俺はスマホを握りしめてバスに乗っていた。
何をすれば美優が幸せになるのか。
しばらく一人で考えていても、残り八時間という短い時間で解決できる兆しが見えず。
どんなに小さなきっかけでもいいと縋ったスマホのディスプレイには、開かれたままのメッセージアプリが映っている。
『夏期講習で塾にいるので、駅まで来ていただければコマの間にお話はできますよ』
佐知子から送られてきたメッセージに、俺は何度も感謝をして会いに行くことにした。
自分の頭で捻り出した答えでなければ意味がないことはわかっている。
しかし、ヒントになるものを求めることは問題ないはずだ。
その証拠に、俺が家を出るときに美優は「それが正解です」と背中を押すように手を振って俺を見送ってくれた。
駅近くで止まったバスから降りて集合場所のカフェに向かう。
休憩時間は一時間あるらしい。
佐知子が通っている塾は必須授業の他に選択授業があり、普段はその空きコマで自習している時間を俺のために回してくれた。
「お久しぶりです、お兄さん」
店の入り口で合流した佐知子は、前と同じサイドテールを夏でも伸ばして大人びた風貌になっていた。
うっすらと化粧をしているのか血色も良く、もともと身長も高い方だったのでお姉さんらしさが滲み出ている。
「久しぶり。元気だったか」
別れてからまだ日が経っていないのに、佐知子と会うのがやけに久しぶりに感じた。
「おかげさまで」
佐知子は楽しげにそう返事をした。
店内はシックな色合いのウッド調で、本棚をインテリアとして多く配置したアットホームな場所になっている。
来店した人がそれぞれのスペースを持てるように、ソファーを主としたゆったりできる装いだ。
佐知子と初めて来たお店もこんな趣の場所だったな。
美優に彼女を斡旋してもらっていたあの頃が懐かしい。
俺たちは空いていたソファー席に案内され、そこに並んで座った。
「なんだか大人っぽくなったな」
真面目な相談の前に、簡単な世間話を挟む。
幸いにも時間は十分に取ってもらえたし、俺のために費やしてもらう時間は新メニューのアイスラテでも奢ってお礼をしよう。
「それ、みんなに言われるんです。お姉ちゃんから使ってない化粧品を貰って、やり方も教えてもらったんですよ。そのおかげなのか、何人かの男の子に告白もされちゃって」
佐知子の声音は、嬉しさ半分、戸惑い半分だった。
気恥ずかしさがあるのかわからないけど、複数人から告白されたというのは立派な功績だ。
「その男子の気持ちはわかるよ。佐知子は話しやすい雰囲気をしてるし、一緒に居て癒やされるというか。見た目だけじゃなくて、全体的に頼れるお姉さんになった感じがする」
俺みたいに自信の無いタイプの男子でも、そんな空気になればつい告白してしまうかもしれない。
個人的にも佐知子とは波長が合う部分があって、こうしてカフェに呼び出すのにも悩むことはなかった。
「そこまで言われると照れちゃいます」
佐知子はメニュー表でサッと顔を隠した。
「結果として出てるんだし、告白されたことは自信にしていいと思うよ」
「そうなんでしょうか。そもそも、あまり男の子と話すわけではないのですが」
それでも告白をされるってことは、空気から漂うものがあるんだろう。
俺も小さい頃は課外活動で一緒になっただけの女の子に気を引かれたりもしてたな。
「誰かと付き合うことにしたのか?」
知り合いの女の子に男ができるのは複雑な話だ。
でも、俺の境遇が恵まれているおかげで、それも不快には思わない。
過去の俺なら考えられない感情だった。
幸せって相対的なものなんだな。
「みんな良い人なんですけど、一度にたくさん告白を受けたせいで選べなくて」
佐知子は苦笑いをして、困惑している胸の内をさらけ出す。
「デートにも誘われてはいるんですが、それもなかなか引き受けられないんですよ。いざ二人きりで出かけるって考えると緊張しちゃって」
そして、困り顔をして考え込んだ後、佐知子はパッと明るい表情に戻って照れ笑いした。
「その点、お兄さんはなんだか安心するというか。私のダメな部分を気にしないでいてくれそうですし、一緒にいて癒やされるのはお兄さんも同じなんです」
つい甘えたくなっちゃいます、と佐知子はひっそり身を寄せてくる。
「そう言われると、俺も照れるんだけど」
俺はそれをあえて拒もうとはしなかった。
佐知子みたいな純粋な子の好意を否定する必要は無いと思うし。
「それでそれで。お兄さんの相談ってなんですか?」
「ああ、それはだな」
明確な問いを用意している訳ではなかった。
ただ何か、俺と付き合っている時に佐知子がどう感じていたのか、それを知りたかっただけだ。
俺と美優は兄妹だが、これからの実態としては恋人に近いものになる。
であれば、数週間だけとはいえ恋仲だった佐知子なら、美優を幸せにするためのヒントを持っているかもしれない。
俺は店員に注文を済ませてから、仮定の形でこれまでの経緯を佐知子に説明した。
「ふむふむ。告白をされたけど身分差がありすぎて自信がないから、私に彼女としての感想を聞きたいと」
と、そのつもりだったのだが。
「お兄さんは美優ちゃんが相手じゃないとダメなんですよね? そこはもういいんですか?」
佐知子に思いっきり核心的なところを突かれて、俺は仮定の形を保てなくなった。
佐知子には美優が好きなことを伝えてあるし、それが原因で別れたのだから、そこに疑問を持つのは当然のことだった。
「あー……それが……その……」
俺はどこまでも嘘をつくのが下手だった。
こうやって言及されたときに動じなければ、まだ誤魔化すチャンスはあるんだろうけど、罪悪感に苛まれて上手く舌が回らなくなる。
本当のことを言わずに話しているだけならまだいい。
だが、相手の質問に嘘の回答をしたら、その時点で裏切りになってしまう。
かと言って、美優が友達の間でどういう立ち位置にいるのか俺はよく知らないし、俺と美優の関係を暴露していいのかはわからない。
でも、他でもない佐知子が相手だから、それを信用しないというのもまた失礼な話だ。
「美優じゃないとダメなのは今も同じで。だから、つまり……な」
俺がそこまで口にした時点で「まあ!」と佐知子は嬉しそうに驚いた。
「ついに美優ちゃんと結ばれたんですね。おめでとうございます。お兄さんはとてもステキな人ですし、美優ちゃんが気に入るのもわかります」
佐知子は俺たちの関係を予想以上に歓迎してくれた。
「そこが、疑問なんだけどさ」
佐知子も俺に好意的で、男として見られていることもわかる。
でも、その理由が見当たらない。
そこらへんの女の子ならいざ知らず──失礼な言い方ではあるが──美優も佐知子も男を選べる側の人間であるはずだ。
同じ中学にだって俺より顔も頭もいいやつはいるだろう。
あるいは、いま佐知子が告白されている男子たちもそうなのかもしれない。
それなのに、なぜ佐知子はそいつらとデートに行かずに、俺とこんなに仲良くしているのか。
「佐知子は俺のどこが……その、ステキだと思う?」
俺がそう尋ねると、佐知子はしばらく考え込んで、店員が運んできたアイスラテを両手で持った。
「それはですね」
佐知子はニコニコしながら、両手で丁寧に支えていたそれを俺に渡してきた。
ブランデーグラスいっぱいに盛られた泡に黄金色のソースが掛かって、その上に菓子の破片が散りばめられている。
「ん? これがどうかしたのか? 混ぜろってことかな。もしくは、先に飲んでいいってこと? 金は出すとは言ったけど、そんなに気を遣わなくてもいいよ」
俺はグラスを持ったまま、ただニコニコするだけの佐知子に困惑する。
そして、また訳のわからないことに、佐知子は俺が注文したキャラメルラテを取って、それとアイスラテを交換してきた。
俺は砕かれたナッツとクリームが浮くカップを手に、頭の中で疑問符を重ねていく。
「どっちがいいか好きな方を選べってこと……かな? 俺がすぐに新作メニューをオススメしたから、それが気になってると思って渡してくれた、とか?」
俺が無理矢理な解釈をひねり出すと、佐知子はまたアイスラテを前に差し出してキャラメルラテと交換しようとしてくる。
これは何か試されているな。
「よし、わかった。佐知子が先に好きな方を飲んでいいよ。これは感謝の印だし。……まあ、大したものじゃないけどな。この後は塾に戻るんだから、自分の脳に良さそうな方を選ぶのがベストだと思う。なんなら両方飲んでもいい」
俺は思い浮かんだ考えをとにかく言葉にした。
すると佐知子が頬を緩めて、グラスをテーブルに置き直す。
「そういうところです」
「難しすぎる……」
今のが俺のステキな部分なのか。
アホっぽいところが好きとかかな。
「優しくて怒らないところがいいんですよ」
「あぁ、そうなのか」
優しいと言われて悪い気分はしないけど、素直には喜べなかった。
「優しい」とか「いい人」っていうのはモテない男に使われる言葉で、つまるところ社交辞令以外の何物でもないわけだ。
相手が佐知子じゃなかったら、むしろ落ち込んでいたかもしれない。
「優しい人って、良いことなのかな」
とりわけ中学の頃なんかは、ヤンキーくらいの我が強い男がモテるものだ。
優しい人って言われると、「あなたに興味はありません」って言葉に聞こえてしまう。
「優しくて怒らないのが大事なんですよ。やるべきことはやってくれて、多少の不都合には動じないといいますか。お兄さんの優しさは自分の都合を押し付けてこないじゃないですか。でも、相手のことは考えてくれるし。そういう、本当に優しいなって思えるところが好きなんです」
そこまで言ってもらえて、俺はようやくその意味が理解できた。
例に出すのも悪い話だが、たしかに山本さんを脅していた頃の鈴原も、あれはあれで優しさから生まれた行動だったもんな。
「それはわかったけど。さっきのグラス交換に意味はあったのか?」
ワケのわからないことをやらされても怒らなかったから、ということなんだろうか。
「言葉にするのは難しいのですが、物の考え方というか……。ああやって、相手の基準で真面目に考えてくれるのが、わかっていたので」
なんとも要領の得ない回答だった。
しかし、佐知子にとっては、それこそが大事な俺の美点らしい。
「まだありますよ。お兄さんって結構聞き上手なんですよ」
「そうか!? ああいや、否定してばっかりで申し訳ないんだけど、今まで俺が思ってきたのと真逆のことを言われてるから、なんというか……」
俺は最近までほとんど人と話してこなかった、まさにコミュ障そのもの。
優しい人ならまだしも、聞き上手は納得できない。
「お兄さんは相槌も打ってくれるし、こっちの話題を一つ一つ無視しないで考えてくれるじゃないですか。それを当たり前のようにやってくれるのは、すごい安心感に繋がるんですよ」
俺がそれを当たり前のようにやっているということ。
つまり、するのが当然だと思っているから、自分の長所だとわからないのだと佐知子は補足する。
そう言われれば、いつも人に褒められるときは「それくらいみんなできる」としか思ってなかったな。
美優に影響されて身についた最低限のマナーや気配りも、周りを見れば出来ていない人が多いのも事実だ。
でもやっぱり、特別な技術や容姿と違って、頑張れば誰にもできることに違いはないように思う。
早い話が、それは俺でなくてもいい、というか。
「家事にしたってそうです。お兄さんは美優とほとんど話さなかったんですよね?」
「そうだな。中学の頃からは特に」
「でも、仕事はきちんとこなしてたわけじゃないですか」
「それはまあ、しないと迷惑がかかるし。人として当然やるんじゃないかな」
それこそ家事なんて、やろうと思えば誰でもできるし。
「当たり前にできることが大事なんじゃなくて、それを当たり前だと思ってやってることが大事なんですよ」
「なるほど」
「あと、お兄さんはかなりスキルが高い方ですから、そこは自覚しておいてくださいね?」
「そうか。そう言ってもらえるのは、素直に嬉しいよ」
俺は佐知子の意見をできるだけ否定しないように、言葉を飲み込んだ。
話を聞くスタンスが悪かった。
反省しないと。
俺から相談を持ちかけたのに、相手の意見を頭から否定するなんて失礼だ。
佐知子が教えてくれたことを、まずは事実として信じよう。
俺は家事が出来て、話を上手に聞くことができる。
それはきっと、幼い頃に美優に叩き込まれたものが、成長した今でも俺の根幹を作ってくれているおかげだ。
だが、人として大事なのは、その技術ではない。
俺がどんな気分でいようがそれを自然体でこなしているということ。
これが女の子にとってとても頼りになるらしい。
だから、俺は美優にも佐知子にも信頼されている。
それは信じることにする。
となると、やはり問題は最初の疑問に移る。
美優はいくらでも男を選べる──正確には、あの体質でなければいくらでも良い男を彼氏にできたはずの女だ。
結局は俺の長所が「他にいくらでも代えの利くメリット」でしかないのだから、やはり全体的な偏差値の劣る俺を人生のパートナーとして選ぶしかなかった美優は不幸なのではないだろうか。
「なんだか難しい顔をしてますね」
佐知子が心配そうに俺の顔を覗き込んできて、俺は顔を隠すように慌ててドリンクを口にする。
「いやぁ、ほら。俺と同じ性格で顔も頭もいい人がいたら、やっぱりそっちのほうがいいのかなって」
「そんな人いませんよ」
佐知子はキッパリとそう答えた。
まさか本気じゃないですよね? とでも言いたげな、驚きと呆れの混じった声だった。
「そうかな? 結構、いると思うけど……」
「どこにですか?」
「ほら、さっき注文を取ってくれた店員さんとか、優しそうだし、かなりカッコ良かったし」
「あー。なるほど」
佐知子はぽんと手を叩いて、スッキリした顔をする。
「今のでちょっとわかっちゃいました。お兄さんって、女の子に苦手意識があるか、思い込みが激しいか。あるいは、両方でしょうか」
「佐知子までそれを言うのか……」
「ふふっ。やっぱり。誰だって思いますよ」
佐知子はまた苦笑いをした。
ただ、それは先ほどの困った表情ではなくて、「しょうがないなぁ」と嗜めるような、そんな優しい笑みだった。
「美優ちゃんと結ばれたっていうから控えてましたけど」
「あっ、ちょ……」
佐知子は俺の腕にしがみついて、ギュッと体を寄せてきた。
「私は美優ちゃんのこと、羨ましいなって思ってますよ?」
「恋仲になったことがか?」
「お互いに信じ合える相手を見つけられたことが、ですよ」
俺はそれとなく佐知子に「今は美優がいます」アピールをするのだが、佐知子はそんなことお構いなしに身を寄せてくる。
「さっきお兄さんは、告白された事実があるんだから自信を持てって私に言いましたよね? もしお兄さんが信頼できない人だったら、私はこんな風にお喋りなんてしてませんし、美優との関係だって許しませんよ? お兄さんにとって、私の存在は自信にはなりませんか?」
佐知子は席が人目につきにくい位置にあるのをいいことに、ほとんど抱きつくぐらいの勢いで俺に体を預けてくる。
「おっ、おっ、わ、わかった……!」
「わかってませんよ。何もわかってないじゃないですか」
佐知子の声音は美優に叱られるときみたいな厳しさを含んでいて、しかしその態度とは裏腹に俺にベタベタしてくる。
「いいですか、お兄さん。いくら美優が可愛くて頭が良くても、女の子は女の子です。優秀な女の子としてじゃなくて、美優として接してあげてください」
美優を女の子としてか。
そういや誰だかも似たようなことを言っていたな。
「で、これはいつまで続くのかな……」
「もちろん、次の講義の時間までです」
あと30分くらい猶予があるんだけど、まさかその間ずっとこうやってベタベタしてるつもりか。
「お兄さんに必要なことなんですよ。口で言ってもわからないみたいですし」
「それは……否定できないな。すまん」
「なので今回の相談の謝礼として私はこれを求めます」
佐知子は俺の腕をその胸に引き込んで、指先で俺のほっぺたを突いてきた。
「美優ちゃんへの罪悪感に苛まれながら、私にお喋りを楽しませてください」
「うっ……は……はい……」
誰のせいなのか佐知子が悪い知識を身につけてしまった。
俺も美優の貸し借りのこだわりに影響されてか、佐知子のまるで敵意のないその行動を振りほどくことができず。
どうせ今日のことは美優に伝えないといけないし、これはもう後で叱られるしかないと諦めた。
それから俺たちは、相談とは関係ないお喋りをして残りの時間を過ごした。
内容は近況報告みたいなものがほとんどだったけど、本当にその短い時間は楽しかったし、佐知子も心の底から楽しんでくれていたように思う。
俺はカフェから出て佐知子とお別れをしてから、改めてその時間の大切さを噛み締めた。
ずっと自虐ばかりしてきた人生だったけど、それって単なる逃げでしかなかったんだよな。
いつだか美優にも似たようなことを言われたっけ。
俺が解決するべき問題は、美優を幸せにするにはどうすればいいかだったけど。
そもそも美優って俺が思ってる以上に不幸ではなかったのかな。
なんだろう。
あと少しで解決の糸口が見つけられそうな気がする。
この先は自分で考えるべきか。
それとも、他の人からもヒントを貰って一気に片付けるべきか。
最優先するべきは美優の幸福。
だから俺の格好付けなんかでそれを台無しにしたくはない。
そう考えると、選ぶべきは後者だ。
となると相談先は、山本さんかな。
『相談したいことがあるんだけど、今日の夕方までに時間を取れるかな』
俺はメッセージを書いて、送信ボタンを押す直前でためらっていた。
相談するのは美優のことについて。
佐知子が相手でさえ事実を打ち明けてしまったのだから、山本さんにも同じように隠さず相談をすることになるだろう。
最後に美優と山本さんのどちらがいいかと迫られて、俺は美優を選んでしまった男だ。
そんな男が今になって美優を幸せににするための相談を持ちかけるなんて許されるのか?
これが俺の体面の問題でしかないのなら、土下座でもなんでもして頼み込む。
でも、山本さんの気持ちを考えずに相談をするのは、美優が信じた俺の行動として正しいのかな。
そんなことを、迷っているときのことだった。
「ちょっと! あんた何してんのよ!」
俺はケツを強く叩かれて、その衝撃で送信ボタンを押してしまった。
「あ、ちょっ、何!?」
振り返った先にいたのは、もはや見慣れた不機嫌ツインテールだった。
先頭に由佳がいて、その後ろを同じ学年の子と思われる女の子が三人歩いている。
「私のことレイプしておいて、何をそんなところに突っ立ってんのかって聞いてんのよ」
「いやその言葉の繋がりが俺にはわからないんだが」
俺は急いでメッセージの訂正をしようとしたが、無情にも既読マークがついてしまい、もう引き返せない状況になってしまった。
「由佳っち何してんの? 彼氏? レイプってマ?」
後続集団の一人が、ダボダボのロングTシャツの裾を振りながら、「ヤバいじゃん。ウケる」と八重歯をチラつかせて笑った。
「美優の兄よ。グループに写真が流れてたでしょうが。私のことレイプして五回も出したサイテーの男よ」
俺が言葉を挟むこともなく自己紹介が終了する。
初っ端からとんでもないことを暴露されたんだが、由佳としてもそれでいいのか。
「お兄さんダメじゃんレイプしたら」
スマホを気怠げに操作している女の子に、俺は至極真っ当なお叱りを受けた。
ちなみに四人目の女の子は大人しそうに後ろで控えている。
「そ、それには色々と事情が……」
「ってか美優の兄ってマジなの? めっちゃ進化してるんですけど」
「JC二人とセックスしてレベル上がったんじゃん?」
俺の話を遮って、八重歯の子とスマホの子が盛り上がり始めた。
「うっわマジか。やっぱ童貞はダメだな。あたしも兄貴に女紹介してやろ」
「あんたが相手してやんなよ」
「冗談笑わせて。ヤるならコッチでしょ」
「言えてる。おにーさんもう彼女募集してないの?」
二人が揃って俺に視線を向ける。
ちょっと待って欲しいんだけど君たちは初対面だよね。
「もうしてないわよ。今は美優の物なんだから」
そんな二人に、由佳から飛び出したトンデモ発言。
「はっ……え!?」
なんで由佳が知ってるんだ。
「遥から全部聞いたっつーの」
まさかの遥からのリークだった。
しかし、遥が美優に迷惑をかけるとは思えないし、これも自然な流れだったのか。
「なに、美優のやつ見せびらかしといて自分で取ったの? ヒドくない?」
「詫び入れるしかないじゃん。で詫びの品はこのお兄さんってことで」
「それかなりアリ寄り」
いやだいぶナシ側に振れてるからね。
「五回もできるってことは、あたしら四人を回しても、後もう一回できるってわけっしょ?」
その「四人」というワードに勝手に自分が含まれていることに気付いた大人しい子が、人知れずにビクついている。
「あの、一ついいか? なんだか君たちみんなとする流れになってるような気がするんだけど」
「そりゃそうっしょ。JCと五人プレイとかアツくない?」
「今しか出来ないッスよお兄さん」
ダメだ、美優にメッセージグループを見せてもらったときから思ってたけど、もうこの子たちの性の奔放さは救えないところまできている。
「あの……私も……するの……?」
ついに大人しくしていた子がおずおずと声を上げた。
よし、いいぞ。
この子に乗っかって有耶無耶にしてしまおう。
そもそも俺と美優が結ばれたからって、この子たちに詫びなければならない義理はないんだけど。
「みんなも、もう少し自分を大切にしたほうがいいんじゃないかな? 相手も選んだほうがいいと思うし、誰彼構わずってのはちょっと……」
四人の女の子に囲まれている俺を訝しむ通行人に愛想笑いをして、俺はそれとなく人の通らない場所に後ろ歩きする。
「いやイケそうな雰囲気持ってるからお兄さん。なんかしたいことさせてくれそうだし。あたし前からずっとお尻に興味があったんだよね」
八重歯の子が目を輝かせながら迫ってくる。
そんな性癖を初対面の男に暴露しないでくれるかな。
「美優のお墨付きでしょ? ならフィーリングが合えばよくない? てか誰彼構わずとか失礼じゃん。さすがにヤる男は選ぶっしょ」
スマホの子は滅茶苦茶言ってるのか正論を言っているのか判断に困るからやめて欲しい。
で、肝心の大人しい子だけど。
「私は……経験ないし……楽しくできるかわかんない……地味だし……」
「そっかそっか。初めてなら、なおさら大事にしたほうがいいよ。今は地味だとかそういうので自信が持てなくても、ちゃんとした経験があると変われるって、俺は知ってるから。だから、こんな形じゃなくて、きちんと君のことを考えてくれる人としよう。な?」
「は……はい……」
俺が逃げたい一心で力強く説得すると、地味っ子ちゃんは一瞬だけ俺と目を合わせ、すぐに顔を逸した。
そんな友人の反応に気付いたスマホの子が、さり気なく口を挟む。
「考えてくれる人としろだって。ならお兄さんで良くない?」
「まあ……そうだね……」
「ほら」
「いやいやいやいや」
こんな簡単に体を許されてしまうとか逆に怖い。
これが場の力というやつなのか。
「やっぱセックスするとオスのパワーが上がるんだわ。てゆか美優を入れたらお兄さんの経験人数三人?」
さりげなく俺が美優とセックスをしていることにする八重歯っ子。
いやまあそれに等しいことはもうしてるけど。
「もっといるんじゃん?」
「JCとセックスし過ぎじゃね!?」
「それはほんと誤解だからそういう認知を広げるのだけはやめてね」
あとこんな場所でセックス連呼するのはやめてくれ。
「あう……私……どうしよう……」
「へーきだってみんなで教えたげるから。お兄さんも意外と質素なのが好きかもよ? ワビサビ男子」
「出たそれ。利休じゃん」
またこの子たちは勝手に盛り上がる。
「え、誰リキュウって」
「自分でワビサビとか言っておいて知らないの利休。信長のカシンでしょ」
「あっ信長はこの前やったわ。鳴かぬなら、泣かねばならぬとか」
「泣き寝入りしてんじゃん信長」
もうダメだ、これ以上は収拾がつかなくなる。
「あのー。そろそろいいかな? 君たちも、塾とかあるんじゃないの?」
このタイミングで出会ったということは、佐知子と同じ塾に通っている可能性もある。
俺が本気にしていないのもさすがに伝わっていて欲しい。
「それに自分で言うのもなんだけど、レイプしたって聞いてなんでそんなに前向きなのかな?」
俺がそう尋ねると、JC組は互いに顔を見合わせた。
「だって由佳っちっしょ? あたしでもしかねないわ」
「むしろ加点要素じゃん?」
「うん……しょうがないよね……」
「あんたら私のことなんだと思ってんのよ!」
ここに来てようやく由佳が口を開いた。
由佳の扱いはどこでも変わらないんだな。
美優以外にもイタズラをしてるのか。
「あんたらはもう気は済んだでしょ。さっさと塾に戻りなさいよ」
由佳は佐知子が歩いて行った方向を指差す。
事の発端はこいつなわけだが、場を畳んでくれるなら良しとしよう。
山本さんに送ってしまったメッセージは取り消せないけど。
JC集団は由佳に説得されて、渋々ながらも去っていった。
これでようやく落ち着いて考え事ができると思ったのだが、やはりというか由佳のやつはこの場に留まっている。
「なにボサッとしてんのよ。行くわよ」
「どこに? ってか由佳は塾はいいのか?」
「美優のことについて話があるの。塾なんてどうでもいいからツラ貸しなさいよ」
さすがに美優のことだからなのか、由佳は今までに見たことのない真剣な顔で俺の腕を引っ張った。
その足は由佳のお気に入りのネットカフェに向いている。
俺も余裕のある身ではないけど、他ならぬ美優のことについてだからな。
山本さんからの返信はまだないし、なにより由佳と美優の付き合いの長さを考えれば、その話とやらも俺にとって無駄なものではないかもしれない。
それに無理やりしてしまったことについてもケリはつけておきたいし、ここは由佳に付き合っておくか。
……塾を休ませる分は、俺が補習しとくしかないかな。
「会員証、出しなさい」
俺は由佳に連れられてネットカフェに入った。
由佳が率先して二人用の部屋を選択し、俺もそれに従ってチェックインする。
ネットカフェは基本設備としてドリンクバーと本棚が置かれている。
喉を潤すためにドリンクは必要になるんだが、由佳は当然のように漫画コーナーにまで入っていった。
「何してんだ」
「漫画を取りに来たに決まってるでしょうが」
「美優のことについて話すんじゃないのか」
「それはそうだけどさ。せっかくだし気になるものは消化しておきたいじゃない」
由佳はドリンクを片手に漫画の背表紙を眺め歩く。
由佳を急かしたところで答えが出るわけでもないし、山本さんからの返信が来るまではこいつのペースに合わせてやるか。
「オススメとかないの」
「俺はバトル系ばっかり読んでるけど。それでいいなら」
俺は自分の好きな作品をいくつか見繕って、由佳がまだ知らない作品をそれぞれ一巻だけ取らせた。
カードキーをドアにかざしてロックを解除し、部屋に入る。
夏休みの混雑のせいで狭い部屋しか空いていなかったが、二人で横たわってもぶつからない程度のスペースは確保されていた。
クッションマットの敷かれた部屋で二人。
由佳は寝そべって漫画を読んでいる。
由佳の頭から伸びる二本の触覚は、腰のあたりまでぐるんと伸びていた。
結んでいるから夏に伸ばしても暑くないんだろうか。
「何見てんの」
「いや、由佳の髪さ、だいぶ茶色いけど怒られないのかなって」
「教師を言いくるめるのは得意だから」
由佳はサムズアップして自慢げにそう語る。
おそらく褒められた話では無いんだが。
「その漫画、面白いか?」
「読むには値する」
「そうかい」
ずいぶんのんびりした空気になってしまったものだ。
由佳が話をしないなら、こっちはこっちで考えをまとめているしかない。
あと少しで、美優を幸せにするための答えがわかりそうな気がする。
もう手の届くところまで来ているのに、錠前の付いた箱のような〝何か〟に阻害されている感じだ。
佐知子と話して最も印象的だったのは、佐知子が俺を男として認めてくれていたこと。
それこそ、兄妹である俺と美優の関係を応援してくれるほどに。
山本さんにしたってそうだ。
こっそりではあったけど、最後は俺を男として認めてくれていたようではあった。
あんな可愛い二人が俺を求めてくれて、美優も俺を好きだと言ってくれた。
この状況だけを見れば、俺は男として好かれるべくして好かれたのだと、そう考えることもできる。
気になるのは、美優の体質と、俺がエッチを経験した四人に通じる共通点だ。
美優は生殖本能が逆になっているせいで、「優秀で男らしい他人」に告白されることを不快に感じている。
つまるところ、その真逆に位置する俺は「落ちこぼれの近親者」だから好かれたことになる。
俺がダメ男であることを佐知子は否定してくれたわけだけど、俺がこれまで持った肉体関係は、美優のおかげで築けた関係なんだ。
もし俺が美優の兄でなかったとしたら、この三人は俺とセックスをするどころか見向きすらしてくれなかっただろう。
みんなの俺に対する「好き」は、関係から生まれた感情でしかない。
その事実があるから、俺はあれだけ佐知子に励ましてもらったのに、まだ確信を持つことができない。
「ちょっと」
由佳がなぜか不満げに俺を見ている。
「どうした」
「もっと奥に座って。あと膝伸ばして」
「ん? まあいいけど」
俺は由佳に命令されたとおりに移動し、座り直した。
その膝の上に、由佳が無遠慮に頭を乗せて、また読書を再開する。
「お前な。そこにクッションと毛布があるだろ」
「こっちのが寝やすいんだからいいでしょ」
由佳はちょこんと首を落ち着けている程度だが、美優以外の人に膝枕をするのは気が進まない。
「あーあっつい……。なんか空調弱くない?」
「少し暑いな」
「でしょー」
由佳はシャツのボタンを二つも開けて、パタパタと扇ぎ始める。
美優と違って平坦な胸だが、その無い空間というのも独特のエロスがあるものだ。
「でさ」
由佳が漫画を畳んで横に置いた。
ようやく話が始まるのか。
「エッチしないの」
豪快な話の切り出しだった。
「え? ん? 美優と、ってこと?」
「んなわけないでしょ。美優としてることなんてもう知ってるんだから」
それはまあ、そうだろうな。
遥とファミレスで話してた時点でそういうことになってたし。
「とすると、俺が由佳とエッチをするかどうかって聞かれてる?」
由佳はゴロンと転がって肘をつき、顔を上げてうんうんと頷く。
開け放した胸元が、肉が無いせいでガッツリと奥まで見えて妙にエロい。
「えーっと……理由は?」
「こんなとこ来たらすることなんて決まってるでしょ」
「んなラブホじゃないんだから」
「個室のネカフェなんてラブホみたいなものよ」
ほんとそういう風評被害は真面目に使ってる人たちのために良くないぞ。
「仮にここがラブホでもしないからな。それに、もう美優の子供とかは諦めるんじゃないのか?」
「美優はもう関係ないの。避妊もしていいから」
「ちょっと待て、混乱してきた」
こいつは美優の義姉になるために、その既成事実として俺と子作りがしたいんじゃないのか?
美優が関係なくなったら、単に俺とエッチしたいだけってことになるんだが。
それに俺と美優が両想いになったことを知っていてなぜ迫ってくるんだ。
まるでわからないけど、とにかく乗せられたらいけない気がする。
「ゴムなんて持ち合わせてないから無理だよ。由佳だって持ってないだろ」
「そんなの防犯用の窓に布を掛けてるカップルの部屋に行って貰って来ればいいのよ。どうせヤる目的で来てるんだし、持ってるでしょ」
「ほんとそういう逞しいところだけは尊敬するよ」
その行動力をもっと健全な方向に使えなかったものか。
「一回したんだからいいじゃん」
「ダメなものはダメだ」
「なんでよ。私のこと別に嫌いじゃないでしょ」
「まあ、それはそうなんだけど」
由佳って無茶苦茶なことやるくせに、どうにも嫌いになれないんだよな。
美優にも迷惑を掛けてきたわけだし、俺が代わりに怒ってもいいくらいなのに。
あれだけされても美優が友達でい続けているのも、由佳に何かしらの魅力があるのかもしれない。
「とにかく、今は美優がいるから。それが由佳にとっても一番シンプルな答えだろ」
「でもさ、それだと釣り合いが取れなくない?」
「……というと?」
「だってさ、美優は遥とエッチしてるわけじゃん」
由佳はおもむろに体を起こして居住まいを正す。
「これからも美優は遥とするだろうし、お兄さんは美優とだけエッチをするわけでしょ?」
なんとなく言い分はわかるけど、遥に関しては俺もビジネスパートナーで割り切れるからな。
それに、この先もずっと同じ関係でいると美優が明言したわけでもない。
「そうなると、この中でエッチをしてないのって私だけじゃない?」
「うん? ……うん」
だからどうしたというのだ。
「美優はお兄さん以外ともエッチをしてる。お兄さんは美優としかエッチをしてない。つまり、この関係は私とお兄さんがエッチをして初めて均等になるってわけ」
「ごめん言ってる意味はわかるけど何言ってるのかわからない」
さりげなく筋を通そうとしてくるので一瞬だけ納得してしまった。
なんにしてもそんな超理論が認められるはずがない。
「なんでよー。しようよエッチ」
「しないって。だいたい、由佳は俺に無理矢理されて怒ってたんじゃないのか?」
本人がこんな質問をするのも変な話だけど。
「口にするほど怒ってないのよ。ああいう態度を取ってたからこそ、こうして二人きりになってくれたわけでしょ? そういうこと。だいたいあれやらせたのは美優なわけだし」
「完全にハメられた……」
悪知恵だけはほんとによく働くやつだ。
普段からアホっぽいからどこまで考えて喋ってるのかわからない。
「あの件に関しては、お兄さんが相手だったから結果オーライなの。蓋を開けてみたらプレイの一環だったってわけ」
「処女を奪われた挙句に精神ズタボロにされてたと思うんだが」
「いいんだって。私と美優の関係ってそういうものなの」
由佳曰く、美優を含めたセクハラグループの間には、感性の世界でしか語れない暗黙の了解があるらしい。
お互いに「次こそはダメかもしれない」という瀬戸際で、結局は相手が許してしまえる範囲のことしかしないという関係が、美優と由佳の間でも成り立っているのだとか。
俺には理解のできない話だが、こうして平然とお喋りができてしまっているあたり、深層心理では同じようなものを認めてしまっているのかもしれない。
「ならその件は置いておくとして。どうして俺にこだわるんだ?」
「どういう意味?」
「美優の兄として求められてたから納得してたけど。一人の男としてセックスがしたいって言われるほどの付き合いは無くないか?」
「それは……あれよ」
由佳はやりにくそうに頬をかく。
「これまでの私を知ってて、こうして普通に接してくれるのはお兄さんだけだし」
次第にその声は、微かに上擦っていった。
悪いことをしてた自覚はあったんだな。
「そういうのは嬉しいというか。それに、一度したんだから、誘うのも気楽でしょ。お兄さんも見た目は悪くないんだから、しない理由はなくない?」
「んー。そう言われると……」
由佳の立場で考えれば、その言い分はわからないでもない。
でも、それだけで俺をセックスの相手に選んで良いのか。
この子たちのグループがいくら性に対する敷居が低いとはいえ、もっと明白な〝する理由〟が必要だろう。
「由佳だってかなり可愛い方なんだし、大人しくしてれば俺より良い男がいくらでも相手をしてくれると思うけど……」
俺がふと思ったことをそのまま口にすると、由佳の眉毛がピクッと吊り上がり、その拳が容赦なく俺の腹部に突き刺さった。
「おまっ……えら……なんでそう……暴力的な……」
「あんただからしたいって話してんのになんで他の男の話が出てくんのよ。私が誰とでもヤる女だって言いたいわけ」
由佳は思っていた以上にご立腹だった。
そう言われてしまうと、かなり失礼なことを言ってしまった気がする。
「悪い。本当にごめんな。さっきのはたしかにヒドかった」
話の流れからしてムラムラしていただけなのかと思ったが、あくまでも俺とすることが目的でここに呼んだのか。
しかも、美優と関係なく。
なぜかはわからないが、とにかく失言をしたのは間違いない。
ってかこれ、美優とか山本さんに対しても言えることだよな。
気をつけないと。
「本気で言ってる?」
「ああ。本当に悪かった」
「ならエッチする?」
「それはしない」
「なんでだー!」
由佳はそうやってしばらく駄々をこねてから、ようやく静かになった。
その表情には生気が抜けていて、何事もなかったかのようにマットに座り直すと、小さくため息をつく。
「まあ、いいけどね。私も今のままで誰かに受け入れてもらえるとは思ってないし。いつか大人になれば、私も丸くなっていくわけですよ」
由佳の雰囲気が急に変わって、謎の不安感に胸がざわついた。
もう少し優しい対応をしてやれたかな。
「ただその前に、今の私でちょっと甘えてみたかっただけ。こっちこそ、悪かったわね」
由佳は息苦しそうにしながらそう呟いた。
美優にお仕置きをされたあの一件から何も変わっていないのかと思ってたけど、そんなことはなかったのか。
こうして成長していくのはいいことだし、俺もそれを望んで接してきたはずなのに。
なんだか虚しさというか、寂しさを感じてしまった。
なんか俺、足りてないよな。
由佳に対して。
「で? お兄さんはなんで辛気臭い顔をしてたわけ?」
「ああ、それはだな……」
美優を幸せにする方法がわからない。
そう思って家を飛び出してきたのに、今では俺が何に悩んでいるのかもわからなくなってきた。
俺と美優は両想いになって、俺は間違いなく幸せな人生を手に入れた。
俺は心から美優が好きだし、たとえこの体が美優以外では抜けない体質であっても、好きになるべくして好きになったのだと自信を持って言える。
だとしたら、俺が美優を幸せだと思えない理由は、美優があの体質とは無関係に俺を好きになる可能性がないと思っていること。
この一点に尽きる。
「美優が俺を好きになる要素って何なんだろうなって」
「変なことに悩んでんのね。男を好きになるのに理由が要るの?」
「それは……さすがに要るだろ……?」
「はあ。あんたは女ってものを何もわかってないわ」
なぜこの状況で由佳に呆れられるのか。
人を好きになるのに理由がいるに決まってるだろ。
だから佐知子だって俺の良いところを探してくれたわけだし。
「俺が美優の兄じゃなかったらセックスしようとは思わなかっただろ?」
「そりゃそうよ」
即答で肯定された。
「でもそんなの、私と美優が同じクラスじゃなかったらって例え話をしてるようなもんでしょ。きっかけと中身は別。私は数ある美優の出会いの中で、努力の末に美優の親友の地位を勝ち取ったんだから。あんたも同じじゃないの?」
「それは……どう、なんだろう」
俺は美優に対して、なにか努力をしてやれたかな。
由佳のように、文字通り地べたを這いずり回ってでもしてやれたことがあるなら、俺も美優の男であることを誇れたのかもしれない。
「お兄さんはなんのためにそこまで変わってきたわけ? 最初に会った時よりずいぶん男前になったじゃない。あのままだったら私だってこんなとこまで連れ込んでないんだけど」
そういえば、遥と由佳は俺がダメ男だった頃の姿を知ってるのか。
その上でこんなに信用してもらえてるってのは、少なくとも俺が立派に成長できたことだけは間違いないようだ。
それもぜんぶ、美優にお膳立てしてもらった。
俺はただ、言われたことを守ってただけ。
──だと、思っていた。
由佳にこうして問いただされるまでは。
思い返してみると、美優があれこれ世話を焼いてくれたのは、最初だけなんだよな。
佐知子と付き合ってからは、別に美優にどうしろと言われて変わってきたわけじゃない。
色々とお説教をされてはきたけど、怒らせるっていうのはそもそも、俺が自発的に動かなければ起こり得なかったわけで。
そして、その美優の怒ったタイミングが、どれも親密度が増すきっかけになった。
そうやって最後の最後で美優に許されて、ここまで好かれてきた俺は、俺以外の何者でもなかったわけだ。
俺もこの三ヶ月の間に、色々とやってきたんだな。
「私は美優のことよく知ってるつもりだけど、美優が努力させるのは努力ができるヤツだけよ。美優は基本的に人に無関心だし、無駄に世話焼きなんてしないんだから」
その言葉が、ズシリと胸に響いた。
ああそうだ。
いままでもこうやって気付かされてきた。
美優に初めて「思い込みが激しい」と言われたときも、俺は言葉のナイフを胸に突き立てられたのだと思っていたけど、そうじゃない。
美優はただ、正論を言っていただけ。
その言葉に俺が傷ついたのは、自分が努力してこなかった事実を、自虐で保身し続けていたからに過ぎないんだ。
「なんか、ごめん。それとなんか、ありがとうな」
「なんかなんかって何よ。解決したならちゃんとお礼を言いなさい。あと詫びとしてヤらせなさいよ」
「そこはもうそろそろ譲ってくれ」
せっかくの気分が台無しなんだが。
でもまあ、スッキリした。
結局は、俺の捉え方が悪かっただけなんだ。
美優は優秀で男らしい他人を好きになれず、落ちこぼれの近親者である俺しか好きになれなかったのだから、不幸としか考えようがない──という、この考えの順序が間違っていた。
俺は落ちこぼれなんかじゃなく、立派な男として美優に好かれている。
しかし、美優の体質からすれば、俺が落ちこぼれであるとしか考えられない。
なぜなら、美優は優秀で男らしい他人から告白されると、嫌悪感を抱いてしまう「真逆の生殖本能」を持っているから。
だが、ここには矛盾が存在している。
なぜなら、美優が最も愛している近親者は自分自身であるからだ。
でなければ、鏡に映る自分を見て、その性的な姿に興奮をしたりなんてしない。
では美優が俺以下の落ちこぼれなのかと言えば、それこそありえない話。
そもそも、美優が普段から仲良くしている女の子は、山本さんも含めてみんな優秀で可愛い女の子なわけだし、このベクトルだけは生殖本能云々に対して説明がついていない。
美優の体質が持つ指標は、あくまでも遺伝子が遠いか近いかだけ。
すなわち、矛盾なく存在している事実は「美優は遺伝子が近い者に対して極端に強く性的な興奮を覚え、また逆ならば不快に感じる」ということだけだ。
影響されているのは性欲であって、その他の思考や感情にまでは及んでいない。
一般的には、こうした生殖本能が理想的な番を見つけるために、人間はその相手の人柄に関係なく体の匂いやキスの味を良く感じるようにできているとされている。
そうして、あるいは恋心さえ、遺伝子によって操作されているのだと、とある学者は云った。
だから美優もそうなんだと俺は思い込んでいた。
でも、これは絶対に正しいと立証されたわけではないし、仮にこの説が事実であったとしても、美優の体質までもがこの説に沿っているとは限らない。
もし、生殖本能によって美優の恋心までもが操られているならば、俺にすら興味を持たないはず。
そこに物理的な制約があろうとも、心はもう振るわない。
自分自身という最良のパートナーが最初から存在しているのだから。
だから、逆説的に、美優が人を好きになるのにも嫌いになるのにも、理由が存在するんだ。
美優が優秀で男らしい男に告白されるほど気持ち悪く感じるのは、たしかに事実として存在している。
だがこれは、生殖本能の逆転には無関係の現象。
そう捉えれば、なんだ難しいことはない。
美優は告白されるのが鬱陶しいと嘆いていた。
そのせいでドライな性格になるほどに。
ドライというか、もはや辛辣とすら言えるレベルだ。
そんな強気な態度を取られたら、俺のような男はまず告白はできない。
自分を落ちこぼれだと思っているような、能力的な自信もなくて、かつ無鉄砲に飛び込むだけの甲斐性もない男には、不可能な所業。
であれば、告白に心底ウンザリしている美優にとって、告白される可能性の高い優秀で男らしい男は、もはや敵とすら言っていい。
だから、美優が嫌悪感を抱いたその根源は、むしろ生殖本能より生存本能にある。
俺は自分に自信がなかったから、このベクトルの違いに気づけなかった。
なんというか、アホだよな、俺って。
美優は最初から「私は幸せで、その答えを知っている」って言ってたのに。
美優を不幸にしていたのは、他でもない俺自身だったんだ。
「……マシな顔になったわね」
由佳がつまらなそうに俺を眺めていて、しかしその奥には、慈愛にも似た、優しい表情があった。
「だとしたら、本当に由佳のおかげだよ。心から感謝してる」
由佳に励まされるとは思ってなかったけど。
そういえば昔の話を聞く限りでも、こいつが一番の世話焼きだったな。
「こっちは美優のこと諦めてあげたんだから。ちゃんと幸せにしなさいよ」
「わかってるよ。きちんと幸せにする」
最後まで、一緒に。
辛いことはいくらでもあるだろうけど、二人でなら乗り越えられる。
今ならそう信じられる。
「あーあ。美優にもフラれるし、お兄さんにも相手にされないし。かーえろっと」
「そうするか。代金は俺が……」
と、ようやくこの折檻部屋から抜け出せると思った、矢先のこと。
室内に、小さな振動音が響いた。
音源は俺のスマホのバイブレーション。
先ほどメッセージを送った山本さんからの、返信通知だった。
『ゴメンね、弟たちのお世話してた! 今なら会えるから、うちにおいでー』
という。
俺のスマホの通知画面を。
由佳がガン見していた。
「ちょっと!! 何よコレ!?」
まずい、最悪のタイミングでとんでもない事故が起こってしまった。
「待ってくれ!! 違うんだ、これはそういうのじゃなくて……!」
「そういうのじゃなかったら何なのよ!? こんなときに他の女の家に行くとかサイテーどころじゃないんですけど!!」
由佳は鬼のような形相で俺の通知画面を自らのスマホで連写し、それを手早く美優に送ってから電話を掛け始めた。
強引にでも止めにいきたかったが、どうにも暴力的な解決に気が進まず、俺はどうにか説得を試みる。
「由佳、落ち着け。これはただの相談相手であって。だから、まさに今この状況と同じなんだ」
「同じなわけないわ美優の知らない女でしょだって私は学校の女子の名前くらい全員把握してるんだから私の知らないところで美優とイチャイチャして勝手に両思いになってそれで私は遥からも美優はすごく幸せそうにしてるって聞いて何度も何度も悩んだ末に諦めてあんたのことを認めてやったのに全く与り知らないところで他の女を作ってたなんてそんな仕打ちたとえこの手を血に染めてでも断罪してやるんだから」
ダメだ、完全に血が昇っている。
言い訳をしても火に油を注ぐだけだ。
「美優!! メッセージ見た!? こいつ浮気してる!! あんたのこと裏切っ……えっ!? 知り合い!? 問題ない? 待って待って。美優、ちゃんとメッセージ読んだ? 家に行くって……それも問題ない? 嘘でしょ!? 家に行くってその時点で実質セックスしてることと同じよ? ……ってええッ!? それも問題ない!? ウソッ……ど、どういう、こと……」
由佳の顔が真顔になったり般若面になったりと忙しい。
会話を聞く限りでは、どうにか丸く収まりそうだ。
それからも由佳の美優に対する忠告はいくら釘を刺しても糠を通り抜け、やがて疲れた表情から怒りの一切もなくなっていった。
そうして最後に、由佳は真顔で美優に尋ねる。
「じゃあ、それはいいとして。私もお兄さんとセックスしていい?」
最後の最後まで悪あがきだった。
「今日はダメ? 今日はって何? 意味がわからないんですけど? 今したいんだけど、ダメ? うん。うん……。わかった」
由佳はしょんぼりした顔で、通話を切った。
どうやら美優からも禁止宣言が出たようだが、「今日はダメ」ってどういう意味だったのか、俺もめちゃくちゃ気になるんだけど。
「はあ。もう。意味わかんない。由佳ちゃんは考えるのをやめます」
「それがいいと思うよ」
この瞬間だけは、由佳が普通の女の子に見えた。
「でも、今日の話で一つだけ収穫があったわ」
由佳は思いのほか元気そうだった。
むしろさっきよりツヤのある顔になっている。
「よくわかんないけど、美優が今日はお兄さんとエッチしちゃダメって言ってたから、つまり明日以降ならしてもいいってことになるじゃない?」
「残念なことにそうらしいな」
美優はどういう意図でそれを言ったのか。
それくらいは帰ったら教えて貰おう。
「でもな、それは正確には、俺と美優の二人が合意した場合であって、俺はまだしていいとは言ってないからな」
「ふん。美優の許可さえ下りればチョロいもんよ」
由佳は生意気な顔で俺を見てニヤニヤする。
こいつにだけは絶対に負けない。
「で、大切なのはここからよ」
「なんだ」
俺が由佳とセックスをするという限りなく無駄な仮定に於いてだが、今際の際だし聞いてやろう。
「私としては、そろそろ健全なエッチがしたいわけですよ」
「健全っていうのは?」
「命令とかお仕置きとかじゃなくて、もっとこう、お互いの尊厳を大切にできるような、慎ましやかで愛のあるですね……」
「普通のセックスしたことないの?」
「無いわよ!!」
うんまあ、俺が初めてだったわけだし、美優も遥も由佳とラブラブしてたわけじゃないからな。
「いい? 次にエッチするときは、優しくしてね? 今度レイプしたら、向かいの店のデラックスジャンボパフェを奢らせるから」
「いくらするんだ?」
「3500円」
「たっか!」
まさかサーロインステーキを軽々と超えてくるとは。
「何言ってんの。ドリンクセットにしたら税込み五千円はするんだから」
「飲み物って千円もすんの?」
「うん」
それは手痛い出費だな。
無い仮定とはいえ気をつけなければ。
……レイプしないように気をつけるってなんだ。
「そんじゃそのよくわかんない女のところに行ってらっしゃい。エロいことしてくるんじゃないわよ」
「しないって」
「まあ、由佳ちゃんと一緒にJC乱交ならセッティングしてあげてもいいけど」
「しないから!!」
この倫理観が滅茶苦茶な少女JCたちが、どうかまともな人生を歩んで健やかな家庭を築いていくように。
心の底から深く深くお祈りをして、俺は山本さんに会いに行くのだった。
「ん……?」
あれ?
俺、山本さんに会いに行って。
何を話せばいいんだっけ──。