ゴブリンスレイヤーは、幼馴染の牛飼娘の叔父が所有する牧場に同居している。同居とは言っても、ゴブリンスレイヤーが寝泊まりするのは馬小屋だ。牛飼娘がちゃんとした部屋に寝るよう勧めても、自分にはこれで十分だと彼は言う。
ゴブリンを狩る仕事があるから、彼が常に牧場で寝泊まりしているわけではない。出先で野宿して、牧場には数日間帰らないこともザラにある。それでも、彼はできる限り牧場に帰ってきて、牛飼娘と一緒に食事をとるように心掛けていた。
彼が「ゴブリンスレイヤー」になったのは、昔色々なことがあったからだ。あの日の凄惨な記憶、失った姉の想い出、そういったものが彼の中で、ゴブリンに対する消えない憎しみの炎へと変わり、彼から「普通の生き方」を奪った。だが、そんな彼ですら、幼馴染との平穏な日常は、決して失いたくないものだったのだ。
その日の早朝、ゴブリンスレイヤーは、牧場に泊まった時の日課として、ゴブリンの足跡がないか目を凝らしながら、牧草地の周りを一周した。ゴブリンの足跡が無いことを確認すると、念のためにもう一周、今度は柵に破損個所がないかどうか確認しながら、ゆっくりと歩いた。
そのときに、彼はあるものを見つけたのだ。
「……ん? これは……」
その場にしゃがみ込んだゴブリンスレイヤーが、鉄兜のバイザーの隙間から見ているのは、柵の「補修箇所」である。そう、彼はその朝、「柵の破損した部分」ではなく、「既に柵が修繕された跡」を発見したのだ。
一度壊れた柵が、真新しい木の板と杭で補修してある。丁寧な仕事だ。他の場所よりも、その部分のほうがむしろ頑丈になっているほどだ。しかしゴブリンスレイヤーには、自分がここを修繕した記憶はなかった。彼は修繕された部分を手でなぞりつつ、誰がこれをやったのかと考えた。
牛飼娘ではない。彼女には少し不器用なところがあって、これほど綺麗に高さや幅を揃えて、柵を修理することはできない。牛飼娘の叔父の仕事とも思えなかった。まして、ゴブリンの仕業であるはずがない。
だが、これは何かの予兆かもしれない。ゴブリン共は狡猾だ。それも、日を追うごとに狡猾になっていく。奴らの侵入を防ぐためには、どんな些細な違和感も見過ごしてはならない。ゴブリンスレイヤーは立ち上がると、周囲をじっくりと見渡し、牧場の周囲をさらにもう一周した。
「ああ、それね。それはお隣さんにやってもらったの」
牧場の破損個所の謎は、案外にあっさりと解けた。朝食の席で、牛飼娘がその答えを教えてくれた。
「お隣……?」
「もうっ! また忘れてる。向こうの小屋に引っ越してきた人のことだってば」
「ああ、そいつか」
「うん。君がいない日にね、牛が寄りかかって柵が壊れちゃったんだけど、あたしが困ってたら、『代わりに直してやるよ』って。チーズのお礼だってさ」
「チーズ……?」
「引っ越しのお祝いにお隣さんにあげた、うちの牧場のチーズのこと」
引っ越し祝いかと、ゴブリンスレイヤーは思った。彼は近所づきあいには無頓着だが、「普通」に村で暮らす以上は、そういうことは大切なのだろう。ここのチーズはそこらの町で手に入るものより上質だから、喜ばれたに違いない。
「そのお隣さんは、冒険者なんだったな」
「あ、やっと興味がわいた? そうだよ、あたしたちよりも少し年上の男の人」
「等級は?」
「え? 等級? ……ってなんだっけ」
「冒険者なら、首から認識票を下げていただろう」
「あ~、そうかも。うん、そうだった。君が付けてる銀色のやつみたいなのね」
「その男の認識票の色は?」
「え~っと、灰、色? ただの鉄みたいに見えたけど」
それはつまり、鋼鉄級の冒険者だ。決して高い等級ではないが、白磁や黒曜よりも、ずっと仕事に慣れている。
「それがどうしたの?」
「いや」
ゴブリンスレイヤーははぐらかしたが、彼は少しほっとしていた。ゴブリン討伐に出かけているとき、もしも自分が不在のあいだに、牛飼娘の牧場がゴブリンに襲われてしまったらどうするという思いに駆られることがある。しかし、自分はゴブリンを根絶やしにしなければならない。不安だからと、常に牧場娘の傍にいるわけにはいかなかった。
この牧場の近場に自分以外の冒険者が住んでいるなら、それなりに安心できるのかもしれない。
「……私は、ちょっとどうかと思うが」
朝食が済み、牛飼娘が片付けのために席を立ったタイミングで、それまで黙っていた牛飼娘の叔父が、ぼそりとつぶやいた。
「このあたりに、そんなまともじゃない人間が増えるのは。……あの娘にも、あまり近づいて欲しくはない」
それは彼の本音なのだろう。もともと彼は、冒険者という人種に良い印象を抱いていない。目の前にいるゴブリンスレイヤーも、その冒険者の一人だ。
「……今日も、行くのかね」
「ええ、ゴブリンはすぐに増えますから」
「……そうか」
「あっ、もう行くの? ごめんね! 今日は牧場の仕事が忙しいからついていけないけど、気を付けてねっ!」
男二人のあいだに流れる重苦しい空気を、洗い場から聞こえる牛飼娘の声が吹き飛ばす。
ゴブリンスレイヤーは支度を終えると、街へと向かって歩きだした。その際、今朝がた目を止めた柵の補修箇所が、再び彼の視界に入った。
「…………」
しかし、彼は特に何をするでもなく、すぐに目を切って歩みを再開した。
ゴブリンが現れる時には予兆がある。気付いたら、奴らは人間の領域のすぐ傍にまで忍び寄っている。――だが、これはゴブリンの仕業ではないと分かったのだから、彼にとってはどうでも良い事柄になった。
それよりも、今日もどこかで忌まわしきゴブリンたちが蠢き、その数を増やしている。それを駆逐するほうが、はるかに重大な問題なのだ。
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「ねぇねぇ、神官ちゃん。久しぶりにあたしたちとパーティー組まない?」
冒険者たちが行き交うギルドのホールで、人にぶつからないように壁際に立っていた女神官は、一党に加入しないかという誘いをかけられた。誘いをかけてきたのは、すっかり顔見知りになった武闘家の少女だ。
「パーティー、ですか?」
「うんっ! あ、でも、もう当てがあった? なら無理にとは言わないんだけど」
「いえ、別にそれは……」
歯切れ悪く答えながら、女神官はホールの中を見渡した。「彼」の姿はそこにない。女神官が朝にギルドを訪れてから、もう昼になろうとしていたが、あの特徴的な鉄兜は見当たらなかった。
「神官ちゃんが探してるのは、ひょっとしなくても、ゴブリンスレイヤーかな?」
「え?」
「あ、やっぱり」
「ど、どうして……」
「だって有名だもん。あの、これまでずっとソロでやってきたゴブリンスレイヤーが、美少女神官とパーティーを組んだって」
「美少女?」
女神官が首を傾げると、武闘家が「うんっ」と快活に頷く。武闘家の後頭部で結わえられた髪が、軽やかに揺れた。
「美少女というのは、わかりませんけど……わたしとゴブリンスレイヤーさんは、別にパーティーを組んだわけじゃないんです。……ただ、わたしが勝手に付きまとっているだけで」
「あれ、そうだったの?」
「はい……」
自分で言っていて、女神官は少しみじめな気持ちになった。そもそも彼女は、初回の冒険のときにゴブリンスレイヤーに命を救われ、それ以来、彼と一緒に何度か冒険した。だが、それはあくまで、女神官が半ば強引に彼についていったというに過ぎない。
ゴブリンスレイヤーは、そもそも人と群れるような性格の持ち主ではないのだから、タイミングが合わなければ、今日のように女神官が置いていかれることはままあった。
シュンとうつむいた女神官の顔を、武闘家の少女が見下ろして言った。
「ふ~ん……でも、そうなら余計に都合がいいよね?」
「何がですか?」
「あたしたちと神官ちゃんがパーティーを組んでも、ゴブリンスレイヤーは怒らない、ってこと」
女神官が抱くゴブリンスレイヤーへの思い入れと、ゴブリンスレイヤーが女神官に対して抱いているそれとは、大きさや重さがかなり異なっている。そう指摘された気がして、女神官の胸はしくりと痛んだ。そんな女神官の様子に気付いているのかいないのか、武闘家はさらに言葉を続けた。
「そんなに気にすることないよ? 別に、ずっと同じ相手と組まなきゃならないなんてルールは無いんだから。たまには、他の冒険者と仕事してみるのも、悪くないでしょ? そのほうが経験も積めるしね」
「それは……」
確かにそうなのかもしれないと、女神官は思った。冒険者の中には、どこかの一党の穴を埋める、助っ人のような役割を専門にする者もいる。何より、来るかどうかわからない人間をいつまでも待って、待ちぼうけするのは馬鹿らしい。
「えと、わたしたち……というのは、武闘家さん以外にも、どなたか? あの眼鏡の魔術師さんですか?」
「うん、あの子も一緒。それとあと、もう一人。神官ちゃんも合わせて、全部で四人パーティーってことだね」
この武闘家とあの魔術師を含めた四人組ということを聞いて、女神官は初回の冒険のことを思い出した。
あのときも四人で冒険に出かけ、ゴブリンの巣の中で危うく全滅しかけたのだ。女神官は、あのときとは比較にならないほど場数を踏んだ。ゴブリンスレイヤーの薫陶を受けて、生き残るための術もたくさん学んだ。――きっと、今日まで生きているということは、武闘家と魔術師もかなり経験を積んだのだろう。しかし、冒険が無事に済むかどうかは、一党の最後の一人というのがどういう人間かによると、女神官は考えた。
「あの、あともう一人というのは、どういう方なのですか?」
そうやってはっきりと確認したのも、冒険者としての女神官の成長の証と言える。彼女の問いかけを受け、なぜか武闘家の少女は、恥じらうように少し頬を赤らめた。
「うん……実はね、その人が、あのときあたしたちを助けてくれた人」
「あ――」
なるほどと、女神官は腑に落ちた気がした。武闘家は、はにかむ笑顔を浮かべ、指でぽりぽりとこめかみを掻いた
「えへへ……うん、そうなの。神官ちゃんがゴブリンスレイヤーと冒険してたみたいに、あたしたちはあたしたちで、あのとき助けてくれた人と、ずっと冒険してたんだ」
「そうだったんですね」
「うん。鋼鉄等級だけど……すっごく頼りになる人だから、心配しないで」
鋼鉄はゴブリンスレイヤーの銀等級から見れば、かなり劣る。だから武闘家はそんな風に言ったのだろうが、自分と比べれば経験豊富なのは間違いない。むしろ、自分のような白磁の冒険者が組む相手としては、適切なのかもしれない。
「受ける依頼の内容も決まってるの。森の中の放置された砦に
聞く限りでは、依頼の難度も手ごろだった。大きな虫を相手にするのは嫌だが、ゴブリンの巣穴で凄惨な光景を目にするよりは、いくらかましだろう。
女神官には、ゴブリンスレイヤーが知らないところで経験を積んで成長し、彼を驚かせたいという気持ちもあった。それと、自分が別の人間と一党を組むのを見て、少しは彼に慌てて欲しいという子供じみた考えもあった。それに、あのとき大失敗に終わってしまった初回の冒険を、彼女たちと共にやり直してみたいという思いもあった。
だから彼女は、最終的に武闘家の誘いに頷いた。
「わかりました。わたしでよければ、皆さんの力にならせてください」
「ほんと? やったぁ!」
武闘家は、手を叩いて大げさに喜んだ。そうされると、女神官も悪い気はしなかった。
しかし、武闘家と共にギルドホールを出て、魔術師と「もう一人」に合流した女神官は、そこに立っていたどこか見覚えのあるガラの悪いチンピラを見て、さすがに怯えていた。
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快晴の空の下に、どこかねっとりとした響きを帯びた、馴れ馴れしい男の声が聞こえていた。
「なぁ神官ちゃん、そんなに緊張すンなって」
「は、はい……」
「心配しなくても、ここに魔物は出ねーからさ」
「そ、そうですね……」
男の言葉に返事をしつつ、女神官は金属製の錫杖を身体に抱くように握りしめた。
男の言う通り、女神官を含む四人組が歩いているここは、交易馬車も良く通る、整備された街道だった。魔物はこの周囲には生息していないはずだし、追剥野党の類が出たという情報も聞かない。その上まだ日が高く、それほど警戒を厳にする必要はなかった。
しかし、女神官が警戒しているのは、他ならぬ男自身なのだ。
(まさか、もう一人の冒険者っていうのが、こんな人だったなんて……)
きっと20代後半くらいの年齢だ。剃り込みの入った短髪と右頬を縦に走る傷痕が威圧的な、ならず者然とした外見の冒険者。ゴブリンスレイヤーがまとうストイックな雰囲気とは対照的な、だらしない空気を漂わせている。口調も態度も馴れ馴れしく、年頃の女神官に対して、警戒するなと言うほうが無理であった。
「つっても、あんま離れられると守りにくいからなァ、もうちょいこっちに寄ってくれるか?」
「え? ええ? ひゃぁ――っん!」
横から伸びてきた男の手を、女神官は避けることができなかった。その手が肩に置かれた瞬間、女神官の身体はビクリと跳ね、口からは、まるでしゃっくりのような奇声が漏れた。
(い、今の、聞かれちゃった!?)
女神官は、今の声が後ろの二人に聞かれなかったかを気にして、咄嗟に振り向いた。そのせいで男の腕を振りほどくのが遅れ、彼女は男の胸元に、グイっと引き寄せてしまった。
「あ、あの、そんな、そんなの、やめてください」
「あー? なんでだ?」
「だ、だって、その、こんなのって」
しどろもどろになりながら、女神官は男の胸を手で押し、彼から離れようとした。しかし、男の腕の筋肉はガッシリとしていて、女神官が細腕で抵抗したところで、ビクともしない。そうやって抵抗するあいだも、女神官は後ろを歩いている武闘家と魔術師の様子を、チラチラと窺っている。今の自分が彼女たちにどう見えてしまうのか、気になってしょうがなかった。
「その話って本当なんでしょうか?
「いや、でも見た人がいるって。大弓使いの、他の森人より耳の長い森人」
「大弓……さながら妖精射手ですか。眉唾物ですね」
だが、武闘家と魔術師は、女神官と男に奇異な視線を向けるでもなく、何気ない会話をおこなっている。ひょっとしたらあの二人には、目の前で自分が男に抱き寄せられている様子が見えていないのだろうかと、女神官は訝った。そんなはずは無いのに。もしも街中でこんな風に男性に肩を組まれている女性がいれば、普通は驚いて振り返ってしまうだろう。少なくとも、女神官の常識ではそうだった。
「ほらほら、身体が強張ってるぜ? 力抜けよ」
「や、やめて、お願いですから」
辛うじて、女神官の足は前に進んでいたが、彼女の声はか細く、目尻には、じんわりと光るものが浮かんでいた。それは怯えや恐怖による涙というよりも、男に肩を揉まれるたびに身体が敏感に反応するせいで、独りでに浮かんできた涙と表現するほうが適切である。
それでも、男が単に女神官に性的嫌がらせを働いていたのではないということは、もしも空から四人を見ればわかったはずだ。前衛に属する男と武闘家が、後衛に属する女神官と魔術師をそれぞれ守る
それに、女神官がこの男を単なるチンピラだと断定し、多少強引でも彼の腕を振りほどいて、ここから逃げ出すことができない理由は、他にもあった。
「止まれ」
整備された街道を逸れ、森に向かう獣道に入ったときだった。急に男が真面目な声を出すと、女神官以外の一党の足並みがピタリと止まった。
「きゃっ!?」
女神官は、男に軽く突き飛ばされた。よたよたと後方に下がった彼女を、武闘家の少女が受け止める。臨戦態勢の雰囲気を発散している武闘家は、無言のまま女神官を背後にかくまった。
「大丈夫ですよ」
女神官に小さく声をかけたのは魔術師だ。彼女は女神官に余裕のある微笑みを見せてから、眼鏡の奥の目をキリっと引き締め、呼吸を整えて呪文を唱えられる体勢を作った。
しばらくのあいだ、草が風に揺れるさわさわという音だけが聞こえていた。
「…………――何かいるな。まだ遠いが」
男のつぶやきを、女神官は聞いた。身を低くした男が何をしているかと思えば、彼は周囲の気配を探り、索敵を行っていたのだ。
「道を変えるぞ」
戦うと言いだすかと思えば、男は意外にあっさりそう言った。そして躊躇なく、元来た道を引き返し始める。武闘家も魔術師も、文句の一言も言わずそれについていく。女神官は、慌てて彼らの後を追った。
「なぁ、神官ちゃんは、街のどこに間借りしてんだ? 教えてくれたら遊びに行くぜ?」
「え、えっと、そ、そんなこと言われても、こ、困ります……」
女神官が察知することすらできなかった脅威から離れると、男は再びヘラヘラと笑い、軽口を叩き始めた。
索敵していたあのときの、男の真剣な表情。その際に武闘家と魔術師が見せた、彼への信頼を思わせる行動。そういったものがごちゃ混ぜになって、女神官はこの男にどういう評価を下すべきなのか分からず、困惑したまま彼と行軍を続けた。
「はい、どうぞ。あなたの分です」
「あ……すみません……」
焚火がパチパチと弾ける夜の野営地で、女神官は、魔術師に差し出されたスープの器を、両手で受け取った。
少し離れた場所からは、小川がせせらぐ音が聞こえてくる。依頼の目的地である森に入る前に、一党はここで休息をとることにしたのだ。
「少し疲れた顔をしていませんか? 身体に不調があれば、遠慮なく仰ってくださいね」
「あ、ありがとうございます……お気遣いいただいて」
「ふふっ、パーティーメンバー同士なんですから、当然のことですよ」
昼間は何度か男が足を止めて、そのたびに大小の迂回をしたものの、そのお陰なのか、戦闘は一度も発生しなかった。それでも女神官がこれほどまでに疲れた表情をしているのは、肉体よりも精神的な疲労のほうが原因だ。
「見張りはあなた以外で回しますから、今日はゆっくり体を休めてください」
魔術師の言葉は皮肉ではなく、純粋に女神官を気遣っている。繰り返し詫びと礼を言い、彼女から受け取った暖かいスープをすすりながら、女神官は不思議に思った。
(わたし……嫌われてると思ってたのに)
そう、あの初回の冒険のとき、眼鏡の魔術師は女神官のことを邪険に扱っていた。オドオドと怯える女神官にきつい視線を向けて、足を引っ張られるのは迷惑だという露骨な態度をとっていた。
なのに今は、そういう空気を全く感じない。それは、魔術師の女神官に対する印象が変化したからというよりも、魔術師がある種の「余裕」を身に着けたからのように思えた。人間は成長する。そういうことなのだろうか。
「美味しい……」
女神官は、ほっと息を吐きながらつぶやいた。すると、彼女が腰かけにしている倒木の横に、魔術師も腰を下ろしてきた。
「ありがとうございます」
「えっ、あ……」
「少し、塩が足りないかもと思ったんですが」
「そんなことありません。美味しい、です」
「なら、良かったです」
今の野営地には、女神官と魔術師以外は見当たらない。男と武闘家は、野営地の設営が済むと、念のため周囲の索敵に出かけた。だが、それほど遠くに行ったわけではなく、すぐに戻ってくるだろう。
つまりこのひと時は、女神官と魔術師が二人きりになる貴重な機会だった。
「あ、あの」
「どうしました?」
「わたし、あなたにずっと言いたかったことがあって」
焚火の明かりが生み出す独特な雰囲気にも後押ししてもらい、女神官は勇気を振り絞って口を開いていた。
「言いたかったこと……? なんでしょう」
「あのとき、ゴブリンの巣穴で、あなたたちを見捨てて逃げたことです」
初めて冒険のとき、女神官は、ゴブリンのナイフに腹を裂かれ、倒れた魔術師を放置して逃げた。それより前に、幼馴染の少年剣士がゴブリンに殺された直後にも関わらず、気丈にもここは自分が食い止めると言った武闘家を見捨てて逃げた。
「ごめんなさい……」
結局、お互いに命は助かった。しかし、だからと言ってあのときの行動が赦されるとは、女神官は思っていなかった。
「一人で助かろうとして、ごめんなさい」
スープの器を両手に持ったまま、項垂れて懺悔する女神官の声は、可哀そうなくらい震えていた。
「もしかして、あなたはそれで、今回の私たちの依頼に同行してくれたんですか?」
「…………」
「気にしないでください。あのときは、私たちが未熟だっただけです。お互いに、ね? それに、あの依頼にあなたを誘ったのは、私たちですから」
魔術師の手が、女神官の背中を優しくさする。女神官の視界は滲み、危うくスープの中に涙が落ちそうになった。
「ほら、泣かないで。顔を上げて」
「――ぐすっ。……はい。……えへへ」
女神官は指で涙をぬぐいながら、笑顔を浮かべた。ほんの少しだけ、胸が軽くなっていた。魔術師は、そんな女神官に慈しむ顔を向けながら、「それに」と言った。
「――あのときあそこにいなければ、きっと、今の私は無かったでしょうから。だからこれでいいんです」
武闘家の少女もきっとそう言うに違いないと、魔術師は付け加えた。
そう言い切れる彼女のことを、女神官はすごいと思った。同時に、彼女たちを助けてくれて、自分が彼女たちに謝る機会を与えてくれたあの男のことを、外見や表面的な態度だけで判断してはならないと反省した。
それから、男と武闘家が野営地に戻ってきて、一党は同じ焚火を囲んで夕食を取った。そのあとテントの寝袋に収まった女神官は、久しぶりに晴れやかな気持ちで眠りに付くことができた。
しかし深夜、彼女は何か物音を聞いたような気がして、ぱっちりと目を開けた。