―そは歴史なり―
――何か、おかしなものを≪食べた≫らしい。
きっかけは――何だっただろうか。なくなっても、誰も気づかないもの。例えば石ころ。例えば倒木。例えば、廃屋。私はそれらを≪なかった≫事にするのが日課になっていた。何故か。それが――空腹を埋めてくれるのに気付いたからだ。歴史。歴史が、私に食べられるのを待っている。
私のようなものは、歴史を≪食べる≫。あくまで概念的なそれであると思い込んでいたが――その気になれば、本当に食べられる事に気付いたのは、ごく最近の事だ。それぞれの歴史には、独特の味がする。いつの間にか、私の中にあった、飢餓感を満たしてくれる。私は虜になっていた。
なあに。満月の夜に、元に戻せばいいのだ。夜に外出しては、時につまみ食いをし、時に大きなそれを食らった。様々な歴史に触れ、限界まで腹を満たした。身体を満たした歴史の姿は、ぽっこりと迫り出した腹としてその身を主張していた。それを撫でながら、部屋に戻る。
――しかしてそれは、私の姿を少しずつ変えていった。最初は気のせいだと思ったのだ。しかし、私の身体は明らかに太り始めていた。やはりか。服がきついと思ったのだ。歴史を食らって太る、なんてのもおかしい気はするが、どうやら身体はそれを栄養として代謝しているようだ。
少し節制しよう。そう思ったのだ。だが――私の中の飢餓感はそれを認めようとはしなかった。私は以前にも増して、もはや昼間であっても歴史を求めて彷徨った。食欲が理性を押し退けてしまっていた。冷静に考えれば、異常な行為だ。しかし、腹は減る。そして、私は食らう――
――夜中。私は部屋を抜け出し、近場の崖へと飛翔した。そこから見えるのは木々、木々、そして木々。私は指で四角形を作り――その範囲を、すべて≪食らった≫。もはや誰も木々を認識できない。私の腹は大量の歴史を受け入れ、どごり、と迫り出した。その重みが、私を狂わせる。
――まだだ。まだ足りないのだ。私は幾度も同じ事を繰り返した。繰り返す度に私の腹は迫り出し、まるで妊婦――いや、それ以上に腹を満たした。硬く硬く、迫り出した腹を撫でた。触れれば微かに音がする。歴史が応える有様だろうか。わからない。わからないが、それは――愉しい。
幾度繰り返したか、数える事は放棄してしまった。腹がギチッ、と鳴いた。その音が私の理性を引き戻した。……今宵はこれくらいにしておこう。玉のように膨らんだ腹を抱え、苦心しながら部屋に戻ると、布団も引かずに眠り込んだ。腹はくちく、眠かった。眠くてたまらなかった。
――私の与り知らぬ所で、私の身体は変わっていく。腕がびくり、と痙攣し、それは少しずつ太くなっていった。脚もだ。四肢すべてが肉々しく、太くなりつつあった。顔にも肉がついた。乳房が一回り大きくなった。腰や背中にも肉が回った。全身が徐々に柔らかく、輪郭を曖昧にする。
そして、腹は――体型に不釣り合いな程、迫り出していた。柔らかな皮膚の下に、確かな脂肪の塊が息づいている。内からの圧力に負けて、寝間着がほどけた。私はそれを認識すらしなかった。寝返りを打つのに不自然な思いをしただろう。それだけだ。私は、身に脂肪を受け入れていた。
―――
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自分自身の肥満に気付いたのは、その朝だった。服が――そうだ。入らない。少しばかり太ったらしい。……姿見を見て、絶句した。丸い顔がこちらを見ている。慌てて裸になると――そこには一回りほど大きくなった身体と、まるで先日のそれが中に残っているかのように膨れた、腹。
やにわにクローゼットを漁る。あった。何かの手違いで注文してしまった、二サイズは大きい服だ。私はそれに袖を通す。……それは丁度よく、私の身体に収まった。大変な事になった。このままでは、人前になんて出られない。私がおろおろしている間に――腹が二度、鳴った。
――私は、私が≪太った≫という事実を≪なかった≫事にした。これで誰も――私の体型を、認識できない。己が隠した≪それ≫を貪った瞬間、私の腹は更に、更にと膨らみ、迫り出した。驚くほどの満腹感を得た。しかし、しかし、それでもまだ、私は≪食べる≫事に貪欲であり続ける。
そう。私は思いついたのだ。満月の夜、私が太ったという歴史を――記さなければ良いのではないか。この一か月間の間のそれを、闇に葬ってしまえばいい。そうすればこの身体も、元に戻るはずだ。私は――たぶん、笑みを浮かべていた。そうなれば、我慢する必要など、何もない。
限りない暴飲暴食が始まった。遂に木々を食らい尽くした私は、里の外で、見境なく食らった。食らい続けた。しかして欲は――まったく収まってはくれない。裂けるほどに迫り出した腹を、撫でる。……その時だった。私は――最悪の、或いは最高のディナーを思いついてしまったのだ。
―――
―――
――今宵は満月。私にとって、待ちに待った夜だ。今日は、何も食らっていない。ただ、これから得られるであろう快楽を想像して、喉を、そして腹を鳴らした。理性とは何か。それは、食欲のスパイスだ。拒めば拒むほどに、私を狂わせるスパイス。私は――完全におかしくなっていた。
人里を見渡せる高所に、私は立っていた。今からする事は、或いは他の妖怪の怒りを買うかもしれない。しかし――それを止める選択肢は、私にはなかった。腹が不満を上げていた。迫り出したそれは新たな歴史を待ち望んでいた。人里を俯瞰して――私は、それに向けて、手をかざした。
夜を照らす明かりが、一瞬で見えなくなった。人々の往来も、消えていた。家屋も、店屋も、広場も、寺子屋も――すべてが、消えてなくなっていた。そこにはただ、無だけがある。人里の営みは、何一つ変わらずに続いているだろう。誰もそれを、認識できない。私は、笑みを浮かべた。
人里のすべてを≪食らった≫。私の下に、凄まじいまでの歴史が流れ込んでくる。今日まで食らい続けた腹、巨大に迫り出した腹をもってしても、それは受け入れがたい程の量だった。私は苦しみに喘いだ。しかしそれは、喜びでもあった。もはや≪食らう≫以外に何も考えられなかった。
口元にあふれるそれを食らい、飲み込んだ。無形のそれは、確かに私の中に堆積していく。飲み込む。歴史を知る。流れ込む。私は必死になってそれを貪り続けた。両手で飲み込んだ。腹が飛び上がって、悲鳴を――いや、悦びの叫びを上げている。私は器となる。歴史を受ける、器。
――やがて、限界を感じた。これ以上食らえば、きっと私という器は破断してしまうだろう。しかし、それが何だ。今この場で、歴史を食らえなくなる方が、ずっと、ずっと、悪いではないか。口元へ流れ込む歴史を飲み下す。舐めるように喉につぎ込む。食らいつく。食らう。食う。
腹がギチリ、と鳴いた。気のせいかもしれない。私は今、それどころではない。……もう一度、ギチリと鳴った。私はほんの少しだけ、正気に戻った。歴史は喉元まで浮かび上がっている。もはや腹部には一ミリの余裕もないのだ。そこに更に、更にと詰め込んだら、どうなる?
冷静な私は、やめておけと告げた。狂った私は、まだいけると囁いた。私は――両方の言葉を聞く事にした。後、数分――いや、数十秒だけ食べ続けよう。それ以上はやめる。絶対にだ。私は再び手を動かした。渋滞していた歴史が一気に流れ込んでくる。ギチギチ、と腹が鳴いた。
私は片手で腹を押さえた。腹の皮は限界まで引き延ばされていた。押さえんとばかりに。裂けんとばかりに。その内に潜む、肥え太った腹。肥大化した腹。歴史を受け入れる器。私は――もう、壊れていたかもしれない。数分など、とうに過ぎた。喉元まで上がってきた歴史を、飲み込む。
腹が裂ける。裂けてしまう。否、既に裂けていてもおかしくはない。私はそれでも食らうのをやめなかった。もう、もう、息ができない。それでいい。それでもいい。この腹の為に死ぬのなら、私は喜んで死ぬだろう。右手でそれを流し込み、左手が腹を撫でた。もはや石のように、固い。
――だが、何事にも終わりはやって来る。私は右手を掻いたが――それ以上、歴史は流れ込んではこなかった。私は辺りを見渡した。もはや人里はすべて、消え去っていた。私は――木に背を預け、座り込み、そして横に転がった。冷静に己を振り返る。今にも死んでしまいそうだった。
我が身は裂けたに違いない。息も絶え絶えだ。ぐらぐらと世界が回っている。腹を切られようと死にはしない半妖を、しかしこれほどまでに追い詰めるのは――そう、腹だ。腹を撫でた。撫で続けた。そうしなければ、今にも身体が真っ二つに裂けてしまうのではないかと、怖かったのだ。
――いつまでもそうしている訳にはいかなかった。緑色の髪をなびかせ、私は起き上がった。いつもの場所に行かなければならない。こんな姿を、もしも誰かに見られれば大変な事になる。今更ながら、焦りはあった。腹が落ち着くのをしばし待ち、私は立ち上がり、腹を抱えた。
今日まで太り続けた身体を、そして手が回らないほどに迫り出した腹を抱え、私は飛んだ。心なしか――いや、明らかに飛翔は遅い。子供数人分の体重を抱えているのだ。負荷がかかって当然だろう。私を観測しているものがいたとすれば、それはよたよたと、無様な姿だったに違いない。
着地した瞬間、大きなげっぷが漏れた。少しずつ腹がこなれてきた。腹を押さえながら、私はいつもの場所に歩み寄った。ここなら誰にも見つからない。ここなら広さが丁度良い。ここなら、私の醜い身体を隠してくれるだろう。竹の広場に――しかし立ってはいられず、座り込んだ。
霊力の流れが起こる。私の能力がそれを巻き起こしている。これから行なわれるのは歴史の編纂。満月から満月の、間の世界を記すもの。私には、それができる。私にしか、それはできない。趣味や実益ではない。そう定められているから、そうしている。それは実際、誇らしくもあった。
虚空から現れた巻物が、筆が、歴史を書き留める。私はそこから、私の行なってきた異様な行為を抜き出し、闇へと葬った。これで、変わり果てた我が身も元通りになる。そう思っていた。しかし――そうはならなかった。何とも言えない違和感が、私の胸を、そして腹を揺らした。
私の身体は何も変わっていない。四肢も、顔も、太鼓腹も、何も元に戻らない。何故だ。確かに今まで≪食べて≫きたものは元に戻った。確信がある。ならば、私の身体も元に戻ってしかるべきだ。私はそれを訝しみ――恐ろしい答えに、思い当たってしまった。血の気が引くのがわかる。
――歴史とは情報である。情報とは広く民草に行き渡るものだ。何故なら、情報はいくらコピーしようとも、目減りはしないのだ。しかして今更、手立てもない。筆が乱舞し、巻物は天地を飛ぶ。慌てて手を伸ばした先に――私の顔が写る。≪なかった≫事にしようとする、愚かな顔だ。
『上白沢慧音。歴史を食らい、肥え太るもの』――いや、違う。待て。私は!『そは歴史なり』目の前に飛び込んだ巻物に文字が浮かぶ。……そう。今は私が、私自身が歴史の体現者なのだ。「――歴史は改ざんを許さない」その場に倒れ込んだ。あれほど詰め込んだ腹が、ぐうと鳴いた。
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息が上がる。秋も深きにも関わらず、玉のような汗が流れた。私は、私の容姿を≪食らった≫ままにしていた。それもそのはずだ。私の身体は、酷く膨らんでいた。腕に肉が垂れた。脚も随分と太くなった。顔は丸い。どうしようもなく、だ。しかしそれらは、まだ許せる範囲なのだ。
――腹。腹が正面。側面。そして下へと突き出している。胃のある辺りが一番ひどい。空腹にも関わらず、カチカチに硬くなっている。しかしてそれは情けない音を立て、私に食欲を訴える。この間のような事を繰り返せば――我が身は際限なく膨れ上がっていくだろう。これは報いなのだ。
この身体には未だ慣れていない。しょっちゅう何かにぶつけたり、扉に挟まったりする。抱き着かれでもしたら体型がばれるのではないか。常にひやひやしていたが――今の所は、誤魔化せているようだ。早く痩せなければ。手が空く度に、寺子屋の周囲を駆けているが――脚が痛い。
恐らく、体重の変化についていけないのだろう。息が上がる。秋も深きにも関わらず、玉のような汗が流れた。妖怪は丈夫に出来ているが、己自身に対してはそうでもないようだ。脂肪が私を苛んでいる。誰もついてくれ、とは言っていないのに。苦笑いする事しかできない。
「――随分とイメチェンしたな?」背筋がシャンと伸びる。尻の肉が揺れる感覚があった。私は慌てて振り返り――「そ、そうだろう。どうかな」適当な事を言った。それしか咄嗟には思いつかなかった。「可愛いと思うぞ」妹紅はニヤリと笑った。それが冗談なのか――想像できかねる。
どうやら、妹紅には能力が効いていないようだった。要するに、ありのままを見られている。「健康には気をつけろよ」妹紅はすれ違いざま、三回りほど大きくなった乳房を叩いた。「なッ……」「ちょっと手が出たな」妹紅は相変わらず笑っている。私もだ。もう、笑うしかなかった。
「今夜どうだ、って聞きに来たんだが――嫌か?」「いや、嫌じゃないが――今の私は、こんなだぞ?」「気にしないさ」そういう慧音もいいかもな、と妹紅は――私を指差し、ぐるぐると回した。「……そういう趣味なのか?」「否定はしない」妹紅の答えに、私は頭を掻いた。
妹紅と一緒に、しばらく里を歩いた。息が上がる。秋も深きにも関わらず、玉のような汗が流れた。「この身体にも、その内に慣れるだろうとは思うが」「周りをあんまり心配させるなよ」ばれちゃうぞ、と妹紅は私をつついた。私はその指を掴むと、妹紅の方に向け直した。
「何処かでなんか食べるか」「――そう言う事を言うのは、ちょっとどうかと思うが」「いいんだよ。痩せるのなんて明日からで」如何にも言い訳めいた言葉だが、まあいいか。やはりと言うか、私は食欲に支配されている。明日はいつ来るんだろうな。妹紅の背を見ながら、そう思った。