―私は忘れます―
心の中に開いてしまった、大きな穴。
私は、虎です。……いいえ、虎でした。或いは最初から、虎ではなかったかもしれません。私はそうあろうとしたはずです。少なくとも一時は、虎として振る舞っていた。そのはずですが――今の私には、おぼろげにしか思い出せないのです。私は何者であるか。何者であろうとしたのか。
――虎よ、虎よ!――
頭の中に時折、響くのです。毅然としたなずーりんの声が。私の恐ろしい唸り声が。本当にそんな声が出せたのでしょうか。なずーりんに聞いてみようと思った事は何度もあります。けれどそれは、問いかけてはいけない事のように思えて、いつも、いつも、尻ごみしてしまうのです。
私は戸を開け、外を見ました。ここは山奥の一軒家です。訊ねる者はまず、いません。もう何年、いや何十年も二人で暮らしてきました。時が止まっている、と例えても、おかしくはないでしょう。変化を感じるのは、なずーりんが人里に降りて、食料や必需品を買い付けにいくくらいでしょうか。
私の力の片鱗だったのでしょうか。なずーりんの手元には、暮らしに困らない程度の財宝が集まっていました。それを売り払い、様々なものを買うなずーりんを、人間達は或いは、不信に思ったかもしれません。その出所を探ろうと、後をつけられるのはよくある事だそうです。
そのような不届きものは、大勢の眷属達に噛みつかれて、退散するそうですが。鼠を甘く見ると死ぬ。なずーりんはよく、そう言っては憤慨していました。――私も、人里に下りようとした事はありますが、なずーりんは強固に反対しました。私を引きずる勢いで、ここにいてくれ、と。
私はいつも手持無沙汰でした。掃除をする所がもうありません。雨戸は直してしまいました。お花にも水をやりました。眷属達にごはんもあげました。そうなると、本当にする事がなくなってしまうのです。そうなると、自然にものを考える事が多くなります。色々な事を考えました。
いつも私はなずーりんに頼りきりです。帰ってきたら、後でいたわってあげないといけませんね。お花はそろそろしおれそうです。種を取って、来年また植えましょう。洗濯物が今日中に乾けばいいのですが。今日の晩御飯は何にしましょうか。あ、あの雲は美味しそうですね。それから――
――その時です。頭に響く何かが、再び脳裏をよぎりました。毅然としたなずーりんの声。私の恐ろしい唸り声。それはきっと、夢の中の出来事ではないのです。本当にあった事――だとすれば、私はどうしてそんなに怒っていたのでしょう。どうしてなずーりんは私を叩いたのでしょう?
―――
―――
外はざあざあ、と雨が降っていました。私は雨戸を閉じ、明かりを灯しました。傍にいたなずーりんが、私を見ました。――今日こそはあの夢を、かつての出来事を、聞かなければなりません。「なずーりん――私は、夢を見るのです」なずーりんの耳が、ぴんと立ちました。
「――どんな夢だ」明かりの中に、あなたの顔が浮かびました。「燃える何かを、見下ろしている夢です。傍にはあなたがいて、私に問いかけました。――虎よ、虎よ――と」あなたはうつむき、何かを考えている風でした。「あの恐ろしい唸り声は、私のものだったのでしょうか」
「夢だ。夢に過ぎない」なずーりんは私の身体にしがみつきました。「何も考えなくて、いいんだ」なずーりんの言葉を、私は反芻しました。しかしそれは、私の中の空白をすべて埋めるには足りなかったのです。「どうか、正直に答えてください。私は何かを、忘れているのでしょうか」
「違う――と言えば、嘘になる」なずーりんの声は、何処か鋭かった。「しかし、それを、あなたは思い出すべきではない。寅丸星」なずーりんは錫杖を手に取り、両手で構えました。「どうか、どうか、忘れてほしい。さもなくば――私は、あなたを今一度、封ぜねばならなくなる」
なずーりんの声に、偽りはなかったでしょう。「教えてください」私は空から槍を取り出すと、なずーりんに向けました。「あなたを傷付けるなんて、したくありません」なずーりんは驚き、そして覚悟を決めたように錫杖を構え直しました。こうしてでも、私は知らなければならないのです。
――なずーりんから仕掛けました! 錫杖から延ばした光の穂先を、私の槍に向けました。私はのけぞってそれをかわし、三又槍で錫杖を叩き落とそうとしますが、なずーりんはそれを転がってかわしました。伸ばした手からいくつもの光条が私を狙いました。槍を振り払ってそれを受け止めます。
互いに互いを気遣った戦い――といえば、おかしな話かもしれません。私達は戦う為にこうしているのではないのです。互いに譲れないものがある。それを賭けました。あなたに意地があるように、私にも意地というものがあります。簡単には教えて貰えない。だから今、こうするのです。
闇の中での戦い。何の問題もありませんでした。私達は闇を見通せます。外から部屋の中を見ていたとすれば、恐らく光が踊り狂っているように見えたでしょう。穂先が私を照らしました。石突で錫杖を打ち払います。光の槍で直接なずーりんを薙ぎ払いました。それは寸前でかわされました。
穂先が突き出されました。槍の柄が狙われています。穂先を切り飛ばすつもりです。私は逆に突き返しました。互いの武器が衝突します。どちらも傷付いてはいません。光の槍をいくつも繰りましたが、空中で錫杖を回転させたなずーりんにすべて防がれます。毘沙門天の使者。流石、強い。
「もうやめろ」やにわに穂先が伸びました。まるで薙刀です。私は距離を取り、槍を思い切り投げつけました。同時に光の槍を繰ります。なずーりんはそれを寸前でかわすと、光条で光を撃ち落としました。術では互角。ならば、槍術で勝たねばなりません。槍を引き戻し、構え直します。
振り払う刃。柄で受ける訳にはいきません。先んじてそれを穂先で受け、叩き落とそうとします。しかし、重い。なずーりんは恐らく、私よりも力があります。刃を押し込まれる――!! 私は後ろにのけぞってそれをかわしました。激しい追撃。槍の穂先が――斬り飛ばされました。
槍を犠牲に、私は転がって距離を取りました。棒術も槍術も似たようなものです。自分を励ましながら、なずーりんと睨み合います。薙刀はいつの間にか、さすまためいた形に変化していました。私を捕えるつもりに違いありません。私は踏み込み、錫杖を狙いました。それは打ち払われます。
お互い、武器を狙っていては埒があきません。私は打開策を必死に探りました。なずーりんの刺突。私は石突で、なずーりんの腕を狙いました。やはりかわされます。――そうだ。かわせないようにすればいい。私は槍を片手に回すと、錫杖をかわしながら湾曲する光条をいくつも繰りました。
なずーりんは無理な態勢で転がり――避け切れません。光は腕を、そして全身を束縛します。苦痛はないはずです。光は更に幾重にもなずーりんを縛り上げ――私の目前に、身体を転がしました。「勝ちました。私の勝ちです」私は槍を空に返し、見下ろしました。私を、見上げました。
「教えてください、昔の事を」「駄目だ」「教えて、ください」私はなずーりんを持ち上げようとしました。――その時でした。なずーりんは拘束を脱し、私に思い切り体当たりしてきたのです。私はたまらず転んでしまいました。馬乗りになったなずーりんの穂先は、喉を狙っていました。
なずーりんは背後で錫杖を捩じり動かし、穂先で光条を切り裂いていたのです。なずーりんの顔を、そして私の顔を、錫杖の穂先が照らしていました。「忘れるんだ。寅丸星」なずーりんの目からぼろぼろと涙がこぼれました。「あなたに今一度、あのような惨劇を体験させたくない」
「やはりそれは、惨劇なのですね」私の言葉に、なずーりんは頷きました。「……負けてしまったのですから、それ以上は聞きません」私は頭を掻き、床に座り込みました。先程の戦いであちこちがめくれ上がっています。補修をしなければいけませんね。私はそんな事を考えていました。
「――そうしてくれると、我もありがたい」なずーりんが私の隣に座りました。涙を拭いて、私の方を見ました。「いつか、いつかはあなたも思い出すかもしれない」錫杖を置き、顔を伏せました。「その時は、我があなたを止める。止めてみせる」再び上げた顔は、凛としていました。
「その時は――そうですね。お願いします」私は何となくですが、理解しました。記憶を取り戻せば、私はなずーりんに止められなければならないような状態になるのではないか、と。それは嫌です。あなたを失うなんて考えられません。考えたくもありません。私は、あなたと一緒にいるのです。
なずーりんは肩を寄せ、私に身体を預けました。牽引するのはあなた、しかしてそれを癒すのは、私の役割でした。自然に私はなずーりんの頭を取り、膝の上へ寄せました。なずーりんは腕を、そして身体を預け、膝の上に乗っかりました。なずーりんの鼓動が、私に伝わりました。
――戦い合った身体の高ぶりは、或いは収まっていなかったかもしれません。
あなたは私の手を取りました。腕に尾を巻き付けてきました。それは、私達にとって特別な意味を持っていました。私は小さく頷きました。あなたは頷き返し、私をぎゅう、と抱きしめました。しばらく、そうしていました。やがて私は立ち上がると、荒れた床に布団を敷きました。
私とあなたは、いつ頃からか幾度も尾を交わしていました。どちらからともなく誘いました。それは、私にとって救いであったかもしれません。限りなく近づいたあなたの存在が、私の穴を埋めてくれました。例えそれが一時の事であっても。あなたは、私を好きだと言ってくれました。
あなたはやはり、泣いていました。私はその涙をすくい、舐めました。「泣かないでください」「泣いてなどいない」あなたは嘘をつきました。「じゃあ、泣いてください」私は意地悪を言いました。「泣かせるのも、面白いかもしれませんよ」「馬鹿」あなたはこそり、と呟きましたね。
私達は横になりました。私は目前の小さい身体を抱き込みました。こうしている時間は、ただただ幸せでした。けれど私達は、それだけでは満足できないのを知っていました。いつ頃からでしょう。互いに互いを、より深くまで求めたのは。それを肯定したのはあなたでしたし、私でした。
片手で首を掴みました、片手をあなたの首元に置きました。あなたは抵抗しませんでした。私が悪しき事をするはずがないと、信頼してくれていました。私は首を撫で、指を這わせました。あなたはこれが好きでしたね。ゆっくりとした呼吸に混じった、吐息が聞こえます。顎を撫でました。
顔を近づけ、接吻を交わしました。あなたが私の背中を抱き寄せました。私はもう、あなたに我慢が出来なくなってしました。あなたのそこにそれを押し付けます。あなたは微笑んでいました。構わない、と一言だけ呟きました。私は喜びに任せ、あなたの中へ一気に潜り込みました。
あなたはぶるりと震えました。あなたのそこが私を苛みます。苛む。苛む。私を狂わせてしまう。腰を引き、突きました。あなたの、いえ、私も息を荒げていました。あなたは片腕で顔を隠し、私の仕業を感じているようでした。そうです。してあげなければなりません。再び、突きました。
ああ、とあなたは漏らしました。それは悦びの声だったでしょうか。そうに違いありません。私は腰を引き、突きました。あなたが再び声を漏らしました。耳がきゅ、と畳まれています。尻尾がびりびり、と引きつっては、脱力しています。あなたは欲しがりました。私も、そうでした。
狂わせながら。狂わされながら。それはゆっくりとした交わりだったかもしれません。けれど私達は、それが好きだったのです。出来るだけ長く、永く繋がっていたい。あなたが欲しがっても。私が欲しがっても。ゆっくり、ゆっくりと。それは或いは、意地悪な焦らしだったかもしれません。
二度、あなたを突きました。あなたは顔を下げ、私の行為を肯定しているようでした。もう一度、突きました。腕越しに、隠した瞳が見えました。それは歓喜を宿したように、潤んでいました。あなたの尻尾を掴みました。それを弱く、弱くしごきながら、私はあなたを見下ろしました。
あなたは、顔を真っ赤にしていましたね。尻尾は駄目だと、嫌がりました。でも本当は、これが大好きなのを知っています。私はゆっくりとそれをしごきました。上から、下まで。先端をくしくし、とつまみました。ここに弱いのです。あなたは布団を掴み、幸せを堪えているようでした。
尻尾に舌を這わせました。尻尾が一際強く、びりり、と跳ねました。あなたの苦言を、私は聞きません。先端に向けて、舐め上げていきます。本当に嫌なら、あなたは尻尾で、私をはたいたでしょう。あなたはこれが大好きなのです。私の言葉に、あなたは何も返せませんでしたね。
先端を舐めます。優しく舌で転がします。こうすると、あなたはいつも涙ながらに懇願するのです。止めてほしい――いや、止めないで、と。私はひとしきり反応を楽しんだ後、尻尾から手を離しました。それはぐるりとあなたの傍に巻き込みました。もう触らせてあげない、と言わんばかりに。
一旦それを抜き、両方の肩に手を当てました。壊してしまわないように、そっと、です。あなたの首に舌を這わせます。首筋に、優しく甘噛みをしました。あなたはそれを許してくれます。私は何度も噛むと、その痕をぺろり、と舐めました。舐め続けました。まるで、血を舐めるように。
あなたの左手を取りました。のしかかり、頬を触れ合わせました。ぐい、胸が押し付けられました。あなたの平坦なそれが、それこそが、私には愛おしいのです。あなたを優しく抱きしめると、私は再びそれを挿れました。もうそろそろ、耐えられません。優しく包む、あなたのせいですよ。
私は突きました。私の胸の中で、あなたが悶えました。それでいいのです。私も気持ちが良いのですから。二度、三度と突きました。もはや遠慮はいりませんでした。欲しがるままに、振る舞ってよかったのです。四度、五度、突く度にあなたは熱くなり、その口は絶えず欲しがり続けました。
小さな身体を、突きました。強く抱き込みながら、あなたの名を呼びました。あなたも私の名を呼びました。それが合図とばかりに、あなたは激しくそれを締め上げました。私にはもう、それを我慢できるほどの余裕はありませんでした。緊張したあなたを抱いて、私はその名を呼び続けました。
―――
―――
――しばらく、そうしていました。頬を染めたあなたが、私を見ています。顔に書いてありますよ。もっとしたい。もっともっとしたい、と。私は萎えたそれを抜き、身体を少しだけ離しました。耳を立てるように、頭を撫でました。あなたは私の意を理解したのでしょう。身体を沈めました。
それを手にし、あなたは舌でなぶり始めました。それが再び熱くなるのを感じます。けれど、急いではいけません。私は耳と頭を撫で、あなたの頭を抱き込みました。あなたはそれを手に取り、優しくしごき始めました。今度は私が、イジワルされる番でしょうか。もぞり、と身体を動かしました。
あなたの手は、私のそれを掴み慣れていたでしょうか。私の弱い所は、皆、知られていたようでした。指と指の間で先端をこすられ、私はもだえました。もっとして欲しい。そう思った私の思考を読んでいたのか、あなたはそれ以上触ってはくれませんでした。代わりにあなたは、雫を舐めました。
我の為に吐き出してくれるものだろう、とあなたは呟きました。困惑する私を見上げたあなたは、その口で私に接吻しました。どうしてだか、私がこれに酷く興奮する事を知っているのです。あなたは腹を私に押し付けました。それが肌の間で困惑したようにびくびくと震えました。
ここに入るのだ。ここに。あなたは指差し、笑いました。私とてそのくらいは理解していました。実感はありませんでいたが。あなたは私との間で身体を上下に摺り始めました。それが刺激を受けて硬さを増していきます。あなたの顔が近い。あなたの顔が、とても近い。互いの吐息が届きます。
私は欲しがりました。あなたが欲しがったように。けれどあなたは、私のそれが破裂する寸前まで止めてはくれませんでした。びくびくと震えるそれを、あなたはそっと掴みました。その刺激だけで私は、果ててしまいそうでした。あなたは私を上向きに寝かせ、あなたのそこをそれに押し当てました。
早くしてください。私はもう、壊れていまう。あなたはそれを知ってか知らずか、そこをそれに当て、ぐりぐりと動かしました。ねばついた感触が私を狂わせます。早く。早く。懇願する私の願いを聞き届けたのか、あなたはそこをそれに当て――なんと、一気に押し込んだのです!
私は激しくのたうちました。突然にとてつもない快感を与えられたのです。私のそれは即座に精を吐き出し、果ててしまいました。頭がおかしくなってしまいそうでした。しかしあなたは、萎えたそれを離してはくれませんでした。馬乗りになったまま、腰を上下に動かし始めたのです。
満足させてくれ。あなたはそう呟きましたね。私も同じ事を考えていました。満足させてほしい。そして、満足させてあげたい。萎えたそれが再び勃ち上がります。私は上下するあなたに向けて、腰を強く突きあげました。突然の行為に、あなたは息を吐きました。私は構わず、突き続けました。
我慢できなくなると、その度に休憩を入れました。私達は果てる寸前を、ただひたすらに愉しんでいました。けれどそれも、いつかは終わってしまう。幾度目かの波が来ました。そこであなたが締め上げた瞬間――私は精を、大量の精を吐き出しました。時間差で、あなたも震えていました。
私達は一旦離れ、抱き寄せながら接吻しました。あなたが好きです。我も星の事が好きだ。やみくもに愛を確かめ合いました。私はあなたを組み伏せ、幾度目かの接吻を交わしました。優しく暖かな時間は――しかし長くは続きません。勃ちあがるそれ。これからは、愛するも激しい時間です。
私はあなたを四つん這いにさせました。私はそこにそれを当て、あなたの許可を待ちました。いい、とあなたが言うと同時だったでしょうか。私はあなたにそれを捻じ込んでいました。ゆっくりと、という話ではありませんでした。やみくもにあなたを突きました。突いて、突きまくりました。
あなたの震えも、あなたのよがりも、私には聞こえていませんでした。あなたが欲しい。あなたを食い尽くしたい。終わりはすぐに来ました。搾り取るあなたのそこに、私は思い切り精をぶちまけました。あなたは悲鳴めいた声を上げました。私も吼えました。そうするしかなかったのです。
それは何度でも続きました。あなたが満足するまで。私が枯れ果てるまで。それは続いていました。その度にあなたは叫び、私は吼えました。もしも通りがかった者がいたなら、部屋の中で女性が猛獣に襲われていると思ったかもしれません。そう、それはある意味で正しいのです。
あなたに襲いかかる虎。悲鳴を上げる鼠。もしも、もしも、あなたと私の出会いが違っていたとしたら、私は――あなたを喰らっていたかもしれない。血への渇望を、今の私は感じません。もしかしたら、それはあり得た未来なのかもしれない。
寝転がったあなたが私の頭を抱えました。もう、それしか表現できる手段はなかったかもしれません。私は意識を手放しました。あまりに快楽に浸り過ぎたのです。目が覚めれば、きっと昂りも治まっているでしょう。しばし、さようならです。忠実なる、毘沙門天の使者――
―――
―――
――私達の身体は、布団の中にありました。半ば眠りながら、互いを抱き寄せました。このままずっとこうしていてもいい。私はそう思いましたが、なずーりんはそうではなかったようでした。「ご主人」なずーりんが私の頬を撫でました。「あなたは今も、過去を知りたいと思うか?」
私は、静かに首を横へ振りました。
「私は忘れます。何もかも。それがあなたの望みなら」なずーりんを抱き込みました。「あなたがいる。それだけで構いません」なずーりんはすすり泣いていたかもしれません。私も一筋、涙をこぼしました。これまでも、そしてこれからも。私達は、二人で生きていきましょう。
窓から、明かりが漏れていました。新しい朝が来ました。そう、希望の朝です。私達の前途も、きっと明るいはずです。なずーりんの頭をわしわし、と撫でると、雨戸を開けました。明るい光が部屋を照らし、なずーりんの顔を浮かび上がらせました。その顔は、微笑んでいましたね。
―――
―――
本当は――思い出しかけていたのです。けれど私は、そうしませんでした。あなたを悲しませたくない。惨劇に踏み込むのが怖い。理由は色々とあったでしょう。でも、一番怖かったのは――私が、私ではなくなってしまう事。飼いならされた私ではない、すべてを憎み、荒ぶる、何かに。
きっと、もっと、悲しい存在へとなり果ててしまう。確信がありました。手を強く握りしめ、あなたの頭を撫でました。――或いは、あなたを手にかけてしまうかもしれない。もっと、もっと、多くの人を喰らってしまうかもしれない。それが怖かったのです。私は、目を閉じました。
いつか、いつか、私がそれらをすべて整理できるようになった時、その時こそ、私は思い出します。そうしなければならない理由があるのです。私が失ってしまったものこそ、心の中に開いてしまった、大きな穴の正体であるのでしょう。私は忘れます。そして思い出します。あなたの為に。
――さようなら、いつかの私。