夏休み前、最後の登校日。
昨日の鬱々とした一日を忘れてしまうくらいの快晴だった。
今朝の美優の様子は普段と変わらず、俺が作った飯を黙々と食べて、時々喋ったり喋らなかったりして、「行ってきます」の声とともに家を出ていった。
おっぱい以外のことを引きずらないのはあいつの良いところだ。
俺は全身の疲労感と暑さにやられて朝から机でぐったり。
金曜日に謎の敵意を向けてきた高波はやはりまだ機嫌が悪そうで、教室に入っても挨拶はしてこなかった。
俺がいったい何をしたというのやら。
高波がへそを曲げているだけならいざしらず、今日に限っては教室中の目が俺に向いている気がする。
こんなわだかまりを抱えたまま夏休みを楽しめるはずもなく、俺はホームルームが始まる直前、勇気を出して隣の席の小野崎に聞いてみることにした。
「小野崎、ちょっといいか?」
小野崎なら何度か話したことはある。
悪くは思われていないはずだし、知っていれば何かしら教えてくれるはずだと思った。
「なに?」
メガネの位置を直しながらこちらに向いてくる小野崎。
まずは、普通の反応。
「なんて言えばわからないんだけど……俺って何か悪い噂が立ってる?」
「えっ!? ああ、うん。なんだろうね。わからないや」
どう考えてもわからない反応じゃなかった。
まさか小野崎にまではぐらかされるとはな。
このまま掘り下げていいものか。
「俺、もしかしてなんだけど。みんなに嫌われてる?」
「う、うーん……」
小野崎は答えづらそうにキョロキョロする。
「私は、嫌いではないけど。男の子たちは、ちょっとびっくりしてるかも……?」
びっくりしてるってなんだ。
俺が人を驚かせられる要素なんて妹くらいしかいないぞ。
まさか、それなのか。
中学生に手を出していたのが、バレたっていうのか。
いやいや。
それだけは。
それだけは絶対にありえない。
「俺に直接言えない理由はなんなんだ」
「本人に確認してないから……かな?」
「本人? 本人って俺だろ?」
「それも、そうだね」
奇妙な世界に迷い込んだようだった。
きちんと会話のキャッチボールはしているはずなのに言葉が通じない。
「私から言っていいのかは判断つかないから。やっぱりソトミチくんは高波くんに聞いた方がいいと思う」
小野崎はメガネを拭いて、ドアからやってきた担任に目線をやった。
タイムアップか。
みんなが黙ってる理由は高波にあるわけだな。
あいつは俺が自分で気づくまで話してはくれないだろう。
となればやはり、鈴原に聞くしかない。
ホームルームを終え、授業終わりの休み時間が来るたびに、俺は鈴原に話しかけるタイミングを伺った。
最近の鈴原はクラスの女子と喋ることが多くなって話しづらい。
イメチェンの勢いのままに一気に振る舞いを変えたのが功を奏したのか、最初は揶揄していたやつらも、いつしか爽やかな鈴原を素のキャラとして認識するようになっていた。
「なあ、鈴原」
俺が鈴原に声を掛けることができたのは、最後の授業が終わってからだった。
移動教室から戻る鈴原に追いついて、俺は隣を歩く。
「俺、なんかやらかしたのか?」
全く身に覚えはないけど。
由佳の件で美優に怒られたときみたいに、遠回しに誰かに迷惑をかけている可能性もある。
「なんだよソトミチ。まだ隠し通すつもりなのか?」
鈴原は無いはずのメガネを上げようとして、眉間を指で擦った。
「何も隠してないって。どんな疑念が渦巻いてるんだよ……」
「んー。本当に知らないんだとしたら、知らないままの方が良さそうな気もする」
「なんだよそれ」
「俺の口からは言いにくいことなんだよ。ま、今日は最終日だし。放課後になったら教えてやるよ」
鈴原にはそうやってはぐらかされた。
鈴原が言いにくいことといえば、思いつくのは山本さん関係だが。
そういや最近は山本さんがやたらと俺に貸しを作りたがってたよな。
それに関係してるんだろうか。
「おい、そこのお前!!」
そんな俺の背後から、ガラの悪い声が届いた。
聞き覚えのない声だが、その怒号が俺を呼んでいるような気がして、つい後ろを振り返る。
「はい……?」
そこにはツンツン頭の男がいて俺を睨んでいた。
反射的に返事をしてしまったが、気づかないふりをして無視したほうが良かったとすぐに後悔した。
鈴原のやつは薄情で、我関せずと足早に階段を登って行ってしまう。
「お前がソトミチか!? クラス名簿に名前がなかったから騙されてたのかと思ったが……」
床を踏み鳴らして近づいてくる男が一人いた。
デカイ体に細身の筋肉。
運動部から不良になったタイプだな。
「目立たないとこに行こうや」
人生初めての危機に、俺は頭が回らなくなって大人しく従うしかできなかった。
階段の下にあるスペースに連行されて、俺は壁を背に男と対峙する。
山本さんに初めてエロいことをされたときと同じ場所だった。
「俺の名前は園田。細けぇこたあいい。山本奏を知ってるな? あの美の頂点にして地上の女神を」
よく存じている。
俺も全く同じ印象を抱いていたところだからな。
と、冗談めいたことを心中で呟いて気持ちを落ち着かせていると、園田が急にくしゃっと顔を歪ませて涙目になった。
「なんでお前が山本奏と付き合ってるんだよぉ!? なんで俺が……フラれなきゃならねぇんだ……!!」
よくわからないデタラメな発言をされて俺は困惑した。
どうして俺が山本さんと付き合っていることになっているのかがわからない。
それはともかくとして、山本さんにフラれた男なんて星の数ほどいるんだから、そこまで気にすることでもあるまいよ。
「えっと、よくわからないんですけど」
ここは冷静に。
相手を刺激しないように。
穏便に済ませよう。
「俺は山本さんの彼氏ではないです」
降参ポーズで事情を説明すると、園田は口をぽかんと開けて固まった。
「なので、俺は無関係で……」
「んなわけあるかぁ! 本人が言ってたんだよ! ソトミチってやつと付き合ってるって!」
園田がまた大声で叫ぶ。
それはさすがに予想外だった。
もし園田の言うことが事実なら、山本さんは嘘をついていることになる。
近頃また告白の数が異常に増えたらしいからな。
彼氏がいる噂を流して諦めてもらうつもりだったのかもしれない。
他にも付き合いの長いやつなんていくらでもいるはずなのに。
どうしてわざわざ俺を選んだんだ。
「そ、そうか。本人が……」
「ああそうだよ。お前みたいな冴えないデクに惚れる要素があるとは思えねえんだがな……」
園田は俺の腕の太さを確かめるように手でパンパンと叩いてきた。
「俺には学もねえし、見てくれもまあ、こんだけ頑張ってこの通り並の男だ。だが、キックボクシングで全国一位になったことがある。つまりはこの学校で一番強い。女は強い男に惚れる。そういうものだよな?」
そこまで語ると、園田は俺と距離を取って拳を構えた。
「まさかお前。実は強えぇのか?」
「いやいやいやいや」
口喧嘩すらしたことはない。
殴り合いなんてまっぴらごめんだ。
どう説明すればこの男に納得して帰ってもらえるのか。
悩んでいると、廊下の方からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「やっぱり園田くん! 不良が暴れてるってクラスの子が言ってたから来てみたけど……!」
ぷるんと胸を弾ませて急ブレーキ。
ようやくご本人様が到着した。
「山本奏っ……!? おい! こいつのことだよなぁソトミチって! こんなヒョロっちぃ男のどこがいいってんだよ!?」
園田は俺を指さして山本さんに怒鳴った。
「もーやっぱりこうなった……。いい? 私はたしかに彼氏がいる……かも……とは言ったけど、ソトミチくんとは言ってないからね?」
「俺がお前に誘いをかけたときはたしかにそうだった。だから気になってお前と同じクラスのやつに聞いたんだよ。彼氏は誰なんだってなぁ!」
絶妙に噛み合わない二人の会話。
はたしてこの状況を作り出した犯人は誰なのか。
「クラスの女子から聞いたぞ! 彼氏はソトミチだと言ってたってな!」
「うぐっ……上手い具合にほのめかしただけのつもりがここまで回ってくるとは……!」
結論としては山本さんが悪かった。
どうして俺なんかの名前を出してそんな下手な嘘をついた。
「なんでだ!? ずっと清純派だったお前がどうして急に彼氏なんか作ったんだよ!? しかも俺の告白はフっておいてこんな存在感の薄い野郎と付き合うなんて!!」
園田から投げかけられた疑問。
そこには多分な勘違いが含まれていただろうが、陰で山本さんが俺を彼氏だと吹聴していたことに相違はないようだった。
俺も気になる。
なぜこんなことになったのか。
「ぶっちゃけると園田くんみたいな人がめんどくさいから嘘つきました!!」
マジでぶっちゃけやがったこの女。
「なっ……! お、俺に何の不足がある!?」
「不足か……そうだね……」
瞬間、山本さんの雰囲気が変わった。
それを園田も感じ取ったのか、山本さんを相手に腰を下げて構えた。
ゴクリと唾を飲む。
空気が一気に張り詰めた。
「園田くんは腕っぷしが一番だから、それで私に釣り合うって話をしてたね」
山本さんは風もないのに髪をなびかせながら歩みを進める。
その長い髪が、マントのように背中ではためいていた。
「だったら──」
山本さんはガクンと上半身を落として園田に突進を仕掛けた。
まさかの行動に園田は当惑しつつも、持ち前の反射神経で構えを直して、山本さんを上から押さえつけるために両手を広げて覆いかぶさる体勢になった。
その直後の山本さんの行動は、奇襲となる前方へのローリングだった。
急角度に身を滑り込ませた山本さんは穴に落ちたようにその姿を消し、長い髪を尾に引かせて頭は園田の股下に隠れた。
この一連の流れを金的攻撃と判断した園田がバックステップしたところに、倒立の反発で床から飛び上がった山本さんの両足が突き上がり、踵が園田の顎にクリーンヒットした。
「グホォアァッ?!」
ふらつく園田の頭部に、前転の勢いを乗せた山本さんの回し蹴りが、スパンッと横一閃に振り抜かれた。
まさに首を刈るが如く。
この二撃で勝負はついた。
園田は数秒気を失い、意識を取り戻したときには、山本さんが直立不動で園田を見下ろしていた。
「園田くんはこの学校で一番ではないから。相手は学校で一番の私じゃなくてもいいよね?」
園田は何も言い返せなかった。
油断があった、と言えないこともない。
だが、負けたのは事実でしかなくて、こうして起こってしまったことに対しては、もう身を引く以外に出せる答えはなかったようだ。
「……悪かったな」
最後に園田は、俺と、山本さんにそれぞれ謝罪して。
敗者の背中を見せながら去っていった。
とんだびっくりイベントだったな。
「大丈夫だった?」
気づけば山本さんはいつものほんわかした雰囲気になっていた。
美優もそうだけど、女の子ってふとした瞬間にとんでもなく恐ろしくなる生き物だよな。
「俺はなんともない。山本さんは、なんというか、すごかったな」
「えへへ。弟たちを守るために身に着けた護身術が活きました」
二の腕を叩いて朗らかに笑う。
運動能力も含めて化け物レベルであることがこれで露見してしまったな。
「で、説明はしてもらえるんだろうか」
俺がこうして園田に狙われた理由。
もとい、山本さんが俺を彼氏として噂を流していた訳。
「は、はい……」
そして、山本さんは観念して、事の顛末を話してくれた。
山本さんは何度も告白をされるうちに、彼氏がいるという嘘をつくようになった。
そんな噂が各所で流れ始め、山本さんが友人に真意を問いただされたとき、山本さんは俺が彼氏かと聞かれて否定をしなかった。
そこから更に外部へ噂が漏れ始め、一周回って俺のクラスメイトも何人かがそれを知るようになった。
「高波のやつが急に冷たくなったのもそれを知ったせいか」
「たぶんね。ソトミチくんがいないときに、クラスに残ってた子たちが高波くんに事実確認されたって。でも、私も直接付き合ってるって言ったわけではないから、誰も上手くは答えられなくて。最後は『ソトミチのやつが認めるまで俺は口を利かんー!』って騒いでたみたい」
クラスのやつらが俺に聞いてくれなかったのもそのせいか。
俺に関しては友達なんて言えるのは学校全体でみても鈴原と高波くらいだからな。
山本さんの彼氏が誰かという話になったとき、俺の名前が真っ先に上がった理由は、やはりここ数ヶ月のやり取りが原因だった。
急に話すようになったこと。
日直とは関係ないところで俺に仕事を依頼してきたこと。
そしてなにより、ショッピングモールでの疑似デートを目撃していた生徒がいたことが、俺を山本さんの彼氏として納得させる材料になってしまっていた。
ただ一緒に歩いていただけなら、たまたま遭遇したと考えられないこともないが。
更衣室にまで付き添って服を選ぶなんてことまでしていたからな。
さすがに中に入るところまでは見られていないだろうが、疑われるには十分な理由だった。
「でも、これって山本さんが否定すればよかっただけの話だろ?」
「私としてもこうして噂が広まるのは予想外だったんだ。でも、ちょうどいいから、いいやって」
「なぜだ……」
園田も言っていた通り、俺は地味で存在感の薄い男だ。
だが、絶対的純潔美少女という評判を落としてまで設定する彼氏役としては、いささか物足りなさ過ぎる気がする。
「だって、ほら。ソトミチくんって、全然私に興味を示さなかったじゃない?」
俺だって、全く興味がなかったわけではない。
同じクラスになって、お互いの存在を知って、最初は単に遠い存在だと思っていたから、気にかけなかっただけ。
日直のペアになって、ようやく山本さんと話すようになったときには、俺はもう美優という名の性神経を狂わせる猛毒に侵されていた。
「噂の彼氏が本物の彼氏になる心配がなかったから、俺を選んだってことか」
「そんな感じかな」
「今までやたらと俺に貸しを作りたがってたのも?」
「こういうときのために恩を売っておきたくて……」
なるほど。
上手いこと使われてたわけか。
「俺はどうしたらいい?」
「これからもこういうことがないとも限らないし。彼氏じゃなくて好きな人ができたーくらいにしておく。ソトミチくんは聞かれたら付き合ってないって答えていいよ」
ごめんね、と最後に付け加えて、山本さんは教室に戻ろうとする。
「あ、そうだ」
もう一度振り返って、俺に訪ねた。
「お詫びいる?」
山本さんからのお詫び。
これまでの会話を考えるに、エッチなことをしてもらえるってことだよな。
そんな気軽にしてしまっていいのだろうか。
美優以外で抜ける唯一のチャンスかもしれないし、してもらえるならお願いしたいけど。
「いいのか?」
「うん」
平然と答える山本さん。
男性経験はやっぱり豊富なんだろうか。
鈴原の話では過去にも男はいたみたいだからな。
もしそれが本当なら気兼ねすることはないか。
園田みたいに、山本さんを処女だと思い込んでいる生徒が大勢いる中、エッチなお詫びをさせるのはそいつらに申し訳なさは感じるけど。
「なら、してもらおうかな」
「ふふっ。わかった」
山本さんは楽しそうに笑う。
セックスって悪いことだと思いがちだけど、それ自体は悪でもなんでもないんだよな。
「ソトミチくんなら部屋を教えちゃっても問題ないとは思うんだけど。念の為、放課後どこかの教室で済ませちゃってもいい?」
はたしてどちらの方が危険なのか。
俺に目隠しでもして部屋に誘導したほうが安全な気もするが。
「そっちのほうがドキドキするでしょ?」
確信的な犯行だった。
俺はその提案を承諾し、合流の方法を打ち合わせしてから、階段を登っていく山本さんを見送った。
実際にしてもらえるのは一発抜くところまで。
ゴムはないし、本番までには至らない。
でも、とにかく山本さんに射精させてもらうことが大事なんだ。
これからの人生で、妹以外でもセックスができることを確かめるための、ラストチャンス。
俺は二重の緊張を胸に抱いて、教室へと戻っていくのだった。