処に行ったんですかね? 随分しおらしくなったじゃあないですか」
フェンネルさんは挑発するように言うが、私の考えは変わらない。
「私が身の程知らずでした。私一人ではなく、緋沙子の人生まで賭けるなど、絶対にできません」
「……それでは、明日から『矯正調教プログラム』に則ったカリキュラムになりますよ? それでいいんですか? もうこんなチャンスはないですよ? ……少しはましになった、貴女のその心がけがあれば、勝てるかもしれないんですよ?」
フェンネルの『勝てるかもしれない』という言葉は、優しい響きであったことに私は気づく。
「いいえ。そんな可能性に、緋沙子の運命を掛けることはできません。どうか、今より心を入れ替えますので、どうか御慈悲を……」
「……そうですか。それでは、明日より通常のカリキュラムに戻します。ですが、それだけでは許しません。騒動を起こした罰を貴女に与えます」
「はい」
私は頭を下げたまま、フェンネルさんの言葉を待った。
「薙切えりなさん。貴女は、明日もヨシュアさんの豚舎の豚舎に行き、仕事を手伝いなさい。そして、彼女が許してくれるまで謝罪をしなさい。それを、罰とします」
その言葉に、私はこの『食戟』騒動のきっかけを思い出した。
「はい。誠心誠意お手伝いをし、心から謝罪をさせて頂きます。お心遣い、ありがとうございます」
「よく分からないことを言いますね。私は罰を与えたと言うのに、どうして感謝の言葉なんて口にするんですかね?」
とぼけたようにフェンネルさんは言うが、その声色は優しかった。
「フェンネル看守。それだけでは罰が軽すぎるでしょう」
「え~っ。これ以上何をさせるんですか、カモミールさん?」
私は頭を下げたままなので、二人の看守がどんな顔をしているのか分からない。けれど、何処か楽しげに聞こえた。
「新戸緋沙子さんが、パニック症状のようなものを起こしています。ですが、私達看守が、一晩付きっ切りで診ているのもいらぬ仕事が増えるだけ。その処理を、彼女にやらせた方がいいかと私は思います」
「……もう! カモミールさんは甘すぎです! ジンジャーさんに魔法を掛けさせただけでは飽き足らず、そこまで言いますか?」
「何を言っているのか分かりませんね。私は、コストも計算して、ジンジャー様にお願いしただけです。只で食事を何十年も出し続けるコストを考えていないのですか、貴女は?」
カモミールさんは相変わらず、そっけない口調で言う。
下を向いているとはいえ、看守の皆さんの力は常軌を逸している。私は懸命に笑みが零れそうになるのを堪えて、土下座を続けた。
「ああっ、もう! 私だけ悪者ですか? でも、私のような意見を言う人も必要じゃあないですか!」
「言っていることが、よく分かりませんね。それで、どうするんですか?」
フェンネルさんとカモミールさんのやり取りが続いたが、結局、フェンネルさんが折れてくれた。
そしてそれから、私は一晩だけの条件付きで、緋沙子と一緒の牢獄に入ることになった。
魔法が解けて意識を取り戻した緋沙子は、かなり取り乱していたが、私が何度も落ち着くように言うと、これが現実だと理解してくれたようだった。
……けれど、その一晩では、緋沙子の心の傷は癒えなかった。
しかし、これは私が背負った業だ。罰だ。
幸い、同じ牢獄の中には居られるのだ。
少しずつ、折を見て緋沙子の傷を癒やし続けていこう。
私はそう考えていた。
だが、それから数日後、思わぬ転機が訪れる。
まさに、青天の霹靂のような出来事が起こったのだ。
そして、私は……。