・これじゃない感が強い可能性が高いです。
・あんまりエロくはないかも……?
会話文を増やせるかと実験的に書きました。ただ途中で迷走してわからなくなったり……。
気をつけつつご覧ください。
「あの、そんなところで何をしてらっしゃるんでしょうか?」
突然かけられた声、ここなら大丈夫だろうと思っていた場所で降りかかったそれに気付き、視線を右へ流してみれば、水上に浮かぶ一隻の舟があった。
テラフォーミングを完了した火星がアクアと呼ばれるようになった今、水の都と名高いネオ・ヴェネチアでは珍しくもない、ゴンドラ漕ぎの女性の姿。ウンディーネと呼ばれる水先案内人、客を自分のゴンドラに乗せ、この水の惑星を案内する、その役目を持つ人物。
中でもそこにいたのは、ネオ・ヴェネチアで最も有名だと囁かれる人物だったようだ。長くさらりと揺れる金色の髪、ふわりと微笑む美しい顔、そして他では見られぬ独特の高貴な雰囲気。
確か名前は、青年がそう思い出そうとしていた時に、その女性は青年を見て話しかけているようだった。
「服がびしょ濡れですよ。そのままじゃ風邪をひいてしまいます」
「ひかねぇよ。今の季節じゃ特にな」
「あ、ひょっとして、そこから動けなくなってしまったんですか? あら大変、じゃあ、私の舟へどうぞ。仕事の帰りですけど、近くでよければお送りしますわ。風邪をひいてしまう前に」
「聞けよ」
青年は狭い水路の間、民家の裏口であるだろう水路へ通じる小さな階段の上におり、近くには誰もいない。舟もなしに、頭の先からつま先まで濡れた状態、階段へと座っていた。
困り果てている、というよりかはただ単に休憩しているだけ、とも取れる姿ではある。しかし水路に落ちたかのようなずぶ濡れの男が日陰の下で所在なさげにしている様子にも見えてしまう。
ウンディーネとして自分の舟を持つ女性、アリシアは思わず救いの手を差し伸べようと、そちらへ向かって進みだした。別段何かを思っていたわけでもない。ただの突発的な、困っている人を助けようという世話焼きな一面が表れただけのこと。
しかし青年は腕を伸ばして手のひらを見せつけると、その必要はないとばかりに口を開いたのである。
鋭い目つきの、なんとも凶暴そうな表情だ。思わずアリシアの手も止まった。
「いらねぇよ。ここには自分の意思でいるんだ。動けなくなったわけでもない」
「あらあら。ではどうしてそんなところに? せめて日向に出た方がいいと思いますが」
「ここが静かだったんだ。あんたみたいに話しかけてくる相手もいないしな」
「あら、ひょっとして私、お邪魔でした?」
「現状、少しくらいはな。だが今このまま何も言わずに去ってくれれば、別にそれで構わな――」
「何をされていたんですか?」
青年が目を離して座り直し、少し体勢を崩して寝そべるような格好になった時である。
小首を傾げたアリシアはにこにこと微笑み、そこから去る様子も見せずに青年へ語りかけていた。
思わず、青年は驚くほど緩慢な動きで彼女の顔に目をやり、あからさまに嫌そうな表情を見せた。顔には「さっさと帰れ」と書かれている。
「聞いてなかったのか? 俺は一人にしてくれと言ったはずだが」
「いえ、こんなところで一人で何をされていたのかと気になりまして。他人には言えないことですか?」
「仕事の合間に休憩してただけだ。わかったらさっさと――」
「それは奇遇ですね。私も仕事の合間に休憩しようかと思っていたところだったんです」
にこにこと、邪気の無い笑みがそう告げる。だが青年の顔は対称的にますます不機嫌そうに歪められていった。
彼とて噂では彼女のことを聞いたことがある。なんでも、ウンディーネとして完璧に完成された超一流。彼女が操るゴンドラに乗りたくて、連日予約が殺到するほどの人気を誇っているのだとか。
残念ながら名前は思い出せていないものの、おそらくはその噂の女性だろうという当たりはつけている。そしてその予想は見事に当たっていたわけだ。
それならそれでと、人気があるなら早く次の仕事に行けばいいのに、と思わずにはいられないのである。もしくは、休憩するならそれはそれでもっと心休まる場所へ行けば、と自分のことは棚に上げて。
とにかくその青年、アリシア、というよりも自分ではない誰かの傍にいるのは嫌なようだった。
しかしアリシアは何を見てそう思ったか、初めて会ったその青年に対していささかの興味を抱いたようなのだ。
他人に見つからない場所にひっそり佇んで、近づこうとすれば逃げるような素振りを見せる。どこか野良猫を相手にするかのようなやり取り、それが気になったのかもしれない。
「休憩なら他の場所で――」
「お仕事は何をされてるんですか?」
「聞けよ。わざわざここじゃなくても、休憩する場所なんて他にいくらでもあるだろう。どうしてここを選ぶ」
「どうしてここじゃいけないんですか」
「俺が先客だったからだ」
「でも人数を制限されているわけでもありませんし」
「大体が休む場所どころか、食い物も飲み物もないただの裏路地だ。休憩するには向いてないだろ」
「それを言うならあなたもでしょう」
「俺は男だから体が頑丈だ。ここで座ってるだけで十分休息は取れる」
「でしたら私も、女の中では体が頑丈です。それに舟に乗っている間は、不思議と元気が沸いてくるものなんですよ」
ああ言えばこう言う、まるですべてが受け流されているかのよう。
なぜこんな事態になっているのかもわからないこともあり、青年の顔には苛立ちよりも苦悩や困惑が表れていた。
もはや言い返す気力すら生まれて来ない。
頭を抱えてしまった青年へ向け、楽しげなアリシアの言葉は止まらなかった。
「ご趣味はなんですか?」
「聞いてどうする気だ」
「聞いてから考えます」
「答えたくないと言ったら?」
「困ってしまいますね」
「それ以上に、今、俺はひどく困ってる」
「あら、どうしてでしょう。服が濡れてしまってるせいですか?」
「今まさにあんたとしゃべってるせいだ」
ずいぶんと面倒なやり取りを続けているが、彼女がそうしていると嫌みが感じられず、美人は得だ、と青年は眉をひそめる。
できれば今すぐにでも逃げ出したい状況だ。だがなんとなくそうするのも気が引け、彼はまだ動き出せずにいる。
「ウンディーネのゴンドラに乗ったことはありますか?」
アリシアがそう尋ねたのは、彼がそうしていつ逃げ出そうかとタイミングを見計らっていた時だった。
「ないな。一度も」
「あらあら。理由をお尋ねしても?」
「さぁね。考えたこともない」
「ではせっかくのチャンス、どうですか? 今ならお代もいりません。休憩時間に、お話のお相手をしていただいたお礼と思って――」
「結構だ。自分の足でここまで来た、自分の足で帰れる」
「でも、それではまた濡れてしまうでしょう。私の舟に乗れば、濡れることはありません」
「濡れることを苦にしてなければ、そこまで気にすることじゃない。それにここまで濡れた後じゃ、あんたのそれに乗ったって意味ない」
「私のゴンドラに乗りませんか?」
「舟とかゴンドラとか、言い方の問題じゃなくて」
小さなため息と共に青年は立ちあがり、アリシアの方へ体を向けた。
彼が今いる地点からは舟を使わなければ濡れずに帰るなど不可能だ。少し奥には路地と路地を繋ぐアーチ状の小さなかけ橋があるものの、そこまで行くにしても、個人では泳いで移動するしかない。
しかし青年はアリシアの舟へ向かうことはなく、むしろ、水面へ向かって背中から落ちようとした。
ゆっくりと倒れていく彼を見て、あっと小さな声が出る。
バシャン、と水が跳ね上がり、しぶきが上がった。呆然とするアリシアの目の前、青年は思い切りもよく自ら水の中へと入った。
しばらく彼の姿が見えず、その場から動かなかったアリシアが本格的に心配し始める頃。水中を泳いで移動していた彼はかけ橋の下で浮上し、大きな水音を立てて現れた後にするすると腕を使って壁を昇り、かけ橋の上へと立った。
髪や服、全身がびしょ濡れでぽたぽたと水滴を落とし、辺りに人がいれば思わず心配してしまうような姿。まるで水上で舟に乗って仕事をする、水先案内人であるウンディーネを嘲笑うかのよう。
鬱陶しかったのか、自身の髪を掻き上げ、青年は初めて見せる笑みと共にアリシアを見た。
「ほら、陸地まで来れた。俺は自分の足で歩ける、あんたに運んでもらう必要はない」
それだけ言い残し、青年は髪を掻きながら歩き去る。
残されたアリシアはなぜかにこにこと微笑んだまま、やけに楽しそうに彼が去った後の橋を見つめていた。
「あらあら」
それからというもの、二人の奇妙な関係はなんとなく続いていった。
青年はいつも人がいない場所で一人佇んでおり、アリシアはそんな彼を必ず見つけた。時には仕事の合間にゴンドラに乗って、時には買い物の最中自分の足で、時には一ヶ月に一度あるかないかの休日の日に。どこにいるかもわからない彼を見つけては、逃げるように去るまでのほんの少しの会話を楽しむ。
まるで本当に野良猫を相手にしているようだ、と思わず笑みが浮かんでしまうほど、彼女はこの瞬間を楽しんでいたようだ。
「こんにちは。今日もお一人ですか?」
「お一人になるために時間を取ってるんだよ。わざわざ探し当てるんじゃねぇ」
「ゴンドラに乗って遊覧はいかがですか? 私、これでも一流のウンディーネなんですよ」
「人の話を聞けよ」
春が過ぎ、夏が来て、秋を越えて冬になっても、二人は付かず離れず、奇妙な関係で在り続けた。
逃げる青年を探し、少しだけ会って、また別れて。気付けば毎日のように繰り返していたそれは少しの変化を伴ったものの、絶えることなく継続した。
そうして生まれた一番の変化は、青年がアリシアの名を覚えたことだった。
「こんにちは。しばらくお会いできなかったけれど、お元気そうで安心しました」
「そのしばらくってのは昨日一日空いただけのことを言ってんのか? いい加減諦めたらどうだ。仕事もせずにこんなところで油売ってたら、アリシア・フローレンスの名が落ちるぞ」
「あ、名前。やっと呼んでくれましたね」
「今はその話じゃねぇだろう」
「うふふ、今日は記念日になりそうですね。飛躍的な進歩ですもの」
「なってたまるか。俺だって他人の名前を覚えるくらい当たり前にできる」
これまで何度も自己紹介をし、噂を耳にしておきながら彼女の名すら知らなかった彼も、ついには彼女に向かって「アリシア」と呼ぶようになった。
やはり近付くことはできず、ましてや舟へ乗るなど何年かかるかわからないあり様だったが、それは確かな変化だっただろう。
そんな二人がちゃんと正面から話す最初の場面となったのは、最初に会った日からちょうど一年が経った日のこと。
「あ」
「あらあら、まぁ」
二人がお互いの立場も知らぬまま、お見合いをする日がきっかけであったという。
普段の軽装とは違い、今日は黒のスーツでパリッと決めている。流石に若くして大会社の社長の座を受け継いだだけはあるらしく、街中で見かける風貌とは一味も二味も違う。
整えられた髪や身の丈にあった服装、いつも全身びしょ濡れの姿と同じはずがなかった。
ひょっとしたら。彼の隣を歩くアリシアは心の中でそう思う。
町の中で見かける彼の姿は、いつものこの格好から逃れるために水の中へ飛び込んでいたのではないのか。本当は、仕事が嫌で、自由の身になりたいから、その反動なのではないか。
自殺を考えていた、などとは思いたくもないが、頭に浮かんでしまった以上は気にせずにはいられない。
はっきりとは聞かなかったが、試しに彼女は青年へと尋ねる。なぜ、いつもびしょ濡れでいたのかと。
「そうした方が簡単に気分を変えられる。それだけだ……休みの時まで仕事のこと考えてるようじゃ、疲れてしょうがないからな。深い理由なんてない」
そう言われて、どうとも言えなくなったのが正直なところだ。
散歩をしながら語る姿は普段ほどの険の強さはなく、むしろずいぶんと親しみやすい柔和な表情である。仕事の一環でこの場へ来たはずがその表情、なんとなく、アリシアは自身の予想が外れているのではないかと思った。
まだ少ししか見ていないものの、仕事をしている彼の姿は楽しげ、そこまでは言わずとも本気で取り組んでいる姿にも見えたのだ。
思えば彼女が青年の仕事する姿を見たのはこれが初めてである。仕事、二人きりで外を歩くこの環境下でそう言えるのは詰まる所、これが財政的な話を含むお見合いだったからにすぎない。
不運が重なり、財政難に陥ってしまったアリシアが所属する会社、ARIAカンパニーは規模が小さく、いくらウンディーネ一の人気を持つ彼女が日夜頑張って働いたところで立て直せないような状況になってしまっていた。話のきっかけはそこにある。
では近頃話題の貿易会社、人嫌いで恋人を持たない社長とお見合いをしてはどうか、という話が浮上したのである。
表向きは独身同士、若者同士のお見合いだろう。だが真実、意味するところは互いの会社の契約話にある。財政的に厳しい環境下にいるARIAカンパニーの後援者になってくれないだろうかと、打算的な意思が見え隠れするものだった。
無論アリシアはそのつもりで来たし、青年にしても同じく。
相手がたまたま妙な知り合いだったと、実際に会った後で気付いただけで。
「社長さんだったんですね。お仕事をしているとは聞いてましたけど、そこまでは聞いていませんでしたから」
「話そうとしたことはないからな。親から譲り受けただけの七光りだよ。そんな珍しい話じゃない」
「いいえ、さっきのお付きの方、本当にあなたのことを尊敬している目でしたよ。そんなに謙遜しなくても」
「あの人はガキの頃から世話になってる人だから。過保護なだけだ」
夕日が徐々に落ちていく中、ひどくゆったりとした歩調で歩いていた。
最初こそ、会社のために仕方がないと思っての考えだった。だが実際会ってみたのが彼だったら、思いのほか心中は落ち着いている。
今まで何度も顔を会わせていながら、こうして隣り合うこともなければ、落ち着いて会話することもなかったのだ。逃げて、追って、仲がいいとも称せぬ関係のまま今日を迎えた。これまで様々な人間と出会っていても、彼との間にあるほどの変わった関係というものはなかった。
ようやくと言っていいだろう。触れられるほどの距離に一度も近付いたことがなかった、なのに今はすぐ隣に彼がいる。
どことなく奇妙な雰囲気だった。だが不思議と嫌な感じはない。
彼もそう思っていればいいなと、自分でも気付かぬ内にそう思っていたアリシアは思わず笑ってしまう。
これではまるで、恋する少女のようではないか。
「何笑ってんだよ」
「うふふ、なんだか不思議です。あなたとこうして歩く時間なんて、一生来ないんじゃないかと思ってました」
「まさかそれは嫌みか?」
「いいえ。純粋にそう思っただけです。だって、一度も私と向き合ってくれたことなんてなかった」
「やっぱり嫌みなんじゃねぇか。最近はわりと話してただろ。昔よりかはマシになってる」
「それでも、私の舟には乗ってくれませんでした。どうしてか聞いてもいいですか?」
「なんとなくだ。深い理由はない」
「もう、いつもそればっかり。それなら一度くらいいいじゃないですか」
「俺より乗せなきゃいけない奴なんていくらでもいるだろ。いい加減こだわるのやめろっての」
「そこまで逃げられちゃうと、どうしても乗せてみたくなっちゃうんです。私、これでも結構ショック受けてるんですから。乗りたい、ってたくさん言われることはあっても、乗りたくないなんて言われたの、初めてです」
「乗りたくないとは言ってないだろ」
「でも乗ってくれたことはないじゃないですか」
「そういう気分だったんだ」
青年がぴたりと足を止め、近くにあった欄干へ寄り掛かりながら、町を見下ろす。
高台から見下ろす水の都は、夕日に染められて赤い色を称えている。ゆらりと光を反射する水面、立ち並ぶ建造物の屋根、遠くに見えるウンディーネのゴンドラ。彼らが出会った町のすべてが赤く染められていた。
アリシアも青年の隣に並んで欄干に手を置く。
「別に、ウンディーネに対して偏見を持ってるわけじゃない。嫌いになったわけでもないし、あんた自身を悪く思ってもいない。本当にただのなんとなくなんだ」
「理由は、何もないんですか」
「さぁな……もしかしたら、職業病ってやつかもな」
「職業病? 貿易関係の、ですか?」
「いいや、社長っていう妙な立場さ。ガキの頃から仕事を手伝ってて、会社のためを考えて生きてきた。立場的にも、親が社長だったからな、跡目を引き継がせるつもりで色々教育されたし、俺だってそれを受け入れた。いずれは自分の足で歩かなきゃならないって、そればかり考えて。助けてくれる奴は今も昔も多いし、感謝もしてる。でも実際社長の座に座ったら、やっぱり俺がしっかりしてなきゃ、世話になったそいつらに飯を食わせることができないんだって思ってさ。必要以上に他人を頼るのはやめた」
「いつも言ってましたね。自分で歩けるんだから運んでもらう必要はないって」
「ウンディーネがネオ・ヴェネチアになければならない存在だとは思ってる。でも、ここで育った俺には必要ない、とも思う。あんたには悪いけどな。……てめぇの足で町中歩き回ったんだ。知らないことの方が少ない」
「あらあら」
うふふ、と小さくアリシアは笑い声を発する。視線は町を見下ろす青年の横顔、見たこともないほどやさしげな笑みを見ていた。
おそらく彼はこの町のことが大好きなのだろう。はっきりと言葉で言ったことはないし、そんな素振りを見せたことだってこれまで一度もない。
だがその顔を見れば、この一年の逃亡劇が、胸にすとんと落ちるようだった。
子供の頃からネオ・ヴェネチアで育ち、町の利権にも関わる仕事に携わり続けた彼。他のことも知らず、一般市民とは違う生活、環境で育ってきた彼。
言葉の通り、今さら誰かから何かを教えてもらうことなどなく、自分の足で、目で、存在すべてでネオ・ヴェネチアを見てきたはず。高台からそこを見下ろすその姿が、その笑みが、何よりも強い証明となっていた。
しかしそう聞くと、当然のようにアリシアも黙っていられないのだ。
「だけどまだ、あなたが知らないものだってありますよ」
「ん?」
「ウンディーネのゴンドラの乗り心地です。乗ったことないって、言ってましたよね?」
彼女を見る青年の目は真ん丸に広げられ、子供っぽい様子で驚いていた。堪え切れずにくすりと笑みがこぼれてしまう。
背筋を伸ばし、誇りを持って。真っ正面から彼を見返すアリシアは笑顔で、しかしどこかいたずらっぽく、伝える。
「ずっと自分の足で歩いてきたのなら、たまには休むことだって必要だと思います。その時、私たちのゴンドラに乗ってくれたら、私はとても嬉しいと思うんです。だって、この町のことを愛しているあなたが、やっと私たちのことを本当に知ってくれたってことでしょう?」
「……本当にって、俺は別に――」
「この町を案内することだけが仕事じゃありません。自分で歩くことに疲れてしまった人を乗せて、新しい景色をいっしょに見に行くんです。一人で見るのと二人で見るのとじゃ、きっと見える景色が違うから、地面から足を離して、水の上から、今まで見れなかった場所からこの町を見るんです。そうすると普段は見えないところまで見えるでしょう? 一人じゃ見れない景色を見る、そのお手伝いをするのが、私たちのお仕事なんだと思います」
青年の視線が町の方を向く。
遠くに見えるゴンドラには、今も誰かが乗っているのだろうか。ただ乗りたいだけなのか、誰かと会いたいからなのか、それとも彼女が言うように、自分で歩けなくなったからなのか。
ただ少なくとも、そんな風に考えたことは一度もなかったのは確かだ。自分の足があるのだから、他人を頼らず、この両足で歩けばいいと。疲れたのなら座って休めばいいと思っていた。
誰かといっしょに。上に立つ者として他人の前を歩いて生きてきた彼にとって、盲点だった考えだ。
「ただウンディーネに運んでもらうってだけじゃないんですよ? 確かに、私とあなたが会う時は、そういうことしか言ってなかったような気がしますけど」
「俺があんたと会う時は、いつもずぶ濡れだったからな」
「うふふ、泳ぐのが好きなのはいいことです。でも、少しくらい私たちにも目を向けてくださってもいいんじゃないですか? せっかくお知り合いになれたのに」
「そもそも、俺は一人にしてくれと何度も言ってたんだ。知り合いになろうと思ってなったわけじゃないし……泳ごうとしてたわけでもない。ただあんたが来れなさそうな場所を探してただけでな」
「あらあら」
言葉とは裏腹に、その笑顔はとてもやさしい。大人びているようで、でも子供が喜んでいるようにも見えて、だらしないとは対称に位置しながらひどく緩んでいる。
彼女もまた視線を戻し、町を眺める。水上のゴンドラから見る景色とはまた違い、高台から見るそこは美しく、夕日に照らされた今ではどこか儚げにも見える雰囲気があった。
しばらく会話が止まり、何をするでもなくぼうっと見続ける。
そうしていると青年が口を開き、静かな声色で話し始めた。
「援助の件、俺は受けるつもりだ。元々断るような理由もない。ただ、親父が仕掛けた見合いって形が気にいらなかっただけでな。あの人はどうしても俺に身を固めてほしいらしい」
「あらあら、それはどうしてでしょう」
「相談役に納まって暇なんだろ。俺がどうこうっていうより孫の顔が見たいだけなんだ、きっと」
「どうして、勧められているのに結婚しなかったんですか?」
「ん、まぁ……向いてなかったんだろ」
懐から煙草を取り出し、一本だけ銜えて、火を点けようとする。しかしその前にアリシアが手を伸ばし、やんわりとライターを奪い取ってしまった。
無言で微笑まれては毒気すら抜かれ、口の中でそれをころりと転がすと、青年はそれ以上の行動は見せなかった。
「見合いは今日が初めてじゃない。上手く進んだ話も、何度かあったし、多分無下に断られたことはない。だが、そこまでだ。付き合うことになっても結婚までは漕ぎつけなかった」
「理由を聞いてもいいですか?」
「一度だけはっきり言われたよ。俺には他人の心がわからないんだ、って」
目を閉じて、なんでもないことのように言う青年の顔には笑みがあるが、決して自嘲するわけではない。後悔をしている風でもない。
ただ事実だけを淡々と伝えるような、そんな気配すらあった。
「ガキの頃から仕事一筋だったおかげでな、女の扱い方ってのがなってないらしい。大体は、いや、全部かな。向こうから寄ってきて、向こうから去っていく。その繰り返しで今日まで来た」
「真面目な方なんですね」
「ただバカなだけだ。逃げられても追おうとはしなかったしな。多分、俺にはそういうの向いてないんだろう。女の尻を追っかけるより、やりたいことがいくらでもある」
「それもお仕事のこと、ですか」
「まぁな。どうせまだ生まれたばっかのガキなんだ、結婚なんて俺には早すぎ――」
「それじゃあ今日のお見合い、破談になってしまうんですかね」
アリシアの声に少しだけ、どこか悲しげな色が混じった。青年は何気なく彼女の顔を見やり、微笑む表情を見る。
目元は細められ、口元は柔らかな弧が描かれている。しかしさっきまでとは何かが違うようにも見えてしまって仕方ない。
彼女もまた、青年の顔を見た。
「援助は受けるんだ、その方があんたのためにもなるだろ。貰い手はいくらでもある」
「うふふ、嘘が下手だって、言われたことはありませんか?」
「は? まぁ、なくはない」
「私もそう思いました」
白く美しい指がすっと伸び、青年の口にあった煙草を取り上げる。
今、彼の顔のすぐ目の前には、なぜかアリシアの顔があった。
「あの時間を手放したくないと思ってたのは、私だけですか?」
沈みかけた夕日によって伸びた影が重なったのはこの日が初めてのことであった。
◆
女の髪を指で梳くのも、白いシーツの上で顔を合わせるのも初めてのことではない。それもまた男のたしなみだと、ある程度の年齢になった頃から専用の教育を受けた。
以前はそこまで特別視していたわけではない。仕事にも関わることだからと、どこか打算的な考えも頭に残っていた。
しかし今日だけはなぜか特別な時間に思えた。日頃の思考がすべてどこかへと消え去り、暗い部屋の中、目に映るのは彼女の金色だけ。
できるだけやさしく、髪を撫で、額に口づけを与える。彼女はくすぐったそうに笑って、緊張していた面持ちを少しだけ崩した。
聞けば、男と寝所へ行くのは初めてだという。美しい容姿から考えれば少し意外でもあったが、彼女の性格や職業、これまで共有した日々を考えれば妙に納得もできる。
今までは見たこともない、少し緊張して心細そうに自らを抱き締める彼女。それは清廉で一筋、ゴンドラの上に立つ姿とは違っていた。
おそらく彼女も自身と同じく、ただ一つのことだけを見続けて生きてきたのだろう。青年はそう思い、人気がありながら誰かの物になろうとしなかった彼女を理解する。
ゆっくりと髪を掻き上げ、頬へ唇を押しつける。また彼女は少し笑って、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに青年の胸へ頭を寄せた。
「なんだか、慣れてるみたいに見えます」
「慣れてるってほどじゃないと思うが、少なくとも初めてじゃない」
「むぅ、そういうこと、そんなに正直に言うものですか?」
「あんたが聞いてきたんだろう」
「あ、また……こんな時くらい、名前で呼んでくれてもいいんじゃないですか」
「残念ながら、俺は他人の心がわからない人だから」
シミの一つもない白い肌、首筋へと顔を寄せて、ゆっくりと触れる。
彼女は思わず身を強張らせ、小さく息を吐く。やはり不安は残っているのだろう。
たとえ自分で決めたことであっても、未知なる恐怖はそう簡単に消しされるものではなく、思考と体が一致していない今なら特にだ。
青年はできるだけ彼女の不安を解きほぐそうと、ひどくやさしい手つきで体に触れる。
肩や背中、腰や太もも、腹。ただ触れるだけの手は気遣いの見えるゆっくりとした動きで彼女の体を這っていく。
そうしていると彼女が笑った。何がおかしいんだと顔を覗き込んでみると、胸の中にあるその顔、青年を見つめながら口を開いた。
「なんだかとてもやさしいです。いつも口は悪いのに」
「うるせぇ。余計なお世話だ」
「うふふ……私に気を遣う必要はありませんよ。好きにしていただいて結構です」
「今も十分好きにしてる。だから途中で止めるな」
「あらあら。やっぱり口が悪い」
「今のは別に普通のことだろ」
無理やり黙らせるように唇を塞ぎ、嬉しげに目を閉じる仕草を見終わってから、彼も目を閉じる。
肌の上を動く手は勝手知ったるように、しかしどこかやさしさも残しながら、徐々に触れる場所を変えていく。
先程の場所もそう、さらには胸や尻にも指が触れ、閉じられた唇からわずかな声も洩れる。感じている、というよりも恥ずかしがっているようなそれだ。
青年は唇を離し、また首筋や頬、額、彼女のあらゆる場所へ唇を触れさせながら、体へ触れる。
くすくすと笑っていたはずの彼女も、時間をかければそれだけ、先程よりも艶っぽい表情を見せるようになった。頬は赤く染められ、瞳は潤んで、すぐ傍にある青年の顔を愛おしげに見つめている。
誰かのそうした表情はこれまでにも見たことがある。だがやはり、今までとは違う何かが、青年の心を揺り動かしていた。
「まだ緊張してるか?」
「いいえ。やさしくしていただきましたから」
「そういえば、敬語。なんとかならないのか」
「いけませんか? 私はこの方がいいんですけれど」
「どうして」
「まだお客様にもなっていただいてないのに、馴れ馴れしくするのはなんだか気が引けて」
「まだ言ってんのか、それ」
「乗って頂けるまでは、言い続けようかと」
眉をひそめた青年はため息をつき、また唇を塞ぐ。ついでに両手でわき腹をくすぐってやれば、声を出せない彼女はくぐもった悲鳴を発しながら、楽しそうに体を捩った。
遊ぶように絡み合い、ベッドを軋ませながら逃げたり追い掛けたり。
年甲斐もなくそうしてはしゃいだ後、ベッドに背を預けた彼女の上へ青年がのしかかり、鼻先を触れあわせながら二人してくすくすと笑顔を向け合う。
どちらからともなく唇を触れ合わせて、互いの存在を確かめあうように手で触れあって、同時に開いた目がぴたりと合わさった。
青年の手が、するりと肌を撫でながら彼女の胸へ触れる。指が沈みこむような柔らかなそれに手のひらを合わせ、下から持ち上げるようにして、少し力を入れて揉む。
両手でそうしつつ、顔を下へと移動させた彼はツンと立ったそこを口の中へ含んだ。しっかりと存在感を示すそれに舌を這わせ、歯を当て、赤ん坊にも見える格好、しかしそれとは違う動きをする。
彼女の両手は自然、彼の頭を押さえるように髪へ触れ、きゅっと唇を閉じて視界を閉ざした。
「んっ、んっ、んぅ――」
「声、我慢しなくていいぞ」
「我慢なんて、してません……ふっ、うっ、ただ、ちょっと、呼吸がしにくいだけで」
「明らかに我慢してるからだろ、それ」
青年の頭がまた上へ移動し、固く閉ざされた唇を舌で割って内部を舐める。
両手は今も胸の形をぐにぐにと動かし続け、ますます頬を赤くする彼女を責め続けた。
唇を離し、至近距離で視線を合わせる。やはり彼女は、恥ずかしそうに目を伏せようとした。
「いいよ。どうせ俺しか聞く奴はいないし」
「私としては、それが一番恥ずかしいんですけど……」
「じゃあやめるか?」
「う、それは嫌です……」
「なら我慢なんかするな。恥ずかしくてもいいから、呼吸止めようとなんかするなよ」
「はい――あっ」
試しに首筋へ舌を這わせれば、彼女はぴくんと反応して小さく声を洩らした。
そのままゆっくりと舌を移動させ、首筋から胸元へ、揉み続けていた乳房へ。彼女を安心させるためかのように、弱く吸いつきながら徐々に指先へ力を込めていく。
すると彼女はわずかに体を震わせながらもしっかりと悦びを感じている様子を見せた。
青年の頭は時間をかけながらも徐々に下へ向かっていき、肌の上にぬらりとした光沢を残しつつ、そこへ到達した。
途端に彼女は脚を閉じて両手をやり、己の股を隠そうとする。だが彼は何も言わず、目だけで顔を見やり、手を使ってやんわりとその制止をどかせた。
ぴたりと閉じた、男を知らぬ彼女の秘所が、青年の前に晒される。
「あの、あんまり、見ないでくださいね……は、恥ずかしい、から」
「見なくてもいいけど、ちゃんと濡らしとかないと辛くなるぞ」
「う、うぅ、そう言いながら、そんなにしっかり見ないでくださいよ……」
「あんただって俺のを散々まじまじ見てたろ。これでおあいこだと思うが」
そっと唇を寄せ、軽く触れる。それだけでぴくりと全身が反応し、握り合った手に力が入った。
青年は気にせず、一方で気遣いながらも、舌を伸ばして弱く触れ始める。包皮に包まれた陰核、閉じられた女陰、わずかながらに濡れたそこへ。
羞恥から来る興奮か、与えられる快感か、彼女の息が徐々に乱れて艶っぽいため息が増えていく。
強弱をつけながらも、青年は舐め、吸い、彼女へと確かな快感を与えていった。
しかしその途中、自ら手を離した彼女が青年の頭へ触れ、視線を自分の顔へ送るよう促す。
すぐに彼は真っ赤に染まった顔を見るわけだが、恥ずかしげな表情とは裏腹、きゅっと唇を噛む彼女はか細い声で先を促した。
「あの、もう……もう、大丈夫だと、思うので……その先を、してください」
「え? あー……もういいのか?」
「た、多分、大丈夫だと思います。あの、確かに、気持ちいいんですけど。それよりも、今は……あなた自身を感じたいって、思うんです」
「……わかった」
いじらしげにそう言う彼女を見て、心が動かぬわけもない。
青年は愚直なままにそそり立っていたペニスに手を添え、彼女の秘所へと触れさせた。
途端に彼女はびくりと震えるのだが、悲鳴を上げたり、逃げるような素振りを見せることはなかった。
「辛かったら言ってくれ。あんたが嫌がってるのに続けるほど、バカじゃない」
「うふふ、ええ、わかってます。おやさしい方ですもの」
「別にそういうわけじゃ……まぁいいか」
ぐっと力を入れて前へ突き出し、独特の固さを残すそこへ押しいれる。
彼女は唇を噛みながらぎゅっと目を閉じ、縋りつくように青年の首へ腕を回して抱きよせる。そのまま、青年は自ら彼女の唇を塞ぎ、歯で唇を傷つけぬようにと、固く閉ざされていたそこへぬらりと入りこんだ。
挿入した直後は、青年は動こうとはしなかった。不安に震える彼女を落ちつかせるよう、髪を撫で、唇へ触れて、恋人にするようにやさしく手を動かした。
これまで体を重ねた女に、自分はこんなにもやさしく触れただろうか。ふとそんな疑念が頭をよぎるが、まるで青年がそんなことを考えているとわかっているかのように、彼女が彼の唇に弱く噛みついた。
目を開いた彼女の顔に笑みが戻る。彼もまた、微笑むように口元を歪めた。
ゆっくりと腰を引いて、ゆっくりと前へ進める。固さの残るそこを解きほぐすかのように、青年は己のペニスを操った。
初めこそ恐々と眉をひそめていた彼女だが、青年の気遣いの甲斐もあってか、だんだんと舌を絡ませる仕草が情熱的になり、首に回された腕にも痛くない程度の力がぎゅっとこもる。
徐々にスピードも速くなって、二人の気分はますます高まっていった。
「んっ、んっ、んっ、んっ――」
清らかな声が淫らに濡れ、わずかながら室内に響く。小さな明かりしか灯っていない今、汗に濡れた彼女の肢体も見にくく、それがより一層気分を向上させる。
唇が離れ、しがみつくように彼女が青年の首筋へと顔を埋め、今や抑えることなく声を発していた。
嬉しそうな、衝撃のままにこぼれ出す甲高い声。もはや彼女の意識はすべてが青年へと注がれていて、ぎゅっとしがみつく様は必死、しかしやはりわずかながらも笑みが浮かんだままだった。
「あっ、あっ、あっ、あっ――」
「あぁ、はぁ……」
ずるずるとひだを押し上げて奥まで届き、一定のリズムで、熱を分け合いながら動く。
細かな技術も多くの言葉も必要ない。そうして体を一つにして動き続けているだけで、思考や心まで一つになっていくような、そんな独特の感覚すらあった。
お互いの息遣い、わずかな声、肌に浮かんだ汗や体から発せられる香りまで。何もかもが相手の存在感をより一層強く感じさせ、時間も忘れ、思考すら投げ捨てて、二人はひたすら深くまで快楽を貪り合った。
そうして時間が過ぎ、気分も最高潮へ達した時。
荒々しく彼女の唇を奪った青年は、最後の瞬間を迎えるまで彼女の中から離れず、くぐもった声を出す彼女を感じながら達したようだ。
「ふぅ、はぁ、あ、アリシア――!」
「んっ、んんっ、んんんっ――!」
勢いよくずるりと抜き、自分の手でペニスを扱いて、放たれた精液は彼女の腹を白く汚した。同時に彼女も気をやっていたようで、小さく全身を震わせた後、ぼんやりとした目を彼へ向ける。
口を離して、どちらも荒く呼吸を繰り返し、肌を合わせたまま動きを止める。
しかし青年は彼女の隣に並ぶように身を横たえ、寂しそうに唇を尖らせるその顔を見て見ぬふり、ゆっくりと目を閉じた。
腹の上を指で撫でながら、出された精液へ触れる彼女はにこやかに、彼へ顔を寄せながら小さく呟く。
「なかに出してくださっても、よかったんですよ?」
「結婚もまだでそれはまずいだろ」
「うふふ、私は構いません。遅かれ早かれ、じゃないですか」
「あのなぁ……ウンディーネが妊婦姿でゴンドラに乗るわけにもいかないだろ」
「え? お仕事、続けてもいいんですか?」
「別にやめろと言った覚えはないぞ。……自分が誇りを持ってる仕事だ、他人の言葉でやめられるほど軽いもんじゃないだろ」
手触りのいい髪へ触れ、見つめ合う。
不思議と嬉しくなって、彼女は子供のようにくしゃりと笑った。
「今はもう他人じゃないでしょう?」
「今のところはな」
「もう、またそんなこと。心にもないこと言っちゃだめです」
「なんで心にもないってわかるんだよ」
「わかります。だって、昨日今日のお付き合いじゃないんですもの」
再び触れた唇は、どちらからともなく。
気だるげな言葉が詰まることはなく、ベッドの上の二人はゆったりと流れる時間の中、朝までお互いの存在を感じ合っていた。
◆
アリシアが作った朝食を食べながら、水無灯里は今しがた聞いた言葉をきっかけに、ぴたりと動きを止めてしまった。
フォークで掬った目玉焼きがとろりと黄身を垂らし、皿の上にぽたぽたと落ちることにさえ気付かず、真ん丸に開かれた目は目の前の彼女に釘付けになっている。
嬉しそうに頬杖をついて微笑むアリシア。いつも通り美しく、しかしいつも以上にきれいで幸せそうに見えるのは、明らかに何か良い事があったのだと理解できる。
しかしそれがまさか、急な「結婚」という発言とは思わなかった。
「はひ?」
「うふふ、だからね。私、結婚することにしたの。ほら、話したじゃない、あのお見合い。あれが上手くいったの」
「……はひ?」
「あらあら。うふふ――」
思考が正常に作動しなかった。それほど衝撃は大きく、何を言われているのかわからない。
自身の師匠で先輩で、同じ会社の上司であるところの彼女。ネオ・ヴェネチアで知らない者がいないほどの有名人。
彼女が結婚する。確かに性格も容姿も、仕事の技術も、家事をはじめとした生活の能力だって何一つ問題ない。誰かといっしょになるのは何もおかしくはないかもしれない。
ただ、あまりにも突然過ぎる話であるのは否めなかった。それに、会社のために引きうけたはずのお見合い、それが上手く形になるなどと全く予想していなかったこともある。
ぱちくりと瞬きを繰り返す灯里はなぜか大好きなアリシアの言葉を信じられず、手に持ったフォークをからんと落として、それに気付くことなく視線は目の前の彼女ばかりを見ていた。
「え、け、け、結婚? お見合いで、ですか?」
「ええ、そうなの」
「で、でも、あのお見合い、一応受けるだけでどうなるかわからないって――」
「んー、確かにそうだったんだけどね。実際に会ってみたら気持ちが変わっちゃったの。大丈夫、脅されたわけでもないし、無理やりでもないわ。私自身の意思で選んだの」
「そ、そうなんですか……あの、本当に?」
「ええ、本当の本当。私、結婚するの。例のお見合いの相手と」
うふふふ、と笑う表情はまさに幸せいっぱいで、灯里はなんと言えばいいのかわからなくなる。
どれほど魅力的な相手と出会ったとして、アリシアはたった一日で男に心を奪われる女ではないと、灯里はそう思っている。これまで声をかけられたことも多いだろうし、知り合いも多そうだが、流石にこれは何か理由があるのではないかと。否、何かなければおかしい、とさえ。
しかし当人の顔を見ていれば、確かに無理やり話を決められたわけではなさそうに見える。むしろ自分から望んだかのように幸せそうだ。それだけに不自然な様子に思えて仕方なかった。
毎日のように話していた、野良猫のような彼の話。そのことを覚えていないはずがないのに。
「でもアリシアさん、あの人のことは……アリシアさんがいつも言ってた男の人は、いいんですか?」
「あぁ、そのことね。うん、大丈夫。ちゃんとわかったから」
「え? わかったって……」
「私の気持ち。これまでどうしてかなぁって不思議だったんだけど、ようやくわかったの。どうして私が彼を追い掛け続けていたのか」
思わず首をかしげずにはいられなかった。
ゴンドラの操舵技術を教わる時はもっとわかりやすく説明してくれるし、何か相談をした時も真剣に向き合って、ちゃんと言葉で伝えてくれていた。
なのにこの姿は、あまりにも浮かれすぎている笑顔はなんだろうか。
なんとも言えずにいる灯里の前、アリシアはやはり嬉しそうに、幸せそうに微笑んでいる。
「それとね、この前ちょっと話したこと。私の、引退の話」
「あ……は、はい」
「あれ、やめることにしたの。引退はもうちょっと先、もうしばらくこのまま、ウンディーネの仕事を続けるわ」
「は、はい――えっ?」
驚きはそれだけにとどまらず、灯里はまた違う話で目を真ん丸と開くこととなった。
ガタンとイスを揺らし、思わず伸びた手がコップを倒してしまい、中に入っていた水が傍にいた火星猫、アリア社長を濡らしてしまい、混乱はさらに大きくなる。
慌ててイスから立ち上がるのだが、自分が何かをするよりも先、アリシアがタオルでアリア社長の体を拭いていた。
「ぷいにゅ~」
「わっ、わっ――ご、ごめんなさい、アリア社長!」
「あらあら。そんなに慌てなくてもいいのよ灯里ちゃん、もう少し落ち着いて」
「あぅ、す、すみません……」
アリア社長の体を拭き終え、丸々とした体を膝の上に乗せたアリシアに促され、再びイスへと座る。
灯里は今、ぐるぐると回り続ける思考をどう言葉にするかで精一杯である。
アリシアの引退の噂。それは前々から大小様々囁かれ始めたものであったが、彼女自身、灯里が一人前になったことを機に真剣に考え始めていたようだった。
近々、ひょっとしたら引退するかもしれない。アリシア自身がそう言っていたし、寂しい気持ちもありながら、灯里は止めるようなことはしなかった。彼女の邪魔になりたくなかったためである。
しかし、その話をやめたと、嬉しいはずのその話を聞かされてもまず頭に浮かんだのは「なぜ」という言葉であった。
理由が思い当たらず、ましてや結婚するならなおさら、とも思うのに、どうして引退を先延ばしにするのか。
まるで理解できていない灯里は尚も目を白黒とさせて混乱し続けるのだが、アリシアはそんな彼女に向かって、やさしく声をかけるのである。
「だってまだ、一番乗ってほしい人といっしょに乗ったことがないんだもの。このまま引退しちゃったら私、きっと一生後悔しちゃうわ。だからその前に、絶対彼といっしょにゴンドラへ乗って、この町を見るの。彼が見たことの無い場所から、私が進めるゴンドラの上から」
また灯里が首をかしげることになってしまうのだが、アリシアの緩みきった表情は元に戻らず、それ以上詳しく言おうともせず。
膝の上に乗るアリア社長が、小さく鳴いた。
灯里にはそれがなんだか「わかってないな」と言われているような気がして、さらに困ってしまうやら、ちょっと悔しく思ってしまうやら、相変わらず忙しそうに表情をころころと変えていた。