薙切えりなの従者として、この神殿にやって来て、新戸緋沙子は、ようやく本来の調子を取り戻し始めていた。
意識を取り戻してからも、己の不甲斐なさを責め続けていたが、えりなにその事を禁止されて以降、緋沙子はえりなの助けになるべく、この神殿での生活も頑張った。
それが良かったようで、もう以前のように心を病むことはなくなった。
けれど、緋沙子は未だにどうしても慣れないことがある。
それは……。
「緋沙子。この味はどうかしら?」
えりなと緋沙子に与えられた、神殿の一室。そこは、一般の台所程度の設備があり、今日も朝早くから、えりなは白い神官服の上にエプロンを身に着けて、食事を自ら作っている。
「はい。美味しいです、えりな様」
味見皿を受け取り、味の感想を告げた緋沙子だったが、えりなに苦笑されてしまう。
「もう。緋沙子。この部屋には、私たちしかいないのだから……。ねっ?」
「あっ、すみません! ……ではなくて、その、ごめんなさい、えっ、えりな……」
この神殿に来てから一ヶ月以上経つが、緋沙子は未だに、『二人きりの時は呼び捨てで気軽に接して欲しい』という、えりなからの申し出をなかなか実行できずに居た。
実際に、今の緋沙子の立場は、えりなの従者である。
だから、立場的には今までと変わらずに秘書として接したほうが正しいはずだ。けれど、プライベートではそれを改めて欲しいと頼まれてしまった以上、緋沙子はそれに応えないわけにはいかない。
もっとも、幼い頃からの癖は抜けず、ついつい『様』を付けてしまうし、敬語になってしまうことがよく起こる。
「うん。やっぱり呼び捨てにしてくれる方が嬉しいわ。これからも、それでお願いね」
「はっ、はい! あっ、ではなくて……分かったわ」
まだギクシャクしているが、少しずつ慣れていくしかないと、緋沙子は自分に言い聞かせる。
えりなは嬉しそうに食事を配膳し、席に座る。そして、今日も二人の一日が始まる。
少し前とは雲泥の差の、充実した人間らしい生活が。
ことは、一ヶ月半ほど前に遡る。
体感とは異なり、あの牢獄に入れられてから数日しか経っていない、えりなは、これからも労務の日々が続くものだと思っていた。だが、ある日の早朝にカモミールに起こされたかと思うと、彼女に連れられて、看守長であるマジョラムのところに連れて行かれた。
そして、説明を受けたのだ。
えりなを自分のものにしたいという男性が現れたのだと。
それはまさに、青天の霹靂だった。
「薙切えりなさん。貴女にはこの申し出を断る自由はありません。誠心誠意、生涯を費やして、その男性に仕えるしかないのです」
「……そうですか。分かりました」
えりなはそう応えながらも、それほど悲観はしていなかった。
あの長い時間の孤独に比べれば、どのような事柄も些事に思えたのだ。
「ですが、貴女にとって、いい話もあります。貴女はその男性に仕えるために、この施設を出て、神殿と呼ばれる場所で神官の一人となり、行儀作法と必要な知識を学ばねばいけません。
ただその際に、神官には特典が与えられます。それは、『名抜き』をされていない、ランクE-以下の雌豚を一人、従者とすることで、ともに生活することができるのです」
えりなはその話を聞き、即座に緋沙子を従者にするとマジョラムに告げた。
未だに労務をただ淡々とこなすだけになってしまっている、心の壊れてしまった緋沙子を助ける事ができるかもしれない。
それだけで、えりなは自分を手篭めにしようと考えた男性に、感謝さえしたくなった。
その話が終わるやいなや、えりなと緋沙子は牢獄から開放された。
その際に、カモミール看守達に、『もう、ここには戻ってこないようにしなさい』という言葉をかけてもらったのが、忘れられない。
「あの、えりなさ……、あっ、いえ、えりな。食事が進んでいないようだけれど……」
緋沙子に指摘され、少し前の事を思い出していたえりなは簡単に謝罪をし、食事を続ける。
今日も朝からお勤めがあるのだ。
お腹をしっかりと満たして、万全の体制で挑まねばいけない。
「今日は苦手な家事仕事の練習ね。特に針仕事は、しっかり学ばないと」
えりなは上機嫌で言うが、緋沙子の顔が曇る。
「あの、えりな……。その、私のせいで、何処の誰とも知らない男に嫁がないといけなくなって……」
「だから、それは違うって何度も言ったでしょう。この世界に連れてこられたのは、私の今までの行いが悪かったから。むしろ、私の方こそ貴女を巻き込んでしまったことを、申し訳なく思っているわ」
「そんな事はありません! 私はそれが地獄であろうと、えりな様とご一緒します!」
また、様付けで呼んでいるが、えりなは敢えてそれを指摘はしない。
「ですから、その……」
「……そう。こんな私に、まだ付いてきてくれるのね、貴女は」
緋沙子の言いたいことを理解し、えりなは微笑んだ。
「それは私の一存では決められないけれど、きっと大丈夫よ。緋沙子は女の私から見ても可愛くて魅力的だもの」
「そっ、そのようなことは……。ですが、えりな様一人を頑張らせるつもりはありません。私もしっかり自分を磨き続けて、これからもお役に立ってみせます!」
「ありがとう、緋沙子。でも、私の役に立つという気持ちでは駄目よ。飽くまでも、私達はご奉仕をさせて頂く存在であるということを、忘れてはいけないと、スターアニス様から言われているでしょう?」
えりながそう指摘すると、緋沙子は「はい。そうでした」と顔を俯ける。
「緋沙子。私は、貴女に対等な友人になってもらいたいの。だから、私に奉仕するのはもうお終いにして。お願い」
えりなが笑顔で頼むと、緋沙子は「はい」と頷いた。
「ですが、えりな様。辛くはないですか? 好きでもない男に……」
「そうね。できれば、自分の伴侶となる方は自分で選びたかったという気持ちはあります。でも、この縁が悪いものだと決まったわけではないわ」
「けれど、この申し出がなければ、今までと同じように、遠月の生徒として……」
「ええ。それに未練がないとは言わないし、言えない。でも、もう私に似た別の『薙切えりな』が、あの學園には居る。スターアニス様のご厚意で、その活躍を少し確認させて頂いたけれど、あの『薙切えりな』の方が、私よりも沢山の人を幸せにできると思うの。
……以前の私では、きっとお父様の呪縛を断ち切ることはできなかったでしょうしね」
えりなは、大切なものを守るために、幸平創真とともに立ち上がる、自分によく似た、けれどずっと強い少女の姿に感銘を受けた。
だから、もしも今回の話がなかったとしても、何もやっていない自分が、彼女と融合して一つになるなどおこがましいとも思うのだ。
「孤独だったけれど、私は普通の人の半生をすでに経験している。だから、もう自分ひとりのための人生はいらないわ。……それにね、私は、私が育てていた花のようになりたいの」
「花のように、ですか?」
緋沙子はよくわからないと言った顔で、オウム返しに訪ね返してくる。
「そう。私という女が、どんな花を咲かせられるかを知りたい。そして、その花を慈しみたいの」
「……えりな様、もしやそれは……」
こちらの言いたいことを察してくれた緋沙子に、えりなは頷く。
「ええ。私は……」
えりなは自分の気持ちをすべて話し、微笑んだ。
それは、とても柔らかくて、温和で、この上なく優しい笑顔だった。