―フカ抗力―
椛が忘れたって、私はずっと覚えてるもん。
私は誘った。あなたは噛みついた。それだけの話だったと思う。そこに何ら特別な事はなくて――そう、私の地位とか、あなたの立場とか、そういうものは何もかも何処かへ追いやられていた。私はどうしたってあなたが欲しかったし、あなたもそれに答えてくれた。何も、悪い事なんてないんだ。
――深夜にあなたが私の家を訊ねてきた時、私は自分自身を慰めている最中だった。慌ててはだけた寝間着を直した。鍵が開き、あなたが入ってくる。その手にはいくつかの袋、そしてそれからはみ出すように飛び出した動物――フカの大きなぬいぐるみがあった。私はそっと明かりをつけた。
「これ、欲しがってましたよね」確かに、そう言った事があったと思う。覚えていてくれたんだ。「ありがとう、椛ちゃん」私は微笑みを作り、軽く抱き着いた。今この場でなければ、もっと、ずっと、喜べたと思う。しかし今の私には、余裕がなかった。液体が、内股を伝うのがわかる。
「待ってて、飲み物を――」「私がやりますよ」あなたは私にぬいぐるみを渡すと、スイと奥へと入っていった。私はベッドにぬいぐるみを置き、抱き着いた。こんな事は初めてだった。私はそんなにする方じゃないと思うし、椛ちゃんもこんな遅くに来る事は少なかったと思う。ため息を吐いた。
あなたが来るまで、そうしていた。「どうぞ」「うん」コーヒーを受けとった。……そうか。もしもあの時、鍵が開くのに気付かなかったら――何をしているのかばれていたかもしれないのか。今更ながらひやりとした。知らない仲でもないとは思うけど、流石にそういうのは、ないよねって――
「――知っていますよ。はたてさん、自慰の途中でしたね」「えっ」私はコーヒーを取り落としそうになった。「匂いで分かります」あなたは平然とコーヒーをすすった。「誰しもそういう事はします。恥ずかしがる事はないですよ」「えっと、いや、それはちょっと――恥ずかしいよ」
急に熱くなって、私は寝間着をはだけた。あなたはそれをじっと見ていた。……今思えば、随分と扇動的な事をしたのだと思う。私はあなたを見た。あなたも私を見ていた。視線は合わなかった。あなたは私の胸元を見ていたから。急に恥ずかしくなって、私はそれをさっ、と隠した。
「どうしたの?」私の問いに、あなたは答えなかった。胸を見て、更に私の顔を見た。「なんでもありません」本当に何でもないんだろうか。私は立ち上がると――シーツに足がかかって、カップを放り投げそうになった。カップはあなたが掴み取った。私の方は――あなたに掴まれていた。
「大丈夫でしたか」あなたは平然と言ったけど、私はその実、大丈夫じゃなかった。さっきので、思い切り胸を掴まれたんだ。わざとじゃないと思う、思うけど――やっぱり恥ずかしい。「寝間着、直した方がいいですよ」――あなたに言われて気付いた。紐がほどけて、前が全部見え――
「わああっ!?」慌てて後ろを向き、神速で紐を結び直した。あなたはたぶん、じっと見ていた。振り向いた時も、そうだったから。「はたてさん」あなたの問い。咄嗟には応えられなかった。「今日は少し、大胆ですね」「大胆……」たぶん、そうだ。――がぜん、フカ抗力であるにしても。
「ごめん、ちょっとシャワー浴びてくるね」振り向く直前、あなたは私をじっと見ていた。思えば、お尻を見られていたかもしれない。シャワーの前ですべて脱ぎ、籠に放り出す。暖かな水がすべてを洗い流してくれる。たぶん。きっと、そうだ。身体を洗った。たぶん、もう匂いはしない。
外に出ると、……籠がなくなっていた。「あれっ、あれ――おかしいな」何処へやったか、慌てて探したけれど、見つからない。こうなったら、お風呂から外に出るしかないけど、……今は椛がいる。どうしよう。どうしたらいいんだろう。私は葛藤で悶えた。……ええい、どうにでもなれ。
水を滴らせながら、私はタオルを取りに出た。すぐ近くだ。何て事はない。あなたに見つかるなんて――「はたてさん」「!!」丁度良い所に、あなたは立っていた。「あっ、えっ、これはその――」「これを」あなたが差し出したのは、私が必死に探していた籠だった。それを受け取る。
「虫がいたので、払っていたのです。すみません」そ、そっか。そうだよね。まさかあなたが、勝手に持っていくなんてないもんね。けれど――私が着替えている間中、あなたは私の姿をじっと見ていた。寝間着を着込むまで。舐めるような視線っていうのは、この事を言うんだろうか。
私はベッドに座った。あなたはスツールに座った。なんとなく、何も言い出せない雰囲気があった。沈黙を破ったのは、私。「椛ちゃん、私の事どう思う?」「どう、とは」「お友達――以上の関係とか」はぐらかした。「難しいと思います」「――椛ちゃん自身は?」意地悪な質問だ。
「――それはもう、あなたを食べたくて仕方がありませんよ」答えはずっと直接的だった。「言いましたよね。誰しもそういう事はする、と」畳みかけるような言葉に、私は混乱してしまっていた。「え、えっと」「あなたはそう思いませんか」あなたはベッドに座り直して、こちらを見た。
「はたてさん、誘いましたよね」私は震えた。そうだっただろうか。いや、そうに違いない。そう取られるなんて、自分でも思わなかったけれど。「――うん、誘った」あなたは私の顔をじっと見た。「――そういうつもりでしたか?」「今更かもしれないけど――よく、わかんないや」
「私は、そういうつもりだと思いました」あなたは襟を引き、上下を脱いで下着だけになった。「あなたは噛みつかれます」あなたの瞳に私が写り込む。「拒むなら今の内です。私は退散します」私は答えられなかった。「――いいですね?」私は頷いた。他に言葉はなかったように思う。
―――
―――
寝間着をさっと脱がされる。恥ずかしい。どうしようもなく恥ずかしい。やめて、と呟いた。止めてほしいのですか、と問われた。そんな訳がなかった。私はあなたの身体を抱き込んだ。そんなことないよ、と呟き、あなたを近くに寄せた。あなたも下着を脱ぎ、全裸になった。
ベッドにお互いが座り、見合った。……これから、どうするのだろう。何をすればいいのだろう。答えは、あなたが教えてくれた。あなたは私の手を掴むと、そこに当てた。意図を理解できなかった。あなたは私の手で――そこを、こすり始めた。そうか。何となく、私にも理解できてきた。
慰めるのはお上手でしょう、とあなたは微笑んだ。そんな事、考えた事もなかった。あなたが言うなら、きっとそうなんだ。私は遠慮しながら見せつけるように――恥ずかしいけれど、そうとしか形容しようがなかった――そこを掻き回し、こすった。息を吐いた。気が乗ってきたかもしれない。
さっきの不完全燃焼を取り返せとばかりに、私の中のかがり火は燃え上がった。椛はそれをじっと見ていた。見ているだけで満足なのかな。わからないけれど、今はそういう事、考えている余裕がない。つまんで、弾く。ゆっくりと指を押し込む。ぬるぬるとした液体がシーツを濡らした。
あなたが、私の顔に手を当てた。可愛いですよ、と囁き、私をますますその気にさせていく。私はそれを掻いた。掻き回した。あなたがそれをじっと見つめている。段々と遠慮がなくなってきた。私は見せつけるように腰を上げた。あなたが耳元で囁く。いいでしょう。素敵でしょう、と――
声が漏れる。艶めかしい声だ。自分でもわかる。あなたは私の後ろに回り、首を、耳を、背中をさすり始めた。これ以上快感を増やされたら、おかしくなってしまう。私は身をよじったけれど、あなたはそれを許さなかった。押し付けた身体でがっちりと掴むと、優しく耳を食んだ。
背中がびくり、と震えた。そこが弱いのを知ってるかのように、あなたは耳を舐めた。舐め、吸い、そして軽く歯を立てた。私は明らかに興奮していた。指が止まる度、あなたは手でそれを促した。あなたの望みはわかってる。それでも私は、続けていたら、どうにかなっちゃうよ――!!
続く。続く。私が嫌がろうとも、それは続く。……いいや、私は嫌がっていない。きっと、もっとして欲しいと求めている。それを理性とか、色々なものが邪魔しているだけだ。あなたが肩を、少し強く噛んだ。私は苦痛――いや、きっとそれすらも愛おしい。あなたがくれたものだから。
いつもなら、果ててしまえば終わりだ。けれども私は、既に普段のそれを遥かに超える快楽に浸っていた。このまま高まり続けるのか。私は一体どうなっちゃうのか。涙が流れた。いっそこのまま浸り続けていたい。そんな考えは、しかし私の甘い考えだった。……答えは、一気に来た。
――びくびく! と、激しく身体が震えた。震え続けた。あなたの身体の傍で、震えたんだ。やがて来る脱力感。あなたが抱いていてくれなかったら、そのまま横になっていたと思う。私は満たされていた。あなたにとっては不本意だったかもしれないけれど。これできっと、終わりだ。
「終わりじゃありませんよ」びくり。「一度や二度では、つまらない」あなたは私の身体に深く絡み付いたした。一度、二度って――どういう、意味?「失礼します」状況が飲み込めない私のそこへ、あなたは唐突に触れた。微かな快楽が私を貫いた。「私がします。あなたは身を任せればいい」
私よりずっと大きな指が、そこを優しくなぶった。驚いた。恐ろしくもあった。でも、嫌じゃなかった。単純な快楽じゃない。たぶん、あなたにそんな事をされているのに興奮していたんだ。私は身をよじった。やっぱりあなたはそれを咎めて、私を背中から抱き込んだ。手指がそこをなぶる。
指が離れた。……あなたが指を舐める音が聞こえる。あなたは耳元でそれをした。そして、私の口元にも伸ばした。私は――それを舐めた。舐め続けた。あなたが差し出すものだもの。断る理由はなかった。あなたは逆の手で私の中を掻いた。再び舐める音がする。私の耳に、それは届く。
普段の限界など、とっくに超えた。よがり声が漏れた。息を吐いた。吸った。落ち着こうとした。駄目だ。それでも手指はやめてくれない。ぬめぬめしたそれが掻き回される。指を差し込んだ。もっと刺激が欲しい。いやだ。もうやめて欲しい。もっと刺激が欲しい。もっと――!
駄目だ。駄目なんだ。そんなにされたら、おかしくなる。おかしくなる。いいや、もうおかしくなっている。あなたは激しく指をを動かした。狂う。狂う。狂ってしまう。だめ、だめ、だめだから――お願い、やめて――いや、違う。やめないで。やめないで。お願い――やめないで――!!
――先よりも激しく、甚だしく身体が痙攣した。私の中で何かが跳ねまわり、私自身を壊した。あなたは私をぎゅっと抱きしめ、その震えを共有しようとしたんだと思う。肩越しに首を出し、あなたは愛の言葉を囁いた。私の白くなめらかな身体が好き。私の果てる姿が好き。私の――
―――
―――
あれから私は、幾度も痙攣し、その度にあなたと近く、近くへと触れ合った。いや、幾度なんてものじゃない。全然覚えてないけど、十回は優に超えていたんじゃないか。あなたの顔はとても嬉しそうだった。私を壊すのが楽しかったのか、それとも時間を共有し合うのが楽しかったのかな?
「休憩しましょうか」「――まだ、するの?」私は七割くらい朦朧としてた。「止めますか。止めてしまいますよ?」「今度こそ無理だよ……」私の答えに、あなたは首を傾げて、答えた。「もう少し余裕がありそうですが――まあ、そうですね」遂にあなたは、私の後ろから身体を離した。
液体でぐしょぐしょになったシーツから、あなたは私を抱き起こした。「コーヒーでも飲みます?」「今それどころじゃない……」くたくただった。放っておいたら眠ってしまうに違いない。「――どうして、こんな事したの?」何て返されるかはわかっていた。「あなたが誘ったからです」
「あれはフカ抗力だったの」「フカ抗力でも、雌を滾らせるには十分ですよ、はたてさん」シーツで手を拭ったあなたは、私の頭を撫でた。その手はやはり大きい。そしてシーツは――もう駄目かもね、これ。「籠を隠して、いじわるしたでしょ」「何の事ですかね」あ、しらばっくれた。
フカのぬいぐるみに抱き着いて、私はスネた。それと同時に、実感が湧いてきた。私はその、あなたと交わったんだよね。うん。一方的だったとしても、それは事実に違いない。どうしよう。色々な面倒事が頭の中を占有していた。「はたてさん」背中を叩いて、あなたは笑った。
「あなたの家に通う、この生活がいつまでも続くとは思っていませんでした」あなたの手には鍵が乗せられていた。「これは返します。そして、はたてさんの前には二度と現れない」「そんな、どうして――?」「そういうものですよ」あなたは変わらず、笑った。「忘れてください、何もかも」
「やだ」私は率直な言葉を述べた。「椛が忘れたって、私はずっと覚えてるもん」鍵を押し返し、さっきから全裸の椛の首を引き寄せる。「黙っていればわからないよ。……ううん、例えばれたとしても、私が絶対にどうにかしてみせる」力強い宣言だ。実家では頑固者で通った姫海棠様だぞ。
あなたはしばらくぼーっとしていたけど、やがて微笑みを返してくれた。わかればよろしい。「この鍵はもう少し預かっておきます」「一生持ってていいんだからね」あなたは近くのバスタオルを羽織ると、手で私を促した。「今日はもうここでは寝られないでしょう。私の家に行きましょう」
綺麗ではありませんがね、とあなたはぼやいた。私も、あなたの家の鍵を持っている。互いを信用していなければ、そんな事はできない。できないはずだ。文はこの生活を火遊びと言うけれど、それならなおさら、盛大に燃やしてやる。そして、そして。いつかは、あなたと一緒に――
互いにシャワーを浴び、匂いを消した。多分、消えたはずだ。自信はないけど。服を着込んだ私達は、外に出た。あなたの鍵で、それを閉じた。必ず、あなたはここに戻ってくる。そう信じている。私もそうだ。あなたが訊ねる場所に、私はきっといる。何があっても、いなくなったりしない。
――だって私達は、惹かれ合ってるんだもの。