肥遊びの終わり
―肥遊びの終わり―
「お客さん、閉店ですよ…あれ」お客さんは答えなかった。正確には答えられなかったのだけれど。常連のお客さんは、今日はどこかお疲れだったようだ。本を閉じ、目を閉じ、耳を閉じながら、据付のベンチで舟を漕いでいる。今日は買うでも借りるでもなく、睡魔を手に取って読み上げたようだ。
彼女のこんなに無防備な顔は見た事がない。それにしても、なんだか、見つめていると…うーん、輪郭がぼやけているような。目がかすんでいるのかと思ったが、今日の小鈴アイは絶好調だった。それなら? …なんだろう。私をわくわくさせるような匂いがする。
「わっ!!」
こういう時は脅かしてみるに限る。妖怪、幽霊、それから人間も、寝込みを襲えば退散するものだ。たぶんね。案の定、思惑通りの効果を上げたそれは、彼女を床に転がし…転がし? あれえ、これ別人だったかな? 困惑する私の前で、推定別人が起き上がる。…あのメガネ。別人ではなかった。
「…んん? おお…これは、参ったのう」
いつもとは、"身体"が違った。違いすぎる。布よ帯よはちきれよ、とばかりにいなせな衣装が膨らんでいる。引き裂けないのはどうしてだろう。…そんな事はどうでもよかった。あの時以来のときめきを感じる。何故なのか。醜く膨れたその身体から、丸めいた顔から、私は目を離せなかった。
「うむ、これはじゃな…おおっと!」気がつけば、私はその大きな身体に抱き着いていた。服の下に息づくぷよぷよとした腕、どんと迫り出した腹、それらを支える太い脚を、全身で感じた。あの時のように鼓動が高まる。どうしてだろう。これは…いい。よくわからないけれど、遥かにいい。
「あなた、本当は何者なのですか?」問うた瞬間、ぼろん、と尻尾が現れた。しましまの…アライグマ? いや、確か狸の尻尾は…どうだったかしら? まあ、そんな事はとにかくどうでもよかった。あなたが人間でない事に気付いてしまったのだから。ふふ。
「化けの皮を広められたくなければ…わかりますよね」渾身の笑顔で言い放った希望――いや、命令?――彼女は仕方なしという顔で、頭を掻きながら頷いた。「何が望みかね」尻尾に座り込んだ彼女が、私に問うた。目的…目的…ううん、どうしよう?
手下にする? いや、私はそこまで迂闊ではない。正体がばれたくらいの弱みにそれほどの強制力があるとは思えない。故あれば裏切られてしまうに違いない。私は聡明だから、過去ではなく未来から学ぶのだ。…考えを巡らせていると、ひらめいた! …ううん、これは少し変態的ではないか?
「これからもお店に来てください」私の言葉に、彼女は頭を掻く。「何かしら、買い求めればよいのか?」私は頭を振った。「あなたを連れ出します」「…うん?」「あなたにもっと、大きくなってもらいます」彼女は何とも言えない顔をして…まあよかろう、と呟いた。
良いと言われたのだから仕方がない。ふふふ。いつ頃、何処で、何をそうしようか、計画を立てる。これもいいな、あれもいいな。どのくらいしてやろう、どのようにやってやろう。私の…悪巧み?を見て、彼女は如何にも怪訝そうだ。今に体験する事になりますよ。嫌と言うほどにね。
◇◆◇◆◇◆
私達は、手当たり次第に店屋を回った。食事も、おやつも、甘味もだ。如何にも目立ちそうだったが、話しかけられる事は一度もなかった。どうやら彼女は、人の記憶に残らない術を知っているらしい。そうと知れば、行動も大胆になる。今までは路地を中心に回っていたが、大通りにも足を伸ばす。
お代はすべて払わせている。どうやら相当のお金持ちらしいので、私にも気兼ねはない。「…なあ、大分苦しいのじゃが」腹を撫で撫で、彼女は嘆願する。その姿は店を出た時から変わっていない。「駄目です。もっともっと回るんですから」勘弁してくれ、とぼやいていたが、引くつもりはない。
――はい、帰宅。外はまだ明るい。「…ふう、やれやれ…」椅子に腰かけた瞬間、彼女の身体が膨張する。今まで押しとどめていたものが一気に解放されたように。細身のシルエットは見る影もない。現れた尻尾よりも、ひょっとしたら目を引くかもしれない。それくらい、変化は劇的だった。
特に腹部はぐんぐんと膨らみ、膨らみ…いやちょっと、本当にこんなに膨らむの? 私の焦りを他所に、腹はまだまだと迫り出してくる。数人…十数人?分の食べ物が詰まっているのだ。「うわ…ぁ…」本居監視のなか、太鼓腹の過大拡大はようやく収まったようだった。
「して、どうする?」煙草を取り出し…吸い始めようとした彼女を、私は睨みつける。禁煙です。分煙にご協力ください。意図を察したのか、彼女はやれやれ、とジェスチャーしながら、それを仕舞った。…なんだか、まだ余裕そうな気がする。もっと食べさせてもよかったかな?
「あなたに抱き着きます」「…抱く? いやいや、先のある小娘がそういう事を言うものじゃ――」「そういうのじゃないです」割とスケベなのかもしれない、この人。「あなたの身体が気に入ったんです」またぞろ誤解されそうな表現かもしれないが、そうとしか言いようがないのも事実であって。
「あなたを太らせたくて、こんな事をしているんですから」私は肥満体に近付き、膨れた腹を撫でる。腕な脚な。そして頬をたぷたぷする。「抱かせてくださいね、これからも」彼女は困惑を隠せなかったのだろう。咳払いを一つ、そして懐から煙管を…
「禁煙」押し返す。「丁度良いですから、あなたも禁煙してください。匂いが好きじゃないんです」額に手を当てた。参らせてやったのかな。ふふ。
◇◆◇◆◇◆
今日、明日、そして一月を越えて。暇を見ては彼女を連れ出し、堂々と買い食いを続けた。暴飲暴食のヘビーローテーションだが、私達は常連と認識されていない。私にとっては好都合だし、或いは彼女にとってもそうだろう。変な噂が広まっても、お互い困ってしまう。
思うに、次第に食べさせられる量が増えてきたような気がする。気を抜いた時の、丸々した腹の膨らみも。それは重くて、私にはとても持ち上げられない。身体は始めて抱き着いたときよりも脂肪がついてきたようだし、顔も完全に二重顎だ。かわいらしく思う。…センスがおかしいかな?
「しあわせ~」四肢は柔らかく、腹は硬く硬く、作り変われていく彼女の姿が、とても愛おしい。何ならずっと抱き着いていたい。顎をぷるぷるしたい。腹をめちゃくちゃに叩いてみたい。「…嬢ちゃん、よだれが垂れとる」…はっ!? これは失礼、失礼…
…まあ、それはそれとして、だ。私には、温めていたプランがあった。それは更なる欲望の捌け口。私にはそれをする力も、権利もあるのだ。苦し気に腹を撫でる彼女から離れ、にこりと笑う。この身体が、もっと増える。いずれ私の傍は喜びで一杯になるのだ。
「これは、霊夢さんには絶対に秘密なのですが」棚の奥、そのまた奥。決して見つからないような場所から、私は一冊の本を取り出した。見るからに禍々しい。とても愉しく読ませてもらった本の一つだった。すなわち、隠さなければならないような内容だとも言える。
「人間を操る術の書かれた妖魔本です」ぴくひく、と彼女の耳が動いた。「尤も、食欲だけが暴走して使い物にならないそうなのですが…それは却って好都合!」静かに聞く彼女に、説明を続ける。…この時点で、彼女の目の色が変わった事に気付くべきだったのだ。
――ジジ。電球が音を吐いた。「連れ出した人を、あなたと一緒に食べさせます。術法の力で、きっと人間の限界を超えて食べ続けるはず」私は本を閉じ、笑った。何を言わんとするか、どうしようとしているのか。これで十分に伝わったはずだ。そしてそれは、あなたの力を必要としている。
「私はもっと身体が欲しいんです」尻尾が動いた。「あいつとか、あいつとか。丸々と太ったその姿に抱き着いたらどれほど幸せになれるでしょうか。私はそうしたいし、そうする方法もある」本を高く掲げ、彼女を見た。光るメガネの内側は窺い知れない。別に、する必要も感じなかった。
「それで、わしをダシにしようというのかね」思わぬ声。ドスの聞いた声。剥き出しの敵意。わたしは一歩後ずさった。気圧された訳ではない。ありえない。だって彼女は、私に逆らえないのだから。「やめておけ」目前で手を振る彼女。…いやだ。「やる」やりたいから、やるんだ。
刹那、彼女はまるで霧のように消えてしまった。慌てて部屋の中を見渡すと――はらり。私の手に小さな葉っぱが落ちる。なんだろう、これは。裏返しても、ただの葉っぱだ。彼女とは無関係かもしれない。気を取られたのが馬鹿らしくなって、それを捨てようとした、その時だった。
「遊びは終わりじゃよ」八方から、視線を感じた。恐ろしく、乾いた視線。「ここからは、大人の時間じゃ」
「――なに、なに!?」身体が熱い。まるで灼熱だ。手の中の葉っぱも、あっという間に燃え尽きてしまった。「一体何が起こって…んん!!」ドクン。ドクン。深い動悸が私の身体を震わせる。苦しい。噴き出した汗を拭おうとした、が。
「なに、これ…」その腕はとても私のものとは思えないほど、太く、太く、脂肪を蓄えていた。気付けば脚も、首も、腹も背も。いつもの服にぴったりとへばりつき、はちきれんばかりに拡がっていた。破れないのが不思議なくらいだ。
慌てて鏡を見る。「…嘘でしょ」立派な二重顎を湛えた丸い丸い顔が、そこにあった。鈴がなければ、誰だかわからないかもしれない。「やだ、私こんなに太って…どうして…!?」思い当たる節は一つしかない。彼女が私をこうしたんだ。あの時、私が言う事を聞かなかったから…!?
「ああ、あ…」どうしよう、こんな姿、誰にも見せられないよ…!! ごめんなさい、お願いだから赦して。お願い…
◇◆◇◆◇◆
やれやれ。おぬしの叫び、すべて聞かせてもらったよ。その姿はわしからの贈り物じゃ。ゆるりと考え、反省するがよい。
小娘の悪戯と思えば可愛いものじゃったが、他人に危害を加えようと言うなら、叱ってやるのが大人の勤め。何、あれは一時的な変化。大人しくしておれば、その内元に戻るじゃろう。徐に煙管を取り出し、火をつけようと思い…「禁煙か」娘の顔を思い出し、苦笑いがこぼれた。