教室の隅にある一席で、一人の少女が注目を集めていた。
彼女がその日着てきた服が話題の中心だった。
胸元にリボンの付いたワインレッドのワンピースで、各所にあしらわれた装飾でゴテゴテしたその衣服は、いわばロリータ系に類するものだった。
当時はキッズファッション誌が作り出した流行によって、学年全体でデニムや革系のジャケットなどを着てくる子供たちが多く、そんなハードな潮流に逆行するような格好を選んできたことがより彼女を目立たせていた。
クラスの女子たちは少女を可愛がった。
流行に乗っている自分たちの服の方が優れていると思ったからだ。
突如現れたアイドル性に悪感情を抱かない者がいなかったわけでもないが、子供っぽい服を見下げることで得られる優越感がそれを抑え込んでいた。
「優花里ちゃんの服キレイな色だね!」
「何かの記念なの? たかそー」
「うちにも似たようなのあるけど、優花里ちゃんのがいい布ね」
一躍時の人となった優花里という名の少女は、それまでは目立つことのない地味な女の子だった。
友達も固定の数人がいる程度で、成績は良くも悪くもなく、クラブ活動にも参加していない。
そんな人生だったから、優花里は褒められることを嬉しく思いながらも、予想外の好評さにたじたじだった。
優花里の格好は男子からもウケが良かった。
背伸びをして大人っぽい服に身を包んだ女子たちよりも、なんだかんだで女の子らしい姿が好ましかったのだ。
知らずのうちに優花里は男子たちの話題の中心になり、当初から面識のあった男子たちは「お前もしかして優花里こと好きなんじゃねーのー?」などとからかわれることも多くあった。
そんな些細なことが火種となった。
思春期の子供たちは残酷なもので、まだ知性も理性も未熟な彼らは、得体の知れない感情に振り回されると信じられないほど加虐的になる。
とりわけ、「女の子を好きになるなんて恥ずかしい」という想いは、それを払拭するためなら相手を貶める手段すら取らせてしまうものだ。
「あいつ派手な服着てるよな。女の趣味ってよくわかんねえ」
「でもお前はああいうのが好きなんだろ? 授業中もずっと見てたもんな」
「はぁ? 見てねえし! あのヒラヒラしてんのがうざいんだよ!」
男子同士の茶化し合い。
イジる立場といじられる立場とで分かれて、周囲の友人たちもそれに同調した。
「やっぱ見てんじゃん! うわーお前やっぱ好きなんだ!」
「ちげーよふざけんな!」
イジられる側の男子は顔を真っ赤にして否定した。
図星だったわけではない。
自分が女の子に興味があると、噂されるのを想像するだけで顔から火が出るほどだったのだ。
「声でけー。聞こえてんじゃね? あれ、なんか噂してる……もしかして私のこと好きなのかな、キュン! とか思ってたりして」
手を組んで女の子ポーズをする友人。
それを真似る取り巻きたち。
「キモい! やめろ! あいつに好かれるとかマジでキモいし!」
「ムキになんなよ。優花里とか男友達いないから告ったらそっこーオーケーするって」
「はぁ? 告るとか意味わかんねえ。死んだほうがマシ」
やがて自分がからかわれるのは、優花里のせいだと思うようになった。
あいつがいるから。
あんな服を着てくるから。
「なんだよこの服。変なの付いてんじゃん」
好意がないことを周りに示せればそれでよかった。
優花里の着ている服か引っ張りやすかったから。
フリルやリボンが掴みやすくて、力を加えれば取れるように思えて。
冗談半分に、優花里を茶化して、服に文句をつけた。
「やめて……! 触らないで……!」
「うわ、怒った。お前って怒るんだ。こんなんでムキになんなよ! ほら、ほら!」
「やめてってば! いい加減にしてよ!」
からかい半分で始まったいざこざが、引っ込みがつかなくなったなんてことはよくある話。
優花里のときもそうだった。
喧嘩する二人を囲み、野次馬を始めた友人たちに良い格好をしようと、少年もヒートアップしてつい力が入った。
それがすべての始まりだった。
脆いところに力を加えられて、付け根の糸がほつれたフリルに、優花里は泣き始め、少年はそんなつもりはなかったと言いたくても、タイミングはすでに逸していた。
非を認めれば周囲から責められる。
だから少年はその気持ちとは裏腹に、こんなもので騒ぐなと、強気をアピールして更に服を引っ張った。
「ブスがこんな服! 似合ってねえんだから感謝しろよ!」
放課後を迎える掃除終わりの一室が、怒りと悲しみの声で溢れていた。
「図書館の掃除って地味に広いからたいへーん」
「由佳はサボってるんだから大変も何もないでしょ」
「遥は真面目すぎ。あと私は美優の図書カードにエロ本借りましたって書くので忙しかったから」
「ほんと死んで」
クラスで六等分された六人の班。
男女混合で組み合わされたその半分に、由佳と遥、そして美優の姿があった。
この班は何をするにしても男女で分かれている。
美優と遥が寡黙でコミュニケーションを取ろうとしないからだ。
いつもは由佳が男子との窓口になって、課外授業やグループワークを進めている。
とりわけ美優は遥以外と関わろうとはしなかった。
「美優、男子の方も掃除終わったって」
「そっか。じゃあ教室に戻るね。由佳は遥がシメといて」
「わかった」
遥と分かれ、美優は一人で教室に向かう。
今日は掃除が終わればそのまま帰りのホームルーム。
早く家に帰りたい想いを足に乗せて、たどり着いた教室は、すでに不自然なほどの静寂に変わり果てていた。
誰も口を開かない。
空気に棘が立っている。
ドアに茨が巻かれているようで、中を見ることすら躊躇ってしまうほどの光景の痛さ。
「うぅっ……うぐっ……」
床に座り込んで優花里が泣いていた。
その周りには三人の男子がいる。
野次馬と優花里の友人たちとの言い争いが一段落したようで、誰にも収拾がつけられなくなったこの事態に、関わろうとする者はいなかった。
「何してるの」
ただ一人を除いて。
「あ? こいつ、自分が着てる服が変だってわからねえから、教えてやったんだよ」
堂々と足を踏み入れた美優に、答えたのは優花里を挑発し始めた張本人。
無理やり千切ったリボンを床に投げ捨てて、美優を睨みつける。
掃除用具の片付けも中途半端にされたまま。
押し退けられた机に囲まれて、黒板の前で立ちふさがる三人の男子に、美優が一人で対峙する。
「それでどうしてイジメを正当化できるのか、私にはわからないんだけど」
美優は無表情に男子生徒を見つめたまま、ゆっくりと近づいていく。
誰もがその異様さを悟っていた。
自ら人と関わろうとしない美優が、率先して面倒ごとに首を突っ込み、ピリピリとヒリつくような雰囲気を纏っている。
「なんだ文句あんのかよ! お前だって何度も男に当たり散らしてるくせに!」
男子生徒は教壇机に落し物としてしまわれていたコンパスを取り出し、針を先にして美優に向ける。
「生意気なんだよ!」
それを思い切り、振りかぶって美優に投げつけた。
コンパスは真っ直ぐに美優の顔のすぐ横を通り抜けて壁にぶつかる。
ゴンッ、と音を立てて落ちた凶器に、野次馬の中から小さな悲鳴が上がった。
美優は直立不動。
瞬きすら止めている。
それを見て、取り巻きの生徒たちが嘲り笑った。
「ハッ。ビビッてんよ。かんけーねぇやつが首突っ込んでくんなよな」
美優は何も言い返さない。
その代わりに、傍らに落ちていた箒を手に取った。
両手で根元と柄の中心を持って、今度は美優がその先端を男子生徒に向ける。
「なんだよ。やる気かよ」
「バカは体で教えないとわからないんでしょ」
終始真面目な美優に、男子生徒たちはゲラゲラ笑った。
どうせ形ばかりの脅し。
優等生の良い子ちゃんである美優が喧嘩などするわけがない。
そう決め込んでいた。
「やれるもんならやっ──」
男子生徒が挑発するその最中。
認識の切り替わりを縫って攻め入った美優。
中心線を保ったまま、潜り込むようにして一気に間合いを詰める。
偏差を考慮するまでもなく、最短距離をなぞって繰り出された美優の箒の一突きが、空を裂き、男子生徒の額を捉えた。
鈍い音を立てて仰け反り、男子生徒は真後ろに倒れ込む。
痛々しい絶叫が廊下まで響いた。
今まで経験したことのない痛みに、男子生徒は人目も憚らずに泣き出す。
その光景を目にして、取り巻きの一人が弾かれたように教員用の三角定規を取って構えた。
「てめぇ!! 何すんだよ!! 目に入ったらどうするつもりだったんだ!?」
「軽く小突いただけで騒ぎ過ぎよ」
「ふざけんなよ……調子に乗りやがって! ぶっ殺してやる!!」
男子生徒の友人は、三角定規の最も鋭い部分を美優に突きつける。
それはもはや刃物にも等しい物。
叩いたり突き飛ばしたりするのとは違う。
振り抜けばほぼ確実に出血を伴う傷を相手に与えることになる。
脅しているだけだった。
自分の方が体格に優れ、危険な武器を持っているのだから、女子が怖がらないわけがないと。
武器を振りかざしているだけで立ち去ると信じて、男子生徒は美優に暴言を浴びせた。
「お、おい…………ほ、ほんとにやるぞ!! 本当に殺すからな!!」
一切の表情を変えずに間合いを詰めてくる美優に、怯えているのは男子生徒の方だった。
美優は自らの武器である箒のリーチを捨て、手を伸ばせば触れられる距離まで詰め寄ると、男子生徒が手に持っている三角定規の先を右手で握り込んだ。
徐々に力を加えられて、その切っ先は美優の目玉の直前まで引っ張られる。
瞳の表面の、その面膜にまで達してしまいそうな位置で、定規は力の拮抗により静止した。
「なに、やってんだよ……! やめろ! バカッ!! あぶねえって!!」
力を緩めることはできない。
目をえぐってしまうことになる。
引っ張ることもできなかった。
引いたところで美優の握力から逃れることができず、引けば引くほどに均衡を保つのが困難になる。
ギリ、ギリ、と互いに力を加え合い、文字通り美優の目の前で崩壊の時を待つ定規の先端。
汗ばむ手に、もう男子生徒の恐怖心は耐えることはできなかった。
「おい……もうやめろよ……! わかったから……!!」
懇願する男子生徒に、美優はパッと手を放した。
引く力だけが残された男子生徒は勢いのままに壁に激突して頭を打つ。
体を丸めて縮こまってからは、後はもう最初に泣かされた生徒と一緒に喚くばかりだった。
「抵抗しない女の子を虐めて何を偉そうに。やり返されないからって威張り腐って。いざやられるとなればやる覚悟すらない。迷惑かけたわけでもないのに攻撃する理由がどこにあるの。ほんと、反吐が出る」
地に響く美優の声は、男子生徒たちの戦意を根こそぎ奪い去った。
残った一人が泣きじゃくる二人抱え上げて肩を貸す。
「行こうぜ。頭おかしいよこいつ……」
捨て台詞と共に廊下へ逃げていった3人。
それと入れ替わりに由佳と遥が教室に入ってきた。
「ありゃ、なにこれ。散らかってんじゃん。もう先生くるよ?」
由佳はズカズカと教室に入ってきて、優花里の前にしゃがみ込む。
遥はドアに張り付いたままその様子を眺めていた。
「はいこれ、リボン落ちてたよ。あららー泣いちゃって。男子にイジメられて美優に助けてもらったの? だったらほら、ありがとーって言わないと」
声を掛けられても優花里は俯いたまま。
涙を流すだけで、もう呼吸を荒らげることもなく、糸の切れた人形のように一点を見つめている。
「もしもーし。聞いてる?」
由佳は猫じゃらしのように結んだ髪を優花里の前でフリフリする。
美優は由佳と優花里のやりとりなど眼中になく、自分の席に戻っていった。
それを目で追っていた由佳が、深い角度まで体を捻ったところで顔を顰めた。
「──ッ痛たたた……遥のやつにキメられた関節が悲鳴をあげてやがる……」
由佳のいたずら癖は生まれつきのもの。
去年美優と出会うまでは、こっそり男子の筆箱にハート型のチョコレートを忍ばせる程度の微笑ましいものだったが。
「なにを慣れ慣れしくしてるの」
見かねた遥が由佳の頭頂を人差し指でツンツンする。
「ほら、由佳と優花里で、ゆかゆかっしょ? なんか親近感湧くじゃん?」
「そういう問題じゃなくて……」
遥は腰に手を当ててゲンナリと肩を落とす。
何か諦めを感じさせるような大きなため息だった。
「由佳のそういう空気読めないとこ嫌い」
「なに言ってんのよ。誰も声かけてあげないからあたしが相手してるんでしょうが」
「そっとしておいて欲しいって気持ちがわからないの」
「ほっといて欲しいわけないでしょ、こんな酷いことされて。放置される方が惨めに決まってんのよ」
由佳はクルッと振り向いて、まだ座り尽くしたままの優花里に手を差し伸べる。
「ほれほれ。もう先生が来ちゃうから早くお立ちよ。涙を拭くのにこのハンカチ使っていいからさ。美優のだけど。ぷぷぷ」
「由佳……」
そこは遥も冗談で許せないところ。
両親指が由佳のこめかみを万力の如く挟み込み、絶叫と共に由佳は教室の反対側へと消えていった。
それから担任が三人の男子生徒と共に教室にやってきた。
ホームルームは通常通りに行われたが、美優は放課後に職員室に呼び出されることになった。
遥が担任を説得しようと試みたものの、肝心の優花里が物言わぬ貝になってしまい、美優が事情聴取のために連れて行かれるのは変えられなかった。
放課後、生徒たちの帰宅が一段落したところで、教室に残っていたのは微動だにしない優花里と、その対面に座る由佳だけだった。
「あんたいつまでそうしてんのよ。恩人の美優が呼び出し食らってんのよー」
椅子の背もたれを股に挟んで、かれこれ三十分ほど、由佳は優花里に一方的に話し続けていた。
そんな声かけが功を奏したのか、優花里はようやく曇った顔を上げる。
「ごめんね。全部、私のせいだもんね。こんな服着て……。由佳ちゃんも、付き合わせちゃって、ごめん。ありがと。元気出たよ」
優花里は目頭に涙を溜め、スカートをギュッと握り込む。
由佳はその様子をしばらく眺めてから立ち上がった。
「あーあ。美優は帰ってくるの遅いし。体操着もリコーダーも置いてないし。かーえろっと」
反応がもらえてそれで満足だったのか、由佳はいそいそと帰り支度をすると、別れの挨拶もせずに教室を出ていってしまった。
優花里だけが取り残された教室で、不意に訪れた静寂に、優花里の心は途端に不安と恐怖に満たされた。
恐怖が混乱を呼んで、まともな思考ができなくなって。
気づけば、ゴミ箱の前に立っていた。
由佳に拾ってもらった胸のリボン。
全て無かったことにしてしまいたかった。
地味な服を選んで買っていた。
自分には可愛い服は似合わないと思っていたから。
親戚の家に行ったときに、もういい歳の女の子なのに飾り気がないと、いとこのお姉さんに指摘されて。
勇気を出して可愛い服が着たいと母親に相談したら、飛び跳ねるくらいに喜んで、その日のうちに買ってくれた。
すぐには着る勇気が出なくて、申し訳ないと思いながらも普段の格好を続けて。
今日、この服を着て玄関を出たときは、姿が見えなくなるまで母親が見送ってくれた。
優花里が手にしているのは、そんな母との想いが詰まった、二人の記念。
「こんなんじゃ……もう家に帰れないよ…………」
投げ捨てようとすると、嗚咽が止まらなくなった。
視界が暗くなって、空気が薄く感じて。
呼吸の制御すらできなくなる。
そんな優花里を気付けしたのは、教室のドアを開ける開閉音だった。
「み……美優……ちゃん……」
優花里は瞠目して後ずさった。
すぐに謝罪の言葉を続けたかったのに、声を出そうとすると、胸の上あたりがつっかかって空気が通らなかった。
美優は優花里の顔とリボンをそれぞれ一瞥して、呼び出されたときには持っていなかった手提げ鞄を机に置くと、ドアを閉めてから優花里に一つ袋を手渡す。
「ふぇ……こ……れは……?」
「体操着。服、直してあげるから、これに着替えて」
優花里がその言葉を理解するのに数分を要した。
その間に、美優は手提げ鞄から裁縫セットを取り出して、針と布の準備をする。
「直す、の? 美優ちゃんが?」
「趣味でやってた程度だけどね。リボンを付けてほつれを直すくらいならできるから、安心して。後ろから布を当てて付けてるタイプだから、有り合わせで手直ししても見た目は変わらないと思うの」
準備ができると、美優は膝に手を置いて待機状態になった。
優花里は慌てて体操着に着替え、服とリボンを美優に渡す。
美優はワンピースの裏と表を何度も見返して、縫い目の形を確かめると、早速針山から針を抜いて作業に取り掛かった。
「この服を着たの、今日が初めてでしょ。捨てたら勿体無いよ。こんな可愛いのに」
意外な言葉だった。
初めて着た服だと言い当てられたことではない。
優花里が驚いたのは、あの硬派な美優がフェミニンな服に理解があることだった。
「あの、美優ちゃん」
美優が服を直してくれるとわかると、呼吸が落ち着いた。
優花里はさきほどまでの薄暗い表情を拭い去って美優に顔を向ける。
「ごめんね、私のせいで先生に怒られちゃって。先生、まだ怒ってるなら、私が話すから」
「それは大丈夫。呼び出されたのは、今回のだけが原因じゃないから。気にしないで」
「え? そう、なんだ」
美優は真面目で優秀な生徒だ。
職員室への呼び出しなど無縁のはず。
「美優ちゃんは、優しいんだね」
美優に助けて貰った今では、優花里にとってはそう意外なことでもなかった。
人付き合いが悪いのようで、美優は困っている生徒がいれば世話をしていることも多いし、それができるだけの器量と思慮深さを持っている。
「……まあね」
美優のその言葉を聞いて、その顔を見て、優花里はドキッとした。
素っ気なく「そんなことないよ」と謙遜されるかと思っていた、美優の口元が、楽しそうに緩んでいて。
いつもの真面目な表情より、微笑みながら糸を縫うその姿の方が、よっぽど似合っていたのだ。
「お裁縫、好きなの?」
「好きだよ。小学二年生のころからずっとやってる。こんな具合だけど、どう?」
美優はほつれていたフリルの根元を優花里に確かめさせる。
「へ? うぇえ!? なにこれ!! 元に戻ってる!」
優花里の服のワインレッドは学校で常備されている糸では再現できない色のはず。
それが布を丸々と張り替えたように修復されていた。
美優が服に糸を通すその手際も滑らかで、繰り返し針を抜き差しする作業だけでも、ずっと眺めていたくなるほど。
リボンを付け終わるまでもあっという間だった。
「はい、終わり。着心地を確認してもらってもいい? 硬かったらできるだけ調整するから」
「わかった」
優花里はすぐさま体操着を脱いでワンピースに腕を通す。
買ってもらったときとまるで変わらない。
新品のままの服がそこにはあった。
「すっごい……朝着てたときと全く変わらない……」
「そっか。ならよかった」
裁縫セットを片付けて、美優は脱ぎ散らかされた体操着を畳む。
優花里が慌てて自分がやろうとしたときには、もう体操着は袋の中に収まっていた。
美優は手提げ鞄にその2つをしまってから、優花里の全身をその視界に捉えた。
「うん。よく似合ってるよ」
「えへへ。そう、かな?」
照れ臭そうに頬をかく優花里。
その頭を、美優は軽くポンポンした。
「女の子だもん。可愛い服を着ないとね」
「美優ちゃん……!」
頬を伝う一筋の雫。
さきほどまでのどん底に冷え切ったものとは違う。
優花里の人生で、一番温かい涙だった。
「ありがとう!! 美優ちゃん!!」
美優に飛びつく優花里。
それを抱きとめて、頭を撫でる美優。
それからも優花里は華やかな服を着て登校を続け、この美優の一件から、からかう男子は一人も現れなかったという。
「──ってなことがあったと優花里に聞きました」
「無茶苦茶過ぎる……」
俺はすっかり冷え切ったフライドポテトを口に運んだ。
不味い。
「可愛い服が好きってのはよくわかんないですけどね。美優は普段から無難なシャツばっか着てますし」
「まあ、そうだよな。俺もあれから美優が凝った服を着てるのなんて見たこと無い」
マナーや着こなしはかなりうるさく言われたけど、可愛い服が好きなんて聞いたとはなかった。
それこそ、過去のあの一件以来、もう卒業して大人になったものだとばかり思っていた。
「やっぱり、美優も学校でイジメられてたのかな」
「美優がですか? まさか」
「でも、小三のとき、美優が泣いて帰ってきた理由がイジメだとすると、辻褄が合うんだよ」
「五、六人ボコった噂のやつですよね。それなら、理由は見当つきますよ」
「理由?」
「男嫌い」
んんん。
それはまた新情報だ。
美優は誰に対してもドライなんじゃないのか。
「美優、もっっすごい男子から告白されるんですよ。回数を数えるだけで吐き気がするくらい。で、ものの見事に全員失敗してるわけなんですが。その振り方が酷いっていうか。さすがの私も気の毒になるくらいで」
「そんな極端なのか?」
「生理的嫌悪というか、人間性を否定する勢いでして……。それで、一部の男子がキレちゃったんですよ。そんで情けないことに返り討ちと。これに関しても似たような事例を知ってるので、きっと噂の通りだと思います」
うぇぇ。
ゾッとする話だ。
俺も男なんだけど。
参ったな。
あいつ、俺のことどう思ってるんだろう。
実はコトの後にこっそり吐いてたりして……。
いや、そもそも嫌いなら精液を飲んだりはしないか。
ってか最初にオナニーを目撃された時点でぶっ飛ばされてるはずだよな。
「しつこくされてストレスが溜まってたんだろうけど。そんな態度じゃいずれ逆ギレされるなんてわかりきってただろ。そこまで攻撃的に拒絶することないんじゃないか?」
「本人もどうしてそんな風に振るのかわからないんですって。性的な感情を向けられると、気持ち悪すぎて自制が利かなくなるらしくて」
待て待て待て待て。
俺、アウトだよな。
完全にアウトのハズだよな。
やばい早く美優に会って反応を見直したくなってきた。
「やはりレズなのでは」
「それは本人が強く否定しています。私も何度か告白したんですけど、なんか男に対するのとは違いましたね。酷い振られ方しましたけど」
それはお前がやるからなんじゃないのか。
嫌がるから告白するとか人としてのあり方が間違っている。
「話は戻るけどな。どうして由佳はそんなに美優にいたずらをするんだ?」
俺が尋ねると、由佳はまた神妙な面持ちになった。
由佳としては真剣に考えてやっていることらしい。
「クラスメイトの中には、美優には感情が無いなんて言う子もいます。いつも冷静で、頭も良くて、気が利いて。自分にも他人にも厳しい美優は、遥に引けを取らないくらい、学校中の憧れです。でも、高嶺の花過ぎて、みんな美優が一人の女の子だってことを忘れてるんですよ」
そこに滲んでいたのは、呆れと悔しさだった。
怒りは感じられない。
ただやるせないんだろう。
俺だって美優を遠い他人と思ったことがないでもない。
実の兄妹であるにもかかわらずにだ。
それくらい、美優は何でも卒なくこなして、苦労なんて無いように感じてしまう。
そういった評価が疎ましいのはわかる。
でも。
「だからって美優にいたずらする理由にはならないだろ」
「それは、結果的にそうなってるだけであって、ですね。私としては、美優を笑わせたくて色々やってたんですよ。それが、上手く行かなくて、今では、だいぶこじれてて」
由佳は指を詰り、窓越しに歩く人々を目で追いかける。
美優を困らせて周りに助けさせたいのか。
怒らせて感情を揺さぶれば、笑顔も見せやすくなると信じているのか。
気遣ってくれる気持ちは嬉しいけど、子供っぽいやり方じゃ美優は心を開かないだろう。
「で、笑顔もそうなんですけど……」
俺が真面目に由佳を再評価している真向かいで、由佳は顔を上気させて声を淀ませた。
「今ではこう、なんといいますか。美優が泣いてる顔も見たいなぁって……あの美優が泣きじゃくる姿を想像すると……私……なんだか胸がキュンキュンしてきて……」
由佳は尊いモノを見るように手を組んで、呼吸を荒くする。
おい美優。
お前の友達はヤバいやつばかりだぞ。
こじれすぎて由佳の方が歪んでしまっている。
「と、とにかくだ! 美優へのいたずらはやめること! いいな!」
「……はーい」
俺は急いで財布を取り出し、机にお札を叩きつけて店を出る。
彼女以外に奢らない宣言は、一時間もせずに撤廃されることになった。