※この作品はR-18です。

蛇獣書房   作:ヘビとマングース

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 実験的に書いてみました。
 厳密に言えばエロではありません。わかりにくいけど比喩的な意味かと。


清める水(幽☆遊☆白書)

 暗い、闇の中に居た。

 蹲った姿の周囲には数多の死体。

 死臭が蔓延し、気色の悪い血が地面を濡らしている。所々は乾いてもいた。

 

 目を閉じて、頭を俯かせて。視界が映すのは暗闇だけ。いつしか音まで聞こえなくなって、果てがないほど深い闇の中に落ちていくのがわかる。

 疲れていたはずの体が楽になった。

 誰の気配も感じない、自分だけの世界。そこに居るせいなのかはわからない。ただ、摩耗していたはずの心が今になって研ぎ澄まされていくのが実感できた。

 

 ある時、彼は目を開ける。

 誰かの気配を感じていた。

 

 顔を上げると血と死体にまみれた部屋に入ってくる人物が居て、しかし心は動かない。

 一方で絶望的な差を思い知る。

 強くなったと思っていた。だが強くなった分だけ相手との距離が近くなり、近付いた距離がほんの一歩か、一歩にさえ届かないほどわずかなものに思える。つまりは遠過ぎた。

 

 理解していたはずだがやはり強い。

 飛影は自分の弱さを思い知り、だが一方で、心は凪いでいる。

 悠々と歩いて近付いてくる躯を眺めて、不思議な心境にあると自覚していた。

 

 「ずいぶん殺したなぁ。もうA級妖怪じゃ束になっても敵わないか」

 

 気安い態度で躯が話しかけてくる。まるで友達のように、親友であるかのように。

 その声を聞きながら飛影は動こうとはしなかった。

 

 「まさかたった半年でここまで強くなるとは思わなかった。大した奴だよ。そろそろオレの直属戦士とサシでやってみるか?」

 「……強くなる度に貴様が遠くなっていく気がするぜ。化け物め」

 「結構。これは期待ができそうだ」

 

 躯の数歩後ろに別の妖怪が立っている。

 一対一で戦えと言った。まさかその人物なのだろうか。

 殺し合う相手なのだろうかという人物を見ても、やはり飛影の心は動かない。恐怖心は皆無、何が起きても動じないほど静かな精神状態にある。

 

 抱えていた刀を握る。

 その瞬間に躯が軽い声を発した。

 

 「ああ、戦うのはこいつじゃない。別のことで使おうと思ってな」

 「ならどいつだ」

 「そう急くなよ。もうすぐここに来る。多分今のお前と大体同じくらいの力を持ってる奴だ。そいつに勝ったら、そうだな……オレの顔を見せてやるってのはどうだ?」

 

 そう言って躯はくつくつと笑う。

 顔中に包帯を巻かれて、特殊な札までつけられ、両腕は拘束されている。右目だけが露わになった姿はひどく怪しい。一体どんな妖怪なのだろうと前々から気になってはいたのだ。

 

 勝てば、少なくとも素顔くらいは知ることができるだろう。

 どのみち負ける気はない。飛影は何も答えなかった。

 

 無言を承知と受け取ったのか、それとも興味がなかったのかはわからない。

 躯は何も言わずに入り口を振り返る。

 また新たな人影が現れて、飛影の下へ歩いてくる。

 懐かしいと感じる顔だ。

 何年振りだろうかと思うほど久方ぶりの再会で、飛影は何も想わずじっと見つめる。

 

 飛影に視線を戻した躯が再び口を開いた。

 

 「オレは下級兵士とは別に、側近として常に77人の厳選された戦士を連れてる。数に深い意味はない。その数字が好きなんだ」

 

 室内に躯の声だけが響く。

 

 「こいつはその中の一人だ。まぁ、こいつに並ぶくらい強くなったことを喜ぶべきかな。こいつに勝つことができたら戦士の称号はお前にやるよ」

 「いちいち気に障る野郎だ。別に称号なんぞいらん」

 「そう言うなよ。オレの直属戦士ってだけで大抵の妖怪は協力的になる。探し物は見つかってないんだろう? 役に立てるとは思うんだが」

 「フン……」

 

 飛影が興味なさげに鼻を鳴らした。

 対して躯は淡々と説明を続ける。

 

 「死ぬまでやってくれ。なに、死んでも大したことはない。そのためにこいつが居る」

 

 躯の背後に居たもう一人、水色の髪を二つに結った美しい女が、小さく頷いた。

 傷を治療する役割、或いは蘇生のための人員といったところだろう。

 そちらには興味を示さずに、飛影は立ち上がった。

 

 左手に刀を持つ。鞘を握ってまだ抜かず、構えるようなこともない。体のどこにも余分な力が入っていない状態でそこに存在し、自身の戦う相手を見る。

 久々の再会でも心は少しも動かない。だが記憶は残っていた。

 目の前に立つ相手を静かな心で眺めて、勝利も、敗北も望んではいなかった。

 

 魔界整体師、時雨。

 巨大な円形の刀を持つ男は、かつて飛影に手術を施した相手だ。

 

 「いつから躯の部下になった」

 「おぬしに邪眼の移植を施した後にな」

 「知り合いか?」

 

 どうやら知り合いらしいと気付いた躯が口を挟む。

 反応したのは時雨だった。

 

 「患者と医者、それだけでございます。剣術の真似事を指南したこともありました。奴はそれを我流で磨いた様子」

 「なるほど」

 「しかし驚いたぞ。わしは本当におぬしに手術を施したのか」

 

 飛影が数歩、動き出す。

 時雨の言葉に動揺する様は見られない。

 躯の背後に居た女がそっと後ろへ下がった。戦闘に巻き込まれぬようにだろう。だが躯は隣に時雨が立っていることを知りながら動かない。

 

 「邪眼の移植は能力変化、生まれ変わりを意味する。前の妖力は赤子同然にまで落ち込む。確かにおぬしの妖力はA級妖怪から最下級まで落ちたはずだが、久方ぶりに会って驚いた。たった数年で前以上の妖力を持って我が前に現れるとはな」

 「貴様に会いに来たわけじゃないがな」

 「然り。ならば言葉も無粋よな」

 

 時雨が己の得物を構えようとする。

 輪っか状の奇妙な武器。名は燐火円礫刀。その刃は斧にも勝る切れ味を誇る。

 足を開いて、姿勢を低くした時、気付いた。

 

 飛影の首にかけられた紐、その先端には小さな宝石のような物がある。

 薄く笑い、斬り合う前に彼へ問いかけた。

 

 「目的の物はすでに見つけたか」

 「これはオレのじゃない」

 「ほう、ならば妹の石か。どちらにせよ探し物の一つは見つけたわけだ」

 

 力を込めて、いつ動き出そうという瞬間だったが、再び躯が口を挟む。

 

 「面白そうだな。聞かせろよ」

 

 主にそう言われたことで、時雨が直立して背を伸ばした。武器を構えるのをやめ、戦いの始まりを先延ばしにしたのである。

 その事実に飛影は反応せず、何も言わずに彼らのやり取りを耳にしていた。

 

 「飛影は二つの探し物を見つけるため、拙者に邪眼の移植を依頼しました。一つ、妹の居る氷河の国。一つ、母の形見の氷泪石。拙者は依頼を受けるか否かを、患者の人生に惹かれるか否かで判断いたします。そして、手術の報酬は患者から今後の人生の一部を頂くこと」

 「ほう」

 「奴から受け取った手術代は、妹を見つけても兄とは名乗らぬこと」

 

 躯が楽しんでいる様子を察して、時雨は再び刀を構えた。

 その顔には笑みが浮かぶ。

 

 「わしを倒せば手術代は返してやるぞ」

 「手術の前に言ったはずだぜ。初めから名乗るつもりはない、と」

 「心は変わるものだ」

 

 飛影も姿勢を変え、腰の辺りに刀を持つ。

 両者が戦いのための準備を終えた。緊迫した空気が漂い、互いの視線が交わり、今はその時を待つのみ。戦意は恐ろしいほど静かに部屋の中を満たしていった。

 

 変化を感じて躯は満足そうだ。

 話が終わったことを機に審判として口火を切る。

 

 「面白くなってきたな。各々事情はあるだろうがそろそろ始めてもらおうか」

 

 静かで、感情が感じられないものの、どこか弾む様子で呟かれる。

 

 「好きに始めろ。殺した方が勝ち、死んだ方が負けだ」

 

 言った瞬間、二人の全身に力が漲った。

 勝負は長引かない。

 二人の実力を加味した結果、躯はそう判断する。

 

 妖力はほぼ互角。だがそれだけで勝負が決する訳ではない。

 剣術の技量で言えば時雨の方が上。確かに我流で剣を磨いた飛影もかつてとは比べ物にならないほど強くなっているが、それでも届いてはいないだろう。時雨は師であり、剣においては高い壁。乗り越えるのは簡単なことではない。

 

 ただ剣の腕だけで決まるかと言えばそれも違う。

 飛影の強みは剣術ではなく、魔界の炎を操ることにある。

 邪王炎殺拳こそ飛影が最も得意とする技。剣を振るうよりよほど強くなる。

 これを使って時雨とぶつかった時、どうなるのか。予想はできたかもしれないが躯は敢えてそうしない。結果を楽しみにしていたからだろう。

 

 時雨は飛影に邪眼を与え、剣術を教え込んだ人物。彼の戦い方や性格はある程度理解しており、果たしてその相手に邪王炎殺拳はどこまで通用するのか。

 躯はそう考えていたが、この時、飛影は炎殺拳を使うことを自ら禁じるつもりでいた。

 

 殺すことだけを考えるならば、邪王炎殺拳を使えば簡単なのかもしれない。

 しかし飛影は敢えてその考えは捨て、剣のみで戦うことを決める。

 

 刀を抜いて鞘を捨てる。

 姿勢を低くして飛影が刀を構えた。

 そして額の包帯は外さず、邪眼の力を使おうともしなかった。

 

 以前ならば生きるためにはなんでもした。勝つために手段は選ばず、何をしようと対峙した相手を殺す、そんな生き方に拘っていた。

 だが今は、同じ考えではない。

 どう生きるか。そんな思考は暗闇の中で戦う内にすでに捨ててしまった。

 今はどう死ぬか。

 鋭い眼差しで時雨を捉える飛影は、自ら駆け出す。

 

 (実力に関わらず、真剣勝負はいいものだ)

 

 二人の距離が埋められていく光景を見る間、躯は思う。

 

 (決する瞬間、互いの道程が花火のように咲いて散る――)

 

 距離は十メートル以上はあったはずだ。しかし瞬き一つの間に目の前に居て、これがA級妖怪ならば見切ることもできていない。その速度に、時雨は素早く反応する。

 自ら前へ一歩出て攻撃を繰り出したのだ。

 

 鋼鉄の板さえ両断する燐火円礫刀は受ければ細い刀など両断する。

 真っ直ぐ向かってくる飛影がそのことを知らぬはずもなし、考えがないとは思えない。

 先手を取るため時雨が強く前へ踏み出す。それを見ながら飛影は退かず、逃げる素振りもない。接近する刃に対して刀を構え、防御の姿勢を取っていた。

 これが刀の腹で受けていたら、いくら頑丈な刀でも呆気なく折れている。

 そこで飛影は刀の峰で受け、押された影響で刃が自分の左腕を裂き、一瞬で切り落とした。

 

 飛影の左腕が宙を舞う。

 宙に浮かぶ血液の滴、一つ一つまで見えて、時雨は驚愕した。

 

 (左腕を捨てたか――!)

 

 腕を犠牲にした甲斐はあり、肉を裂いて狙いが逸れた時雨の刀身を、飛影が踏みつける。

 振り上げた刀を止める物はない。

 必殺のつもりで一撃が繰り出されるものの、覚悟を決め、時雨もまた腕を捨てる。振り下ろされる刀に対して左腕を差し出し、呆気なく切り落とされるが、おかげで刀の狙いは逸れた。

 首を刈るつもりだった刀身はわずかに逸れて、それでも時雨の首から大量の血が噴き出す。

 

 瞬きさえ許さない一瞬の攻防。

 全て見えている躯は歓喜した。

 

 残った右腕で燐火円礫刀を振り上げ、踏んでいた足ごと飛影を持ち上げる。バランスを崩した彼は当然体勢を崩して転びかけるが、その最中にも刀を振り、時雨を狙う。反応した時雨は上手く得物を操って辛くも防御し、不意の一瞬、勝機を得る。

 素早く体勢を立て直した飛影がその場を動かなかったのだ。

 

 近接戦闘、そして剣術において、燐火円礫刀に勝る武器はない。

 退かなかったのは彼のミス。本当に勝利を狙うならば敢えて勇気を持って退くべきだった。

 両者が互いに刀を振り、時雨の確信は強まる。

 

 燐火円礫刀と打ち合ったことにより、飛影の刀は剣先が折れた。

 宙を飛ぶ刀身を視界に納め、時雨が前へと踏み出す。

 

 (勝ったッ!!)

 

 素早い一撃。

 燐火円礫刀が飛影の腹に食い込んだ瞬間、肉を裂いて血しぶきが飛び、勝負は決したと、そう思ったが、その時時雨は確かに見る。

 飛影が、薄く笑っていたのだ。

 

 退くこともなければ恐れることもない。

 飛影は前へ踏み込んだ。

 

 通り過ぎ様に折れた刀が頭部を切り裂いて、時雨の顔の上半分が宙を舞う。

 その時飛影の腹は大きく裂かれ、大量の血が飛び散った。

 どうやら勝負は相打ちに終わったようだ。

 

 「見事」

 

 顔の半分を失いながら時雨の口が言葉を紡ぐ。それは心からの賛辞だった。

 時雨の体が倒れていく最中、飛影もまた地面へ倒れようとする。

 体に力が入らない。しかし悪い気分ではなかった。

 それは勝利ではなかったが敗北でもなく、少なくとも、納得のいく結果ではある。

 

 (相打ちか……悪くない)

 

 自然に考えていた言葉だったがおかしくなって笑ってしまう。

 

 (悪くない、か。まさか、そんなことを考えるようになるとは)

 

 飛影も倒れて、広がった自分の血の上に身を横たえ、目を閉じようとしていた。

 その時、いつの間にか躯が傍に居ることに気付く。

 頭上から降ってくる声は上機嫌で、何気なく飛影も視線を上げた。

 

 「驚いたよ飛影。素晴らしい戦いだった。褒美をやろう」

 

 気付けば包帯が緩み、口元が露わになっている。

 口を動かすところを初めて見たのだが、そう思う暇もなく、彼女は言った。

 

 「お前の氷泪石だ」

 

 口を開き、舌を伸ばして、その上に美しい小さな石が乗っていた。飛影が首飾りにしていたのと同じ物だ。珍しい物で簡単に手に入る物ではない。

 飛影は霞む視界の中でもわずかに光を反射したそれを見逃さなかった。

 

 「お前が自分の人生の大半をかけて探した石だ。オレにとっては支配国の貢ぎ物の一つに過ぎなかったんだがな。オレからの褒美として受け取れ」

 

 フッとわずかに笑みが漏れた。

 目を閉じていく間際、飛影は確かに呟く。

 

 「貴様の胃液臭い石など、いらん……」

 

 それきり、飛影は意識を失った。

 

 躯は視線を上げる。

 時雨にしろ、飛影にしろ、このままでは死ぬか、すでに死んでいる状態だ。このまま見捨てるつもりはない。蘇生してやらねばならないだろう。

 

 躯の背後に居た女がそっと動き出す。

 倒れた飛影の傍で膝を折り、彼の状態を見ながら口を開いた。

 

 「どういたしますか?」

 「時雨は放り込んどけ。飛影はお前の能力だ」

 「では、やはり」 

 

 女の問いには答えず、躯の包帯が少しずつ解けていく。 

 

 「クックック、ここを死に場所にする気か? それじゃつまらない。お前はまだ生きろ、飛影」

 

 上機嫌な声が言う。

 その声は飛影には届かなかった。それで構わないというように、躯は微笑む。

 

 「これからはオレの傍でな」

 

 

 *

 

 

 それは、川ではなく、泉ではなく、ただの水溜まりでもない。

 暗い一室にわずかな光が灯され、床に水が広がっているその場所に三人の妖怪が居た。

 

 火我苦(ひがく)、という女が居る。

 長い髪は比較的色素の薄い水色で、大きく丸い乳房を持ち、無駄な肉はつかずに細く、腰は括れていて、けれど尻は大きい。美しい裸体を晒していた。

 整った顔立ちをしているものの、目は閉じられて、耳は人より尖っている。

 何より特徴的なのは、両目が開かぬ代わりに額と両手の甲に大きな目があったことだ。

 

 水位は硬い地面に正座する彼女の膝ほどもない。

 体を横たえて耳に触れる程度だろうか。少なくとも溺れる程度ではない。

 部屋の床を埋め尽くすも、澄んだ水は透明で、美しくもあり、害にはならなかった。

 

 火我苦の前、部屋の中央には、裸の飛影が寝かされていた。まだ意識は戻っていない。腹の傷はすでに癒えているらしく、左腕も繋がっていて、傷跡さえも残らず、元通りになっている。

 水を掬い上げて、水をかける火我苦の手は彼の肌を撫でていた。

 特に傷があったはずの腹を入念に、全身を撫でて彼の体を清める。

 

 水が動く音だけが聞こえる部屋の隅に、同じく裸になった躯が立っている。

 その姿は、赤みがかった茶髪のショートカットで、小さな乳房の、若く美しい少女だった。見た目だけならば少女と呼んでも差し支えない、十代か二十代と思える外見だ。

 ただし、顔を含めて右半身が焼け爛れており、腕と太股は機械化されている。

 彼女は妖怪だが、人間とそう変わらぬ外見であり、それだけが唯一普通の人間とは違っていた。

 

 どうやらその水に触れたことで傷が癒えたようだ。

 火我苦が振り返って躯を見る。微笑みを湛えて見つめれば、彼女も笑みを見せた。

 

 「躯様。傷は癒えました。準備は整っています」

 「ああ」

 

 ゆっくり足を動かすだけで水を蹴り上げ、パシャン、と音を鳴らす。

 端に居た彼女が二人の下へ移動し、膝を曲げてしゃがむ。

 眠ったままの飛影の顔を見つめ、何やら穏やかな笑顔だった。

 

 額の包帯が解かれ、邪眼もまた閉じられたまま。

 首には、紐に括られた二つの氷泪石がかけられていた。

 

 顔を覗き込んで、躯の左手がそっと彼の頬に触れる。

 心は穏やかだった。

 荒れることはなく、自分でも驚くほど静かで、こんな状態は珍しいと自覚している。それは彼の氷泪石を何気なく見つめていた瞬間にも似た心境だ。

 

 「氷泪石か。お前は不思議な石を持っているな。それを見ているだけで憎しみを全て吸い取ってくれるような気がする。オレはその石に救われていた」

 

 躯の声は静かに、意識を失った状態の飛影へ向けられる。

 

 「オレは生まれた時から囚われの身だった。自由の代償として失った物もある。呪うことだけで強くなり、目に留まるもの一人残らず殺す日々が続いた。その石がなければ、オレの心は憎しみで満ち、戦闘はその発散の手段のままだっただろう」

 

 フッと自嘲気味に笑い、だがどこか晴れ晴れとした顔でもあって。

 頬に触れていた手が音もなく離れる。

 

 「約束だ。これがオレ、躯の正体だ」

 

 躯は立ち上がり、裸体を隠さず、飛影の体を跨いで見下ろした。

 美しくもあり、どこか歪でもある。

 だが、微笑む彼女はひどく少女然として美しかった。

 

 「今ではこの右半身はオレの誇りだ。治す気もない。お前になら全てを見せられる。今度はオレの意識に触れてくれ」

 

 そう言って躯は両膝をつき、顔の横に手をついて、彼の体に跨った。

 体を倒して肌を合わせる。

 全身が触れ合い、不思議といやらしさは感じず、安堵を覚える躯は至近距離で顔を見つめる。飛影に気付く気配はない。何気なく躯が彼の手を握った。

 両方の手を握って、頬と頬を触れ合わせ、体の力を抜いて目を閉じる。

 

 火我苦が両手で水を掬って、躯の背にかける。

 ぴちゃぴちゃと小さな音が鼓膜を揺らして、それ以外の情報はない。

 

 飛影の肌に触れ、手を握り、目を閉じて意識を集中させ、共に同じ水をかぶる。そうしていると二人の意識が溶けていき、混じり合うような感覚があった。

 意識がある、ないに関わらず、意識が共有されていく。

 おそらく彼も夢の中で躯を感じ取っていただろう。

 

 何が、という訳でもなく、ずるりと入り込んでいく感覚がある。それが意識の共有。

 水を掬った火我苦は、濡れた手で躯の体を撫で、肌に塗り込むかのように水で濡らしていく。爛れた右半身も、美しい肢体の左半身も、彼女の手によって触れられた。

 

 水による冷たさを感じる度に飛影の温度を強く感じる。

 心、精神、意識。呼び方はなんでもいい。体とは別の部分が混じり合って一つになる。

 体は肌が触れているだけ。特別な動作はなく、最初の状態と変わっていない。

 それでも一つになっているのが現状だった。

 ただ触れているだけでないとするならば、その場における変わった行為は、火我苦が二人の体を水で濡らす動き。手で優しく触れ、ただ肌を撫でる動作。

 その水を生み出したのは火我苦であり、不思議な水に触れていること自体が原因であろう。

 

 躯の脳裏に、飛影の過去が映し出されている。

 

 忌み子、飛影。

 氷女によって生み出され、生まれた時から強力な炎の妖気を纏っていた。

 忌み嫌われて氷河の国から投げ捨てられ、魔界の森で壮絶な幼少期を過ごす。

 妖怪を殺すために生きる。噂が広がるまでそんな生活が続いた。

 

 五歳になる頃にはA級妖怪の仲間入りを果たしており、そうなれば襲ってくる妖怪も減った。その頃からだろう、母の形見の氷泪石を眺めることが多くなった。

 だが一瞬の油断により、その氷泪石を失くすことになる。

 氷河の国を見つけることと、母の形見の氷泪石を見つけること。生きる目的が二つに増えた。そのためにはずっと遠くまで見える目、邪眼を求めて魔界整体師時雨を訪問する。

 

 邪眼を手に入れてすぐに氷河の国は見つかった。

 行ってみたのだが、氷女は皆どこか暗くいじけて見えたため、復讐はやめる。

 すでに死んでいた母の墓に行きもしたが、心が動くことはなかった。

 

 その後は妹を探して人間界へ赴くことになる。

 いくつかの戦いを経て、何人かの人間たちに出会い、深く関わることになった。

 

 変わり始めたのはその頃だろう。

 出会った人間の一人に浦飯幽助という人物が居る。

 最初の出会いは敵として戦う。だがひょんなことから再会した際には共闘し、それから目的を同じくする機会が多くなった。

 

 殺戮しか知らなかった妖怪、飛影が、徐々に人間らしくなっていく。

 その過程を見て躯は至福の一時を感じる。

 面白い、とも、愛おしいとも思うのだ。

 

 生きる目的を持っていた。しかしその目的は悉く虚無感を得る結果に終わり、生にしがみついていたはずの人生も、死を望むようになった理由も、彼女の中に染み込んでくる。

 彼の絶望、希望、それ以外の感情さえも。

 同じく彼も見ているはずだ。躯が三大妖怪の一角となるに至ったその道程。怒り、憎しみ、氷泪石を手に入れたことで時折感じられるようになった安らぎや平穏。

 

 静かに躯が目を開いた。

 その時、火我苦が音もなく立ち上がり、恭しく彼女へ頭を下げる。

 

 「あとはごゆっくり……」

 「すまんな。手間をかけさせた」

 

 火我苦は部屋を出て行った。

 残されたのはぴたりと重なって寝そべる躯と飛影。

 躯は彼の首筋に顔を埋め、自分でも驚くほど安堵した声で呟く。

 

 「飛影、死ぬな。お前はまだ自分の死を求めるほど強くなっちゃいない。でもオレを倒すのが生きがいだなんて言わないでくれ。そんなのは寂し過ぎる」

 「フン」

 

 飛影が鼻を鳴らす。

 彼女に抱きしめられて抵抗せず、薄く目を開くとすぐ傍にある髪を視界に納めた。

 

 「とりあえず、しばらくは勘弁してやる……」

 

 傷はしっかり癒えていた。すぐに引き剥がすこともできる。だがそうしない。

 彼にしては珍しく穏やかな姿だった。

 躯は何も言わず、彼を抱きしめた両腕にぎゅっと力を込める。

 

 躯の過去を見た。だから甘くなった、などと言うつもりはない。

 いずれは戦うこともあるだろう。そんな予感がする。その時、自分は躊躇わずに彼女を仕留められるはずだと自覚している。それだけの実力があればの話だが。

 ただ少しだけ、彼女に興味を持った。

 ただそれだけの話。

 

 決して多くはない水の中で、一糸纏わず、生まれたままの姿で肌を合わせる。

 人間のように愛し合っていた訳ではない。そこにあるのは、愛ではないかもしれない。しかしそれでも二人が相手への理解を深めたことだけは確かであった。

 

 これはある王とその側近が出会った話。

 ある日をきっかけに、二人は王と片腕として日々を歩み始めることとなったのだ。

 

 

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