小早川悠斗は、一人で店の厨房に篭もっていた。
薙切えりなと新戸緋沙子の二人と一緒だと、つい心臓の鼓動が激しくなってしまい落ち着かないので、一人になりたかったのも有るが、何よりも自分の料理の腕の未熟さが嫌で仕方がなかったからだ。
今日の夕食は自分が作って、あの二人も美味しいと言ってくれたが、それが気遣いに過ぎないと悠斗は思っている。
一心不乱に包丁を動かし、玉ねぎをみじん切りにしていく。
その辺の主婦よりは格段に速いが、記憶の中にある両親のそれに比べると、遅い上に正確性に難がある。これでも練習を欠かしたことはないのだが、やはり自分の鍛錬は足りないのだろう。
いつかは、父と母のような料理人になる。
そんなぼんやりとした目標しか持っていなかった、過去の自分が憎い。
どうして自分は、もっと死にものぐるいで腕を磨いてこなかったのだろう?
父と母の真似事ができるくらいで今はいいと、甘ったれたことを考えていたのだろう?
二人を失ってからそのツケの大きさを理解しても、今更詮無きことなのは分かっているが、それでも悠斗は憎まずにはいられない。
父と母の車に衝突してきたトラックの運転手も、その事故で死んだ。
だから、悠斗には恨む相手ももういない。
表面上、悠斗は懸命に両親が健在だった時と同じように振る舞っているが、まだ高校生になったばかりの彼の心には、大きなヒビが入っているのだ。
そして、どちらかと言うと心根が優しく、内向的な悠斗は、次第に自分を憎み始めていた。
……それしか、憎む相手が残っていなかった。
「くそっ!」
練習用に用意した最後の玉ねぎも思うように切ることができずに、悠斗は声を荒げる。そして、包丁から手を離し、忌々しげに調理台を叩いた。
「悠斗様。明日も学校ですし、もうそろそろお休みになられた方がよろしいお時間だと思います」
綺麗な声が、薙切えりなの声が、悠斗の耳に聞こえてきた。
悠斗はステンレスの調理台に写った、自分のひどい顔を見て、慌てていつもの顔をつくる。
それから後ろを振り返ると、私服姿のえりなが心配そうな顔をしていた。
「ああ、もう日が変わっているんだ。ありがとう、教えてくれて。片付けをしたらすぐに休むことにするから、先に休んでいて」
えりなも緋沙子も、気軽に話して欲しいと言っていたので、悠斗は言葉を選んで微笑む。
「…………」
分かりました、とえりなは応えると思っていたのだが、彼女は静かに悠斗の前まで近づいてくる。
「あっ、あの、どうしたの?」
「失礼します、悠斗様」
悠斗の問いに答えずに、えりなは腕を広げると、悠斗の体を優しく正面から抱きしめた。
「あっ……」
甘い香りがする。そして、柔らかくて温かい。
悠斗は戸惑うよりも先に、そう感じた。
「えっ、えりな……」
悠斗は恥ずかしくて離れようとしたが、えりなは腕に力を入れて、それを許さない。
「……話していませんでしたが、私と緋沙子は、悠斗様の境遇を知っています。お父様とお母様を事故で亡くされたことも、全て……」
えりなの告白に、悠斗は自分の中の何かが軋み始めるのを感じた。
「だから、こうして抱きしめてくれるの? ……同情してくれるっていうの?」
悠斗の言葉に、しかしえりなは「いいえ。同情などではありません」とだけ言い、いっそう腕に力を込める。
「それじゃあ、なんなの? ……何なんだよ……」
悠斗の心の軋みは増していき、普段のおとなしい口調が、乱れていく。
「やめてよ。そんな顔をするなよ。僕は、まだ幸せな方なんだ。こうして一人でも生きていける環境にあるだけ、マシなんだからさ……」
えりなに同情されていると思うと、腹が立って仕方がない。
いまだに信じられないが、あの薙切えりなが、こんな自分のものになると言ってくれたことは、戸惑いながらも嬉しかった。
そして、新戸緋沙子と一緒に従順に尽くしてくれることも幸せだと思う。幸せすぎるほどに。
でも、そんな彼女達にも、同情されたくはない。何故なら、同情するというのは、上から目線の行為だからだ。
両親を亡くしたことにみんな同情してくれた。
可哀想に、大変だねと。
そして、良くしてくれた。
それまであまり付き合いのなかった近所の人も、自分の拙い料理も食べに来てくれる。困ったことがあれば力になるからと言ってくれる。
それはありがたいことだ。でも、あの顔が嫌で嫌で仕方がない。
哀れみの表情を向けられ続けることが、苦しくてたまらない。
誰も、僕を見ていない。
小早川悠斗という人間を見ようとしない。
彼らが見ているのは、両親を事故で失った可愛そうな高校生の少年ということだけだ。
それなら、あの時、僕の料理をきちんと見て、僕の料理が不味いと素直に言ってくれた、薙切えりなの怒った顔のほうが数倍増しだと思った。
あのときの彼女は色眼鏡をかけずに、間違いなく僕を、小早川悠斗という料理人を見てくれていたのだから。
「君にまで同情なんてされたくない。哀れみなんて欲しくないんだ……」
悠斗はそう言いながらも、えりなの腕を振りほどこうとはしなかった。できなかった。
それは、自分が好意を持っている少女に抱きしめられているからだけではない。ずっと飢えていた温もりを手放したくないと思ってしまったから。
「……悠斗様。私は、罪を償うために、悠斗様の何倍もの時間を経験しました。何年も、何十年も、一人きりで生活していたんです」
「えっ?」
えりなは信じられないことを言う。
何を馬鹿げたことをと思ったが、彼女の声は真剣だった。
「一人は辛いです。孤独は、心を蝕んでいきますから……。そして、それは時間が経つほどに重くのしかかってきます」
「……えりな……」
名前を口にしたが、悠斗は二の句がつながらない。
「私は、同情しているのでは有りません。ただ、貴方に、あの時の私のような苦しみを抱いてほしくないだけなのです」
「……どうして、そんなふうに思うの?」
悠斗の問に、えりなはようやくきつく抱きしめていた腕を離して、彼の顔を真っ直ぐ見つめる。
「それはですね……」
えりなはそう言って顔を近づけてくる。
近くで見ても美しいえりなを見つめ続けていた優斗は、唇に柔らかな感触を感じた。
それが、初めてのキスだということに気づいたのは、えりなが唇を離し、頬を朱に染めて微笑んだのを見てからだった。
「私は、貴方に惹かれています。まだ、これが愛情と呼べるほど強いものではないかもしれませんが、貴方に、小早川悠斗さんに好意を抱いています。だから、辛い目にあって欲しくないのです。笑っていて欲しいのです」
「そっ、そんなの、信じられないよ。ぼっ、僕は、君とあの一件でしか会ったことがないのに……」
悠斗の憂鬱な気持ちは、えりなの口づけで吹っ飛んでしまった。
だが、彼女の言うことはあまりにも突然過ぎて、信じられない。
「それは、お互い様ではないでしょうか? 悠斗様は、見目麗しい女性がたくさんいる中で、一度会っただけの、こんな私を選んで下さったのですから」
えりなはそう言って、いたずらっぽく微笑む。
「いや、その、それは、その……。君が、綺麗だったから……」
「そう思ってくださっただけで、十分です。あの時の私は、無知で傲慢だった自分の愚かさに辟易していました。そんなところに、私を見初めて下さる方が現れた。これを、私は運命だと思ったのです」
えりなは微笑む。優しいが、どこか強気に。
「さらに、貴方は緋沙子のことも受け入れて下さいました。私はそのこともすごく嬉しかったんですよ」
今までのただ従順な口調ではなく、温かみのある言葉で喋ってくれるえりなに、悠斗は気持ちが楽になってきた。
目の前の彼女は、強気で凛として美しい、あの薙切えりななのだと再認識することができた。
そして、そんな彼女が同情ではなく、好意によって自分を助けて来れたというのだから、悠斗は嬉しくなってしまう。
「悠斗様。私は確かに無知で傲慢なだけの娘でした。ですが、それから色々と学び、反省をしたのです。ですから私は、今の私が嫌いではありません」
「……僕にも、そうなれっていうの?」
悠斗が尋ねると、えりなは意味ありげな笑みを浮かべる。
「いいえ。そのようなことを言うつもりはございません。私は悠斗様の奴隷です。それは変わりませんから。ただ……」
「ただ?」
少し怖い気もしたが、悠斗はえりなに続きを促す。
「私と緋沙子の二人がかりで、悠斗様を幸せにしてみせます。孤独を感じる暇もないほどに」
「えっ?」
「そして、こう思って頂きます。『あの時、薙切えりなを選んで正解だった』と。絶対に」
えりなは自信満々に言う。
「……ははっ。そうなんだ……。ありがとう、えりな……」
えりなの気遣いに、悠斗は苦笑交じりに笑顔を浮かべる。
けれどそれは、久しぶりに浮かべた、憂いの混じらない笑顔だった。