「う……ん~!」
朝を告げる鶏が鳴き、牛飼娘は目を覚ます。彼女は藁のベッドから這い出ると、大きく背伸びをして、早朝の爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そうすると、何一つ隠すもののない胸に実ったたわわな果実が、少し揺れた。
身体に下着も何も身に着けていないのは、就寝時の彼女の習慣だ。牛飼娘の年齢は18。毎日毎日太陽の下で家畜の世話をしているにもかかわらず、健やかに発育した肉感的な裸体には、シミ一つ見当たらない。
「……あ! やっぱりもう起きてる」
そんな牛飼娘の耳に、窓辺を通る無骨な足音が聞こえてくる。それは「彼」の――牛飼娘の大切な幼馴染である、彼の足音だ。
牛飼娘は、その健康的な身体を下着の中に押し込むと、窓枠に豊かな胸を乗せ、柵を見回る彼の後姿に溌溂とした声をかけた。
「おはよっ! 相変わらず早起きだね」
「ああ」
彼は牛飼娘に落ち着いた声を返しながら、ゆっくりと振り向く。薄汚れた革鎧とブーツに、見慣れた鉄兜。
「今日もいい天気だね。でも、ちょっと暑くなりそうかも」
「そうだな」
「すぐ朝ご飯の支度するね。今日は村のおばさんにもらった、新鮮なお野菜があるんだよ!」
「そうか」
「叔父さんも、もうちょっとで起きてくると思うから、二人で待ってて」
「わかった」
牛飼娘とは対照的な、短くて素っ気ない返事。しかしその声には、彼女を思いやる温かみが籠っている。牛飼娘は作業服を身に着け、軽やかな足取りで台所に向かった。――そしてそれからすぐに、鼻歌に混じってベーコンを焼く香ばしい匂いが漂い始める。彼はそのまま柵の見回りを続け、破損個所がないかを丹念に確かめた。
これは、この牧場で見られる、ごく普通の朝の光景だった。
街から少し離れたこの牧場に暮らしているのは、牛飼娘と、牧場主である牛飼娘の叔父と、居候である「彼」の3人だけだ。
彼の本業は冒険者であるが、数多いる冒険者の中でも、彼は特に変わり種だ。なぜなら彼は、他の仕事には見向きもせず、ゴブリン退治の仕事しか請け負わない。彼は普通なら駆け出ししか相手にしないゴブリンのみを執拗に狩り続け、それだけで銀等級にまで昇格してしまった男だ。それ故に巷では、「ゴブリンスレイヤー」という異名をとっているのだが、これには多分に侮りの意味が含まれていた。
しかしもちろん、ゴブリンは侮って良い存在ではない。ドラゴンなどの、存在するかしないのかも怪しい伝説の魔物より、すぐ傍の茂みや森、洞窟の中に潜んでいるゴブリンたちのほうが、農民や町民にとっては、遥かに現実的な脅威だった。
「どう? 美味しい?」
「ああ」
「そっか、良かった」
兜の隙間からパンやチーズを押し込む彼を、牛飼娘が慈しむ顔で眺めているのは、彼のしている仕事の重要さを、彼女が知っているからだ。例え冒険者という人種が、世間からは得体のしれない鼻つまみのヤクザ者と認識されていたとしても、牛飼娘はそう思わない。むしろ逆だと思っていた。彼のような人が、毎日毎日どこかで身体を張って戦ってくれているからこそ、自分たちの平穏な暮らしがあるのだと。
「……今日もギルドに行くのかね」
だが、食卓に同席している牛飼娘の叔父は、彼女とは少し違う考えを持っているようだった。いつまでも距離感を測りかねているような口調で、叔父は彼に尋ねた。
「はい、そのつもりです」
「……そうか。……まあ、ほどほどにな」
「はい」
彼と叔父の会話は、それだけで途絶えた。重たい空気が流れ、場を持たせるように、牛飼娘が口を開く。
「そう言えば叔父さん、誰かが引っ越してくるのかなぁ?」
「ん?」
「ほら、丘の上にある小屋、誰も使ってなかったけど、いつの間にか修繕されてるみたいだから」
「ああ、そのことか……」
叔父は牛飼娘が言ったことを理解した。
彼らが住む牧場の敷地外に見える放置された小屋に、最近、人の手が入り始めた。それは牛飼娘の言う通り、そこに人が越してきたからだった。
「しかも、また冒険者だとさ……」
その時の己の言葉に棘が含まれていたのを自覚したのか、叔父は少しバツの悪そうな顔をしながら、ちらりと「彼」の様子を目で窺った。だが、鉄兜の下で、彼がどんな表情をしているかは見えない。
しかし、「ゴブリンスレイヤー」である彼の想いは、次の一言に集約されていた。
「ゴブリンでないなら、別にいい」
これであの小屋にゴブリンが住みついたりする危険も無くなると、彼はボソッと呟いた。
「あはは、そうかもね。……う~ん、でもそっかぁ、お隣さんかぁ。じゃあ、挨拶しておかないとね」
牛飼娘はそう言った。そして心の中で、「彼はそういうことが苦手だし、叔父さんも冒険者の人たちがあんまり好きじゃないから、自分が行っておいたほうがいいだろう」と考えたようだ。
彼らはそのあとも朝食を続け、食事が済むと、それぞれの仕事をこなすために思い思いに行動した。
空気は澄み、空は晴れ渡っていた。牛舎からは牛の鳴き声が聞こえ、恐ろしい魔物の姿などはどこにもなかった。それは、いつもと変わらない、のどかな牧場の朝の風景だった。
==
「ゴブリンスレイヤーさん!」
「彼」の姿が目に入ったとき、錫杖を手に持ち、神官依を身にまとった華奢な少女の目には、確かに晴れやかな笑みが浮かんだ。しかし、それはすぐに引き締まった表情へと変わり、彼女は小走りで彼の元に歩み寄った。
「お前か」
「おはようございます。ゴブリンスレイヤーさんは、今日も……お仕事ですか?」
「ああ、奴らは、いつでも何処にでも湧いて出てくる」
彼がこんな風にぶっきらぼうに答えるのを、女神官は知っていた。彼女は錫杖を握る手にきゅっと力を込めると、決然とした声で言った。
「わ、わたしもお供します! お一人じゃ危ないですから」
この女神官は、少し前にギルドに登録したばかりの駆け出し冒険者だ。
そもそも、はじめてギルドを訪れたときの彼女は、ゴブリンスレイヤー以外の、自分と同じ駆け出しの冒険者たちと一党を組んでクエストをこなそうとしていた。そして、そのとき彼女「たち」が請け負ったのは、よくあるゴブリン退治の依頼だった。
それは駆け出しの彼女たちにとっても、楽勝な仕事のはずだった。一対一なら、下手をすれば子どもでも勝てる魔物。それがゴブリンだからである。――しかしそれは、あくまで一対一の、対等な条件に限った話だった。
ゴブリンは非力だが、同時に残忍で、邪悪で、狡猾な生き物だ。洞窟に巣食うゴブリンの住処に踏み込んだ女神官たちは、自分たちが余りにも浅はかだったことを知った。女神官を含む駆け出し冒険者たちの一党は、そこで悪夢のように恐ろしい目に遭った。
悲運にも、帰れなかった者もいた。だが、女神官はその者に比べれば幸運だった。彼女はあわやゴブリンたちのエサか孕み袋にされかかっていた時に、ここにいるゴブリンスレイヤーに窮地を救われたのだ。
以来、彼女はこうして、ゴブリンスレイヤーのゴブリン退治に付き従うようになっていた。ゴブリンスレイヤーを見る今の彼女の瞳には、自分よりはるかに経験豊富で、自分よりずっとシビアな思考を持つ冒険者に対する畏怖の色がある。それから、受けた恩を返したいという誠実な思いも垣間見える。――加えてあるいは、強くて頼れる異性に対する、密やかな憧れのような色があった。
ゴブリンスレイヤーは、そんな女神官の視線など意に介さないかのように、ギルドのカウンターへと歩を進めた。彼のブーツが鳴らす無骨な音を聞きつけて、カウンターの向こうにいる若い女性が、これまた先ほどの女神官と同じように、ぱっと表情を輝かせて書類から顔を上げた。
「ゴブリンスレイヤーさん! お待ちしていましたよ!」
長い金髪をおさげに結った、見目麗しいギルドの受付嬢。彼女がゴブリンスレイヤーに向ける好意の色は、女神官のそれよりも、ずっとあからさまだ。だがゴブリンスレイヤーは、やはり意に介さずに、淡々とした口調で言った。
「ゴブリンの依頼はあるか?」
「はい、それはもうたくさん! 引き受けてくれますか?」
「奴らを殺すのが、俺の仕事だ」
彼は当然のように頷いた。それを見て、受付嬢の満足そうな笑みが大きくなる。まるで、「それでこそあなたですよね」と言わんばかりに。
受付嬢が披露したゴブリン退治のクエストは、数は多かれども、どれも似通ったものだった。報酬も似通っている。つまり、安い。普通の銀等級の冒険者なら――それどころか黒曜級の冒険者でさえ、渋って絶対に引き受けないようなものばかりだ。
しかし、ゴブリンを駆除してくれる者は絶対に必要なのである。ギルドに山になって積み上がる依頼を消化するために――それ以上に、人々の安全な暮らしのために。それを知っているから、受付嬢は、冒険者の仲間内でさえ「変わり者」と思われているこの男に、全幅の信頼を寄せていた。
「――という依頼があるんですが……」
「……その中なら、山麓に出たゴブリンが優先だな。その規模が村を襲うとなると、ホブかシャーマンが率いている可能性が高い」
「漁村のほうは……こっちも何人か、人が攫われているんですが……」
「距離が遠い。しかも逆方向だ。山麓のほうを今日明日中に片付けたとしても、着くのは4日後以降になるな」
「そうですよね……」
「一応、山麓のほうが済んだら、直接向かってみよう」
「無理はしないでくださいね……」
だが、ゴブリンはあちこちに出没し、ゴブリンスレイヤーは一人しかいない。ゴブリンに関する切羽詰まった依頼が複数あっても、「即座に」というわけにはいかないのが現実だ。受付嬢は顔を曇らせたが、彼女も彼に無理をさせたくはなかった。
「……あれ?」
そんなゴブリンスレイヤーと受付嬢のやり取りを横から眺めていた女神官は、ギルドの入り口から、新たに2人の人間が入ってきたのに気付いた。しかもそれは、彼女が良く見知った顔の2人だった。
受付のカウンターから離れた女神官は、2人に歩み寄ると、朗らかな笑顔で挨拶した。
「お久しぶりです!」
「あ! 神官ちゃん、久しぶり!」
「お2人とも、お元気でしたか?」
「ええ、ご無沙汰していましたが、この通りです」
女神官に笑顔と挨拶を返したのは、彼女と同じ年ごろの女武闘家と女魔術師だった。いかにも身のこなしの軽そうなポニーテールの快活な少女と、いかにも几帳面な優等生といった眼鏡の少女。この2人は、女神官にとっては忘れられない思い出と結びついている。すなわち、彼女たち2人は、女神官がはじめての冒険で一党を組んだ仲間だ。
あの時は、ここにいる3人の少女の他に、もう一人剣士の少年がいた。しかし、夢に大志と夢を抱いていたその少年は死に、少女たちは生き残った。あのとき自分を仲間に誘ってくれた少年の顔を思い出し、少し悲し気な表情になった女神官は、それでも2人との再会を喜んだ。
だがそれにしても、武闘家と魔術師がギルドにいるということは、彼女たちはまだ冒険者を続けているということだろうか。あのとき、この2人は、女神官よりもはるかに恐ろしい目に遭ったはずなのに。女魔術師はゴブリンの毒を受けて瀕死の重傷を負い、女武闘家はゴブリンのねぐらの奥に連れ去られ、女としては最低の悪夢を見たはずなのに。
「でも……それにしても、お2人とも、あの時はどうやって……?」
命は助かったということは耳にしていたが、彼女たちはどうやってあの場から逃れたのだろうか。女神官も、普通なら、他人のトラウマに触れてしまうかもしれないことを安易に尋ねたりはしない。しかし、2人の表情に陰りが全く見られなかったので、彼女はつい尋ねてしまった。
女神官は、すぐに不味いことを口にしたと気付いた表情をしたが、ポニーテールの武闘家は、そんな彼女を咎める様子もなく、屈託のない笑顔で言った。
「神官ちゃんが『ゴブリンスレイヤー』に助けられたのは知ってたけど、あたしたちも別の人に助けられたの」
「実はそうなんです。あのとき、私たち以外にも、別の冒険者が洞窟の中にいたんですよ」
「へぇ~、そうだったんですね」
そのとき、女神官は、「あれ?」と思った。
武闘家の説明を補足した女魔術師の頬が、少しだけ赤らんでいることに気付いたからだ。それに、やけに艶めいて見える唇には、どうやらほんのりと口紅が塗られているようだ。勝手なイメージだが、彼女はそういうものとは縁遠い生真面目な性格だと思っていた。
「じゃあ、洞窟でわたしとはぐれたあとに、その人に?」
「はい、危ないところでしたが、解毒と応急処置を施していただきました」
「あたしも奴らに連れ去られたけど、同じ人に助けてもらったんだ」
今度は武闘家が頬を染めた。彼女にとって、死んだ剣士の少年は幼馴染だったはずだ。それなのに彼女はこういう表情ができるのかと、女神官は、やはり違和感を覚えた。
しかも、武闘家の少女は「連れ去られた」と言った。若い女性がゴブリンに連れ去られるということは、死ぬよりもはるかに恐ろしい目に遭うということを意味する。他種族のメスを孕ませて子孫を増やす性質を持つゴブリンによって、凌辱の限りを尽くされるということを。おそらく彼女はその寸前で救助されたのだろうが、それにしても、この明るい――安心しきった表情はどういうことだろう。
「神官ちゃんも依頼を探しに来たの?」
「――え?」
自覚なしで思考の内側に陥っていた女神官の意識を、武闘家の声が呼び戻した。
「もしパーティーを組む相手が見つかってないなら、あたしたちと一緒に冒険しない?」
「ああ、それはいいかもしれませんね。やはり癒しの奇蹟を使える方がいらっしゃると、何かと心強いですから」
剣士の少年がここにいないということを除けば、最初の冒険のときと同じようなやり取りだ。
「あ、いえ、わたしはもうお相手がいてですね――」
女神官は慌ててそう言い、自分が使った「お相手」という言葉の意味深さに気付いて、「あ、違うんです」と言いながら、さらにわたわたと慌てた。
「お相手というのは、そういう意味じゃなくって――」
「あはは、どうしちゃったの? ヘンな神官ちゃん」
「大丈夫ですよ、すでにパーティーを組む方が見つかっているなら、無理強いはしませんから」
「そ、そうですか?」
「そうそう。だけど、そんなにホッとされると悲しいなぁ。――あははっ、ウソウソ、冗談だってば。でも、またどっかでパーティー組めると良いよね」
しばらく、同年代の少女同士らしいやり取りが続いた。しかし女神官は、そのあいだも、武闘家と魔術師の細かい変化が気にかかって仕方なかった。
例えば、武闘家が半袖と短ズボンを着て、筋肉で引き締まったしなやかな腕と脚を露出させていることや、魔術師の髪に、控え目ではあるが可愛らしい髪留めが刺さっていることなどに。
ほんの細かな変化だというのに、それらがなぜか、女神官の胸を異様にざわつかせる。目の前にいる、自分と同年代の2人の少女の視線や口、指の動きなどが、妙に気になってしょうがない。どうしてか頬が熱くなり、いけないものを見ているかのように、どぎまぎと目線を逸らしてしまう。
2人とも、いったい何があったんですか?
疑問を実際に口にすべく、女神官の口が開きかかった。
「――すぐ出発するぞ」
「――!!」
しかし、背後からの低い声が、彼女の言葉を食い止めた。
「ゴ、ゴブリンスレイヤーさん」
「打ち合わせは済んだ。すぐに山麓に向けて出発する」
ゴブリンスレイヤーは、それだけを告げると、3人の少女の横をすり抜けた。一拍遅れて、女神官が大きな声で返事をする。
「――え? あ、は、はい! すみません、お2人とも。また今度、お話ししましょう」
「ええ、わかりました。あなたもお気を付けて」
「またね神官ちゃん、気を付けてね」
「はい!」
武闘家と魔術師に見送られ、女神官はゴブリンスレイヤーの背中を追って駆けだした。
「――きゃ!?」
だが、慌てていたからだろう。彼女はギルドの入り口で、すれ違うように入ってきた冒険者にぶつかってしまった。引き締まった体躯を持つ男の身体に跳ね返されて、女神官は、危うく尻もちをつきそうになった。
そんな彼女が床に倒れずに済んだのは、ほかならぬ彼女とぶつかった冒険者が、神官の細腕を手で捕まえていたからだ。
「……あ、す、すみません!」
「いーっていーって。それより怪我してねぇ?」
やけに軽薄な喋り。その冒険者の姿が、女神官の目に映る。
剃り込みの入った、刈上げられた金髪。つり目気味の右目の横から頬にかけて、切り傷が痕になって残っている。髪が金なのに眉が黒いのは、きっと髪のほうを染めているからだろう。年季の入った革鎧と混じって、まさに典型的なチンピラ冒険者といった外見の男だ。
「だ、大丈夫です」
チンピラ冒険者は、ニヤリと笑みを浮かべると、倒れかかった女神官の身体を自分のほうに引き起こした。そのとき、その男はごく自然に、女神官の腕を掴んでいないもう一方の手を、神官依の上から彼女の柔腰に添えた。
「――ひゃっ!?」
チンピラ冒険者の手が腰に触れた瞬間、正体不明の感覚が、女神官の身体をゾワゾワっと走り抜けた。
「な、何するんですか!」
見知らぬ男に気安く触られたことによる嫌悪感。彼女はその感覚をそのように解釈したが、それだけでは説明できない甘い痺れが、その中に含まれていたことに、彼女は気付いていただろうか。
「ワリぃワリぃ、つい触っちまった。謝るから許してくれよ」
「――あ、い、いえ、こちらこそ。助けていただいたのに、大きな声を出してすみませんでした」
外見の印象とは裏腹に、男はあっさりと自分の非を認めた。そういう態度に出られて怒りを持続させるほど、女神官はいじけた性格をしていない。それに、男が彼女を手助けしようとしたのは事実なのだ。
それよりも、今のやり取りのあいだに、ゴブリンスレイヤーがかなり前方に歩いて行ってしまったのが問題だ。まごまごしていると置いていかれる。そう思った女神官は、慌てて駆けだそうとした。
しかし、そんな彼女の背中に、さっきの男が声をかける。
「――おい! 嬢ちゃん」
「――え?」
「これ持ってけよ!」
因縁を付けられるかと思った女神官の予感は、全くの的外れであった。チンピラ冒険者が無造作に投げてよこし、女神官が胸で受け止めたのは、赤い液体の入った小瓶――疲労回復のための強壮の水薬だった。
「今度会ったら、ちゃんと詫びるからよ。いまはそれで勘弁しろよな?」
男はそう言って片目を閉じた。馴れ馴れしい態度には違いないが、気はいい男のようだ。
「す、すいません! ありがとうございます!」
勝手な印象で判断したことへの謝罪も兼ねて、女神官はそう言った。そして振り返ると、彼女は小走りでゴブリンスレイヤーを追いかけていった。
男は、白い神官依の少女が金髪をはためかせて走り去るのを見送ってから、改めてギルドの扉をくぐった。
「――あ、やっと来た! も~、すっごく待ったんだからぁ……♡」
「――わ、私は別に待ってなんか……あっ……。ダ、ダメです……こんなところで、そんな馴れ馴れしくして……人に見られちゃったら……――もう♡」
甘えるような武闘家の声と、ツンケンしたものをあっけなく蕩かされた魔術師の声が聞こえてきたのは、それからすぐのことだった。
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「よぉ、相変わらずいいカラダしてんなぁ」
相手が自分のことをどう見ているのか、一言でわかる下品でいやらしい台詞。その男から開口一番飛び出た言葉は、顔に浮かべたニヤニヤ笑いと相まって、受付嬢を大層ウンザリさせた。ただでさえ、冒険者は野蛮な人種だと世間の人から思われている。受付嬢をはじめとするギルド職員が必死でイメージアップを図ろうと、こういうチンピラ然とした男がいる限り、その印象は決して覆らない。
「なんだよ、そんなにむくれるなって。アンタがイイ女なのは事実なんだからよぉ、素直に喜んだらどうだ?」
「……依頼をお探しでしょうか? ドブ攫いの仕事でしたら、たくさんありますよ」
「へっへっへっ、冷てぇなぁ」
普段はニコニコと愛想のいい受付嬢に、冷えた表情と声であしらわれても、その男は気にしていないようだった。
受付嬢は、見たくもない男の顔から目を逸らし、手元の冒険記録用紙を見た。この男は、最近この街に流れてきた新顔だが、これを見れば、彼がどういう冒険者なのかは大体わかる。
この男の冒険者としての等級評価は、10段階のうち、下から3番目にあたる鋼鉄級。すなわち、下級冒険者と呼んで差し支えない。戦闘やサバイバル技術等の純粋な能力評価は高めだが、人格査定や社会への貢献度が最悪だ。面談評価はほぼゼロ点。請け負った仕事にも見るべきものは少なく、しかも途中で投げ出したものが多い。冒険者としての特徴を表すクラスは、強いて言うなら「
「そういうんじゃなくてさ、なんか楽で実入りの良い仕事は無いモンかね?」
怠惰と無責任さが入り混じった台詞。しかも、それを言ったときの男の目線は、受付嬢のギルド服の胸の膨らみに、恥ずかしげもなく注がれている。ギルドに現れるたびに、この男はいつもこうだ。ゴブリンスレイヤーという対極の存在を知っているだけに、受付嬢の中では、この男に対する嫌悪感が、既に際限なく膨れ上がっていた。
しかし、不可解なこともある。
カウンターに肘をつく男の後ろでは、2人の少女が彼を待っている。その2人とは、二十日ほど前に冒険者登録したばかりの、武闘家と魔術師の少女だ。二十日前、前幼馴染の剣士の少年と一党を組んで冒険者登録した2人は、もう一人の女神官の少女と共に、ゴブリン退治の依頼を受けた。ほかならぬ受付嬢自らが、その時の事務を処理したのだ。
右も左も分からない白磁等級の冒険者が、ゴブリンを「たかが最下級の魔物」と侮って死ぬのは、この業界では良くある話だ。受付嬢も、嫌な予感がした。
しかし幸いかな、そのとき死んだのは、「たった」一人だった。そういう表現をして、死んだ剣士の少年には申し訳なく思う。だが事実だ。ゴブリンの巣穴に潜り込んで全滅しかけた一党が、4人のうち3人まで帰ってきた。しかも、全員が綺麗な身体で。それは類まれなる幸運以外の、何者でもない。
その時に神官の少女を救助したのは、受付嬢が良く知るゴブリンスレイヤーだった。そして、あとの2人を助けたのが――
「へぇ、漁村にゴブリンが出てンのか。……しかも、やたら数が多いな」
依頼書の束を盗み見て呟いた、この「
どういう経緯があってそうなったのか、受付嬢は詳しいことを知らない。しかし、この男が2人の少女を窮地から救ってきたことは、紛れもない事実だった。それはとても不可解な出来事で、同時に受付嬢の中で、この男に対する「引け目」となって残っていた。
何しろ、この男のお陰で、受付嬢がこの建物から送り出した死者の数が、少なくとも2人減ったのだから。
そんな諸々の事情が生み出す釈然としない感情を抑えきれず、受付嬢は、つい職分から外れた台詞を口にしていた。
「……どうせ、あなたは興味ありませんよね」
「ああ、この報酬で請け負える仕事じゃねぇな」
「……やっぱり」
あっけらかんと男が言うと、受付嬢は口の中で呟いた。それでも、ゴブリンスレイヤーなら引き受けてくれるのだ。そう思いつつ。
うつむき加減の受付嬢の顔を、男はジロジロと眺めていた。そしてニヤリと口の端を歪めると、声を潜めて囁いた。
「だがよォ、報酬に上乗せがあんなら、話は別だぜ?」
「……上乗せ?」
「そうさ、例えば、アンタが一発ヤらせてくれるとかな」
「なっ――!」
「ヤる」というスラングを耳にしたその瞬間、受付嬢の頭にカッと血が上った。怒鳴り散らす寸前のところを耐えたのは、ギルド内に多くの目があったからと、彼女の職業意識が勝ったからだ。
「~~~っ!! 当ギルドでは、そういう交渉は受け付けておりません」
「……おやぁ、どうした? 耳まで赤くなってるぜ? もしかしてアンタ、そっちは『未経験』か?」
「――――!?」
「へへへ、図星か。なんだ、まだ『お嬢ちゃん』だったとはなぁ」
侮辱に次ぐ侮辱。紅潮を通り越して顔面を蒼白にした受付嬢は、カウンターの下で、両こぶしをぎゅっと握りしめた。彼女がこの男の挑発に耐えるのも、限界に近かった。しかし、受付嬢がいよいよ爆発しようとしたそのとき、男はひょいっとカウンターから退いて、気安い声で言った。
「ま、いいぜ。今回はサービスしてやるよ」
「――え?」
「請け負ってやるよ、その仕事」
それは、たかが鋼鉄級の冒険者がのたまうにしては、あまりにも尊大な物言いだった。それ自体も十分腹立たしいはずなのに、それまでがひど過ぎたせいで、受付嬢は不快に思うのを忘れて、ただ茫然とつぶやいた。
「ど、どうして……?」
「別にぃ? 単にそろそろ仕事しとかねぇと、金がねぇんだわ。じゃ、そーいうことでイイよな?」
そして、男は受付嬢に背を向けると、彼を待っていた2人の少女と共に、建物の外に出ていった。至極意外な成り行きに、それからしばらくのあいだ、受付嬢は硬直していた。