一組の男女が駅に向かって歩いていた。
比較的人の少ないその土地で、できるだけ道行く歩行者に紛れるように、しかし、その人々を避けるように早歩きで進んでいく。
「とりあえず、ハルマキちゃんの地元でいいかな?」
「そうだね。鈴原くんは終電とか大丈夫?」
「終電なんて気にする時間じゃないよ。バスも使わないから、3時間は余裕がある」
「そっか。まあ、カフェでお茶するだけだし、無用な心配だったね」
ハルマキと呼ばれた少女は、媚びるような笑みで隣の男を見上げる。
日傘とカバンを腕にかけ、もう片方の手で鈴原の腕を掴み、ヒールでちょこちょこと小動物のようについて行く。
二人の目的は、落ち着いたカフェに入ってお喋りをすること、ただそれだけ。
にもかかわらず、とりわけ鈴原には動きの各所に焦りが見られた。
まるで何かから逃れるように、引っ付いてくるハルマキの歩幅を気にかけながらも、前を往く人を次々に追い抜いていく。
「ハルマキちゃん、そろそろ着くからICカード出しておいて」
「うん、大丈夫。いつもここに入れてあるから……」
二人は歩きながらもカバンを弄る。
「あ、あれ……?」
ハルマキがいつまで経ってもカバンから手を抜こうとしなかった。
どうやらICカードが見つからないようで、ハルマキは道端にしゃがみ込むと、カバンの中を覗いて漁り始めた。
「嘘……でしょ……!」
瞠目し、身の震えすら見て取れるほどに、ハルマキは動揺する。
「失くしたのか? 服のポケットとかは?」
「どうして……スマホがないの……どこにも……!! どうして!? 私、絶対にここに入れてるのに!!」
ハルマキの焦りようは尋常ではなかった。
絶対にあると確信していたものがなかったショックとは別に、スマホが無くなっていることそのものへの、脅迫的な怯えがそこにはあった。
「お店を出るときには確認したんだよ!? それなのにどうして無くなってるの!?」
「お、落ち着いて、ハルマキちゃん。まずはお店に電話して確保してもらおう」
たしかに、この二人には焦りがあった。
つい先ほどまで参加していたゲームオフ会のメンバーに気づかれないよう、急いで抜け出してきたからだ。
だが、ゲーマーであるハルマキにとって、スマホを紛失するなどあってはならないこと。
だからジッパーをしっかりと閉じてカバンに仕舞っておいた。
店を出る前にはそこにあることを確実にチェックしていた。
カバンに穴でも空いていなければ、無くなることなんてありえないはず。
それなのに、どこを探してもスマホが見つからない。
「戻らなきゃ……いますぐ、お店に……!」
「待って! ハルマキちゃん!」
ハルマキは鈴原の制止を振り切って走り出した。
せっかく距離を取ったというのに、下手をすれば駅に向かっているメンバーと鉢合わせしてしまう。
先ほどまで脚の高いヒールで頼りなく歩いていたハルマキが、まるで別人のように猛スピードで遠ざかっていく。
鈴原も急いで後を追いかけるが、さすがのハルマキにもまだ理性が残っていたようで、できるだけ人の少ない道を通っていくため無理に追いつこうとはしなかった。
そうして戻ってきたお店に、ハルマキは迷うことなく入っていった。
鈴原が後に続いて店に入ると、息を切らして身だしなみも気にせず店員と話すハルマキの姿があった。
その表情は明るくない。
どうやらお店に落し物はなかったようだ。
ともすれば、考えられる可能性は2つ。
気づかぬ間にカバンから盗まれたか。
お店で落としたものを誰かが横領したか。
「鈴原くん! 私のスマホに電話して! 色々と勘違いしててもっと意外な場所にあるのかもしれないし……!」
店を出てすぐ、ハルマキは鈴原に頼み込んだ。
ハルマキはどこまでも必死だった。
鈴原もその勢いに飲まれて、電源を切ってあったスマホを取り出した。
しかし、それももはや意味のない行為だった。
「おう、やっぱりここに居たじゃねえか。戻ってくると思ったぜ」
二人の背後から近づいてくる、一人の男がいた。
横にも縦にも幅のある偉丈夫で、スマホを片手に歩いてくる。
「く、黒澤さん……!」
鈴原は黒澤を見て、咄嗟にハルマキの腕を掴んで逃げ出そうとした。
しかし、当のハルマキはそれを拒んで動こうとしない。
「おっと、逃げない方がいいぜ。横の女のためにもよ」
黒澤は下卑た笑みを浮かべてハルマキに視線を移す。
黒澤が手にしているスマホはハルマキのものだった。
それがわかっているからこそ、ハルマキも鈴原の牽引を無視して留まっている。
「返して……!」
「ああ? 返してほしいのか? そりゃあそうだよなぁ。こんなヤバい動画が大量に入ったスマホ、他人の手に渡ったら困るもんなぁ」
黒澤のその言葉に、ハルマキの顔は青ざめた。
なぜ所有者でない黒澤が中身を知っているのか。
それはもちろん、パスワードを盗み見られたからに他ならない。
黒澤はオフ会の際、しつこいくらいにハルマキの横を陣取ってきた。
このようなことになるとは思っていなかったハルマキは、スマホをイジるときにパスワードを見られないようにはしつつも、完璧に隠すまでのことはしなかった。
「はっきり言っておく。逃げても騒いでも、こっそり通報したとしても、ハルマキの人生は終わるからな。そこんとこよく理解した上でついてこい」
黒澤の忠告に、ハルマキからのアイコンタクトを受信した鈴原は大人しく従った。
これまでのハルマキの反応を見るに、あのスマホを握られている時点でどうにもならない状況だということがわかったからだ。
2人が連れていかれたのはランニングに使える程度の広さがある公園だった。
ホテル街からそう離れているわけではないが、この時間に人が通ることはまずない場所。
「さて、鈴原よぉ、おめえはハルマキと二人でどこに行こうとしてたんだ?」
黒澤が最初に詰問を始めたのは鈴原に対してだった。
この二人の間では、黒澤がハルマキをラブホテルに連れ込むことが事前に意識合わせされていたのだ。
だが鈴原はそんな約束を反故にし、オフ会が終了した直後にハルマキを連れて抜け出した。
「それは、ハルマキちゃんが困ってることがあるって言うから、相談に乗ってあげようと思って」
「それなら俺がいても構わねぇだろ? 三人寄ればなんとやらって言うじゃねえか」
「ハルマキちゃんはこう見えて人見知りだから……」
「人見知りだぁ!? ぶははっ……こいつは滑稽だなぁおい」
黒澤はハルマキのスマホのロックをこともなげに開け、中のフォルダを漁り始めた。
それを見て、黒澤の次の行動を予期したハルマキが、身を乗り出して掠れ声で叫ぶ。
「や、やめて……!」
それはハルマキにとって最悪の展開。
いや、この先がどう転ぼうと、バッドエンドしか残されていないのだが。
何かに縋りたかった。
何かを否定したかった。
自分の人生が詰んでいることなど、そう簡単に認められるわけがなかった。
「なあ鈴原よぉ、俺がなんでここにお前を連れてきたかわかるか? 試されてるのはお前なんだよ。ハルマキとヤりてぇんだろ? 正直にそう言えば、お前にも回してやるぜ? 3人以上で入れるホテルを知ってんだわ」
黒澤は高い目線から鈴原を値踏みする。
このまま大人しく従えば、鈴原はおそらく助かるだろう。
だが、黒澤の悪趣味な命令に従わされることは想像に難くない。
何よりもハルマキが犯される運命は変わらないのだ。
それは、鈴原の胸に芽生えてしまったその感情にとって、絶対に認められない選択だった。
「お、俺はハルマキちゃんが好きなんだ! 黒澤さんには渡せない!」
鈴原は思いの丈を吐き出した。
その言葉に、ハルマキは目を丸くし、黒澤はニヤリと笑った。
「よく言えたじゃねえか。なら、こいつを見ても同じことが言えるかな?」
黒澤はハルマキのスマホの画面を鈴原に向ける。
「や、やだ! やめてください! それだけは見せないで……!!」
ハルマキは鈴原の腕を掴んだまま、ただ懇願することしかできなかった。
そんな願いを黒澤が聞き入れるはずもなく、晒される、ハルマキの黒い過去。
乱交の現場だった。
それも、脅されて撮ったものではない。
ハルマキが複数の男を相手に、楽しげに性行為に及んでいる姿が映されていたのだ。
相手は親世代ほど歳の離れた大人たち。
その欲望を一身に受けるハルマキは高校の制服を着ていて、これが世に晒されればハルマキの個人情報は即座に特定されてしまう。
「なっ……!」
鈴原は声を詰まらせた。
自分の背後で怯えている少女が──この短い間で恋をするほど惹かれてしまった女の子が、見知らぬ男たちのペニスを何本も咥えていたという事実に。
「これは……あのっ……」
ハルマキも否定の言葉を口にできなかった。
ただ強く鈴原の腕にしがみついて、捨てないでと祈るように額を擦り付けているだけ。
「わかるゼェ、お前、このオヤジどもから金をもらってたんだろ? でも何か不都合があってお前は切り捨てられた。自分では、自分から見限ったんだと思い込んでたんだろうが……ダメなんだよなぁ、そういう止め方は。抜け出せなくなるんだよ。金もセックスも、欲しくてたまらなくなる。だからこんなヤバいもんを残し続けてたんだろ?」
若いうちからセックスで金を荒稼ぎしていたハルマキは、その繋がりがなくなってから虚しさを埋めるようにゲームや課金に依存した。
そして、やがては金も刺激も足りなくなり、オフ会で見知らぬ男たちに関係を迫っては金を要求し続けた。
ハルマキには幼少の頃からスキンシップに抵抗がなかった。
少しだけ性に寛容なだけなのだと、ハルマキは思っていたのだが。
最初に手を出した先が悪かった。
まだ身も心も未熟だったハルマキは、財布と貞操観念の緩い大人たちに唆されて、ずるずると淫らな世界へと沈み込んでしまった。
「違う……私は……もうそんなこと……」
「違かねぇだろうが。お前はセックスするために生まれてきたオナホ女なんだよ。なに、心配すんな。俺が新しいパトロンになってやるよ。前のオヤジたちと違って、くれてやるのは精液だけだがな」
黒澤はハルマキの腕をつかみ、鈴原の背後から引きずり出そうとする。
目の前でそのやり取りを見ていた鈴原は、すぐには動き出せなかった。
恐怖も驚きも、そのどちらもが大きすぎて、何が正しいのかが判断できない。
ただ、それでも、黒澤に腕を引っ張られているハルマキが、微かな希望と共に視線を向けていることに気づいて。
損得の勘定などは、その瞬間にすっ飛んだ。
「は、ハルマキちゃんを放せ!」
叫んだと呼べるような、力のある声ではなかった。
それでも、それは音となって、たしかに黒澤の耳に届いた。
大人しくしていれば見逃してもらえたのに。
その安全地帯から足を踏み出した鈴原には、黒澤からの鋭い眼が向けられている。
「俺はあんたが、下ネタが好きなだけの、頼れる先輩だと思ってた。でも、これはいくらなんでもやりすぎだろ! 脅して、無理やりとか、そういう話は聞いてない……」
鈴原が話している間、黒澤はスマホをチラつかせてハルマキに釘を刺してから、ゆっくりと歩いて近づいてきた。
そして、黒澤は無言のまま、容赦なくその拳を鈴原の腹部に見舞った。
鈴原は声を上げることも出来ずに膝をつき、細くなった呼吸を必死につないでどうにか意識を保つ。
「そりゃお前が知ろうとしなかっただけだろ。お前とは卒業してからたまに会うぐらいの仲でしかなかったけどよ。別に俺は今日変わったわけじゃない。お前が、知らなかった。ただそれだけだ」
黒澤はその言葉を吐き捨てて、再び公園を去ろうとする。
だが、鈴原も意地で腕を伸ばし、黒澤の足首を掴んで止めにかかった。
「おいおい、こんなクソビッチのためにマジかよ? さっきの動画はちゃんと見てたのか? 金のために親父と同じ歳の男と何人もヤリまくった女なんだぜ? こんなくたびれた肉穴が、今更人並みの恋愛なんてできるわけねぇだろうがッ!!」
手を踏みつけ、顔面を蹴り飛ばし、鈴原をゴミのように捨て去っていく黒澤。
その足には、まだ鈴原の手が掛けられている。
ハルマキは喜ぶことも悲しむこともできなかった。
この状況を生み出した原因は、誰にも知られたくなかったハルマキの過去。
それを黒澤に握られているのだから、鈴原の行為にはなんの意味もないのに。
何度蹴られても鈴原は腕を伸ばした。
やがて、黒澤は大きなため息をつき、鈴原を痛めつけることをやめる。
「そうか、そんなにこの女が好きかよ。なら……」
黒澤はハルマキを連れ去ることをやめた。
その代わりに、ハルマキを地面に突き倒すと、そのままパンツを奪い去って自らもズボンのベルトを外した。
「キャッ……痛ッ……! やだ……やめて……!!」
「まずここで一発中出ししてやるよぉ、鈴原ぁ」
体が折れないなら、心を折る。
這いずって足を掴むことしかできない鈴原には、もうそれを止められるだけの力は残っていなかった。
頭の中でいくら「動け」と命令しても、指先を動かすことすらできず、意識を保っているのがやっと。
「さて、ヤるか」
黒澤も乱交に慣れているのか、勃起したペニスを人前に晒すことに躊躇はなかった。
むしろ、そのいきり立ったイチモツを見せつけるように、黒澤はハルマキの向きを変え、強引に股を開かせる。
「やめて……痛いことしないで……挿れないで……!」
ハルマキは抵抗をするものの、大声で叫ぶことはできなかった。
秘密を握られたまま逃げられるわけにはいかないこともあるが、なによりも単純に、恐怖が身体中の力を奪い去っていた。
そんなハルマキの懇願などは当然受け入れられるわけがなく、黒澤は正常位で覆い被さり、ハルマキの腰を持ち上げ、お互いの性器が触れるスレスレまで肉棒を近づける。
「よぉく見とけよ。惚れた女が目の前で犯されるなんて貴重な体験だぜ?」
白む視界の向こうで、鈴原は絶望に染まっていくハルマキの顔を、ただ見ていることしかできなかった。
ハルマキが過去に行っていた援交は、非合法で非倫理的な行為だったとはいえ、お互いに合意のもとセーフティに行われていた。
精液を膣内に直接、しかも強引に注がれることは、これまでの経験にはなかったもの。
決して受け入れられない人生の最悪。
暴れれば動かなくなるまで殴られる。
助けが来ても黒澤に逃げられて秘密を晒される。
抵抗しても地獄。
叫んでも地獄。
諦めても、どうしようもなく地獄。
鈴原の体はもう動かない。
目の前でそんな絶望が迫っていても、いつも眺めているアニメのように、特別な力などは湧いてこなかった。
──しかし、奇跡というものは確かに存在した。
一人の少女が犯されそうになっている光景。
それを映す鈴原の視界の端で。
傍らに落ちていたハルマキの日傘が宙に浮いた。
そして、その先端はゴルフスイングのような弧を描き、黒澤の金玉を強く叩いたのだ。
「あぐぉぁッ────!?」
突如として訪れた尋常ではない痛みに、黒澤の呼吸は数秒停止し、自分が襲われたのだと黒澤が自覚したのは二撃目が股間を外れて内股を叩いた後だった。
膝までズボンを下ろしていた黒澤が即座に臨戦態勢になれるはずもなく、黒澤はその後も続けざまに股ぐらを殴打され、犬の泣くような情けない叫び声を上げた。
「だ、だれだぁあ!! ざけんじゃねえええ!!」
痛みだけで気絶してしまいそうなほどフラフラとした意識の中、黒澤は暗闇を手探りするようにしてなんとかズボンを手で掴み、膝を伸ばしながら一気に腰まで持ち上げようとする。
が、半脱ぎ状態だったズボンはなぜかガッチリと固定されていて、バランスを崩した黒澤は自らの力の勢いによって地面に倒れ込んでしまった。
「ごはっ……!? な、なにぃ……ッ!?」
気づけばズボンには、腰から裾までを貫くように日傘が差し込まれていた。
黒澤がズボンを上げるのと同時に、襲撃者は日傘の柄を踏みつけ、ズボンを穿こうとする力を封じていたのである。
黒澤は正面から地面にダイブし、勃起したペニスが土と擦れて、激しい痛みに顔をぐしゃっと歪ませた。
しかし、真の痛みが待っていたのはこの後だった。
ペニスの痛みを嫌がり、地面から腰を引いてしまった黒澤の体勢は、うつ伏せと四つん這いの中間の体勢になっていて。
股間にブランと垂れ下がる黒澤の睾丸。
その丸出しの急所に、襲撃者のつま先が、力いっぱいに振り下ろされたのである。
「あああぁぁぁぁあああああああああああああ!!」
喉が裂けるほどの悲鳴が、公園中に響き渡った。
全身の穴という穴から汗が吹き出して、平衡感覚すら失った黒澤は、霞む視界だけを頼りにして周囲に腕を振り回す。
襲撃者も黒澤の反撃を恐れているのか、不用意な追撃をしてくることもなく、しばらくして冴えてきた頭で黒澤はようやく膝立ちで拳を構えることができた。
「ぢぐしょう……!! いでぇぇぇええ!! ころす!! ころしてやるぅ!!」
黒澤は芯のない声で叫びながら、涙で霞む視界の先にいる襲撃者を睨みつけた。
膝はガクガクして覚束ないが、空手の有段者である黒澤なら、腕さえ動けば大抵の攻撃には対処できる。
徐々に晴れてきた黒澤の視野が捉えたのは、非力そうな女の子ただ一人だった。
オフ会のメンバーではない。
あるいは鈴原の友人であるソトミチという男なら、黒澤を襲撃する動機は十分に存在したが、過去のどの記憶を探してもその少女と黒澤には接点がなかった。
そう。
黒澤にとっては無関係の少女。
しかし、この事態にとっては全く無縁の人物というわけでもなかった。
ハルマキはその少女のことを知っていたのである。
「うそっ……! 由佳、ちゃん……?」
黒澤にレイプされかけた混乱からようやく覚めたハルマキが、小さく声を溢した。
由佳はオフ会の参加者ではなかったが、共に参加していたソトミチの妹の友人で、ハルマキにとってはちょっとした因縁のある知り合いだ。
それでも、今日の昼間が初対面で、決して友好的な関係を築けたわけでもなかったのに。
なぜこんな危険を冒してまで助けてくれるのか。
ハルマキには理解できなかった。
「クソっ……舐めやがって。餓鬼じゃねえか。こいつぁ大人の躾けってやつをしてやらなきゃあならねぇな!」
黒澤は由佳が距離を取ったまま追撃してこないことを確信すると、脅し文句を口にしながら日傘を抜き捨ててズボンを上げた。
由佳も次の手に困っているようで、この先はもう黒澤が一方的に嬲り犯すしかない。
そんな終わりを、誰もが予見した。
結局は、これほどガタイ差のある男をどうにかできるはずもなく。
自分のせいで被害者が増えるだけなのだと、ハルマキはただ嘆くことしかできなかった。
しかし、それは確かに奇跡だったのだ。
ズボンを腰まで引き上げ黒澤が、股下をフィットさせようとわずかに上体を下げた瞬間のことだった。
この女どもをどう犯してやろうかと、復讐の怒りに燃えていた黒澤の思考は、突如としてプツンと途切れた。
黒澤の頭部を凄まじい衝撃が襲い、黒澤は何をされたのかもわからぬうちに地面に沈んだのだ。
ぐらりと揺れた脳は軽い脳震盪を起こし、ごくわずかの間だが黒澤の意識を奪い去った。
すぐさま反撃に転じなければならないはずの黒澤は、まず自分がどのような状態になっているのかさえ把握できず、混乱したまま地面に横たわっている。
「ぜぇ……はぁ……もう、私は走るのだけは嫌いって言ったよね」
それは第二の襲撃者だった。
由佳と同年代の女の子で、その口ぶりからしてお互いに顔見知りであることがわかる。
黒澤の意識ごと首を刈り取ったのは、この少女が躊躇いもなく全体重を乗せた飛び蹴りだった。
「そんな無駄なもんつけてるのが悪いんでしょ」
由佳は黒澤にトドメを刺した少女の、その凶悪なバストサイズに嫌味を付ける。
とはいっても、自分の胸の平旦さがコンプレックスであるわけではないらしく、全体的にスラッとした自らの体のラインを誇らしげにしながら少女に近づいていった。
「こんな無駄なもの好きでつけてるわけじゃないから」
翻って第二襲撃者の少女は自らの胸に強いコンプレックスを抱いているようだった。
ずいぶんと立派なものを蓄えているのにもったいない限りだが、女としての武器は特に必要としていないらしい。
そんなものがなくても十分に人を惹き付けるだけの美しい容姿をしているため、女らしいスタイル以上に発達したセックスアピールは事実としてデメリットの方が大きいのだろう。
「うっ……なに……がぁ……」
黒澤は意識を朦朧とさせて倒れたままになっていた。
もはや股間の痛みに悲鳴を上げる力すら残っていないようだ。
「美優のおっぱいの重さで沈んだわね」
「なんでも私のおっぱいのせいにするのやめて」
そこからの手際は鮮やかなものだった。
由佳は黒澤の服から2つのスマホを抜き取り、美優と呼ばれた少女はカバンから腕用の拘束具を取り出す。
拘束具の方は高級店のSMプレイにも使えそうな上等なものだった。
およそ通りがかりの中学生が持っていていいような代物ではないのだが、なぜだか都合よく用意されていたそれを黒澤に装着し、残りをすでに通報済みだった警察に任せることにした。
「こいつ金玉メタクソに蹴り飛ばしたのにまだ勃ってるんだけど。ウケる。ケツにバイブでも突っ込んどく?」
「無駄に道具をダメにするんじゃないの。腕のやつだって私が買い直して遥に返すんだから」
およそ倫理観の欠片もない会話が繰り広げられている他所で、ハルマキは知らずのうちに救われていた。
目の前には二人組の中学生と、拘束されたレイプ犯、そして、傷だらけの男──金をせびるためのカモにしようと思っていた男がいて、ハルマキ自身は軽い擦り傷を負った程度でいられている。
脅しのネタにされていたスマホも、この少女たちが取り戻してくれた。
そもそも、なぜこの二人がハルマキが脅されていたことを知っているのかはわからないのだが、とにかく事情を把握した上で、彼女たちは最良の形で事件を終わらせてくれたのだ。
「あ……あり……がとう……」
ハルマキは枯れ声で、おそらく二人に届いていないであろうその言葉を口にした。
由佳たちのおかげで無事でいられているのだから、感謝しなければならないのは間違いない。
しかし、ハルマキの胸中には迷いがあった。
自らの過ちを顧みたとき、なんとなくだがこの二人に感謝の言葉を伝えるのは順序が違うと、そう思ってしまったのだ。
「鈴原くん…………ごめんなさい……。それと……あの……ありがとう……」
鈴原はもう気を失っていて、救急車が到着次第、検査のために病院へと運ばれていく。
結局はまだ、ただの他人。
何の関係も持たなかった利益の無い男だが、ハルマキはこの男から何かを得られた気がした。
自分がやっていることは、風俗やAVで頑張って働いている人たちと変わりがないのだと思っていた。
ハルマキとセックスしたどの男たちも喜んでいたし、妥当な仕事と報酬だったのだと、自分に言い聞かせてきて。
いざ大人になってみると、それがとんでもない過ちだとわかった。
誰に直接諭されたわけでもない。
ただ、金のために複数の男と関係を持ったことは、決して人に言ってはならないことなのだと、世間からの遠回しの圧力を受けて脅迫的に自分を戒めるようになった。
中途半端に割り切った援交を繰り返しながら。
まるで意味のない自戒を。
黒澤の邪推はそれほど間違ってはいなかった。
男と乱交していた動画を残していた理由は、かつての自分を思い出すと、なぜか少しだけ楽になれたからだ。
あるいは、オフ会で男たちを誑かしていたのは、何をしてもどこか埋められない寂しさを、その寂しさから来るストレスを、自傷することで誤魔化していたのかもしれない。
しかし、その寂しさがどこから生まれてくるものなのかを、ハルマキは知らなかった。
悪事を働いていたつもりはなかった。
最初に『パパ』と『女』として付き合った男たちは、少なくとも体の関係にあった頃はとても優しくしてくれていたし、好きなカフェやテーマパークにも連れて行ってもらって、それは友達が彼氏としていることと同じなのだと本気で信じていた。
そんな自分を。
純粋に自分だった自分を、今は消している。
自分がたしかにそこにいたはずの数年間を、存在しなかったことにして。
誰にも言わず、誰にも見つからないように、そっと仕舞っていた。
でも、それでも。
だからこそ。
今もこうして、ハルマキは誰も自分を知らない世界で、男たちから体で金を出させている。
「私は……そうなんだ。自分でも、気づかなかった」
もう、援交はこれっきりにしよう。
お金はいっぱい欲しい。
エッチもたくさんする。
普通に仕事をして、人並みに彼氏を作って。
そのどちらを求めているのも、かつて悪いことをしてしまった、その過去から今に続いている他の誰でもない自分だ。
そのかつてと違うのは、少し大人になったということだけ。
貞操観念というものも知ったし、善悪の分別もついてきた。
気付けば地に足は着いている。
「さて、別にあんたたちを助けるつもりで助けたわけじゃないんだけど、事実として救ってあげたんだから礼はしなさいよね」
由佳は地面に座り込んだままのハルマキの前に仁王立ちし、微塵も悪びれることなく恩を着せてくる。
「うん……ありがとうね。お礼は考えておくよ、由佳ちゃん」
助けてもらったから礼をする。
それは当然だと思いながらも、ハルマキはどこか困惑していた。
何をすればいいのかわからなかったからだ。
いや、感謝の気持ちなんて、自分で考えて示せばいいだけなのだが。
この由佳という少女が着せてくる恩が、まるで何かを求めている気がしなかった。
「そこに転がってる男にもよ。セックスが好きならヤらせてあげなさいよ」
「えっ……ああ、そうだね。考えとく」
ハルマキは苦笑いだったが、口角はいつもより疲れなかった。
こんなデリカシーの欠片もない悪態をつく少女を、ハルマキはほんの少しだけ、だからこそ、好きになったようだった。
「由佳。警察の人が来たから、もうお兄ちゃんと合流して帰るよ」
美優は駆けつけてきた警官に軽く経緯を説明し、後のことは大人たちに任せた。
事情聴取を受けるにしても、当事者はあくまでオフ会をしていた三人だ。
美優たちは年齢の都合で、補導される場所と時間になっていることは少なからず問題にされたが、そこは美優の兄が迎えに来ることで見逃されることになった。
兄が着いたのは、粗方の事務手続きが終わり、救急車が到着したのとほぼ同時刻だった。
「お前らな、店に行った時点で見つけてたならそこで連絡しろって。二人とも無事でよかったけど……」
美優の兄はどこも無難にまとまった、なにとも形容し難い風体の男だったが、どこか『悪くない』と感じさせる好青年だった。
「ハルマキさんを見つけたのは由佳。私は由佳を追いかけるだけで精一杯だったんだから」
「そゆこと。私は通報しながらハルっちのことをつけてたんだけど、警察が来る前にヤバいことになったから止むなく出てっただけ。なんか男に逃げられるとマズそうだったからめっちゃ大事おおごとに言っといたわ」
「どうりで警官が4人もいたわけだな……」
兄が駆けつけた時には事態はほとんど収束していたが、ただの喧嘩騒ぎにしては警察の対応がやや過敏だったようだった。
「なんにしても、もう危ないことはするなよ?」
「そもそもお兄ちゃんが首を突っ込んでなきゃ私も助ける気なんてなかったんだけど」
「私は美優とお兄さんがあいつらを助けるっていうから手伝ってやったまでよ」
保護者代理の兄と、妹たち。
分が悪いのはどうやら兄の方だった。
「……え、俺のせい?」
「そうだよ?」
「反省しなさいよね!」
「すみませんでした……」
そもそも、この二人がハルマキたちを助けたのは、兄が一人で問題解決しようと飛び出したのが原因だった。
気紛れでも遊び感覚でもない。
美優と由佳はそれぞれに、鈴原と同じ運命を辿っていたかもしれない兄を心配して動いたのだ。
そうさせたのが自分だと理解した兄は、頭を抱えて深く深く反省した。
「なんにしてもお兄ちゃんもお疲れ様だったね。ここまで走ってきて大変だったでしょ。さっさと帰ってシャワー浴びよ」
「ちょいちょい待ちなさい。私、お兄さんにはだいぶ“徳”を積んでいるんですけれども? パフェを奢るのは前提として、とーぜんご褒美があるはずよね?」
由佳は兄に飛びついて、美優を横目で睨んだ。
「今回ばかりは私の筋が通ってる」と無言の圧力をかける。
端からそのつもりだった美優は殊更に反論をすることもなく……というわけにもいかなかったようで、「エッチ以上のスキンシップを許した覚えはないけど」と謎の言葉とともに由佳を引き剥がした。
「帰りの電車で決めるよ。とりあえずの候補日は三日後とかになるけど」
「じゃあ三日後で!! 一日空けときなさいよ!!」
「お、おう」
由佳が勢いのままに畳み掛け、即座に予定は決められた。
兄も口を挟む余地すらなかったが、悩む時間が無くなっただけ建設的だったとも言える。
鈴原の搬送先は教えては貰えなかったが、救急隊員の見立てではそう何日も入院するほどの怪我ではないらしい。
連絡が来たら見舞いに行けばいいと、兄はひとまずこの少女たちを家に帰すことを最優先にして帰路についた。
賑やかな三人組が、公園を去っていく中。
兄のポケットにしまわれていたスマホのバイブが、人知れずに鳴った。
ディスプレイの電源がオンになり、密閉されたその空間で発光していたのは、一通のメッセージだった。
『大事な話があるので、明日、時間をください』