―これをあなたに着せたかった―
交わりばかりが先走る関係を、いつから続けていたんだろうな。
飯綱丸、龍と。執務をそう締めた頃に、そいつはやってくる。ガラス戸の向こう。露台の向こう。手を振るお前を見る。不良天狗、射命丸文。やれやれ、今日も生きていたか。まあ、殺したって死ぬ奴じゃないが。私は座ったまま、そちらに手を振ってみせた。この頃はいつも、こうだ。
文は如何にも悪い笑みを浮かべながら、髪をかき分け――耳を掻いた。あれは――今日開いているか、のサインだ。私も耳を掻いた。開いているのサインだ。文はふふ、と鼻で笑い、天へ向けて飛び上がった。相変わらず、せわしない奴だな。御付きに外出を伝え、私も露台から飛び上がる。
何をするかと言えば――その、あれだ。抜き打ち視察。半分は嘘じゃない。もう半分は――そうだな。隣を飛ぶ奴と無関係ではない。「ええ。ええ。本日はお日柄も良く。飯綱丸様は、どちらへ?」「烏天狗の居所を見て回るよ」「発破をかけなさる? 居眠り連中はさぞ驚くでしょうね」
「まあ、キツく言う気はないさ」「例えあなたがキツくなくても、あなたの肩書は委縮させるものですよ。飯綱丸」扇で口元を隠しながら、文が笑う。或いは嗤うか。こいつはすべてを小馬鹿にしている。分かっているから、咎めもしない。それが不良天狗の不良天狗たる所以でもある。
「では、お供いたしましょう」文はカメラを取り出し、鞄をこちらに放った。「新聞が残っているぞ」「多めにすり過ぎたのですよ」まあ大方、売れなかったんだろう。山ではともかく、人里でどれだけの需要があるのかは知らないが、そうそういつまでも青田刈りとはいくまい。
「窓ふきにでも使ってやるよ」「むごい事をなさる」文は笑っていた。終わってしまった事は考えない。飛ぶのも速けりゃ、切り替えも速い。この疾さこそが、不良天狗の屋台骨に違いない。「さあ、楽しい楽しい抜き打ち視察ですよ。わたくし達も思い切り、楽しもうじゃありませんか」
こいつ、本気で楽しんでいるな。まあ私とて驚く顔を見たくない訳ではない。むしろ、見たい。怪訝が驚愕に変わる瞬間は、一度見たら癖になる。私達は居所の一角、通称カネ地獄へと降り立った。ここは毎月、カロウシが出るくらい酷いらしいからな。きっと、驚かせ甲斐もあるだろう。
「さあ、衝撃の一枚を撮る準備は整いました。後はあなたが飛び込めば、スクープは向こうから飛び出してきますよ」「虐めてやるなよ」「被写体に介入などしませんとも」地獄お茶汲みを手で制し、階段を一歩一歩昇る。財務処理部。算盤と書類の果て。通称カネ地獄の扉が開く――
―――
―――
「――あまりに酷過ぎて、何を見たかも忘れたぞ」私は服についた煙草の匂いを払った。煙に満ちた室内には、まさしく算盤の奴隷と化した烏天狗がもはやゾンビの如く計算し続けていた。こちらを一瞥した部長をひっ捕まえて話を聞くだに、もはや人の存在すべき場所とは言えなかった。
「大丈夫ですよ。わたくしがすべて収めています故」文がいやらしい目でカメラを見ている。私と一緒でなければ、あんな天狗社会の煮凝り――いや、ヘドロのような所までは入り込めない。まさしく独占取材だ。「どう思う?」「はて?」「天狗社会もいい加減、ガタがきてるかもな」
「あなたが心配する事でもないでしょう。君臨するとはそういうものです」「いや、しかしだな――」「相変わらず、お優しいですね。いくじなしさん」文が、私の肩に手を当てた。身体が預けられる。「この世の地獄を何とかしたければ、そうすればいい。あなたにはそれができる」
「できる、か」「何故、誰もしようとしなかったのか。分かる日も来るでしょう」文は私にすり寄り、服の匂いを嗅いだ。「煙草臭いだろ」「あなたの匂いもしますよ」地獄お茶汲みがこちらを見ている。こんな姿は――まあ、見せた所でもう――慣れてしまっていたが、早く帰ろう。
「新聞に乗せてしまってよろしいので?」「ああ、一面を飾ってやれ」私達は服をはたきながら、地獄から飛び立った。まだ時間はあるが――「折角ですから買い物でも致しましょう。異存は?」「ないが」「それでは、決まり」文は悪い笑みを浮かべながら、私の手を取り、引いた。
―――
―――
「場違いだな」「おや、気付いてらっしゃる?」私達はスイーツの店に座っていた。如何にも女の子らしい、明るい店内。ガラスの向こうで、数人が私を指差している。お前ら、大天狗様を指差すんじゃないぞ。……まあ、少しは変装しておくんだったかな。ぼんやりとそんな事を考える。
「まあ、あなたも一枚剥けば、十分女の子ですよ」カフェオレをかき回しながら、文が呟いた。「女の子はいつまでも、女の子です。千歳のお誕生日はまあ、散々玩具にされていましたね」「うるさいな」思い出したくもない。似合いもしないウエディングドレスを着せられて、写真会だぞ?
「お前だって千歳の誕生日は酷かったじゃないか」こいつも同じく、ウエディングドレスを着せられていた。私と違うのは、こいつは自分からノリノリだった。「何事も楽しめる度量が必要なのですよ」文がケースから写真を撮り出す。……嘘だろ。あの時の写真だ。文のもある。
「これをバラまかれたくなかったら――なんて、冗談です」文は写真を横に並べた。「あなたやわたくしが、もしも結婚するとしたら――きっと、ドレスを着る機会もあるでしょう。女の子の夢です」文は首を振った。「仮定の話ですが。あなたはドレスを、着たいと思いますか?」
「いや」私は即答した。「仮定の話だが、私は着せる側だろう。多分、な」「着たいとは、思わない?」「――着てみたいか、って意味か?」文はパフェをつつく手を止めた。「誰かに着せられたい、と言えば、伝わりますか」私は戸惑っていた。文の顔にいやらしい笑みは、ない。
「いや、どうだろうな……」「まあ、大天狗たるあなたに着せたい、なんて思う人は、いないかもしれませんが」文は再びパフェをつつき始めた。この話はそれで終わりだった。「さて、次は可愛らしい服でも見繕ってさしあげましょう」「……お前、大天狗に荷物持ちさせる気だな?」
「それこそが旦那様の甲斐性という奴ですよ、飯綱丸」「誰が旦那様だ」文はニヤニヤと笑っている。このやり取りも、もう慣れたものだ。文がからかう。私が反論すると、文がその上に被せてくる。舌戦では勝った覚えがない。昔からそうだ。文は私の――そうだな。私の前にいた。
窓の外をぼんやりと見る。人が増えてきた。だから指差すな。私は大天狗だぞ。お前達よりずっと偉いんだぞ。……まあ、そろそろ潮時だろう。アイスコーヒーを呷り、文に手で促す。「モテモテじゃないですか」「うるせえ」先に出た文の背中に毒づいた。払いも私か。私だろうな。
―――
―――
「何をこんなに買ったんだ」両手どころか両腕にかかるほどの袋がずしり、と己を主張している。「なんでしょうなァ」前を飛ぶ文は、振り向きもせずに喋っている。「あなたにも関係のあるものですよ」本当かよ。「それよりあなた、何かを大事そうに買っていたじゃないですか?」
「まあな」「おや、隠し事なさる」「お前にも関係のあるものだよ。いつかは、な」買い物袋の中で、それがコトリと動いた気がした。「まあ、いいでしょう」文が減速して、隣についた。「それで、今宵は?」「空いてるよ。いつもそのつもりで誘ってるんだろ」「いやはや、話が早い」
「――おい、典。出てこい」腰に下げたシリンダーを振る。出てこない。昼寝でもしているのか。「おい、起きろ」私がシリンダーを振り回してやると、典はようやくヌルリ、と這い出てきた。何やらふてくされている。「わたくしめもお買い物したかったですよ!」ああ、そういう。
「今度連れていってやるから、言う事を聞け」「――ホントですね? 言質取りましたよ?」主に向かって何だその言い草は。……まあ、いい。「誰にでもいいから、帰りは遅くなると伝えてこい」「アイアイ、帰りは朝になる。受け賜わりました」「殴るぞ?」「いやあ、こわいこわい」
……まあ、典の言う事にも一理あるのだが。文と出かけた時は、大体朝まで帰らない。いつもの事だ。御付きも承知しているだろう。「行ってこい」「はーい」不安材料の背中を見送りながら、頭を掻く。文はと言えば、一部始終を見ながらニヤニヤしていた。見世物じゃないんだぞ。
「いい部下をお持ちで」「お前が増えたようなもんだよ」どいつもこいつも、真面目にやってられないのか。憮然としながらも、私達は飛ぶ。目的地は――まあ、大体想像通りの場所だ。文のねぐら。最近流行りの集合住宅、その最上階だ。こいつはバカなんで、高い所が好きなんだ。
「直に飛んで帰れて便利でございましょう?」そんなダイナミック帰宅があるもんかよ。「どうでもいいが、荷物を下ろさせろ。腕の感覚がなくなってきた」軟弱者ですねェ、と文は笑った。鍵が開くまで待ちきれない。私は文の背に近付いた。「――おや?」「おおっと」
扉を開け、一歩下がった文の背中にぶつかってしまった。ただそれだけだ。それだけだったんだが……。「ようこそ、わたくしめのハウスに」文は振り向くと――突然、私に抱き着いてきたんだ。首に回された腕が、私の身体をグイ、と引き寄せ――「これは、お帰りのチュウです」
「あ、ああ……」ああではない。半ば強引に唇を奪われた。まあ、初めてではない。ないが、いつまで経っても慣れないものだ。「どうします? 玄関前でもうすこしイチャついては?」「――あのな。荷物下ろさせてくれって」「おや」いい加減ガクガクな片腕から、文は袋を取った。
―――
―――
文の事は、多分愛していた。多分というのは、私達が度々身体を重ねるのと無関係ではない。私にはまともな恋の経験など――悪いか?――ないが、愛している、とは何かが違うように思えてならなかった。互いに、互いの生き方をしている。その合間に入り込むのが、お前との情愛。
恐らく、かけ違いは些細なものなのだ。お前と私との間に、何か一つの線が走れば、きっとそれは愛に変わる。例えば――そうだな。告白するとか。私は自分自身の考えに、緊張していた。今夜、私はお前を、私の生き方に巻き込もうとしている。お前はそれを、許してくれるだろうか。
「あなたは渋いお茶しか飲まないんでしたね」「何でもいい」「そう言って、砂糖入れたら吹いていたじゃないですか」そりゃそうだろ。私は少々、頭を抱えた。多分、私と二人きりの時だけだが――こいつは悪戯をする。まるで子供の頃のように。まあ、内容も似たようなものだが。
辺りは段々と暗くなってきた。確かに、夜には帰る、てのは守れそうにないな。私はやにわに服をはたいた。まだ煙草の匂いがついている気がする。まあ、いいか。ここは文の香りで満たされている。香水だろうか。まあ、私には縁のないものだ。私は茶をすすり、辺りを見回した。
どちらかと言えば、素っ気ない部屋だ。奥には暗室。そしてごちゃごちゃとした机。物置。生活空間以外は片付ける気がないらしい。一度、奥に通された時にはその落差にびっくりしたものだ。文にも色々な一面がある。私が知っているのは、或いは限られたそれだろう。多分、な。
私は上着を脱ぎ、椅子に座り直した。素っ気ないと言えば、私もそうだ。私達の交わりは所詮、快楽を得る行為に過ぎないのかもしれない。しかし、それだけだとは思いたくないのも事実だった。……愛に変わる、か。荷物の中のそれを思う。上手くいくだろうか。まだ、わからない。
「なあ」「おかわりですか?」「いや――そうではなく」私の計画は、いつ始めるべきか。タイミングが重要だ。私は文を見ている。文も私を見ている。見ているからこそ、好機に思えた。「あの、そのだな……」――はは、ダメだ。私は意気地なしなんだった。文が目線を逸らした。
「変な人ですね」「いや、悪い」文が上着を脱ぐのを、私はぼんやりと見ていた。「シましょうか」「……」答えに詰まった。そうしようと思って、ここに来たんだ。わかっている。けれど――このもやもやを抱えたままでは、きっと楽しめない。頭を掻いた。どうしたものか……?
「その前に――一つ、いいですか」文は何やら、荷物を漁り始めた。何かを見せようというのか。私はじっとそれを見る。それは――そうだ。以前に見た。ハンガー付きの衣装袋。中身を保護する為のそれに、何が入っているかは想像がついた。文はそれを静かに開き、中身を手に取った。
「これをあなたに着せたかった」文の手にあるのは――ドレス。そう、ドレスだ。華美ではない。落ち着いた色合い。蒼のロングドレス。「私に……?」「あなたに、です」文が私の手を引いた。私はされるがままに立ち上がった。ドレスを手渡された。とても軽く、良い手触りだった。
「つまりこれは、プロポーズなのか?」「ニブチンのあなたでも、分かりますか」文はくすくすと笑った。いつもの笑いとは違う。何処かしおらしく、何処か――悲しい。「あなたがこれを着てくれないなら、私はそれでも構いません」文は首を振り、目を逸らした。「いや、それは」
「わたくしを少しでも想う心があるなら、躊躇わないでください。今ここで、心を決めてください」文の顔から、笑みは消えていた。「沈黙こそが、今のわたくしには一番辛いのです」私は――そうだ。お前を苛んでいる。大天狗とあろうものが――いや、人として、なんと情けない!
「飯綱丸」文は――うつむき、涙を流していた。私の意気地のなさが、今この瞬間も、お前の心を斬り裂いている。片手を伸ばした。払われた。今の文には必要のないものだった。身心の交わりのみで通じ合うものがあれば、言葉だけが伝え得るものもある。私は不意に、それを理解した。
その時だった。耳元――いや、耳の中で声がする。『何を躊躇うのです。愛しの人のプロポーズですよ、飯綱丸様?』その声は、典だ。いつの間に戻ってきたんだ。こいつはおよそ、潜り込める穴なら何でも使う。念話を飛ばす。(そうは言ってもだな)『そうもこうもありませんよ!』
『今更、旦那側になりたいなんて思ってらっしゃる?』(いや、それは……)『はあ、思ってらっしゃる。情けなし。情けなし!――もう、先手は取られてしまったんですよ?』典の言う事はもっともだが――それ故、逆に私を迷わせる。『はいと言えばよろしいのです。今すぐに』
何故だ。私は何故迷っているんだ? 典の言う通り、私が旦那側に収まりたかったからか? それとも、本当は文を愛してなどいないのか? 或いは――己が踏もうとしていた手順が崩れ去って、動揺してしまったからか?――どちらにしても、私は怖気づいている。文が又、涙を流した。
(私にも考えがあったんだ)『今さらそんなものを披露して、何になります?』(黙って聞け。私は――指輪を用意した。場合によっては、婚約指輪のつもりだった)『ならば今すぐにでも好きだと言って、渡せばよろしいではないですか。何の考えでもございません』(だが、だがな)
(私は――渡しそびれた。一生の不覚だ)『さようですなァ?』(場合によっては、逆だったかもしれない。文は私にドレスを用意し、着て欲しいと言った。私は文に指輪を用意し、その指に通して欲しいと願った。願っていた)『つまり、そこですれ違ったと』(――どう思う、典)
『どうもこうもありません。あなたが女房役になればよろしい』(ぶしつけな事を言う奴だな)『今時、どちらが上位という話もないでしょう。飯綱丸様とてご存じでありましょう』(しかしだな、私は大天狗として……)『女房役の大天狗様もおられます』(そりゃ、そうなんだが……)
『飯綱丸様は本当にグズでありますね! わたくし、あるじを変えたくなってきましたよ!』(お、おう)『何がおう、ですか。わたくしめを叱るくらいの余裕もないのですか!』耳の中で典が蹴りを入れている。(私は――ダメな奴だよ)『ええ、まったく! このウスノロ天狗!』
何やら酷い暴言を吐かれている気がするが、私にはもう、聞こえていなかった。涙を流す文。流させる私。時間が淡々と過ぎている。私はうつむき、目を閉じた。こんな形でお前との関係が壊れてしまうなんて、絶対に嫌だ。それは確かだ。些細な拘泥など、振り払えばいい。それなのに。
「?」文が顔を上げた。左右を向き、私の顔を見た。「――何か、言いましたか?」私も顔を上げ、文の顔を見た。「いや、その……」躊躇うな。飯綱丸龍。顔を見合わせた今こそ、最後のチャンスじゃないか。「好き、だ」文は目を丸くした。私もきっと、そうしていた。沈黙が流れた。
私はドレスを広げ、身体に当てた。「好きだ」文の顔がぱあっ、と明るくなるのが、鈍感な私にもわかった。『上手くいきましたね?』(何だ典、何をした)いつの間にかシリンダーに収まった典が、指を振った。『ただ少し、耳元で囁きまして。その顔をお見せなさい、とね』
『それで反応がないなら、もはや脈なしでありましょう。しかして、そうはなりませんでした。文さんは確かに飯綱丸様が好き。両想いのお二人が、どうして別れる必要がありますか?』(お前……)『感謝してくださいね』(ああ、今日はよくやった)私は、静かにシリンダーを撫でた。
「着せてくれるか」「ええ、喜んで」文の手が、私の服を脱がせていく。やがて下着姿になった私を、文は――目を細めながら、眺めていた。私が、ドレスに通されていく。「飯綱丸」頭を出した私の目前に、文の顔があった。「――あなたは今、とても美しい」「お前ほどじゃないさ」
姿見の中に、蒼い姿が映る。私は――そうだ。ときめいていた。柄にもないと思った。でも、悪い気分ではない。あなたも一枚剥けば、十分女の子。文の言葉を思い出す。ああ。大天狗という肩書以前に、私は女の子だった。小さな女の子は――愛を知って、大人になるものだ。
「感想はどうですか?」文は笑っていた。まだまだ、本調子ではなさそうだ。「素敵だよ」私は、その場で一回転して見せる。「感想は?」私の問いは、文を困らせただろうか。喜ばせただろうか。「勿論、素敵ですよ」文は近付き、私の手を取り、引き、暖かな胸で抱きしめた。
「あなたに渡したいものは、まだあります」文は荷物の中から――小さな箱を取り出した。私にはそれが何か、一目で分かった。「受け取ってくれますね?」私は頷いた。ときめいていた。私自身の計画なぞ、お構いなしに。「お手を拝借」左手の薬指に、それはするりと滑り込んだ。
蒼い石が、私の手を彩った。文の手が、私の手を撫でまわした。「ありがとう」「おいおい、礼を言うのはこっちだろ?」「あなたが受け取ってくれた事を感謝しているのですよ」文の腕が背中に回った。私もそうした。どちらともなく近付き、私達は――≪初めて≫のキスをした。
以前、あつらえた――収納の中にある、紅いドレスを思う。あれを渡す機会はなくなったかな。どうかな。少なくとも今は、その時ではない。私達がめおとになってから、何かの折に、指輪と共に渡そう。私は、妻になろうと言うのだ。これからはお前の事も、とかく気を回してやる。
互いに首を寄せ合った。愛の言葉を交わそうとは思った。しかしそう、簡単には思いつかない。改めて自分が情けなく思えた。「好き、の一言で結構なのですよ」片手が、頭を撫でた。「それ以上、あなたには望みません。出来る限りの心を込めてくれれば、それでいい。それがいい」
「好き」「ええ、わたくしも好きです」私達は強く抱き合った。ずっとそうしていた。静かな夜は、私達の間を邪魔しようとはしなかった。「ふふ」文は手をほどき、私の顔を正面から見た。いつもの顔だ。小馬鹿にしたような顔。調子が戻ってきた証だ。私はそれが嬉しくて、笑った。
「――どうです。告白された気分は、堪能いたしましたか?」「ああ」許されるなら、永遠にそうしていたかった。いつまでもこうしていられないのは、わかっていた。窓を見る。星空だ。私達という満ちたる月が、そこに浮かんでいる。月はやがて朝を、太陽を引き連れてくるものだ。
「脱がせるのか?」「脱がすまでがドレスですよ」文が背中に抱き着いた。「同じく、外すまでが指輪です。あなたはそれを捨てますか?――そうではないでしょう」私は頷いた。「大事にしまっておきましょう。いずれ、披露してやりましょう」文の手が指輪を取り、私の掌に乗せた。
やがて下着姿になった私を、文は――目を細めながら、眺めていた。「あなたはここで帰る事もできます」「ああ」私にも分かっていた。記念すべきこの日――このまま別れては、惜しいというものだ。「帰りたくないと言ったら?」「奇遇ですね。わたくしも帰したくないのですよ」
文が冷めたコーヒーを呷った。私も茶を飲み干した。「さあいらっしゃい、意気地なしの飯綱丸」「今行くよ」文は寝台に飛び乗った。私は歩み寄り、そっと身を預けた。寝台がギシリ、と鳴いた。その鳴き声も、もはや聞き慣れてしまったように思う。やがてそれは、悲鳴に変わるのだ。
―――
―――
「――なあ」「はい?」私を見下ろす目は、きっと愉悦に震えていた。「仰いなさいな」私の胎で、肯定するようにそれがうごめいた。「途中でこんな事を言うのも何だが――私は、お前を満足させられているのかな」文はふんふん、と私の言葉を聞き、そして笑った。悪い笑みだった。
「それはあなたの心がけ次第――とは、申しませんが」文は再び、腰を揺らし始めた。「相性は良いと思いますよ。身体のね。あなたは、そう――とても、私を高まり、夢中にさせる」それを挿入したまま、文はこちらに覆い被さる。「もっと、もっと、可愛がって欲しいですか?」
「欲しい」「おや、中々素直ですね」「虐めないでくれ」目線を逸らした私の顔を、文の手が戻す。「あなたを好きになったのは、いつからでしょうね」上体を起こした文が、ゆっくりと腰を打ち付ける。焦らしだ。焦らしだが、私達はこうやって、話をするのが好きだったかもしれない。
「私は――お前が交わりに誘ってくれた時から、自覚したのだと思う。昔はまだ、気付けていなかっただけだ」「そうでしょうね。あれほど初心だとは思いませんでした。大天狗たるもの、食い散らかしていてもおかしくないでしょうに」「そういうのは好きじゃない」「如何にもお堅い」
文は私を虐め続けている。被虐体質とまでは思いたくないが、そうされていると――自分が熱くなるのを感じるんだ。己の感覚に嘘はつけない。「わたくしは、物心ついた頃からあなたが好きでしたよ。年上を狙うくらいは、マセていたのかもしれませんね」「ほとんど同い年だろ?」
「子供から見れば、雲の上にも等しいのですよ」身体が抱え直された。まだまだ焦らすつもりだ。「今でも或いは、そう思っています。年上のあなたを手に入れたい。それが勢い余って、あなたを交わりに誘った。気楽な関係。あなたがそれに応えたのは、正直意外でもありました」
「私も――どうして受けたんだったかな。立場的にはあまりよろしくない事をやっている。それが分からないほど、ボケてはいなかったはずだ」「案外、あなたもわたくしを狙っていたのかもしれませんよ」「どうかな――ッ」文のそれが、強く突き上げた。「――共犯。そう、共犯です」
甘い吐息が漏れた。きっとそれは、文も感じていた。「正直、嬉しかったのです。あなたの身体を手に入れられた。あなたを思うがままに貪った。あなたは私の行為を一度も拒みませんでしたね。それはきっと、わたくしを信頼してくれたからでしょう?」「――ああ。そうかもしれない」
「しかし、それだけでは足りないと思いました。即物的なもの、そして儀礼的なものが必要だと思った」文が腰をくゆらせている。「互いに惹かれ合っていた、というのはある意味、幸運だったかもしれません。わたくし達は、何の障害もなくそれを執り行える」「――つまり、結婚か?」
「あなたに渡したドレス、そして指輪は、随分と前から用意してもらっていたものです。わたくしとて、それを渡す事に躊躇はありました。それでも――わたくしめは、身体だけの関係を進展させたかった」「――何だ、お前もか」「?」私はそれを言うべきか迷った。……やめておこう。
「何でもない」「あなたがそう言うなら、何でもないのでしょう」いやらしい顔が私を覗き込み、何度も突いた。突き上げた。私は文の手を取った。それを握り込み、快楽に耐えた。「わたくしを求めなさい、飯綱丸」胎の中でそれが暴れている。「もっと」「そうです。もっと。もっと」
甘い吐息は、やがて喘ぎに変わる。限界と快楽が同時にやってくる。文は私の事をよくよく理解していた。寸前で焦らす。それを引き抜いて、自ら撫でさする。硬く勃ち上がったそれを再び押し込む。イきたいのだ。イけないのだ。文がそれを許さない。握り込んだ手に、力が入る。
「求めなさい」文の吐息。お前とて、いつまでも我慢してはいられないだろう。「――欲しい」「求めて」「――欲しいよ、文!」文の顔が愉悦に歪んだ。「いいですとも。壊れるほど愛して差し上げますよ。その身体――あなたをね!」前後するそれが、深い所を突いた。突き上げた。
「文、文――!」「さあ、イきなさい!――おイきなさい!」手を放し、顔を隠そうとする私を、文は咎め――握り込んだ。寝台へ押し付けた。情けない顔を見られたくなかった。それでも。それでも。私は――ダメだ。もう何も考えたくない。破裂寸前のそれが!――私を壊してしまう!
「ううぅ……!!」文が倒れ込んだ。手が離される。私は必死に、その身体を抱き寄せた。胎の中に熱いものが注がれていくのがはっきりと分かる。嬉しい。そう思った。嬉しかったのだ。お前がくれたもの。私に注がれる愛は、今までよりもずっと、心の通ったものに思えた。
「はあぁ……」文が、私の傍に転がった。二人の荒い息だけが聞こえる。「――飯綱丸」「……何だ?」手が伸ばされた。その手を掴んだ。「終わってからこそ、こんな事を言うのですが――わたくしめは、あなたを満足させられましたか?」それは、あの時の問いだ。「――ああ」
「僥倖」身体を起こし、寝台に座った。並んで、座った。「愛していますか?」「愛しているよ」「愛しているのですね?」「ああ、愛している」確かめ合う言葉。私はそっと、文に肩を預けた。身体は、私の方が少しだけ大きい。しかしそれは、お前の重荷になるほどではないだろう。
しばらく、そうしていた。文の手が私の腰を引き、頭を撫でた。そんな事をされるのは子供の頃以来かもしれないが、悪い気分ではなかった。私にも、子供らしさというものは残っているのかもしれないな。大人になった自負が。大天狗という肩書が、それを隠していたのかもしれない。
「シャワーを浴びてらっしゃい」やがて文は寝台から立ち上がり、近くの椅子に座り、脚を組んだ。「一緒に入りたいと言うなら、構いませんが」「ああ、そうしよう」「おや、冗談を本気になさる」文はニヤニヤ笑いのまま、私を手で促した。私はその手を取り、浴室へと入っていく――
ああ。結局の所、期待はしていた。湯を浴びながら私の背を撫でる文に、私は身をよじって答えた。背に硬く熱いものが当たった。そうだ。私達は、再び熱くなる。浴槽に手をかけ、尻を突き出した。背中を、石鹸に濡れた手が撫でた。そこがかき回される。内側から熱い吐息が漏れた。
「聞かなくてもわかります。欲しいのでしょう?」「聞かなくていい」「ディスコミュニケーションという奴ですね。結構」文のそれがそこに当たる。一瞬の緊張の後、それが胎に押し込まれていく。「あなたとの相性は――最高です。この上なく」「如何にも、女を知っている口ぶりだ」
「ええ、一度シてしまえば、後はなし崩しでした。私の方こそ、食い散らかしていたかもしれませんね」抽挿が始まる。胎がぞくぞく、と震える。「妬きますか?」「少しは、な」「もしも、浮気したらどうします?」見なくても分かる。今の文はとてつもなく悪い顔をしている。
「私に心が向いていれば、それでいい」「そこは怒る所ですよ」返答とばかりに、強く突き込まれる。「そうは致しません。約束します」約束。約束か。大法螺吹きの言う事を信じられるだろうか。否。当然、信用できない。だからこそ、私の方からがっしりと、お前を捕まえてやろう。
「私も約束する」「ふふ」優しい前後運動が、私に快楽を与え続けている。「約束で結ばれた関係、なんてものは、わたくし達には似合いませんね。今まで通り、お互いに好きに生きればいい。ただ――そこに愛が生まれた事は、悦ばしい限りです」「私も、嬉しいなんてもんじゃないさ」
「意見の一致ですね」私の背から伸ばされた手に、胸を揉まれている。「これからわたくし達は、きっと幾度も幾度も身体を重ねるでしょう。それは常に喜ばしい事ではないかもしれません。けれど、そこには愛がある。あなたと今、こうして交わっている事を、わたくしは忘れません」
「忘れないさ……ッ」ああ。今日はお前と通じ合った記念日だ。私はお前の女になった。慰み、慰められる、以前のそれとは違う。新たな道が拓かれたのだ。これからお前と生きていく未来に思いを馳せよう。互いの生き方が交わる度に、私はお前の、お前は私のものになろう。
――今はただ、お前が欲しい!!
甘い、甘い、呻き声が漏れた。お前のそれがゴツゴツと突き上げている。快楽――そう、快楽。「好きっ、好きっ!」「ええ、っ、わたくしもです!――好き!!」互いに、必死に、滑稽な程に――愛を叫んだ。もう止まらない。止められない。文が腰を掴み、更に深くを抉ろうとする。
もはや浴室は愛の言葉であふれていた。恐らく、隣近所の迷惑になっていただろう。そんな事を考えられるだけの知性は、既に残っていなかった。必死に浴槽を掴む。文のそれが震えた。私は尻を高く上げ、精を求めるが如く鳴き喚いた。瞬間、それは破裂し――私の胎を、白に染めた。
―――
―――
それから私達は、今日この日の証とばかりに、幾度も交わり続けた。寝台で、床で、壁際で、或いは露台で、果てしなく互いを求め合った。空が白むまで。太陽を連れてくるまで。私は、いや、私達は疲弊しきっていた。寝台に倒れ込んだ文のそれは、もはや何の役にも立たないだろう。
手拭で軽く拭き取ってやる間も、文は何の反応も示さなかった。私は傍らに寝転んだ。独りで寝るには大きすぎる寝台だ。或いは最初から、このような用途で使う為に用意していたのかもしれない。しかし今は、私達だけのものだ。乱れきった掛布を引き、布の下で文に抱き着いた。
「ゆっくり眠るといい。私もそうするさ」そっと頭を撫でた。そんな事をされるのは子供の頃以来だろう。「おやすみ」それは私自身にも向けられた言葉だっただろう。シリンダーが開く音がした気したが、気のせいだろう。お前の体温を感じながら、私は静かに眠りに落ちる――
―――
―――
びくり、と背が震えた。何やら台所から匂いがしたのだ。よもや火事じゃあるまいな。たちまち覚めた目を引きずるように、慌ててそちらに飛び込むと――そこには、シェフ帽――どこからそんなものを持ち出したんだ?――を被った典が、フライパンの上で卵とベーコンをイビっていた。
「もう少し寝ていらしても結構でしたのに」私は頭をぶるぶると振った。どうやら火事ではない――家事ではあるか?――ようで、ほっと胸を撫でおろす。「ご存じでしょうが、もう昼ですよ。飯綱丸様」「あ、ああ……」窓を見れば、なるほど日が高い。どうやら大分寝ていたようだな。
「昨夜のお楽しみ、ご近所様には謝っておきましたので」「お前……」「たまには役立つという顔をしてらっしゃる。不肖、わたくしめは常にお役に立ちますとも」それは言い過ぎだ。配膳する典を背に、私は文を起こしに行った。乱れ切っていたはずの室内は、綺麗になっていた。
まるで昨夜のそれが夢だったかのようだ。否。夢ではない。片隅に掛けられたドレスのカバーは、テーブルに置かれた指輪のケースは、確かにそこにある。私は荷物の中から自分の買った指輪を取り出し、文の贈ってくれた指輪を手に取り――それを隣同士に並べてみた。石は、赤と青。
私のものになった指輪をそっと箱にしまい、私が渡しそびれた指輪を、自分の荷物の中に入れた。いつかはお前のものになるだろう。今はまだ、その時ではない。寝台にそっと近付く。文はまだ眠っているようだ。私はそっと、肩を叩こうとして――「ふはは、引っかかりましたね!」
突如として飛び起きた文が、私に組み付いてきた。「ふふ、心地よい目覚めにぎゅーっとして差し上げましょう」「いや、ちょっと待て、苦しい――」「苦しくしているのですよ」遂に私と文は、寝台に飛び込んでしまった。ギシリ、と悲鳴が上がる。咳き込んだ私の顔を、文が撫でる。
「一応、確認しておきます。わたくしの願いを聞いてくれますか?」「へ?」「同意と見てよろしいですね?」一方的な宣言と共に、文は――私にキスをした。私はそっと、文の首に手を回した。「――随分、欲しがりさんになってきましたね。結構」顔を離すと、文のにやけ顔が見えた。
「欲しがりついでに――どうだ。もう一度シないか」「いや、いくらなんでも勘弁してください。死にます」「冗談だよ」煙に巻かれた文を、私は思い切り笑ってやった。「それは又の機会でいい。今は、そうだな――遅い朝食でもどうだ」「そういたしましょう。精をつけませんとね」
起き上がった私に手を引かれ、文も起きた。その一部始終を――おい、誰が見て良いって言ったよ。「お仲がよろしいようで」「しばくぞ」「いやはや、こわいこわい」典はにやにやと笑いながらシーツをひったくると、それを浴室へと持ち去っていった。「忠実な部下をお持ちで」
「お前が二人に増えたようなもんだよ」「わたくしとは仲良くできそうですね」文は笑った。誠に遺憾ながら、私もつられた。「今日は暇か?」「取材以外はいつも暇ですよ」「それなら、執務を手伝え。このままじゃ日暮れまでに間に合わん」「仕方のない人ですね」「うるせえ」
軽口を叩きながら、その背を抱いた。文が頭を撫でた。いつまでもそうしてはいられないなら、せめて何度でもそうしよう。私達の間を裂こうとするものあれば、二人でそれに立ち向かおう。私は大天狗だぞ。お前達よりずっと偉いんだぞ。大天狗と不良天狗、二人揃えば、何するものよ。
私は既に婚約を、結婚を、そしてその後の事を考えていた。先走るのは私の悪い癖だ。しかし、それを考えるのは――とても、ときめくのだ。ああ、やはり私は、どれだけ繕っても女の子なのだな。何気ない世界が、きらめいて見える。私は耳を掻いた。文もまた、そうした。
◇◆◇◆◇◆
「……先日の交わりが近所中の噂になっているのですが、なにゆえ?」
「つッ、典の野郎……」