「お兄さーん! こっちこっち!」
ファミレスで手を振って俺を招く、茶髪ツインテの女子学生が一人。
あの遠慮の無さは天性のものか。
周囲の客もほとんど気を向けることもなく、日本人の自意識過剰を見事に削ぎ落とした図太い精神がそこにはあった。
見習いたい部分でもあるが、俺には到底辿り着けそうもない境地だ。
「話だけな、聞きに来たぞ」
俺は佐知子に断りを入れて由佳に会いに来ていた。
火曜日は佐知子も塾があるから、どちらにしてもデートはできなかったし。
店員が水を置きに来てから俺はフライドポテト一つだけを頼んでソファーに腰掛けた。
「ケチですね」
「奢らないからな」
「ケチな上にケチ……」
歳上としてのプライドなんて、あいにく俺は持ち合わせていない。
美優が居たら少しは見栄を張れと叱られるかもしれないけど。
彼女でもない相手に金を出してやる方が俺には不誠実に思えるね。
「それで、話ってなんだよ」
「簡単なことですよ。美優の弱点を教えてください」
「帰るぞ」
こいつ、反省したんじゃなかったのか。
あれだけこっぴどくやられて折れない心は見上げたもんだが、美優も迷惑してるだろうし。
相手が嫌がるいたずらはイジメと同じだ。
思春期のこの子らに理解しろというのは難しいかもしれないけど。
相手のことを想えば自然とやらなくなるもんだろ。
「そんなにツンケンしなくてもいいじゃないですか」
「大切な妹に悪さするやつに協力なんてできるかよ」
「ぐぅ……こっちにだって事情があるんですよ……」
由佳は悔しさを滲ませてグイッと水を飲む。
「どんな事情だ」
後に続いて俺も水を飲む。
人間は人と相対すると、相手と同じ行動をついしてしまうのだとか。
由佳はコップを置いて黙りこくる。
俺も似たような体勢で口を噤んでいた。
それから店員がフライドポテトを持ってきて、喧嘩中のカップルだと思われたのか、早足で去っていくその後ろ姿を眺めていると、由佳がようやく口を開いた。
「……お兄さんは、美優が笑ったところ、見たことありますか?」
そのときの由佳の顔は、どこか桜の散るような儚い表情をしていた。
今までのカラッとした明るい笑顔とは違う。
どこか湿っぽく、後ろ暗さすら感じさせるような哀愁が漂っている。
「なんだよ急に」
由佳の質問に対する返答に、俺は迷っていた。
そういえば美優が笑ったのを最後に見たのって、いつだったか。
俺も美優と話すようになったのは最近のことだからな。
生まれてからずっと気まずい関係が続いてたわけだし。
……なんで俺は、美優と距離を置いてたんだっけ。
俺がリアルの女に嫌気が差してエロゲにハマり込んだのは、中学のときにクラスの女子に弄ばれたのが原因だけど。
その前から、美優との会話はなかったように思う。
お互いに自分のことを話さない性格だから自然とそうなった。
生まれつき感情が薄いから。
……本当にそうか?
「私が美優と出会ったのは、小学四年生のときです。その頃から、美優はとても真面目で……。笑わないっていうより、心を開かないんです! もう何年も友達なんですよ!? ヒドくないですか!?」
「前科がありすぎてなんとも」
とはいえ、言い分が全くわからないでもない。
長年付き合いのある友人がいつまでも無関心そうにしていたら、良い気はしないものだ。
俺は外での美優を知らないけど。
本当に家にいる時と変わらないんだな。
でも、なんだろう。
それは違うと、俺の頭の中にあるもう一つの意識が叫んでいる。
俺は目を瞑って、記憶を奥へ奥へと探ってみる。
昔のことを考えるのは久しぶりだった。
あまり良い思い出が無いと決め込んでいたからだ。
俺には中学より前の記憶はほとんどない。
別段障害があるわけでもなく、事故で頭を打ったわけでもなく、ただ何もなかったからこそ記憶に残らなかった。
昔の美優を思い出そうとしても、今の無表情な印象が強すぎて、遡るのが難しい。
空箱に手を突っ込んでいるかのようで埒があかず、俺は昔の美優を思い出す代わりに、小さい頃の俺がどんな風に過ごしていたのかを考え始めた。
その瞬間。
脳の中枢まで伸ばしていた意識が目の奥で引っかかって、それはいきなり瞼の裏に映し出された。
ドレスワンピースを揺らし、満面の笑みを向けてくる少女が一人。
まだ幼かった頃の影が機嫌よく踊っている。
いた。
いたんだ。
明るく元気だった美優は、確かに記憶の彼方に存在した。
そうか。
あのときだ。
美優が母親と一緒に学校から帰ってきた、あの日から。
美優は笑顔を見せることがなくなったんだ。
美優が小学校に入学する数日前のことだ。
美優の新しい門出の記念にと、家族でプレゼントを買いに、デパートへ出かけたことがあった。
幼稚園でお遊戯会をやっていたときから、自分でビニール袋などを工作して衣装を作るくらい、美優には服へのこだわりがあって。
散々悩んでお店を連れまわされた挙句、美優が選んだのはショーウィンドウに飾ってあるお高めのドレスワンピースだった。
向日葵色が眩しく輝いて、控えめに刺繍された花の模様とフリルが、美優の心を掴んで離さなかったらしい。
「ママ! これがいい!」
「あら~ステキなワンピースねぇ。でも、ちょっと高すぎるかな。さっきのお店で見た同じ色のスカートじゃダメかな?」
「やだ! これがいい!」
この頃の美優は活きがよかった。
歳相応にワガママを言って、願いが叶わなければ地団駄を踏む。
ブーっと頬を膨らませる娘の愛らしさに、両親もタジタジだった。
「そうね、これ可愛いもんね」
「うん。可愛い」
「でもこーちゃんも五千円のゲームだったんだよ。だから、二万円はちょっと、ね?」
母親は俺のことをこーちゃんと呼んだ。
それは昔も今も変わらない。
俺の入学祝いはゲームソフト。
父親が家で据え置きタイプのテレビゲームをやっていたため、俺は小学生のときからゲームに慣れ親しんでいた。
「……むぅ。これがいい」
「あっ、ほらみーちゃん。あっちにも綺麗なワンピースがあるよ」
「ヤダァァァアアアアア!!」
人目も憚らずに叫ぶ。
そういう時期が美優にもあった。
「誕生日なくてもいいから買って!!」
「そう? でもどうせ誕生日になったら欲しくなっちゃうでしょ?」
「ならない!! ゼッタイにならないの!!」
「うーん……それでも二万円は……」
「じゃあおにーちゃんの誕生日も無くていいからぁ!!」
そう、美優はとんでもない妹だった。
我が家の小さな暴君である。
もちろん、俺もまだ幼かったから、これには大いに反発した。
「えー! やだよ! なんでオレが!」
「おにーちゃんゲームやるとゲームしかしないじゃん!」
「悪いかよ!」
「バーカ!!」
当時はゲーム脳という言葉が流行していて、ゲームを忌避する風潮がテレビ番組でも作られていた。
そんな時期だったから、美優は俺がゲームをやることをことあるごとに否定してきた。
そんなとき、決まって両親は美優の味方をした。
とりわけ親父の可愛がりは理不尽だった。
「お前もお兄ちゃんなんだから。こんなときこそ男を見せてやると、カッコいいぞ」
「こんなやつにカッコいいとかどうでもいい……」
「まあそう言うな。このワンピースを着せてやったら、美優はお前に感謝する。可愛い姿をいっぱい見せてくれるんだ」
「だからなに!」
娘の可愛い姿を見たいのは親の方だろうと、俺は幼心に毒づいていた。
子供に物を与え過ぎないように母親から注意されていたため、体の良い弁明に俺を利用したいだけなのだと、当時の俺はあまり父親を信用していなかった。
「ゲームならお友達もたくさん持ってるだろ? でもこんなに可愛い女の子に喜ばれるなんて、滅多にないことだ」
「友達の方が大事だもん」
美優の容姿が優れていることは、この頃の俺にもわかっていた。
親戚にもご近所にも、幼稚園の友達からも、美優はいつだって甘やかされて。
俺が優しくしたところで、数ある中のたった一人だ。
プレゼントだって結局は親が金を出す。
どうせ美優もすぐに俺への感謝なんて忘れてしまうだろう。
美優は頭も顔も良く生まれた、ズルい女なんだから。
むしろ俺が優しくされるべきなんじゃないかと。
憎しみすら覚えていた俺は、美優を喜ばせようなんて気にはならなかった。
ガラス越しに飾られた、金色にすら見紛うほど綺麗なドレスワンピース。
それを映す美優の瞳もまた、星をまぶしたように煌めいていた。
「おにーちゃん」
しょんぼりした顔で、美優は俺の服を引っ張って。
「あの服着たいなぁ……」
子供ながらに、長く麗しいまつ毛に色気を乗せて、俺の哀れみを仰いできた。
ドキドキという言葉が表す感覚を、俺はこのとき初めて知った。
走ってもいないのに勝手に鼓動が早くなって。
その違和感は、子供だった俺には恐怖でしなかった。
「な、なんだよ。バカって言ったくせに」
そのドキドキは、恋の兆しなんかではなかった。
女の子が男に抱かせる、庇護欲からくるもの。
ここで譲ってやらないと可哀想だ。
兄なら妹に優しくしなければ。
そんな内なる自分が気に入らなくて、俺は精一杯に否定した。
「他のやつ、買えよ」
俺が冷たく突き放すと、美優は真一門に口を結んで。
それからは、一度もワンピースを視界に入れることもなく、母親の元へ戻っていった。
「いいの?」
「うん。他のにする」
母親に手を引かれて、美優の背中が遠ざかっていく。
俺は親父と二人で取り残されて、ただただムシャクシャしていた。
そもそも、人をダシにしたり悪口を言うようなやつに、優しくしてやれる訳がない。
それくらい、美優だってわかっていたはずなのに。
どうしてあんなわがままを言ったのか。
どうせ欲から出た身勝手だ。
少しは反省すればいい。
そうやって美優を責めて押さえつけておかないと、溢れてしまいそうな感情が、俺の中で湧き上がっていた。
「やれやれ、頑固だな。まあそういうのも勇気だ。母さんに似てて俺は嫌いじゃない。なんてな、ははっ」
親父は美優たちとは合流しようとはせず、入学祝いが決まるまではそれぞれデパートを歩き回ることにした。
振り返った先で、別のお店に入っていく美優。
下を向いて歩くその姿は、いつもよりずっとずっと小さいものだった。
翌日の朝、俺は部屋でネットサーフィンをしていた。
親父がパソコンを買い換えたときに古い方を与えられたのだ。
小学生にパソコンを使わせるのがいいことだったのかはわからないが、そのとき俺に渡されたパソコンには有害サイトへのブロックもされていなくて、今にしてみればとんでもないリテラシーの低さだったように思う。
「こーんこん! おーにーいちゃん!」
上機嫌なノックが聞こえて、俺はドアに振り返った。
母親が俺を身籠ってすぐに家を買ったため、俺と美優には最初からそれぞれの部屋が与えられていた。
「えへへー。入るよー」
ひょこっと顔を出した美優は、長い髪を編み込んだハーフアップにしていた。
いじらしく両手を後ろに組んで、体を揺らしながら部屋に入ってくる。
「むふふふ。どう? おにーちゃん」
手を広げて、一回転。
フリルがいっぱいに広がり、その向日葵色のドレスワンピースは美優に着られることを喜んでいるかのように活き活きとしていた。
「買ってくれてありがとっ! 大切にするからね!」
目尻と頬をいっぱいに緩めて、太陽にも負けないくらい眩しく笑う。
見ているこっちまで幸せになるほどの笑顔だった。
「あ、あぁ、うん」
うまく言葉が出なくて、ようやく捻り出した声がそれだった。
俺はあれから、父親に誕生日プレゼントを返上すると言って、美優にワンピースを買ってやるよう頼んでいた。
母親は呆れていたが、俺に考え直せとは言ってこなかった。
「これね、自分でやったの! まだパパとママにも見せてないんだよー。ねーねーどうかなー?」
顔を左右に振って、自分でヘアメイクしたらしい頭を見せつけてくる。
髪が揺れるたびにチラりと露わになる首元の白さが色っぽかった。
俺は呆気にとられて、鯉みたいに情けなく口をパクパクさせていることしかできなかった。
「むぅ。かわいいならかわいいって言いなさいよ」
そうしているうちに、あまりに反応の薄い俺に美優が怒り始めた。
「え、あ、おぉ」
「ふーんだ! おにーちゃんなんてどうせ一生ドーテーなんだから!」
結局、最後は暴言を吐いて美優は部屋を飛び出していって。
「……なんだよドーテーって」
俺は甲斐性なしなのを自覚できないまま、開きっぱなしのドアを見つめて呆然とするだけだった。
それからの美優は、毎日様々に可愛い服をコーデして登校した。
二年生になってからは、記念日に服をねだる代わりに裁縫セットや布や小道具をせがんだ。
服を何着も買うと親が抵抗を示すが、自分で作るとなるとどんな量の素材をお願いしても聞いてもらえることに気づいたからだ。
そうして美優が小学三年生になった、ある日のこと。
夜遅くに母親と一緒に帰ってきた美優が、目を真っ赤に腫らして自分の部屋に駆け込んでいったことがあった。
美優の変わり始めたのはその日からだ。
今までこだわってきたフリルやリボンを封印して、美優は仏頂面をシンプルなTシャツに通して毎朝部屋を出てくるようになった。
どうしてそんなことになったのかはわからない。
俺はあえて聞かないようにしていた。
同級生にも俺に妹がいることは話していなかったし、わざわざ下の学年のフロアに行って様子を伺ったこともなかった。
「ああ、それってもしかして、アレのことですかね」
由佳が俺のフライドポテトを無断で手に取り、ケチャップをたっぷり付けて口に放る。
美味そうに食いやがって。
それは情報料だからな。
「アレって?」
「前に噂で聞いたことがあるんですよ。昔、美優が学校の男子を……五、六人くらいかな? ボコボコにしたって」
「えっ……」
美優も怒るときは怒るけど。
そこまで気性が荒いなんて信じがたいな。
それとも、その男子たちがよっぽどのことをしたのか。
「小五のときも美優は男子ボコッてましたし。似たようなことが過去にもあったのかもしれません」
「マジで!?」
女の子一人で男子数人とやりあうことなんてできるのか。
美優は頭はいいけど、身体能力はそんなに高くなかったはずなんだがな。
「小五のときのやつは、由佳ちゃんは知ってるのか?」
「由佳でいいですよ。呼び捨てで。私が知ってるのは、そんなに大事にはならなかったんですけど。あれを境にして、美優に惚れる子と怖がる子が極端に増えた気がしますねぇ。知りたいですか?」
迷った挙げ句、俺はゆっくりと首を縦に振った。
過去を掘り返すのは好きじゃないけど、このまま聞かずに帰っても美優への不信感が募るだけだし。
由佳の話しぶりからして、一方的に美優が悪い話ではないはず。
聞いておきたい。
あの謎だらけの妹を、兄として少しでも理解してやりたい。
「いいですけど。お兄さんも美優の弱点を教えてくださいね?」
「それは無理っていうか、知らないんだよ。俺も教えて欲しいぐらいだって」
「えー! 無能!」
「無能って言うな……。遥との間に秘密はあるらしいけど、それだって俺より由佳の方が詳しいだろ」
「秘密? あの二人がレズってるのはもう疑いようがないしなぁ……ふむ」
やっぱりあの二人はそういう認識なのか。
それを周囲の奴らはなんとも思わないんだろうか。
「でも、美優の方はそんなに乗り気じゃなさそうなんですよね……そのくせなんやら恩義は感じてるようですし……遥の言うことには大抵逆らわないし……」
由佳は何度も顎をさすって考え込む。
「ハッ……そうか! これなら……うん、うんうん!」
一人で勝手に納得して、パッと顔を明るくさせた。
「いいでしょう。私にナイスアイディアを授けてくれたお礼に、昔の美優について教えてあげます」
俺は何かとんでもないことをやらかしてしまったのだろうか。
家に帰ったらまず由佳がロクでもないことを考えてるって教えてやらねば。
「小学五年の十月くらいの頃です。それは、とある一人の女の子がきっかけでした」
由佳は指をピンと立てて語り始める。
小学五年生の秋。
それはすでに、美優が誰に対しても厳しくなっていたときの話だった。