へとへとだった。もう、何もかもに疲れてしまっていた。
出先から帰宅している最中だというのに、ずっと「もう帰りたい」という呪いのような言葉が頭をぐるぐると回っていた。
基本的に、不要な外出はしたくない。家の外に出たら、戦場となった敵地に足を踏み入れるようなものだったからだ。
外の世界は、大量にあるストレッサーばかりが自分に鋭い目を向けて、落ち着かない心を絶え間なく揺さぶってくる。
人生というのは、理不尽がつきものだ。それはわかっている。誰にでもある悩みだとわかっているけれども、さすがに限度というものがあるだろう。
今日は限界を超えていた。それだけだ。それらを詳しく言葉にする気力も、余裕もなかった。
とにかく、今の自分には癒やしが必要だったことだけは確かだった。
そんな自分に、待望の瞬間が訪れる。自宅の玄関に入るだけで、ささくれていた心がふわっと安らいだ。
ちょっと前まで寂しかった一人部屋には、ほのかに甘い、自分以外の香りが漂っていた。
恋人と同居を初めてから、我が家の香りは落ち着くだけの退屈なものではなく、華やかで明るいものに変わっている。
それはまるで、彼女と出会ってから鮮明に色付いた人生をニオイで表しているようだった。
「あ、おかえりー。今日もおつかれさま、だったねぇ♪」
テレビが発する笑声と洋食の香りがするリビングに入った時、エプロン姿のミオがぱたぱたと近寄ってきてくれた。
目をちょっとだけ細めて、薄く笑っている口元が特にかわいらしい。ぴこぴこと揺れるケモ耳と、器用に動くふさふさの尻尾が愛らしい。
素晴らしいのは、その見た目だけじゃない。聞いているだけで落ち着く声も、非の打ち所がない優しい性格も、ちょっと天然な愛嬌も……思い付く限り、全ての魅力がずば抜けている。
そんな、世界中の『かわいい』を寄せ集めたような少女を強く抱き締める。
「わわっ……? もー、急にどうしたのー?」
ミオを抱き寄せた理由は、これといってなかった。ただ、疲れた身体がミオを本能的に欲してしまっていただけだ。
その抱擁は、外の世界のことを忘れてしまいそうになるぐらいに、あたたかい。
ミオの体温とやわらかさを感じているだけで、疲れが溜まっていたはずの心身が楽になっていく。
何年ぶりかに温泉に浸かったような、強すぎて意識が薄れるような安心感が襲い掛かっていた。
「ちょっとぉ~。これじゃあ、お料理に戻れないでしょー? はーなーせー……んんーっ……♪」
ミオは恥ずかしそうにカラダを揺らして、ぐいぐいと、じゃれるように抵抗しようとしてくる。本気で嫌がっているようには感じられない。なんて愛くるしい彼女なんだろう。
存在そのものが生んでいる純粋な癒やしが、ここにある。家の外にあるストレスたちは、いつの間にか、本当にどうでもよくなっていた。
両腕で包んだハートフルな特効薬。その効能と即効性は、思わず安堵の吐息が漏れるほど。
「……うんうん、そっかそっか。疲れてるときは、ゆっくり休むのが一番だからさー。あったかいご飯食べて、お風呂でゆっくりしようねぇ♪」
ミオの優しい声音と甘やかすような言葉が、疲れた心身によく沁みる。何の理由もなく、わんわんと泣いてしまいそうだった。
何度ハグを重ねても、いつまでも童貞のようにドキドキしてしまう胸元を、ミオがトントンと叩いてカラダを離した。
「ご飯、そろそろできるよ。ちょっとだけ、寂しいの我慢してね……ん、ちゅっ♡」
その去り際に、つま先立ちになって、音を立てながら頬にキスをしてくれた。
じんわりと頬に溶け込んでくる熱をさすりながら、ミオが用意を整えている最中の食卓につこうとする。
しかし、椅子の背を引いたところで、じーっとこちらを見てくる視線が何かを訴えかけていることに気付いた。
すっかり気が抜けていた。ミオとの約束である、帰宅時の手洗いとうがいをきっちり済ませて、シャツを着替えてから、食事の用意を終えたミオと顔を突き合わせる。
「あははっ……よしよし、手洗いうがいできて、えらいねぇ♪ 約束守ってくれて、ありがとうね」
子供に言い聞かせるような甘い声色だというのに、こちらをまったく馬鹿にしていないのがハッキリと伝わる。それは、相手を不審がらせないような、圧倒的な母性の表れだった。
愛情がたっぷり詰まった褒め言葉は、わずかに覚えた気恥ずかしさを貫きながら胸に浸み込んでくる。ミオの母性に抵抗することなど、誰にもできないのだ。