―恋の数式―
この世には、容易に測れぬものがある。一つは円周率。もう一つは――
親のない霊夢を、私は娘のように感じ、接していた。或いはそう思うよう、式を打ち込まれていたのかもしれないが。今はもう四六時中ついて回ってはこなくなったが、たまに出会った時には私の九尾に抱き着いて、楽し気に笑うのだ。あんたはいつも暖かいのね。一本くらい欲しいわ、と。
やがて年頃になった霊夢の顔を、私はじっと見た。怪訝な顔で、お前は「なによ」と返したな。そうだな。なんだろう。この感覚は。疑問は今でも私の中に残っている。私の知らないお前を知りたい。お前をずっと見ていたい。時折湧いては、消えていく。不思議な感覚だった。
――私は珍しく、書を開いていた。仕事の関係で、必要になったのだ。ふと、記述が目に入る。九尾伝説。それはとても詳しいとは言えない内容で、訳注で真偽を疑われていた。私はしかし、その言葉に少しばかり惹かれていた。九尾伝説。九つの尾を持つ狐が悪行の証。
歴史の中の九尾の狐は、幾多の人間を食い散らかしたという。…霊夢。不意に顔を思い浮かべる。打ち込まれた式にバグが生じているのか。そうであるなら、自分自身でそれを打ち直せばいい。だが、これが私のソフトの問題であるなら、何度打ち直しても無駄だろう。バグは何処までも広がり続ける。
バグが消せないのならば、最終手段がある。私というソフトウェアを壊せばいい。簡単な事だ。しかして抜け殻だけが残る。紫様なら有意義に活用してくれるに違いない。しかし私は、私はそれで満足なのか? 従者として生きる。今に何の感慨もない。それは当たり前で、悪くもない時間だった。
…私には、私なりの心残りがある。できれば、まだ死にたくはない。私は仕事を済ませると、本を棚へと戻した。九尾伝説。今の私には無関係なもの。少なくとも、その確率は、高い。高いはずだ。私の中の計算機が、答えをはじき出せず、煙を吹いた。こんな事は、めったにない。
◇◆◇◆◇◆
「それを愛というのだろう。それを恋というのだろう」化け猫達が斉唱した。橙は顔の前で指を振ると、にへへと笑った。「誰かの受け売りですけどね」化け猫は、自由だ。手元に置いておくのは可哀相に思えて、結局は野放しに近い事になってしまっている。それでもまあ、たまには役立つ。
「藍様は何事も深く深く考えすぎでしょう」伸びをしながら、橙は語る。「自然体が一番ですよ、自然体」そうは言っても、事は簡単ではない。橙は相変わらず呑気で、気紛れだ。私が打ち込んだ式は、橙の元々の気質をコートできてはいない証だ。わだかまりはあるが、まあいい。
…紫様の式はどうだろうか。我ながらまるで他人事のように考えた。自然体――そうだな。私の自然体は、どうだっただろう?
元々の私の姿。それは一つも思い出せない。恐らくは力で服従させられたのであろうが、悔しみも、怒りもない、過去がないというのは、決して悪い事ばかりではないだろう。今を、そして未来を常に新鮮に受け取れる。古傷を痛めることもない。叶わなかった、苦しみも。
――だが、今は? これから受ける傷は? 未来の事はわからない。計算はできるが、答えを得るのは限りなく不可能に近い。心という器は近似値を求める事を拒む。単に確率の問題だ。はい。いいえ。馬鹿らしい二択。見えざる心の機微あらば、半々とすら言えない。勢い。気紛れ。なんでもござれ。
弾かれた確率を解釈、時に高揚し、或いは悲観するのは、人だ。人は定めを得る為に、計算機を回す。計算ばかりで判断ができない私は、或いは最初から不完全な生き物だったのかもしれない。愛か。恋か。――私は何も知らない。だからこそ、霊夢に問うてみようと思った。それだけだ。
◇◆◇◆◇◆
「今日もあなたは気持ちいいわね」尻尾に捕まりながら、霊夢は楽しげに喋り続けていた。紫様はいない。自分から結界の様子を見に行くなんて、珍しい。かくして私は、博麗神社に身を寄せる。こういう時間だけが、私の安らぎだったかもしれない。それに花を添えるものが、尻尾の上にいる。
「それで、話って何? つまらないなら、聞かないわよ」霊夢の顔は伺えない。背中にあるのだ。それはそうだろう。だが、今の私にとっては、それは有難い状況であったと思う。伝えるべき事――いや、伝えたい事を、伝えるだけだ。
「私は、お前が好きだ」確率は、いくらだ? 「お前と、今以上の関係でありたい」近似値は、弾き出せたか? 「どうだろうか。その…」私の感情は、演算能力を凌駕していたのではないか? …されど、今は、お前を計らねばならない。お前の心を、解釈しなければならない。九つの尾が、震えた。
「――いいわ」
確率は、収束した。「私も、昔からあなたの事を好いていたもの」九つの尾に抱き着いたまま、霊夢は言った。言ってくれた。あなたがくれた心というものに、救われたように思えた。もぞもぞと霊夢が動き、私の尻尾の奥深くに潜り込んだ。
回転する。はじき出される。私の中を駆け巡る数式は、他人の、そして自分自身の感情すらも正確にエミュレートする事は出来ない。近似値が飛び交い、理解しようとする。…私はそっと、口元を隠した。ああ、そうか、これが――恋心という奴か。私は遂に理解した。世界が広がる感覚があった。
「次はいつ来れるの?」霊夢にもわかっていた。私はとかく、忙しい。余暇という概念もない。いつ会えるかは、まったくわからない。「答えかねる」私は困ってしまっていた。スケジュールの立てようもないのだ。紫様は実にファジィな御方だ。何かを思いつけば、巻き込まれるのは、私だ。
「でしょうね…じゃあ」立てかけられていた御幣を、ヒュンヒュンと振り回して見せた。「紫に言って、貸してもらいましょう。あなたを」何事も暴力で解決するのが一番。巫女にとって最良の、そして最強のカード。紫様と言えど、一度は御幣の錆となったのだ。二度そうならないとは限るまい。
「知ってる所にいればいいけどね」霊夢は次元の穴を開き、中を見据えた。紫様から学んだのか、或いは生来のものか、霊夢は次元を飛び越える術を知っている。紫様のものほど融通は利かないが、霊夢の場合、そこから蹴りなり棒なりで奇襲するのが特に得意なのだ。無論、狙われるのはいつも…
「じゃあ、ここで待ってて。すぐ片付けてくるから」回転しながら飛び上がると、霊夢の姿は次元の隙間へと飛び込んだ。穴が閉じる。…聞こえるはずはないのだが、紫様の悲鳴を空耳した。それは私の頭の中でバタンバタンと音を立て、やがて止まった。
一人になった部屋で、私は九尾を整え、座り直した。「誰かに何かをしてもらうというのは、いいものだ」冷めた茶をすする。「…幸せ者かもな、私は」独り言だ。霊夢には、聞こえるはずがない。そのはずだ。
◇◆◇◆◇◆
私のようなものは、水を被ると非常に困った事になる。例えるなら、コンピュータに水を垂らすようなものだ。まあ、式が剥がれる…とは言っても、一次的なものだ。並みの機械のようにやわではない。丁寧に乾かせば、その内に直る。いつ直るかは、私にもわからないが。
ある日、ある時、私の身柄は貸し出され、博麗神社にあった。目の前には風呂桶。ただの桶ではない。小さな温泉めいた光景が拡がっている。誰かが作った訳ではない。当然、霊夢でもない。紫様の仕業だ。石造りの湯船一式を、邪魔だから、の一言で投棄するのは、流石に紫様くらいではないか。
「あんた、ちょっと汚れてるわよ」確かに今日は、野山の結界を見回っていた。少しばかり汚れていただろう。湯に入れば、それは気持ちがいいかもしれない。「いや、しかし、私はだな…」私の遠慮を知ってか知らずか、背中を押される。押される。押される。あっという間に風呂の真ん前だ。
「掛け湯しなさいよね」…こうなっては浸かるしかあるまい。気は引ける。意地でも入るべきではないのだが、それを言っても聞かないだろう。お湯なら良いのね、とは如何にも屁理屈であるが…例外処理をしなかった私にも責任はあるか。本人にそんなつもりはまったくないだろうが。
――論理的思考や計算能力が溶けていく気がする。端的に言えば、のぼせる。水に弱いと公言して憚らないのは吸血鬼の連中もそうだが、奴らのそれは本当に弱点なのか怪しい所である。真の弱点を隠す為の流言ではないか。私はそう見ている。見てるったら見てるのだ。…ああ、気が遠くなる。
湯から上がった私はもはやただの濡れ狐であった。そこらの妖怪となんら変わらない程度の頭しかない。働かないのだ。ソフトウェアがボロボロになれば、エミュレータも風邪を引く。何より今は、ハードからして困ってしまっていた。自慢の九尾が、濡れてしおしおになっている。
「あら、まあ」先に湯から上がっていた霊夢が、面白いものを見るような目をしている。あまり見ないでほしい。クールなイメージがめちゃくちゃになる。…それ以前に、私は今全裸なのだが。そういうのは気にしないのか。「来なさいよ、乾かしてあげるから」彼女は私を手招いた。
彼女はドライヤーらしきものを持ち出していた。紫様が放っていった道具の中にあったらしい。動力は、謎だ。実態は妖具に近い。絶対に湯船に入れるなよ。私は釘を刺した。わかってるわよ――本当にわかっているのか?――と、お前は笑った。スイッチを入れ、私の尻尾に温風を吹きかけ始めた。
「あんたの尻尾は凄いから、特によく乾かさないとね」萎びていた尻尾が、徐々に乾いていくのを感じる。「ねえ」霊夢が口を開いた。「あんた今、式が剥がれてるのよね」「…そうだが」式が剥がれても、私は私だ。かなり頭がボケてしまうだけで。「難儀なのね」言葉の意図を、測りかねた。
「――ねえ、今日は泊っていくでしょう?」許可は貰っていた。「じゃあ、決まりね。…布団は、一枚しかないけど」…今の言葉が、愛の囁きである確率は何%か。…しまった、わからない。式のない私は頭がまったく回らない。駄目だ、これは。自分でも顔が赤くなっていくのがわかる。
「――どう?」「…そうしよう」私はダイスを振らなかった。ただ、迂遠な期待だけを基準にして、お前に答えた。
◇◆◇◆◇◆
「思った通り、暖かいわー」
私の尻尾を抱き、お前は言った。肌寒い気候、煎餅布団、薄い着衣と来れば、私の暖かい尻尾は救世主に思えただろう。実際、尻尾には自信がある。…紫様がしょっちゅう汚したり、毛を抜いたり、果ては獣毛布団にしたりで、困ってしまうのだが。
並んで座った私達の間に、風は吹きこめない。静かなぬくもりがそこにはある。「二人きりは…そう、ロマンチックね」お前は呟いた。何と答えればいいのか、わからなかった。お前は答えを求めているように思えた。今の私には、その真意を計算する事すらできない。だから、答えた。
「…そうだな」「そうじゃなくて」霊夢は私の言葉を打ち消した。「そうじゃなくって、さ…」「…そういう意味だったのか?」狂ってしまったコンピュータが、壊れたしまった確率計算機が、何よりも暗号解読機が、塵となって崩れ去るのを幻視した。霊夢は本気だ。そう、本気なのだ。
「…そうは思わなかった」「私だって…そういう意図がないなんて、思っていなかったわよ」恥ずかしげに、顔をそむけた。そうか、そうか…。私はそれに、気付きたくなかったのだ。一線を越えれば、もう引き返せない。紫様になんと言えばいいのか。何を言われるかもわからない。
――しかし、引き返す必要があるのか? ぼうっとする頭で、お前の横顔を見た。染めた頬は、愛らしい。同時にそれは、私の中で一つの感情を育てていた。手で促すと、お前はこちらを向いた。両の瞳を見て、身体が疼く。僅かに口を尖らせる。疼く。――私は、劣情に身を任せようとしていた。
「…好きよ」
「私も…好きだ」
どちらからともなく、限りなく、近付いた。始めて。そう、初めてのキスだ。私にとっても、お前にとっても。まだ幼さの残る身体を、静かに撫でまわした。お前の高鳴りが私の耳を刺激する。私は獣だ。獲物を求める獣。ある種の狐は、雪下へ飛び込むように狩りをする。私は、お前に飛び込みたい。
どうやら私は、こういう事が得意だったらしい。昔取った杵柄。食い散らかしてきた過去。貪るだけの愛。…過去の事は、もうどうでもよかった。頭が過負荷で破裂しそうだ。口の中が乾き切っている。理性的、論理的に考えれば、手を出すべきではない。わかっていた。わかりたくもなかった。
僅かな困惑を押し返すように、私は撫でた、撫で続けた。お前の喉から、悦びの声を上げさせた。そうだ、悦べばいい。私がそうしてやろう。お前の初めてを、私が奪ってやる。お前の情念を、今から食らい尽くしてやる。これは理性ではない。理屈でもない。獣の身勝手だ。
息を荒げるお前に、私は覆い被さった。機械めいて理性的な私はもう二度と戻ってこないのではないか。それでもいい。私が狂った機械であるなら、お前はそれに身を裂かれる人間だ。機械が逆らわぬと、誰が決めた。逆らってやる。今も、そして未来も、お前に、私の獣を、限りなく流し込んでやる。
お前は言葉で、欲しがった。言われずとも、そうしていた。手首を掴み、がむしゃらに腰を振った。お前の嬌声が耳を衝いた。お前の悦びがお前自身をも熱くする。お前を私が、そして尻尾が包み込んだ。突いた。突いた。激しく、獣の心で、突いた。…お前が欲しい。…お前がもっと欲しい!!
闇を切り裂く昂り。唸る二人の音。具えられた灯りが、三つの像を映し出していた。私、お前、…そして。灯りの影はやがて消え、周囲に静寂が戻った。
◇◆◇◆◇◆
「それで、何回したの?」「…紫様、覗いてましたよね?」