「ゾウ? そこがキャロットの故郷なのか」
船内に入ったクルスはまずキャロットを休ませることに決め、彼女をベッドに座らせていた。
体調は悪くないようだが溺れたばかりだという。大事を取るのは不自然ではなかった。
ベッドの上に座って足を伸ばすキャロットの手には小さな器とスプーンがある。
起きたら食べさせようと用意しておいたシチューには大きく切った人参が多めに入れられていたらしく、小躍りしそうなキャロットはそれを一口食し、頬を綻ばせた。
「おいし~! クルス、これおいしいね!」
「あ、ああ、そうか。それはよかった」
まだそわそわと落ち着かない様子のクルスだが先程よりはマシになっていた。実際彼女の頭を撫でるまでは「触れてみたい」という衝動が大きく、話をするほどの冷静さは皆無。少し触れることができてようやく落ち着きを取り戻したようだ。
それでもまだ満足していないあたり、彼の欲深さが仮面に隠された表情に表れていた。
キャロットは嬉しそうな顔でスプーンを口にし、シチューを食べる。
その様子を、綻んだ表情を可愛らしいと思いながら、クルスは冷静で居るよう努めた。
聞けば彼女は海に出たことがないそうだ。
航海の経験がないなら故郷まで一人で帰ることは不可能と断言してしまっていい。
近くに島はない。頼りになるのは自分だけ。そんな自覚がすぐに彼の顔を引き締めさせた。
「俺はしばらくこの辺りの海域を往来してるけど、ゾウなんて島は聞いたことがない。噂すら聞かない島なんてのは特に珍しいな。見つけるのは簡単じゃないかもしれないが……」
「あ、大丈夫だよ。ビブルカードがあるからこれで帰れるんだ」
そう言ってキャロットは自分の服のポケットを探ろうとして、そういえば着替えさせられていたのだと気付き、甲板で干しているだろう自分の服のところへ行こうとする。
それを押しとどめ、クルスがあとで見ておくと再び彼女を座らせた。
「ビブルカードか。知り合いのか?」
「うん。もしもの時に持っておけってワンダが」
「それがあれば帰れるな。しかし、ゾウか……」
少し思案する様子を見せた後、クルスは明るい声で呟く。
「これも何かの縁だ。俺が送っていくよ」
「本当? ありがとうクルス」
「いや、別に構わない。特に用事もない旅路だし……それと、一つ確認しておきたいんだが」
「何?」
そこで一度言葉を区切り、言うべきか言わないべきか、少しだけ逡巡する。しかし聞いたところで問題にはならないだろうと結局彼は判断を迷わなかった。
明らかに様子のおかしい姿で、クルスがキャロットに尋ねる。
「そのゾウって島には、他にもその……キャロットみたいな、ミンク族が住んでるのか?」
「そうだよ。島っていうか、
「伝説とさえ聞いてたミンク族が……まさか、こんな日が来るとは」
モフモフが、モフモフが、とぶつぶつ呟き始めたクルスの様子がおかしいことはなんとなく理解していたものの、特に気にしなかったキャロットはシチューを平らげた。
彼はきっといい人だ。助けてくれたし、食べ物をくれたし、頭を撫でてくれた。
それが彼女が抱くクルスへの評価であり、疑う余地さえ持とうとしていなかったのだろう。
それより何より、初めての航海。ゾウから出たのは初めての経験だ。
彼女はこの航海を楽しみたくてうずうずしており、ベッドに居るのがもったいないとしか考えていなかった。少し前に溺れていたはずなのに疲れなど一切残っていない。
できることなら甲板に出てもっと海を眺めていたい。
一度はクルスに連れ戻されたとはいえ、腹も満たされ、体は居ても立っても居られなかった。
「ねぇクルス、海を見ちゃだめ? 私
「え? でも、体は大丈夫なのか?」
「平気だよ! おいしいシチューも食べたし、ピンピンしてるもん!」
「本当か? 海水を飲んだかもしれないし、自分ではそう思ってても体は休みたがってるなんて時もあるから、無理なんてしたら――」
「無理してないよ! 大丈夫だって!」
妙に心配してくるクルスに対して、キャロットは腕を元気よく動かすことでアピールした。
それでも彼はすぐに納得しなかったため、ベッドを降りた彼女はクルスの顔を覗き込む。
「それじゃあ元気になるように、また頭撫でてくれる?」
それは何よりの誘い文句。明らかに指先がぴくっと揺れた。
「い、いいのか? 嫌じゃないのか?」
「嫌じゃないよ。だって頭撫でられるの嬉しいもん」
「そ、そうか。いやまぁ、うん……平気なんだったら別に、見るくらい」
「やったぁ!」
ぴょんと跳ねてクルスの首に腕を回し、再び耳を狙って首を伸ばす。
キャロットに甘噛みされた彼は戸惑いながらも嬉しそうだった。
「ガルチュー♡」
「おっ、おぉ、おぉぉ……!」
咄嗟に抱きとめ、抱きしめ合う状態になる。
気を良くしたクルスはキャロットに手を引かれても逆らわず、二人で甲板へ出る。帆船とはいえ小型でさほど大きくはない。部屋数は一つ一つは小さいが五つ。寝室、キッチン、そしてトイレと風呂場、商品を収納する倉庫だ。甲板へ出るまで数分とはかからなかった。
室内から外へ出ると眩しい太陽の光で思わず目を細めた。今日はいつにも増して海が輝き、上機嫌とさえ捉えられそうなほど美しい風景である。
キャロットは目を大きくして喜び、クルスはそんな彼女の様子に頬を緩める。
航海へ出るのは初めて。その嬉しさが全身から滲み出るようで。
懐かしい物を見るような目でクルスは同じ風景を目にした。
「すごいねー。海ってやっぱり広いんだ」
「ああ。船があればどこへでも行ける。時にはシケもあるが、慣れてれば越えることは難しく感じない。本当にどこまでだって行けるんだ」
「クルスもたくさん冒険してきたの?」
「ああ。たくさんした。色んな島へ行ったよ」
仮面こそ不気味だが語る声は穏やかだ。
やっぱりいい人。そう思ったからこそ不思議に思う。
なぜ彼は顔を隠すのか。気になったキャロットは悩まず聞いてみた。
「クルスはどうしてお面つけてるの? 顔を見せたくないの?」
ほんの一瞬、口を閉ざした。しかし彼はすぐに答えた。
「特に大きな理由はない。敢えて言うなら、仕事柄、顔を知られない方がいいからかな」
「商人なんでしょ?」
「そうだ。時には危ない連中と取引することもある。素性がバレると身の危険があるんだ」
「ふーん、そうなんだ。危ない仕事なんだね」
納得した様子でキャロットは呟く。
その直後、うーんと悩む素振りを見せて、彼女はクルスの正面へ移動した。
「でも私は危険じゃないよ。クルスのこと傷つけたりしないから」
「ああ、そうだろうな」
「私にも見せられない? 命を助けてくれた恩人だもん。クルスの顔見たいよ」
少しの沈黙があって、悩む素振りだった。しかしクルスの決断は早かった。相手が相手であり、仮に人間が同じことを言ったならば彼は歯牙にもかけなかっただろう。
そっと仮面に触れ、両手で外す。
存外あっさり外れたそれを右手で持って、露わになった顔はそう特別な物でもなかった。
肌は日に焼けておらず白く、髪は黒くて短い。
顔立ちは目立って整っている訳でもないが精悍な青年といった印象だった。
だがそれらを差し置き、キャロットの目を奪ったのは彼の瞳。
フードの下で太陽の光を遮り、わずかな影の中で輝く金色。細められた瞳孔は猫を思わせ、明らかに人の物とは違う。
冷たく、鋭く、声色の優しさとは裏腹に野性を感じさせる。
キャロットはその目に魅入られ、しばし言葉を失った。
「きれいな
「人はそう思わない」
自嘲気味に笑った彼は仮面をつける代わりにフードを目深にかぶった。
光から離された分、目の輝きは増す。
「私は思うよ。だってきれいだもん」
「そうか。それなら見せてよかった。あまり見せないようにしてるんだ」
「どうして?」
「トラブルはごめんだから」
つぶらな瞳で見つめてくるキャロットに耐えられず、手を伸ばした彼は再び彼女の頭を撫でる。柔和に微笑んで落ち着いている風に見せていたがそうする時は鼓動が激しく脈打っていた。
彼の手に触れられて嫌がるどころか、自ら頭を下げたキャロットは嬉しそうだ。
痛みはないが力は感じる、そんな加減で撫でられ、彼女の頬はだらしないほど緩んでしまう。
「えへへぇ……クルスは撫でるのがうまいね」
「そ、そうか? あまり意識したことはないけど」
褒められたことで調子に乗ったようで、その後もぐりぐりと撫で続ける。
少し乱暴に感じられる時もあったが、それさえもキャロットは嬉しかった。
頭を撫でられて、耳を触られ、丁寧な動きで愛情を感じ、時には指先にぐっと力を入れて触れられているという実感が増す。そんな風にして遊ぶように触れながら、クルスは興奮した面持ちで彼女の顔にも触れた。
兎のミンクである彼女は全身が毛で覆われている。ふわふわ、モフモフしている白い毛だ。
その柔らかさを愛で、手が離せなくなるほど惹かれながら両手で頬を挟んでみる。
微笑むキャロットが彼の手に己の手を重ね、いつの間にか体をわずかに揺らしていた。
「やぁん、撫ですぎだよぉ……」
(うーむ、モフモフ……尊い)
どちらも恍惚といった表情で、一向に止める気がない。
いつしかクルスは淡々と彼女を撫で、キャロットはそれを享受してわずかな反応を見せる。
「はぁ、ふぅ……」
(なんか、動物っぽいんだけど)
耳の後ろをひっかくように、くすぐるように指を動かす。
逃げようとしないキャロットだが少し俯いて小さく震えており、気付けばぎゅっと目を閉じ、堪え切れないという様子で時折吐息が出てくる。
「はぅ、うぅ……」
(見た目が人間に近くなるだけで)
首の下を指で掻いてやる。猫が喜ぶやつだろうとやってみれば意外に反応が良く、先程までは辛そうにも見える表情だったのに頬が緩んでいる。目を閉じていても嬉しそうな顔だ。
正面に立ってじっと見ていると反応が手に取るようにわかる。
彼女の手はもっとやれと言わんばかりにクルスの手を掴んでいた。
「はぁ、あぅ、んぅ……!」
(意外と、エロいな……)
真剣な顔で頭に耳に顔を撫で続けること数分。
上気した顔でキャロットは目を潤ませ、唐突に彼に抱きついた。
背に腕を回して強く力を入れ、胸元に顔を擦りつけ、自分の匂いをつけるかのようにぐりぐりと頭を振る。クルスは彼女のそんな行動に驚いていた。
細く見える外見とは裏腹に力は意外に強い。引き剥がすのはおそらく無理だ。
しかしその前に彼は引き剥がすことを考えようとはしなかった。
戸惑いながらも嬉しそうに彼女を抱きしめ返し、その後でどうすればいいかがわからなくなる。
「ど、どうした……!?」
「んー、んん……なんかね、変な感じだよ……」
頬を上気させ、目は潤み、原因はわからないが体が熱くなっている。キャロットは混乱している様子でもあって、同時に力が入らなくて困惑してもいた。
潤んだ瞳が見上げてくる。
おそらくどうすればいいのかわからないのだろう。彼女は縋るようにクルスを見ていた。
その時、彼はハッと気付く。そして自分の状態に困惑もした。
(あれ……? 俺、モフモフだから愛でてたはずなんだが……)
「んー、クルス~……」
(思ったより、意外に、ちょっと……)
すっかり懐いた様子のキャロットに、やり過ぎたか、と考えていた。
瞳を潤ませ、顔が赤く、何かを求めるように頭を擦りつけてきて、さらに今頃気付いたのだがわずかに脚をすり合わせているのではないか。
そんな様子で察しないほど、彼は人生経験が希薄な訳ではなかった。
女を抱いた経験くらいはある。他人にはあまり近付かない彼でも性欲はある。好奇心もある。ただ日常的に必要かと言われればそうではないが、あくまでも経験はあった。
あまり人と親しくしてこない人生だったがこれはわかる。
それはわかったが、果たしていいのだろうかという迷いが生まれないでもない。
自分はあくまでもその辺の野良猫や野良犬を可愛がるのと同じ理由で撫でまくっていたのだが、どうやら彼女の反応を見ているとそれだけでは済まなかったらしい。
辛そうにも見える顔でキャロットは体の間に隙間が無くなるほどぴったり抱きついてくる。
その上で訳がわからないと、助けを求めるようにクルスの顔を見上げていた。
おそらく彼女は何も知らない。まだわかっていないのだろう。
自分は一体どうすべきか、クルスは悩み始めてしまった。
初めて出会ったミンク族。確かにやたらと可愛がった。しかしこんなことになるとは。
(いや、でも、これは……いいのか? むしろいいことなのか? でもこのリアクションだと騙してしまったというか、無理やり手籠めにした感もあるし……)
「んんぅ、はぁ、あぅ……」
(あぁ……調子に乗り過ぎた)
後悔しても今や遅く。
キャロットは絶対に彼の体から離れようとはせず、辺りに人の姿はなし。相棒のナックは今頃海中散歩で忙しく顔を出すつもりもない。
困ったクルスはひとまず彼女の頭を撫で、それでまたキャロットの体はピクピク震えていた。