恋人がいなくなっても、登校する景色は変わらない。
一緒に学校に行っていたわけでもないし、クラスの誰かに教えていたわけでもないし。
教室に入れば見知った顔だけが並んでいて、毎週繰り返される同じ流れの授業が、今日も始まるだけだ。
「よお、ソトミチ。夏休み前なのに冴えない顔してんな」
教室で最初に話しかけてくるのは、大抵は朝練上がりの高波だ。
こいつの見慣れたアホ顔は俺にとっての精神安定剤になっている。
そして、その背後から出てきたのが、すっかり上げた前髪が定着した鈴原だった。
「ソトミチ、お前もいつまでしょぼくれてるつもりだ。夏といえば、海だろ、海!」
こっちはもはやお前誰だよ状態になっているが、急速に変わっていくサマが面白いのでよしとする。
夏明けには日焼けして全身真っ黒になってそうだな。
「別にしょぼくれてないって」
悩みは尽きないけど、俺は俺で楽しい人生を送っている。
家に帰れば妹がご飯を作って待ってくれているんだぞ。
お前らの暑苦しい青春なんぞちっとも羨ましくはない。
「ほんとに出かける予定とかねえの?」
部活をやっている高波のような連中は、それだけ夏休みの予定が埋まる。
運動部だけではなく、有志の合唱やバンド、ダンスの活動などで大会がある生徒も多い。
何のグループにも参加をしていない俺が旅行の一つもしないというのが理解できないんだろう。
バイトか勉強に勤しんでいるならいざしらず、俺はそのどちらでもないからな。
「考えてはいるけど。今のとこはなんもないな」
美優も家に引きこもる日が多いとはいえ、あいつは遥と旅行をすることが決まっている。
それも飛行機や船を使っての豪華な旅だ。
休みの充実度が違いすぎる。
「なら、ソトミチもオフ会とか来いよ。ネトゲで知り合ったやつがイベント企画してるみたいでさ、暇なら夏休み中にPCゲーム一本とアプリ二本くらい平行して進められるだろ」
オフ会か。
あえて陽気な奴らがいるグループに無理して所属せず、自分の得意分野で勝負するのは賢いな。
オンラインゲームを再開するのは構わない。
でも、オフ会が生産的なものだとはどうしても思えないんだよな。
「考えとくよ。内容だけ後で連絡してくれ」
「オッケー。……お前もさ、ひと夏だけでも彼女を作ってみろって」
鈴原は俺の背中を叩いて自席に戻る。
すっかり人生の先輩になっちまいやがって。
一度女ができるとあれほど変わるものなのか。
その元カノさんはといえば、こちらもすっかり元気になった。
「ねえねえ奏さぁ、数学の宿題の範囲知ってるってほんと?」
「うん。今回はプリントはなしで全部ワークから出るんだって。ページ番号も先生に教えてもらってるから、後でまとめて流すね」
「やぁりぃ! さっすが奏! 頼りになるわ!」
「ふへへ。褒め給え褒め給えよ」
近頃の山本さんはまた一段と明るくなって、学校中からの人気が再燃している。
ここ数日で告白の回数は30を超えたのだとか。
下駄箱にもラブレターが詰め込まれていて、さぞ迷惑しているだろう。
誰とでも仲良く話す山本さん。
気があると勘違いしてしまうのも無理からぬ事だ。
今でもほら、こんな遠くから眺めているだけの俺と目が合う。
山本さんは不要な悪感情を抱かれないため。
美優は一人の時間を確保するため。
常に周囲に気を配り続けている。
卒がない奴らってのは、そういうものだ。
この日の授業もつつがなく終わった。
帰りの支度をしながら、俺は昨晩気になるセリフを残していった美優のことを思い出す。
──私、明日はすごく不機嫌かもしれないから。
いわゆる女の子の日でもそんなことを言わなかった美優が、あえて俺に言ってくるほどの事情だ。
しかも事前に言ってくるということは、頑張っても制御できないということ。
今朝も平常通りに登校していったからやはり学校で何かあるんだろう。
変に刺激したくないし、佐知子か由佳と連絡を取って事前に聞いておくかな。
「そーとみーちくん」
「うぉっ!? なっ、山本さん!?」
背後から急に声を掛けられたからびっくりした。
「誰とメッセしてるの? 彼女さん?」
「いや、なんというか」
由佳はたまにメッセージを寄越してくるだけのただの知人だ。
そして、もう片方は元カノ。
説明する方が面倒だな。
「何か用でもあるのか?」
「先生が呼んでる。職員室に来いって」
なぜ。
こんな唐突に。
清く正しく生きてきた俺に職員室に呼び出される理由なんかないんだが。
「私たちが日直だったとき、朗読会の準備をお願いされてたじゃない? あのとき任命された理由がね、私がパンフ作りに協力してたり、朗読のサポートをやる予定があったからなんだけど」
それってつまり当日も俺は巻き込まれただけだったんだよな。
まあ山本さんと一緒に仕事するのを嫌がる男子は稀だろうが。
「その後始末がちょっと残ってるので、まとめてやることにしました」
そして俺もまとめて巻き込まれることになったわけだな。
仕方ない。
日直のよしみで助けてやろう。
「──そいつでいいのか?」
職員室に着いて、担任の第一声がそれだった。
そりゃクラスでも“そいつ”程度の名もなき存在ではあるけど、手伝いに来たのだからいくらかの敬意は払っていただきたい。
「はい。日直を一緒にやったこともありますし」
「なるほどな。世間体としては悪くないか」
山本さんと一緒にいる男子は妬みの対象になりやすい。
それを考えれば、地味で目立たない俺を選んだのもわからないでもない。
ん、待てよ。
俺は日直の都合でここに連行されたわけであって、山本さんが選んだわけではないんだよな。
そいつでいいのかってどういう意味だ。
「じゃ、これが資料室と多目的ルームの鍵だ。シュレッダーの使い方はわかるな? 落としものはまあ、10分くらい探して見つからなかったらもう無いでいいだろ。掃除もされてずいぶん経ってるわけだし」
担任が指示した、俺たちがやるべきことは3つ。
一つは朗読会にやってきた子供が失くしたキーホルダーを探すこと。
もう一つは資料室に放置されたままのパンフレットの残りを捨てること。
そしてそのついでに明日配布するプリントを教室に運んでおくことだ。
俺と山本さんは落とし物ボックスを確認してから、多目的ルームの掃除当番を持っているクラスにキーホルダーを見かけなかったか聞き込みをした。
そのどちらも無駄足で、多目的ルームに行って数分間、掃除と無関係そうな場所を探し回った。
「ないねー」
「あるはずないって。何週間も前のことだし」
むしろどうしてこのタイミングで捜索依頼がきたのか疑問だ。
失くしたことに気づかなかったのか、失くして探していたけれどこの学校にある可能性に至っていなかったのか。
なんにしても遅すぎる。
「……あのさ、ソトミチくんって、何か悩みとかない?」
俺と同じく諦めムードの山本さんは、どっしりと椅子に座り込みを決めていた。
「どうしたんだよいきなり。悩みなんて別に……」
なくはない。
妹をオカズにしなければ射精ができないという由々しき悩みが。
だが、こんな深刻な悩みをおおっぴらにできるわけがないし、そもそも信じてもらえないだろう。
「前に悩みがあるって言ってなかったっけ?」
「あっても言えない悩みだってある。山本さんだってそうだろ」
結局、鈴原と付き合う理由になった山本さんの悩みとやらは、聞けずじまいだ。
ならば俺の悩みだけを打ち明けるのはアンフェア。
俺の悩みはそこいらの人が抱えている悩みなんかより深刻なんだ。
山本さんに嫌われるのは御免被る。
「私のは……話せっていうなら話すけど……。悩みじゃなくても、何か頼みたいこととかあったりしない?」
「無いと困るのか?」
「い、いや、そういう、わけじゃないけど……」
露骨に顔をそむけてみせる山本さん。
つまり困る事情があるんだな。
「ならやはり山本さんの悩みとやらを聞かせてもらうか」
「うっ」
とても話したくなさそうだ。
小さなことでもいいから何か頼んであげるのがいいんだろうか。
目的はわからないけど。
そんなことを考えていると、吹奏楽部の部員たちが練習のために多目的ルームに入ってきた。
俺たちはそこで捜索を断念し、何人かに遺失物を拾わなかったかを聞いて回って、結果を担任に報告した。
それから資料室に入って、不要なパンフレットと、それを作るために山本さんが使用した書類をシュレッダーにかける。
「あの、ソトミチくん? 私の悩みを聞く以外に、して欲しいことありませんか?」
山本さんは長い髪を左右で分けて首にかけると、胸の前でばってんを作りながらいじける。
どうしてそこまでこだわるのか。
あんまりこだわられると、こちらもこだわり返したくなる。
「俺が望んでることができないなら、そこまで無理に聞く必要はなくないか?」
「だって……私の悩みは……その……」
山本さんはやりづらそうに一呼吸溜める。
「エッチな話になっちゃうし。それに、みんなからしたらしょうもない悩みだから、多分、話したところで理解されないと思う」
性関係の悩みか。
しかも話したところで他人に理解されない内容。
ふむ。
「俺の悩みも同じなんだが」
俺にとっては深刻なことでも、周囲からすれば『シスコンを拗らせただけのただのアホ』にしか映らない。
理解もされなければ共感もされないだろう。
「そ、それ! じゃあ、私の悩みと交換で! 教えてくれたら、解決するから!」
「いやいやいや」
俺にだって、吐露したい気持ちはある。
できるだけ多くの人に打ち明けて、理解されずとも真剣に受け止めてもらって、楽になりたい。
でもこれは人間としてアウトなレベルの悩みなんだ。
言ってみれば、「人を殺してしまったがどうすればいいかわからない」と相談するようなもの。
人間は痛みまでは同情できても、歪んだ人間性までは受容できない。
「とにかく、本当に話せる内容じゃないから。頼み事をしてほしいって言うなら、考えとくから。とりあえずはそれで、な?」
「うぅ……。できるだけ、早めにお願いね?」
弱りながらウィンクをする山本さん。
何が彼女をここまでさせるのか。
ただひとつわかったことと言えば。
俺が今日、山本さんに指名されたのは、偶然ではなかったということだけだった。