―チーズはそこにある―
それを見つけたのは、単なる偶然だった。
ダウジングロッドが、そこに何かを感じたから、掘り返した。実際は何も出なかったのだが…いや、発見はあった。キャビネットの中を漁ると、それは見つかった。チーズだ。適度にカットされた、穴ぼこチーズ。特段珍しいものではない。私はそう思い、それを戦利品袋に入れようとした。
――ちょっと待て。私の第六感――そんな大層なものではないが――が、危険を告げる。少なくとも数年、数十年…或いは数百年は昔に作られたチーズが、これほどまでに原型を留めているものだろうか? 如何なる防腐処理されていようとも、それは風化して然るべきではないか?
私はキャビネットの上にそれを置き、見定めた。これはチーズだ。チーズ以外の何物でもない。或いは幻覚か何かに騙されているのかとも思ったが、今の私に変調はない。妙な魔法を掛けられている形跡もなかった。それなら、何故だ。ああチーズよ、お前はどうしてチーズなのか。
眷属達はこのチーズに決して手を出そうとはしない。強欲な鼠すらも躊躇わせるそれは、もはや超自然的な存在として、私の目に映る。これは食べられるのか。私の中で一つの疑問が浮かんだ。チーズなのだ。食べられないはずはない。…いやいや、考えてもみろ。そんな危険を冒す必要が何処にある。
…それでも私は、そのチーズを口にする誘惑に耐えられなかった。一口だけだ。一口だけ。怪しければ、吐き出してしまえばいい。警告の声を発する眷属達を押し退け、私はチーズをちぎり、手に取った。埃を叩く必要もなかった。それは如何にもチーズだ。限りなく完全な、穴ぼこチーズ。
――「なんだ、美味いじゃないか」口の中に広がるチーズの味は、最近でも…いや、ここ数百年で一番と言えるくらい、美味しいチーズだった。これならもっと食べてもいい。私はちぎられたチーズをすべて掴むと、一口ずつ味わって食べた。もっと食べたい。私は右てで、おかわりを――
「!!」何かがおかしい。私はたった今、チーズを食べきったはずだ。それなのに…目の前には、完全な形のチーズが置かれていた。そんな馬鹿な、と思うのも束の間、私は右手を出した。半分に千切られたチーズが、私の口に放り込まれる。…いや待て、どうしてチーズを食べ続けようとしているんだ?
それからも、手が止まらない。両手でちぎるのももどかしく、私は貪るようにそれを食べた。…違う。何かおかしい。夢の中で腹一杯チーズを食べていた事はあるが、それは所詮夢の話だ。…その夢の姿が、ここにある。なくならないチーズを必死に貪る。食欲に乱されながら、必死に頭を回す。
チーズは何処に消えたか。答えは簡単だ。このチーズはなくならないのだ。決して。ちぎられようと、噛まれようと、時が流れようと。――そして、食べられようと、合間を縫ってロッドを掴み、なんとか身体を引き離そうとする。…駄目だ。まるでチーズは私についてくるように、目の前に現れる。
腹八分目など、とうに過ぎた。内臓が、胃袋が、悲鳴を上げている。込み上げる吐き気を、新たなチーズが押し込んでいた。もはや内側に膨らむ余地はない。衣服を押し退けるように、腹は徐々に膨らみ続ける。大きなげっぷをした。空間が開いた。チーズはそこへなだれ込む。二度、三度。更に。更に。
――バン! 音を立ててボタンが弾け飛んだ。もはや遮るものは何もない。出口を失っていた腹部は前へ前へと殺到し、上着を思い切り押し退けた。胃袋が断末魔の悲鳴を上げたが、それもすべてチーズの中に沈んだ。もはや腕を、腹の向こう――そう、向こうだ――で組む事はできないだろう。
私の意識はチーズ以外の何物にも向けられていなかった。膨らみ続ける腹をもはや煩う事もなく、ただ闇雲にチーズを口に運んだ。もはや強制すらされていなかったかもしれない。咀嚼する時間すら惜しい。手で割り、無理矢理に飲み込む。腹が膨れ上がる。飲み込む。更に。更に! 更に!!
胃袋どころではない。もはや皮膚すらも際限なく伸び続けていた。限界はない。私が呼吸を忘れるまで。私が破裂してしまうまで。
「――そこから離れろ!」
何処からともなく投げつけられたナイフが、チーズの表面を切り裂き、地面に落ちる。チーズは僅かな間だけ再生を止めたが、僅かな間だけだ。なんて事をするんだ。これではチーズを食べられない。何者の仕業――いや、そんな事はどうでもいい。チーズだ。チーズを食べなければならない。
「これを見ろ」飛び込んできた男は、素早く地面のナイフを掴み取ると、フォークとそれを皿に並べ、チーズへと向けた。何事にも動じなかったチーズが、一瞬震えたように見えた。近付く男に対して、チーズは後ずさりした。再び、並べられた皿が突き出される。チーズは再び、震えた。
――チーズはもはや、私に対して何のアクションも起こさなかった。
夢中でチーズに手を伸ばす私の身を、男は引き剥がした。地に倒れ込むと、あまりに重い自分の腹に押しつぶされそうになり、か細い悲鳴を上げた。世界が回っていた。チーズを求めて身体中が煮えたぎっていた。もっと食べたい。もっと腹を膨らませたい。私は、私は――チーズになるんだ!!
「大丈夫…ではなさそうだな」男は私の身体を見下ろした。見下ろされた私は、ほんの少しだけ正気を取り戻したように思えた。少しだけだ。男は極度に肥大化した私の身体を持ち上げると、何処へともなく連れ去っていく。恐るべき膂力だ。私はまるで他人事のように、そう思った。
◇◆◇◆◇◆
いやに身体が重い。知らなくもない天井。ごみごみした周囲。私は目を覚ますと、起き上がれ――なかった。特大サイズの浴衣が私を包んでいる。これは…何となく想像はしていたが、やっぱりそうなるのか…? 私は転がりながら必死に立ち上がると…目の前に、姿見があった。実に悪趣味だ。
「はは、は…やっぱりな…」あのチーズは案の定、私の身体の素になっていた。丸く膨らんだ顔、膨らんだ乳房、それらすべての存在感を霞ませるほどに巨大に膨らんだ、太鼓腹。二倍三倍にも膨れ上がった手腕はぱんぱんに膨らみ、ぷくぷくした小さな手足と滑稽なコントラストを示していた。
「妖怪ってのは丈夫にできているからな。…はぁ」人間で在れば自重で押しつぶされるか、そもそも消化できずに死んでしまいそうなものだが、私達にその心配はない。…ないのをこれほど恨んだ事もなかった。これではデブ共を馬鹿にする事もできない。後ろ指刺される立場になった事は癪であった。
「店主…いるんだろう。何処だい」私は救いの主の肩書を呼んだ。ここが何処かはわかっていた。以前、宝塔を散々吹っ掛けられた事がある。「目は覚めたかい」そこらに放置された椅子に…座れない。仕方なくそれを三つ集めて、無理矢理に座った。それだけの作業で、汗びっしょりだ。
「まあ、災難だったね」店主はそう言うと、私に冷たいコーヒーを差し出した。慣れぬ身体、受け取るには難儀したが、なんとかそれを掴み取る。ミルク入りだった。「お礼を言えとは言わないが、僕がいなかったらどうなっていたか。君はもっと心得ている者だと思っていたが」うるさいな。
「少なくとも、あのチーズは本物だったようだね」書を紐解きながら、店主は私の身体を見まわした。「何かしら平和利用できそうな気もするが…まあ、僕が預かっておくよ。君のように食い意地の張った奴が現れないと限らないしね」店主の声に、特段悪意は感じなかった。…余計に腹が立つ。
「…ところで。あの時はどうやって助けてくれたんだ? 後学の為に教えてくれないか」如何にも身体を持て余しながら、店主の顔を見た。身をよじると、腹がゆさり、と揺れた「テーブルマナーさ」「…テーブルマナー、だって?」店主は書からこちらに視線を向けると、静かに答えを言った。
「皿を下げれば、料理は運ばれてこないものさ」ナイフとフォーク、それから皿、たまたま拾えたのは幸運だったね、と店主は続けた。或いはあの場に用意されていたのかも、とも。私には後者に信憑性を感じた。人を操ろうとする者が、セーフティもなしで運用するとも思えない。
「まあ、しばらくはここでゆっくりしたまえ」「いや、それは…」「一人で動けるのかい、君は」やはり悪意はない。真面目な男だ。「きっと、飛べもしないだろう。その身体に慣れるまでは、そうするといい」僕はソファーで寝るからね、と呟くと、店主は書に意識を奪われていた。…うむ。
ねぐらに帰ったら、ダイエットの日々だ。…そうは思うが、今ですら激しい食欲が湧いているのだ。辛い戦いになるだろう。私は気合を入れようとして――地獄の底から響くように、腹を鳴らした。酷く赤面したが、その姿を誰も見てはいなかったのが救いだろう、私は注意して、ベッドに向かった。
◇◆◇◆◇◆
「おっ、エメンタールチーズか。オシャンティじゃないか。腹も減ってきたし、ちょっとくらいつまんでも…わかんないよな?」