デスクに向かうリツコの表情は優れない。
「ネルフは
彼女が口にしたのは今ネルフの内外において、まことしやかに囁かれ錯綜する、ほぼほぼ事実といっても過言ではない噂の一つだった。
零号機起動実験失敗時のレイに対する総司令の明らかな特別扱い。
廃人の様相を呈するシンジの病室隔離という対応についての憶測。
どこまでが補完計画のため、ゲンドウが意図的に行ってきたものなのかはさておき、噂も含め諸々の対処をするようにと白羽の矢が立ってしまったリツコは頭を悩ませる。
間が悪いことに第三使徒殲滅直後、つまりはレイとシンジの長期療養が決定してすぐ、ドイツ第三支部でも起きていた弐号機動作実験の失敗とそれに伴いパイロットの心神喪失が本部へとリークされてしまった。
結果、この世に三人しかいないエヴァパイロット全員がほぼ同じ時期に病床送りへ。
悪い出来事は重なり易いとはいえ、ここまでくると何か裏があるのではと勘ぐってしまうのが人というもの。
( 一体、誰が流し始めたのかしら )
自分のデスクでキーボードを打ち続けるリツコは噂の出所についても思案に暮れる。
案外ただの噂に留まらず、子供達の惨状とその扱いに対する組織への疑念という、至極真っ当な義憤に駆られたネルフ関係者による内部告発の一端なのでは、と推測してみたり。
( 初号機の修復に零号機の再起動。シンジ君のシンクロテストに弐号機とセカンドの受け入れ。更には探偵の真似事まで・・・正に猫の手も借りたい状況ね )
リツコはデスクに置かれた明らかに仕事とは関係のない、私物の猫の置物を指先で優しく突いた。
「本気、なのね」
「ええ。次の使徒が来る前には何としても終わらせるわ」
久しぶりに聞いたミサトとリツコの声に、シンジは何時もの夢の続きが始まったことを知る。
勿論、シンジがベッドの上でうずくまり続けているこの病室のある場所は夢の中などではなく現実である。
「三人の中で間違いなく一番の健康体の持ち主よ。躊躇する理由はありません」
「それは肉体面に限った話でしょう。アスカみたいに精神汚染を受ける可能性、ちゃんと考えてんの」
( ・・・あすか? )
シンジが二人の会話に反応したのはここに来て ( 彼にとってはこの夢を見始めて ) 、初めて少女の名前を、惣流・アスカ・ラングレーについての話を聞いたからである。
まさかここが過去の世界で、未来でアスカが『もう一度』などと願ったばかりに再び訪れる羽目になった同じ世界だとは思いもしないシンジ。
大勢のネルフスタッフ、医師や看護師が代わる代わる訪れ様々な検査や身の回りの世話を焼こうと彼が何ら関心を示そうとせず寝たきりのままでいたのは、偏にこの夢の中にアスカは出てこないのだろうと諦め、現実に戻ろうと試みて直ぐ寝てしまうからだ。
シンジにしてみれば何故自分の夢の中にも関わらずアスカが居ないのか、不思議でたまらなかった。
( そうか・・・アスカ、いるんだ )
居るのに会いに来てくれないのは何時もみたいに自分が知らず知らずの内に怒らせてしまい拗ねているからだろう。
夢の中だと信じている割には現実的な、むしろ自身の夢の中であるからこそ実際にあり得そうな理由で都合良く納得するシンジは、ならば会いに行こうと考えミサトに視線を向ける。
「・・・・・・反応、示したわね」
「そうね」
もっとも、考えただけで身体を動かしたり声を発することはなかったシンジ。
視線だけでアスカの所へ連れてってくれとミサトに頼む。
「アスカのことが知りたいのかしら?」
「あなたが精神汚染なんて不吉な単語口にしたからでしょう。彼も今からその可能性があるだなんて、怖がらせるような真似を・・・」
「ちょっ、そんなつもりはっ!?」
「・・・彼のこの状態、あなたがブリッジで彼の頭を放り出した所為だと勘違いしている職員も少なからず居るのよ?」
「うそおっ?!」
ミサトの声の五月蠅さに眉をひそめるシンジはやっぱり夢の中なんだなあと、張り詰めた様子のない、懐かしく感じる仲の良い二人の騒がしい姿を見詰める。
最後に二人のこんなやり取りを見たのは何時だったのか、シンジは終ぞ思い出すことができなかった。
「まあ、これはこれで都合が良いわね」
「あんた、まさかアスカを出しにして・・・」
途端に険しくなるミサトの表情。
そんな顔は見たくないとばかりにシンジは目を瞑る。
その些細な少年の機微さえリツコは見逃さず、努めて笑顔で振る舞う。
「二週間もベッドで寝たきり。たまに動いても寝返りと伸びだけ。排泄物の処理に関しても眉一つ動かさず、食事に至っては口元への接触がなければ自らの意思で行わない」
「・・・まるで赤ん坊ね」
「そうかしら?泣きわめいたり暴れたりしない分、楽なものよ」
リツコの持つ端末には哺乳瓶を使われ看護師の手で水分補給をさせられるシンジの姿が。
そして微笑みながらその映像を見詰める友人にミサトは半歩後退る。
「シンジ君。あなたに頼みたい事があるの」
そうしてリツコの口から語られるのは、かつてこの街に来た日に初号機のケイジで行われたこと。今回、行われることがなかったこと。
シンジとしてはアスカに会いに行きたいだけなのに、世界の命運やら適格者やら資格やらと以前聞かされた話を再び並べ立てられた所でどうでもよく。
「・・・・・・フハァ」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
小さなあくび一つ済まし、二人がアスカに会わせる気がないことを理解すると枕を抱え直し再びうずくまる。
ここでアスカに会わせて欲しいと頼むこともなければ精神汚染を受けたという彼女の容体にも気を向けない辺り、この場を夢だと思い込んでいるにしても自分本意で身勝手な一面 ( 怒っているアスカに会っても余計に怒らせるだけだろうし怒られたくもないから今回は会わないでおこうという考え方 ) が抜けきらないシンジだった。
できるだけ波風を立てず、心を乱さず平穏でありたい。
このベッドの上はある意味、かつての彼にとっての理想ともいえた。
そう。
かつては、である。
これから語られることは、もし彼女と出会って間もない頃に同じ言葉を投げ掛けられたとしても、今以上に、彼にとって追い詰められる言葉には成りえなかっただろう。
「シンジ君。傷付いている彼女達の・・・アスカ達の代わりにエヴァに乗って。どうか、お願い」
「・・・ミサト」
アスカを出しにする。
始めこそ、そのことに嫌悪感を示したミサトが率先してそれを口にしシンジへ頭を下げた。
「あなたがどうしてこんなにも全てにおいて無関心で、生きる気力を持とうとしないのか。その理由は分からないけれど、私にはなんとなく理解できるの。できてしまうのよ」
シンジにとって、その語り口には覚えがあった。
「自分の知らないことを知るのが、知ろうとしなかった事実を知ってしまうのが怖かった」
その痛くなるほど優しい声音に。
「嫌っていた筈の、理解できないと思い込んでいた人の心に触れ、知りたいと願った時にはもう会うことさえ叶わないことに絶望した」
『何のためにここに来たのか、何のためにここにいるのか』
「会えない苦しみを受け入れる事が出来ないから拒絶する」
その苦しくなるほど温かな瞳に。
『必ず戻ってくるのよ』
「愚かな自分を拒んで」
『いってらっしゃい』
「辛い現実を拒んで」
『帰ったら続きをしましょう』
「生きることさえも拒んでた」
その全てが懐かしく、遠く、辛いものだった。
だから手を伸ばす。
果たせなかった約束を謝りたくて。
「シンジ君?」
受け止めきれなかった願いに。
心にもう一度、触れたくて。
「・・・いいわ。少しの間だけ、貸してあげる」
その微笑みに、両手で包み込むように握りしめ、小さくうなずいた。
「ありがとう。シンジ君」
この直後、第四の使徒襲来の警報に慌てたミサトとリツコは修復率が六割にも届かない初号機へシンジを放り込むことに。
結果、プラグ内で膝を抱えうずくまるだけのシンジに操縦などできる筈もなく、初号機は再び暴走。
やはりぎりぎりで使徒の殲滅を成すも初号機の修復率は二週間前の状態へ戻ることになった。