さようなら、屏風の虎
―さようなら、屏風の虎―
――どれだけの時が過ぎただろうか。十年。百年。暦を数える事は草々に諦めた。四季がわかれば、それで十分だ。日課の水汲みを終えた我は、布でもって、星の身体を拭いてやる。さして必要がある訳ではないが。埃を積もらせるのは我の誇りが許さなかった。虎は今日も、目を覚まさない。
その身は…そう、まるで時が止まったように動かない。己がすべての心が噛み合うまで。それは慈悲である。それは贖罪である。それは、自分自身を赦す為の。いつ目覚めてもいいように、我がいる。覚めたる虎を導くために。再び心砕く事がないように。
――うるるる。
…聞き覚えのある音が、耳を突いた。眷属らが四散した。我が錫杖を構えるその目の前で、虎は目を開いた。最大限に警戒はしている。或いは己の負の心こそが勝ってしまったのかもしれない。…その時は、我が。虎の身柄を預かって以来。そのくらいの覚悟はできていた。
――ぐるるるるッ!!
「――!?」虎は目覚めた瞬間に飛び上がり、我の身体を押し倒した。調伏する暇もなかった。錫杖が跳ね跳び、我の唯一の武器は失われた。虎は我の顔を値踏みするように見た。或いはあの時の調伏を思い出していたのかもしれない。虎は我へ頭を近づけ――首を、鋭い歯で噛みついた。
「――ッ!!」声もなかった。致命傷ではない。しかし、しかし、虎があの時のまま怒りに囚われている事を、我は直視せずにはいられなかった。虎が吼えた。我の目の前で、虎の姿が変わっていく。顔には黒の紋が浮かび、身体全体が一回り大きくなったようにも見える。――否、なっている。
髪が、そして体毛が伸びた。それは屏風の虎が、真の虎へと変貌しようとしていたのやもしれない。怒りに震える瞳が、我を見下ろし続けていた。「やめろ、星…」我が絞り出せたのはその程度の言葉だった。届くはずもない。聞き入れられるはずもない。腕が上がり、振り下ろされた。
鋭い爪が、我の衣装を引き裂いた。己のそれも、かなぐり捨てた。全裸に虎の毛皮をまとった虎は、我を無理矢理に組み伏せた。肩がきしむ。これ以上力がかかれば、きっと折れるだろう。だが虎は、それを望んではいないようだった。力が弱まる。それは決して気遣いなどではなかったが。
虎は我を組み伏せたまま、我のそこを舐めた。何をしようとしているか、理解した。我は身体を震わせた。虎のそれは徐々に膨らみつつあった。直視できない。顔を背ける。虎の腕がそれを咎める。私はそれを見続けるしかなかった。虎はそれを私に向け、そこへと当てた。
咄嗟に拒もうとする。駄目だ。脚の力ではどうにもならない。そそり立つ虎のそれを見せつけられて、我は、震えるしかなかった。それが捻じ込まれる。我は必死に抵抗する。我の意思に反して、我のそこはそれを受け入れようとする。防衛反応だ。己がこれ以上、傷つかない為の。
虎は爪を立てた。そのまま我を抱き込もうとする。抵抗しなかった。下手な事をすれば腕が切り裂かれてしまう。虎は我を抱き込むと、我の身体を上下に激しく突いた。突き続けた。痛みだけがあった。――いや、嘘だ。死の恐怖とは別に、快楽は確かにあった。我はそれを必死に拒んだ。
虎が激しく我を抱き込んだ。再び、首を噛みつかれた。傷は深いが、致命傷ではない。流れた血を虎は舐めた。その瞳はあの時の炎を宿していた。怒り。悲しみ。慟哭。それらすべてを我にぶつけているのだ。虎は再び我を突き上げはじめた。我は涙を流しながら、それに耐えた。
虎の悲しみは我にも伝わっていた。恐らく、我は殺され、食い尽くされるだろう。だが、その後はどうなる。血に飢えた虎は、その身を燃やし尽くすまで暴れまわるのではないか。もはや誰も覚えていない、焼き討たれた寺の生き残り。屏風の虎、虎であろうとした屏風。一人残された、虎。
それはいずれ討伐されるだろうが、その間にどれだけの人間を喰らい、業を重ね続けるのか。我にはわからない。しかしそれが、虎の悲しみを更に広げるだけなのは、わかる。無限に積み重なる悲しみは、ますます虎を激昂させるだろう。命尽きるその瞬間まで、償えぬ罪を重ね続けるだろう。
――我はどうすればいい? どうすれば、虎を優しい彼女に戻せる? 我の事をなずーりんと呼ぶ、あのとぼけた虎に戻せる? どうすればいいんだ。天は何も答えてはくれなかった。見捨てられたとは思いたくない。或いはまだ、我に出来る事があるというのか。そうなのか。
――左手が動かない。折れたのか。痛みは感じなかった。それどころではなかった。虎は我を強く抱きしめ、大きく身体を震わせた。その時が来たのだ。我は右腕で虎を無理矢理抱きしめた。さもなくば、全身の骨がへし折れる気がした。逆らうな。流れに任せろ。抗えば、死ぬ。
虎は更に、更に身体を震わせた。内側を思い切り穢される感覚が襲った。虎がそれを引き抜くまで、我は意識を半ば手放していた。痛みすらも我を引き戻しはしなかった。意識を拾った我を最初に襲ったのは、死の恐怖でも苦痛でもなく、激しく深い、そして心を震わすような、快楽だった。
虎は首の傷を舐め始めた。決して慰撫ではない。虎はその味を楽しんでいる。もう一度噛まれればその時、我は死ぬだろう。身体を縮こませる。虎は腕に力を込める。虎は我の身体を転がした。胸を掴み、四つん這いにさせた。そういう事か。我は脚に力を込めた。衝撃に、耐えられるように。
虎のそれが再び、我を貫いた。息が飛び出した。呼吸ができない。それは引かれ、二度突いた。三度突いた。我は漏れる声を隠す事ができなくなっていた。死への強い恐怖が、或いは快楽を何倍にも増幅していたかもしれない。息が飛び出す。呼吸ができない。息が飛び出す。声を隠せない。
我はよがり続けた。虎はうるるる、と喉を鳴らした。或いは我の処遇を考えていたのかもしれない。尻を高く上げた。虎の限界を感じた。それは遂に爆発して――我の中を、そして外を穢した。我の意識は快楽に包まれていた。苦痛を紛らわす麻薬だ。それがなければ、既に死んでいる。
虎は再び我を突き始めた。我はよがった。狂おしいほどに夢中だった。或いは虎もそうだったのかもしれない。小さい身体を抱き込んで、突いた。それは我を幾度となく穢した。終わりがないように感じた。しかしそれは、やはり無限ではなかった。幾度目かの行為で、虎はそれを引き抜いた。
虎がぐるるる、と喉を鳴らした。我は上向きに転がった。その瞳に浮かぶ炎は、尽きぬ。虎の手が、我の耳を裂いた。もはや苦痛など感じなかった。もう一つの耳も裂いた。尻尾を裂いた。ちぎれるまで裂いた。爪が腹を撫でた。命の終わりを感じた。しかしその手は、我の顔へと向かった。
虎は爪ではなく、掌で我を撫でた。二度、三度、撫でた。それが慈悲であると、我は思ってはいない。見定めているのだ。己の獲物を。首を裂き、腹を喰らい、四肢を引きちぎる算段を立てている。どのように殺すか。どのように喰らうか。虎は右腕を掴み――思い切り、食い千切った。
虎は流血を舐めた。舐め続けた。味を比べるかのように。我の身体を舐めた。乳房を掴んだ。首筋を舐めた。頬を舐めた。引きちぎれた尻尾の断面を舐めた。我にはもう苦痛などなかった。我は身体を揺らして答えた。快楽という麻薬が我を完全に狂わせていた。もっと舐めてほしい。もっと。
虎がそれを突き付けた。意図はわかった。我はそれを咥え、穢れを丁寧に舐めとった。虎が背中を抱いている。傷付けている。我の背中には無数の引っかき傷がついた。舐める。震わす。背中の傷すら今の我には快楽であった。虎は激しく震え、我の口に精を吐き出した。舐める。舐め続ける。
虎が我の顔を傷付けた。引っかく。何らかの模様のように。或いはそれは虎と同じ紋様だったかもしれない。我はもう快楽に浸かる以外の行動を起こせなかった。すべてが成すがままだった。血が流れた。それは丁寧に舐めとられた。虎は――私の首に、手をかけた。
もう、これで終わってしまうのだろう。我にはもう、抵抗する気はなかった。死ぬのならばそれでよい。我の力が足りなかったのだ。虎を御する事ができなかった。もう、何を顧みようと仕方がない。一息にやってくれ。我は、我は――否、駄目だ。駄目なのだ。快楽から己を引き上げる。
「――やめてくれとは、言わ、ない」言えやしない。すべては我の力不足だ。「人を喰らうのは、せめて、せめて、これで終わりにして、欲しい」我の肉体など惜しくはない。生贄としては足るとは言い難いが、それでも。「どうか最期に、我の願いを――!」もう息、が、できない。
半ば食い千切られかけた腕で、虎の頭を抱えた。我にはもうこれしか表現できる手段はなかった。我は意識を手放す。二度と浮き上がる事のない暗黒の中へと堕ちていく。虎の咆哮が聞こえた。行き場のない感情を鎮める為に、吼えるしかなかったのだろう。――さようなら、屏風の虎――
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虎がいた。一匹の妖虎だ。それは度々人里に出没したが、決して人を喰らう事はなかった。やがて名のある侍の手で打ち倒されたそれは、死後にその姿を屏風に変えたという。人々は安堵し、虎を貶めた。虎がその瞳に宿した炎も、命を賭してそれを御した鼠も、今はもう、誰も知らない。