由佳とのデートの待ち合わせ場所は駅の改札前だった。
朝早くの時間を指定された俺は、まだ閑散としたその場所で約束の人を探す。
何をするかは聞いていない。
集合する時間と場所と、それなりのオシャレをしてくることを指示され、俺は命じられるがままにそれなりの身だしなみを整えて家を出てきた。
とはいえ、夏場なのでどうしたって薄着にはなるし、そこそこ上等なポロシャツを着てきたこと以外は普段と変わりなかった。
強いて頑張ったことといえば、美優の助言をもらって自分で眉毛と髪を整えてきたことぐらいか。
『券売機のすぐ横で待ってる』
由佳からメッセージを受け取ってそちらに向かうと、一人の女の子が目に入った。
淡い水色のワンピースに、毛束を分けて巻いたツインテールを下げて、姿勢良くポーチを抱えて立っている。
どこから見ても淑女然としているその姿に、俺は思わず誰と待ち合わせをしていたのか忘れそうになった。
「おはよう」
おそらく由佳であろうその人物に、俺は自信半分に声をかけた。
いつもより色の濃い唇と、長い睫毛。
ヒールのおかげでさらに伸びた背丈に、いつもは感じない大人の色気があって。
このとき俺は、素直にこいつを可愛いと思ってしまった。
「なにぼーっと見てんの」
「あ、いや。待たせて悪いと思って」
「別にそんなに待ってないけど」
由佳はどこか緊張した面持ちで、ポーチから乗車券代わりの電子カードを取り出す。
これまで全ての告白に失敗してきたとのことだが、デートをしたことはあるのだろうか。
「んじゃ行くわよ」
「行くってどこに?」
「どこって──」
改札に向かおうとしていた由佳が、立ち止まって振り返る。
「遊園地に決まってるでしょ」
そんな風に断定されても、俺は今日の予定の一片も聞いてないんだが。
「予定が決まってるなら、ひとまず安心したよ。俺は金だけ用意があればいいんだよな?」
「お兄さんは身ひとつあればいいの。あとは私に任せなさい」
由佳はいつもより控えめな声で、しかし断定的にそう答える。
一応は俺に何も教えていないことを前提で考えてくれているみたいだ。
しかし、遊園地ってアトラクションを何度も行き来する場所なのに、踵の高い靴を履いてくるのはどうなのだろうか。
由佳も由佳なりにお洒落を頑張った結果みたいだからダメと言うつもりはないけど。
「足が痛くなったらすぐに言えよ」
由佳がまた改札に向かって歩き始めたので、俺は早足で横に並んだ。
「平気だって。今日のために歩く練習してきたんだから」
由佳はムスッとしながらも、どこか気恥ずかしそうにして駅のホームへと歩き出した。
学生にとっては休日の今日も、社会人たちは出勤のために朝から電車に乗る。
俺たちはスーツの男たちに囲まれながら、地元では比較的有名な遊園地へと電車で揺られていった。
「そうやって髪を巻くのは流行りなのか? 美優も遥もよくやるよな」
一緒に出掛けた回数はまだそう多いわけではないが、美優も遥もオシャレをするときはよく髪を巻いている印象が強い。
あの二人はロリコスが趣味だから、ゆる甘な髪型を好んでいるだけとも考えられるけど。
「美優も遥もしてるんだから、お兄さんもこっちのほうが好きなわけでしょ」
由佳は愛嬌のない顔で巻いた髪をクルクルと弄る。
俺の好みに合わせたのか。
好意を感じるのに微妙に嬉しくないのは、いつもの真っ直ぐ伸ばしたツインテールを俺が好きになってるからかな。
「まあ、その髪型も似合ってるよ。服にも良く合ってる」
「はいはい。そうやって女の子を誑かしてるわけね」
なおも髪をいじりながら、由佳は窓の外に目を向ける。
可愛げがないのは元からなので、それほどイラッとはこない。
とはいえ、ここまで褒め言葉を素直に受け取らないやつだったかな。
「──っと」
停止信号を受信した電車が急な減速をして、吊り革を掴み損ねた由佳は手を落ち着ける場所がなく俺に掴みかかってきた。
それなりの衝撃はあったものの、細身で無駄な肉がない由佳の体は身構えていたよりずっと軽かった。
「あ、ありがと。思ったより力あるのね」
「バイトは力仕事だったし、筋トレもしてたからな」
そして、それ以上に最近は、体力を使うことが多かった。
まともに鍛えている奴らほどではないしても、以前に比べればだいぶ力がついたほうだ。
「そう」
由佳は電車が平常速度で動き出しても、しばらくは俺にひっついたまま静かにしていた。
慣れないヒールで足元を不安定にしていたので、俺としても無理されるよりは掴んでもらってたほうが安心する。
とても静かな時間だった。
停車する電車のドアから人が出入りするたびに、俺が由佳を引っ張って移動すると、由佳は俺に促されるがままについてくる。
文句を言うどころかお喋りすらなくて、俺たちは遊園地の最寄り駅に着くまでずっとそうしていた。
さて、もうここまで来たら、いい加減にコイツを心配してもいい頃合いだろう。
由佳はこんなにお淑やかな性格では決してないし、いつかは俺も由佳にこうあってほしいと思ったけど、今ではあの破天荒さが好きになってしまっているからこのままでは困るのだ。
駅から入園口に向かう道中で、長い脚のわりに短い歩幅の由佳にペースを合わせながら、俺はこの状況の分析に頭をフル回転させていた。
ダサい気がしてなかなか人には言えないことだが、我々非モテ男子──俺の場合は過去形になりつつあるが──は女の子と仲良くお話するためのテクニックなどを、怪しいメルマガに登録したりして調べることも多い。
その中にはこうして女の子が黙り込んでしまったときの対処法なども書いてあったりする。
「由佳はどんなアトラクションに行きたいんだ?」
話の切り出しは前向きに。
これからのデートを楽しみにしている前提で話を進める。
「人気の乗り物から回るつもり。待ち時間が少ない所はご飯までの調整とかに使えるし」
由佳は山本さんみたいに大胆なスキンシップをしてこようとはせず、微妙に間の空いた距離を保ちながら、前だけを見て話をする。
顔色は良いし、元気そうではある。
であれば、体調が悪いのかと聞いてはならない。
いわゆる女の子の日か聞くなんてもってのほかだ。
何か不機嫌にさせることでもしてしまったのかと尋ねることも悪手。
「嫌だったらデートなんてしないから!」と逆に女の子を怒らせる要因になってしまう。
これらがなぜダメなのかといえば、結果的にはどちらも相手に非があると言っていることになるからだ。
故に、確証が持てるまでは気にせず接するのが正解。
さりげなく休憩を多めに取っておくぐらいがベストな選択肢なのだ。
「で、由佳はどうしてそんなに静かなんだ」
俺と由佳は恋人同士でもなければ、付き合うためにデートをしているわけでもないので、気になったことはストレートに聞く。
先ほどまで述べたあれこれは真剣に交際を考えている人たちのためのテクニックであって、すでに恋人のいる俺からすれば知ったことではない。
「慎ましやかって言いなさい。……デートなんだから、こう、雰囲気は大事でしょ」
節々に本性が見えつつも、やはり由佳はデートらしい振る舞いを意識しているようだ。
恋人らしいエッチを熱望している由佳にとって、これは道理に適った姿ではある。
「由佳の好きにさせるつもりで来てるから構わないけどさ。本音を言えば、俺はいつもの由佳とデートがしたいよ」
仮にこのままの雰囲気でデートを続けて、エッチを始めたとしても、それは由佳としているとは言えない気がする。
結果的に欲しい物が得られたとして、由佳もどこかで後悔してしまうのではないだろうか。
俺もずっと由佳に付き合ってやれるわけではないし、いつかは由佳も別の誰かに恋人らしいセックスを求めるのだ。
これだけの容姿でありながら告白にすべて失敗するような由佳が、簡単にラブラブな関係を手に入れられるとは思わないし、迷走の果てに若い体を欲しがるだけの男をとっかえひっかえすることにもなりかねない。
そんなことを繰り返していたら、昔のハルマキさんの二の舞だ。
「みんなそうやって言うんだから。どこが気に入らないってのよ」
由佳は拳を内向きに腰に当てて俺を睨みつける。
「デートの準備もするし、お洒落もするし、お淑やかで理想的じゃないの」
「本筋に答える前に理想的な女の子とやらについて突っ込んでおくが、美優と山本さんを知っている俺にその言葉のハードルは高いぞ」
「うぐっ……残酷なほど返す言葉がないわね……!」
その辺の男子ならともかく、美優という完璧な美少女を恋人にしている俺にとって、理想的な彼女の姿とはあのレベルより下にはないのだ。
俺が偉そうに自慢することでもないが、そう簡単にそこいらの女子が辿り着ける領域ではない。
「大体な、由佳とデートするって決めたような奴が、いまさら普通の女の子ヅラされて喜ぶわけないだろ」
由佳に興味を持ってしまうような男は、俺と同じくあの天真爛漫さに好感を持てる段階まで脳が蝕まれている。
そんな連中が普通の女の子らしさを由佳に求めるわけがない。
「そう言って、みんな最後は『やっぱり大人しい子が良かった』って離れていくのよ」
由佳は恨みを吐き出すようにブツブツと呟く。
「それはだな──」
由佳を好ましく思っていた事実に偽りはなかったはず。
きっとデートの中で喧嘩でも繰り返して、彼女にするための評価が期待したものと違ったと嘆いただけだろう。
ただ、どんな経緯があったにせよ、その言葉を由佳にぶつけるのは卑怯だ。
普通とは違うことを求めた相手に、結局は普通であることを押し付けたのだから。
「男運がなかっただけだ。由佳の魅力に気づけないような男とは付き合わなくて正解だよ」
「それはマジで私もそう思うわ」
由佳は腕を組んで深く頷く。
「だからこそ言っておく。俺を他の奴らと同じだと思うなら、このデートも止めたほうがいいぞ」
このデートの行き着く先に俺と由佳が恋人同士になることはない。
それでもなお由佳が俺とのデートにこだわったのは、俺にしかない何かを由佳が求めたからのはずだ。
「それもそうね」
由佳はケロッと真顔に戻って納得した。
「あんたもなかなか言うようになったじゃないの」
「これについては由佳のおかげだな」
「じゃあそれも貸しで」
「お前な……」
俺を指差して得意げにする由佳に、俺は嘆息して頭を抱える。
由佳らしさは由佳らしさとして、このいちいち評価を下げてくる態度だけはどうにかならないものか。
「あんたら兄妹も難儀なものよね。借りを作ったら返さないと気が済まない性分だなんて。私はそのおかげでお兄さんとデートできるからいいんだけどさ」
由佳は覚束ない足取りで、しかし先ほどよりは悠々と歩き始めた。
俺と美優が恋人関係でありながら、由佳が俺とデートできることに疑問を抱かないのは、これが今までの借りの清算だと考えているからだった。
ある意味でそれは間違っていない。
由佳が美優のせいで悩みを解決できずにいるということが、このデートの存在を成立させている。
俺はその悩みについても、解決のために何をするべきなのかも一切教えてもらえていない。
なぜかはわからないが、全て俺が気づいてやらないといけないのだ。
今日、このデートの中で。
こうして接していると、悩みなんてあるようには感じないのだが、由佳は自分自身の悩みを自覚しているのだろうか。
「ほら、なにしてんの! さっさと今日という日を楽しみに行くわよ!」
先を行っていた由佳が、俺の方を向いて仁王立ちをしていた。
そして、前方に振り返って勢いよく駆け出そうとした瞬間、由佳は足をもつれさせて盛大にずっこけた。
「はぁ……」
俺は今日一日は、由佳に優しくしてやろうと決めた。
「ううっ……えぐえぐ……どうしてこんなことに……」
入園してすぐに医務室で処置をしてもらい、俺は膝に絆創膏を貼り付けた由佳をベンチに座らせていた。
「服が汚れなくてよかったな。傷も浅かったし」
「昔から転ぶのに慣れておいてよかった……」
「そこは転ばないようにとかできないのか」
由佳の幼少期なんて大変だっただろうな。
ここまで大きく育ててくれた親御さんを労ってあげたい。
「こんなところで燻ってなんかいられないのよ。早く絶叫しに行かないと」
「その手の乗り物が好きなのか。なら、当初の予定通り人気のありそうなところから攻めよう」
よほどキャラクターに人気のあるアトラクションでもない限り、園内で最も人気なのはジェットコースターだ。
俺は遊園地になど縁のあるタイプではなかったが、それでもジェットコースターに乗らないと遊園地に来た気がしない。
待ち時間は四十分。
夏休みであることを考えれば短い行列だった。
破局しやすいデートスポットナンバーワンで名高い遊園地で、鬼門になるのがこの待ち時間。
自分の番になるまでただ立って待つだけの苦行を強いられることになる。
俺と由佳はカップルではないにしても、この時間がもどかしいことには変わりない。
「この待ち時間って無駄よね。なんで整理券とかにしないわけ?」
「代行業者がのさばってまともに楽しめる人が減るからだろ」
「悪い奴らのせいで世の中が不便になるのね」
「どこの世界もそんなもんだよ」
由佳はブツクサと不満を述べるものの、態度や声を荒くしないので釣られてイラつくことはなかった。
どこぞのアミューズメントパークのようにアニメチックな建物が作られているわけでもないこの遊園地には、高速で移動する車体を支えるための太い鉄骨が並んでいるだけ。
身の上話でしか盛り上がれないこの時間だが、由佳といるのは苦痛ではなかった。
「前から疑問だったんだが、由佳のクラスってどうしてあんなに不健全なんだ?」
「不健全だと思うから不健全なんでしょ。みんな普通に恋愛して普通にセックスしているだけ。特別なのは美優と遥のほう」
そう言われてしまうと、別に若いうちから性経験を積むことは悪いことではないし、美優には性別問わず惚れてしまいそうになる一面があることを俺は知っている。
それでも友人たちの性行為への抵抗の無さは異様だと思うが。
「小学生の頃から、とりわけ仲のいいメンツとクラスが変わらなかったのも大きいけどね。校外学習のお泊まりで、とある女子生徒の体を使って保健体育の勉強をしたことから全ては始まったの」
「致命的に原因があるじゃないか……」
やはりこいつらは不健全だ。
もはやそれを疑うことはない。
「この歳の女の子って相手が歳上なら冴えない男とも平然と付き合っちゃうの。そういうのに騙されない知恵にはなってるから」
「その歳上の俺に出会って数分で誘いをかけてきたのが由佳の友達じゃなかったか」
初対面の俺に向かって乱交しようと持ちかけてきたときは、さすがにあの子たちの将来を心配したものだ。
「美優の兄というステータスを舐めすぎ。ま、学校にいなきゃわからないのも無理はないけど」
「学校じゃ無愛想にしてそうなのに。人気者だよな」
「お兄さんの前でも無愛想だったんじゃないの?」
「それは……そうだな……」
美優は今だって真顔の時は無愛想だし、そんな中でふとしたときに見せる愛らしさがあるのが良いのだ。
もしかしたら、学校でもそうした姿を見せることがあったのかもしれない。
いつだか話に聞いた優花里という少女も、美優の意外な優しさに触れて惚れ込んだわけだしな。
そんな他愛無い会話をしているうちに、ようやく俺たちの番が回ってきた。
入場口に垂らされていた太いロープが上げられて、俺たちは一番前の席に並んで座る。
安全バーを腰まで下げると、由佳が俺の手を握ってきた。
その重ねられた手には、俺の手首をねじ切るつもりなのかと思うほど強烈な力が込められていた。
「由佳、さすがに痛いんだが」
「我慢しなさい。あともっと何か話して」
ジェットコースターを発進させる合図が鳴り響き、ガタンと揺れる車体。
由佳の顔が青白く変わっていく。
「由佳、お前、まさか……」
「いいから何でも話して。お気に入りのAVについて語ってもいいから」
「デートでそんなことを話すカップルがいるか」
傾斜四十五度の鉄骨の坂道を、俺たちはゆっくりと登っていく。
由佳の体は小刻みに震え始め、唇を噛み締めるその顔からは完全に血の気が引いていた。
「答えろ。どうしてそんなに怖いのにジェットコースターに乗った」
「バカね。絶叫マシーンよ。絶叫するために乗らなきゃ何のために乗るの」
「そこまで自分を追い込むことないだろ……!」
たまにズル賢くなるので忘れていた。
こいつは根本的にアホなのだ。
やがて頂点へと辿り着いて見えてきた、その絶景の中にジェットコースターが飛び込もうと角度を下向きに変える。
「あ、待って。これ死ぬ。待って止めて!」
「落ち着け、由佳。逆に考えろ。ジェットコースターが派手にすっ飛んで爆発でもするイメージを持てば逆に大丈夫な気がしてくるはずだ」
「するかっての!!!! もういいから! 後ろに下がって! ギブ! ギブ!!」
そんな由佳の懇願も虚しく、車体がいよいよ前傾斜の限界にまで至ると、ジェットコースターは無慈悲な体感垂直落下を敢行したのだった。
──ギャァァァアアアアアアア!!
隣から断末魔の叫びが聞こえてくると、そう思っていた。
しかし、コンクリート床を面にして迫ってくる景色と暴風の中、俺が隣の座席から感じたのは、俺のほうが悲鳴を上げたくなるほど手に指を食い込ませられる痛みだけだった。
由佳は目をギュッと瞑って縮こまっていて、早くこの地獄が終わらないかと祈っている。
俺も絶叫マシーンに乗ったらできるだけ騒ぎたいタイプなのだが、由佳が心配で目が離せなかったので結局は俺も声の一つも出さずに終わってしまった。
降車位置にまで戻って来ると、由佳はようやく顔を上げて周囲をキョロキョロと見渡した。
そして、スタッフの指示に従って安全バーを上げると、ヨタヨタと歩いて俺の服を掴んできた。
「死んだかと思った……」
「生きてるよ」
ジェットコースターが怖い人なんて珍しくもないけど、ここまでボロボロになった奴を見るのは初めてだな。
「これでこそ絶叫マシーンって感じだったわね」
「絶叫どころか外部情報を全部シャットアウトしてただろ」
「い、いけるときはいけるのよ。今回は出ないパターンだっただけで」
「そうか。とりあえず、頑張ったな」
左手にはまだ鈍い痛みが残っているけれど、この痛みと引き換えに由佳の恐怖が少しでも和らいだのならよかった。
「んじゃ次は絶叫迷宮ね」
「それオバケ屋敷だぞ?」
「知ってる。でも、人気のとこから攻めるなら、次はそこでしょ」
「待て」
この流れだと由佳は絶対にオバケが苦手なタイプだ。
そして悲しいくらいアホの子だからそれをわかってて行こうとしているに違いない。
「せめてどこか緩いアトラクションを挟んでからにしよう」
「正気? お兄さんは温泉に入る前のかけ湯が済んだら露天浴場で涼むの?」
「そうやって微妙に反論できない理屈をゴリ押しするのはやめないか」
まずもってアレがかけ湯のレベルだったとは思えないのだが。
待ち時間も短いわけではないし、そこで落ち着いてくれることを願おう。
俺たちはまた長い行列の最後尾に着いて、ボロいままの壁を残した第二の絶叫施設へ並んだ。
この絶叫迷宮は文字通り、内部が迷路のように入り組んでいて、グループ単位で入場した客が鉢合わせする可能性もある珍しいタイプのオバケ屋敷だ。
内装は廃病院などのコンセプト物ではなく、ファンタジー映画にでも出てきそうな純粋な迷路になっている。
3Dマッピングなどの新しい技術を導入していて、そこにあるはずなのに通れる壁があったり、何もない場所から音が聞こえてきたりと、かなりの力の入った演出が盛り込まれているらしい。
オバケ屋敷は怖くないからつまらない、という層も獲得することに成功した、次世代に続くこの園の目玉アトラクションだ。
「迷子になって人が出てこなかったらどうするつもりなのこれ」
「時間が経つごとに案内表示が出たりハズレ道の壁が塞がれたりして、簡単になっていくみたいだぞ。それに加えて脅かし役のスタッフが出口に追い込むとか」
「最後のはあんまり有り難くないわ……」
「怖すぎて進めなくなった人用に非常口も多くあるから、とにかく冷静にな」
俺も女の子と遊園地になど来たことはないが、オバケ屋敷はやはり相方が怖がってくれたほうが楽しいものなのかな。
美優がオバケに怖がる姿なんて想像できない。
それはそれでギャップに萌えるけど。
山本さんは怖かろうが怖くなかろうが、可愛らしい悲鳴を上げてひっついてくれそうなので、やはり男の夢と理想が詰まっている人だな。
「次のグループで入って、事前説明を挟んでから本入場だな。心の準備は出来てるか?」
「出来てようが出来てなかろうが、行かなきゃいけないんでしょ。なら行ってやるっての」
誰も強制していないのに謎の覚悟を決める由佳。
ここまで一時間近くも待っているわけだから、今更引き返すというのがもったいない気持ちはわかる。
「言っておくけど、私は別にオバケなんてものを信じてるわけじゃないから」
「ああ、そうなのか?」
たしかに、由佳はどちらかといえば堅実なタイプだ。
非科学的なものをここまで怖がるのは、少し意外だったりする。
「同じホラーでも、雰囲気で怖がらせるタイプと、驚かせて怖がらせるタイプがあるでしょ。私はビックリ系のホラー映画とかが苦手なの」
「なおのことオバケ屋敷に向いてないんじゃないか」
まあこうなったら仕方ない。
気弱な犬の散歩でもするつもりで、しっかり手を握っておこう。
入場前からガッチリと由佳が俺の手を掴んでいるので、傍から見たらさぞ仲の良いカップルに見えていたに違いない。
客を待機させるための廊下を五分に一度のペースで前進し、やってきた事前説明の部屋で四十人ほどが席に座った。
そこで基本的な進み方と諸注意を聞かされ、複数設置された迷路の入り口に立たされると、それぞれ迷路の中に案内される。
入場と同時に渡されたペンライトを手に、俺たちは薄暗い闇の中へと放り込まれた。
大量の手形や赤黒い傷跡が付いた壁が、狭い通路を作っている。
この圧迫感も恐怖を駆り立ててきて良い塩梅だ。
3DマッピングはSF映画みたく完全な立体を作り出せるわけではないのだが、この薄暗さが手伝って本物の壁に近い質感を得られている。
行き止まりに着くと、そこには冒険者が書き残したような紙切れが置いてあって、そこに出口に向かうためのヒントが書かれていた。
『パーク伯爵の絵を見過ぎるな!』とか、禁止されるとしたくなる人間の心理をよく突いている。
おそらくは絵画だと思っていた映像が急に変化したり、立ち止まった客をスタッフが脅かしにきたりするんだろうな。
「……楽しんでるか?」
例によって会話はなかった。
それどころか由佳はここでも目を瞑っていて、俺が手を引く力の向きを頼りにヨタヨタと歩いているだけ。
「怖くなると、無口になるんだな」
「怖くない。目を開けたら何かいそうで嫌なの」
それを怖がっているというのではないか。
オバケを信じている人と何が違うのだろう。
「危ないから、目だけでも開けてくれないか? また転んだりしたら足に悪いし」
「わかった。周りには何もないのね? てかお兄さんが目の前に立ってて」
「はいはい」
由佳へのお姫様接待にもだいぶ慣れてきた。
中身がポンコツだとわかっているせいか、このワガママな態度にも愛嬌を感じてしまっている自分がいる。
俺もだいぶ毒されてるな。
俺が由佳の前に立って肩を叩くと、由佳は片目から薄っすらと瞼を上げた。
そうして確かに俺が見えることを確認すると、由佳はまず俺にガシッと抱きついてきて、それから周囲の様子を見渡した。
「気味の悪い場所ね」
「オバケ屋敷だからな」
俺はわかってたはずの事実をいちいち掘り返してくる由佳の愚痴を聞き流しながら、メモに書いてあった通りに壁の記号を解読して進んでいく。
ヒントは大抵は行き止まりに置いてあり、それを読みさえすれば脱出するのは簡単だ。
だが、メモを読み終えたあとに元来た道を戻ろうとすると、行き止まりで誰もいなかったはずの場所からガタン! と音がしたり、壁一面が血のような赤に急に染まったりして、次第に蓄積された恐怖がヒントを読みに行くのを拒むようになってしまうのだ。
「手を離したら許さないからね!」
「わかってるよ」
これまた俺のほうが叫び声を上げたくなるほど強く握られた手に、俺もそろそろ出口が見えてくるのではないかと思い始めていた頃。
T字路に差し掛かったところで、右側の通路から硬いものを落とすような鈍い音が鳴った。
ビクつく由佳をたしなめながら、俺が先行してT字路の右側を確認すると、そこには一人の女性が同じようにこちらを覗いていた。
どうやら他の客と鉢合わせになったらしく、俺は相手に軽く会釈だけをした。
「ふん。脅かすんじゃないっての」
由佳が通りがかっただけの罪のない女性に毒づいた──その直後。
鉢合わせになった女性の首が、ストンと落ちて床に転がった。
「えっ……」
由佳の口から漏れた、息の詰まるような声。
それをかき消すように、ケタケタと無気味な笑い声が、もげた女の口から通路内に響き渡った。
「ギャァァアアアアアアアア!!」
ようやく発せられた由佳の絶叫。
その声は、俺を置き去りにして遠のいていく。
ここにきてまさかの猛ダッシュだった。
「待て! 由佳! 迷子にだけはなるな!!」
呼びかけてもパニック状態の由佳に届くはずもなく、俺はこの迷路の中で人探しをするハメになった。
幸いにも出口が近かったので、俺は由佳と離れてからまだ通っていない通路に引き返し、そこに由佳がいないことを確認してからアトラクションの外に出た。
由佳は外のベンチでめそめそと泣いていた。
こいつはどうしてこんなにアホなのだろう。
そして、俺はどうして、こんなにポンコツで身勝手な女の子を嫌いになれないのだろう。
「あんな脅かし方するなんて聞いてない……」
「教えたら怖くないからだよ」
由佳は涙を拭いていたハンカチをポーチにしまうと、そこから園内地図を取り出して広げた。
「ううっ……次はどこに行くの……」
「め、飯でいいんじゃないか」
あれだけ怖い思いをしてもへこたれないのはさすがというか。
このバイタリティだけは俺も尊敬している。
時間も頃合いだったので、俺たちはレストランに入ってお昼にすることに。
レストランといっても先に席を取って、注文したら番号札を渡されて待つようなスタイルのお店だ。
由佳が目ざとく空きそうな席を見つけてくれたので、ほとんど待つことなく俺たちはランチにすることができた。
「今日は、デートっぽい、かな……?」
由佳が頬を指でかきながら照れ臭そうに訊いてくる。
「思ってたよりはデートっぽくなってるよ」
「そ、そっか」
恐怖のせいで頭がやられたのか少女っぽくなってしまった由佳。
こうしたしおらしいところも嫌いではない。
それはともかくとして、俺は由佳の足が気になっていた。
捻ったりはしていないようだが、どこか足を引き摺るそぶりを見せていて、よく観察してみるとベルトが擦れるところの肌が赤くなっている。
もっと楽な靴を履けと言いたいところだけど、これだけ頑張ってくれている子を落ち込ませたくはない。
「次に行くところは俺が決めてもいいか?」
「え? な、なに、行きたいところあるの? なら早くそう言いなさいって」
俺がデートに積極性を見せたからなのか、由佳は途端に元気を取り戻した。
現金な分だけ扱いやすいヤツだ。
俺はできるだけレストランに近く、かつ面白そうなアトラクションから先に回れるよう、地図を見ながらルートを考える。
できるだけ足の負担が少なくなるように移動ができることと、途中に休憩できるカフェがあることを条件にすれば、自ずと回る順番は決まった。
本格的に作り込んだアトラクションとしては、光線銃モチーフの武器を渡されてクルーザーで回るものがあったり、水上ボートで人工の湖を駆け回るものがあったり。
外側に設置されているものではティーカップやメリーゴーランドなどのいかにもなアトラクションが多く、それを由佳が「カップルっぽい!」とせがむので乗ることになったり。
途中で計画変更しながらもなんだかんだでデートらしい時間を楽しんでいた俺たちだったが、由佳が足を痛そうにするのがさすがに見過ごせなくなってきた。
「由佳。次はそこのカフェに入るぞ」
「また? さっき休んだばっかでしょ」
「いいから。適当に空いてるベンチでもどこでも座れって」
俺が強引に休ませようとするので、さすがの由佳も何を意図しての発言なのか気づいたようだった。
場所代としてアイスコーヒーを二つ買って、俺と由佳は丸テーブルを囲んで座る。
「こんなの平気なのに」
「痛いの庇って変な歩き方してただろ。ちょっと見せてみろ」
「あっ、ちょっと、ッ──!」
すでに過剰なまでのスキンシップを取ってしまっている関係なので、俺は失礼だと思うこともなく由佳の足を触って傷のほどを確かめた。
案の定、ベルトの跡が真っ赤に腫れている。
「絆創膏はないのか?」
「ない。ないし、この靴だと見えるから可愛くない」
由佳は靴を脱いだ足をパタパタとさせて、不満げながらもさきほどより色の良い顔に戻っていた。
しきりに足の指を開いては閉じて、よほど窮屈だったと見える。
オシャレは我慢とは言うが、我慢のし過ぎも良くない。
「絆創膏が見えてたって由佳は可愛いよ。いつも元気なのが由佳の良いところだからな。多少の怪我ぐらい愛嬌みたいなもんだよ」
「それって、褒めてんの?」
「褒めてるよ。少なくとも俺はそういうところが由佳の良さだと思ってる」
「へ、へぇ……」
由佳はいつもみたいに鋭く言葉を返してはこなかった。
ただやりづらそうに、口をモゴモゴさせている。
由佳には叱るような言葉を浴びせるより、褒めて前を向かせる方が効果的だな。
「駅で会ったとき、素直には言えなかったけど。由佳がそんなにキレイになると思ってなかったからびっくりした。その印象は今でも変わってない」
女の子のオシャレは褒められるまでが仕事。
その役目さえ終えてしまえば、あとに残るのは実用性だけ。
「俺に言われて嬉しいかはともかくとしてだ。彼氏役をやってる身としては、由佳の可愛さは十分に感じてるよ」
これは本音だった。
認めるのは悔しいが、俺がこんなにもわがままで理不尽な少女に、男として魅力を感じてしまっているのは事実なのだ。
「ここで由佳を見てた他の奴らも、みんな可愛いって思ってたはずだよ」
「他の人とかどうでもいいから」
黙っていた由佳が口を開いた。
「も、もっと言って」
由佳は頬だけ緩み切った状態で、しかし褒められ慣れていないせいでガチガチに固まった、なんとも言えない顔をしていた。
面白いのでもっと褒めてみよう。
「今日のデートだって、たぶん由佳が考えてる以上に俺は楽しんでるよ。由佳といるとこっちも元気になるし、可愛い子とデートができて嬉しくないはずがないからな。足のことについては、俺にも非がある。ヒールが辛そうなのはもっと前から気付いてたけど、似合ってたから黙ってた」
意識的に褒めようと思って並べた言葉だったが、口にしてみると、どれも本心だった。
根が良いやつ、というのとは少し違う。
こいつは根っからダメな部分があるし、その上で横柄で不真面目なのがこの由佳という女。
ただ、その突き抜けたエネルギーが、そんな悪い面さえも魅力と思わせてしまう。
ある意味では、少年漫画の大悪党に似ているのかもな。
「そそそ、そういう……とは…………早く……」
小声で呻くように喋る由佳。
「そういうことはもっと早く言いなさいよ」と言いたいのだろうが、口元の緩みのせいで上手く喋れていない。
少し褒めすぎだったかな。
「だから、残りの時間を楽しむためにも、もう少し楽な格好をしよう、な? コラボショップならスニーカーとか置いてあるかもしれないし、絆創膏だってお土産用でもなんでもあれば買うか貰うかしてくるよ」
「そこまで言うならしょうがない。まかせてあげる」
「おう。まかせとけ」
それから俺は由佳をカフェに待たせて、適当な靴と絆創膏を見繕った。
ショップも近くはなかったのでなかなかに骨は折れたが、相手が誰であれ望まれることをするのは気分が良いものだった。
靴の値はそれなりに張ったものの、入場券は由佳が二人分をまとめて買ってしまったので、その分のお返しだと思えば痛くない出費だ。
カフェに戻って由佳に応急手当てを施し、スニーカーを履かせてヒールを箱に仕舞う。
ぴょんと椅子から立った由佳は、急に目線と足の高さが低くなったことに混乱しつつも、痛みから解放されて顔色は格別に良くなっていた。
水色のワンピースが爽やかな装いだったので、俺からするとむしろ前より好ましい格好だった。
「由佳ってやっぱり美人だな。なんでモテないんだ?」
「ちょっ、さっきからそんなに褒めて! なんて言えばいいのかわからないんですけど!」
そうして最後は逆ギレをしてくる由佳。
可愛げがなくてとてもよろしい。
「悪い、ついな。嘘は言ってないよ」
「“つい”ってなに“つい”って。嘘は言ってないとかそういうフォローはいいから。後で覚えておきなさいよ」
調子を取り戻した由佳は俺に靴箱を押し付けて駆け出していく。
次にどこに行くかまだ話してないけど、足の心配もなくなったし好きにさせてやるか。
女の子を口説くことなんてしたことはなかった。
さっきのだって、口説いたというよりはからかい半分に近い。
それでも、女の子を褒めて喜んでもらえるというのは、これまでに感じたことのない気分の良さがあった。
あるいはそれは、ただの優越感だったのかもしれないけど。
俺も怖がってばかりいないで、もっと人が他人には触れさせないような、深いところに踏み込んでみてもいいのかもしれないな。
帰ったら、美優のこともたくさん褒めてあげよう。
テンションが上がったときしか褒めてやれてないし、俺が普段から感じている美優の魅力を伝えておきたい。
たぶん、喜んでくれると思う。
「ほら、もっと私をちやほやして、ちゅーとかしてもいいから! イチャラブなデートをしなさい!」
どうしても俺とイチャイチャしたい由佳は、人目も憚らずに大声でそんな注文をつけてきた。
「善処するよ」
俺は独り言のように返事をして由佳を追いかける。
そういや、美優と恋人としてデートしたことはなかったな。
これまでの俺はなされるがままだったし、できるだけ俺から切り出してやりたい。
でも、どうやって誘えばいいんだ?
その前に本番エッチをするのが先か?
常識的に考えると、デートよりセックスが先だなんて無茶苦茶だけど、俺は付き合うまでの過程が特殊だからな。
俺はこれまで関わった女性の全員と、まずエッチをするところから関係が始まっている。
そのせいで、普通の人が普通にしていることが、全くわからない。
「由佳は友達と遊ぶとき、どんなところに行ってるんだ?」
美優はあれで引きこもり体質なので、由佳と遥以外とはそれほど遊ぶことはないはず。
こうして聞いておけば、デートのヒントが得られるかもしれない。
「なんで?」
「いや、ふと気になっただけなんだけど」
俺がそんな下手な話の逸らし方をすると、由佳がキッと鋭い眼をこちらに向けてきた。
「あー! 美優のこと考えてたでしょ! デートの最中に他の女の話をするなんてサイテー! 信じられない!」
由佳は水を得た魚のように俺を非難する。
しかし、これはどう考えても俺が悪いな。
「すまん、詫びる」
「とーぜん詫びなさい」
由佳はスマホを取り出してメモ帳を開くと、そこについ先ほど起こしてしまった不祥事を書き込んで俺に見せてきた。
「これまでの詫びと貸しを合わせてもう五百ポイント超えてんの。奴隷よ奴隷。今夜は美優といるときよりイチャイチャしてくれなきゃ許さないから」
「それは頑張るけど。奴隷とイチャイチャして楽しいのか」
「楽しいに決まってるでしょ。アホなの。大事なのは客観的な事実ではなく、私がどう思うかよ!」
「なるほど納得した」
五百ポイントの計算式と相対評価が気になるところだけど、今回ばかりは素直に従っておこう。
由佳といるのは楽しい。
人を幸せにするにはまず自分からと云う。
自分が幸せになることに長けている由佳は、ある意味で誰よりも人を幸せにできる可能性を秘めているのかもな。
「マズいな。俺は由佳のことが好きかもしれない」
「それのどこがマズいってのよ」
由佳は恨めしそうに俺を睨みつける。
「常識的に考えたらマズいんだよ。由佳のことが一人の女の子として好きなんだ」
「は? え? なな、なななに、言ってんの? ゆ、ゆゆ、ゆか? ゆうか? 優香? だ、誰なのそれ? また違う女の話?」
由佳は盛大に吃って慌てふためいた。
どれだけ好意を向けられることに慣れてないんだこいつは。
「由佳だよ。俺の半径一メートル以内にいて、遊園地でデートしてる、足に絆創膏を貼り付けたツインテールのことだ」
「そんなの、もう、私しか、いないんですけど」
「だからそう言ってる」
俺が断言すると、由佳も観念して自分への評価を認めたようだった。
そして、勢いの無くなった由佳は、俺の背中に隠れるようにして腕に引っ付いてきた。
「どうして私のことなんて好きになるのよ」
由佳は愚痴っぽくそう溢した。
照れている様子でも、怒っている様子でもない。
この反応はさすがに予想外だった。
由佳は美優にも男にも好かれたくて頑張っていたはずなのだから。
この矛盾した言動は、情状酌量の余地もないような悪事に及んだ際の、あの無謀で強情な由佳にどことなく雰囲気が似ている。
このあたりが由佳の急所か。
「なんで好きなのかは俺にもわからん。わからないことは、考えても仕方ないだろ」
「そ、そうね! 無駄な時間を過ごしている暇はないわ。私たちにはまだ、ラブラブホテルという最高のアトラクションが残されているのよ」
「ラブホを遊園地扱いするんじゃない」
ラブホテルって学生同士でも入れるのかな。
たしか公的には禁止されているはずの場所だが。
「満室だったらどうするんだ? ラブホって予約できなかった気がするけど。ビジネスホテルにでもするか?」
「待ってでも入る。年確されたらされないところに当たるまで回る」
「なぜそこまでラブラブホテルにこだわる」
「ラブラブホテルだからよ。これからセックスしますって公然と宣言して入る感じがいいんじゃない。あと、お風呂の広さが断然違う」
「決意が固いな」
正直なところ、最初にラブホテルを経験する相手は美優がよかった。
しかし、由佳の言うことにも山本さんの言うことにも従えと指示されている以上は、何かしらは犠牲になることを覚悟していた。
それでいい。
大切なのは俺個人のこだわりではない。
最後には美優と幸せになること。
何も気兼ねすることのないイチャましい人生を歩めるよう、どんな小さなことでも全力で取り組んでいく。
由佳とセックスすることも、山本さんとセックスすることも、俺が美優と純愛を育むための一つのイベントでしかないのだ。
「いいか、由佳。俺たちはイチャイチャするには非常に不向きな関係だ。だからまず、この距離感を変えるきっかけが必要になる」
「大いに同意できる話ね」
由佳は俺の話に耳を傾けて何度も肯く。
「この問題に対し、俺は一つの答えを持っている」
「聞こうじゃないの」
「恥じらいを持つんだ。由佳が」
「持ってますけど!?」
こんな花も恥じらう乙女を捕まえて何をおっしゃるとブーイングを浴びせてくる由佳だったが、要するに褒めると照れるその愛らしさはイチャつくに値すると説明すると納得してくれた。
「具体的に何を変えたらいいわけ?」
「由佳が変わる必要はないよ。ちょっとしたお願いがある」
これは俺にとっても、ようやく得ることのできた確信。
遥やハルマキさんたちと出会って初めてわかったことだった。
「今日一日の、どこか一回だけでいい。俺のことを好きだって言ってほしいんだ」
「私はお兄さんのこと好きだけど?」
「知ってる。それでも言ってほしい」
「はあ。まあ覚えてたら言ったげる」
「よろしくな」
由佳は俺のことが好きではない。
いや、好きではあるのだが、女が男に向ける好意とは全くの別物。
好きであるべきだと思ったから好きになったとか、そんな経緯で生まれた感情だ。
きっとその『好き』を持て余したまま由佳と仲良くしていたら、いつかは俺も、美優と同じ道を辿ることになる。
美優が自分では由佳の悩みを解決できないと言った理由がここにあるんだ。
「にしても好きって言うだけで私が恥じらうとかないでしょ」
「それしか思い浮かばなかったんだよ」
「えー、妄想のレベルが中学の男子と一緒」
「悪かったな」
ニヤニヤしながら俺を馬鹿にしてくる由佳に、俺は悔しさに耐えて真面目に取り合う。
美優や山本さんみたいに深刻な悩みがあるのだと思っていた。
でも、誰も彼もがそんな特殊な境遇にいるわけじゃない。
俺はそんな特殊に慣れすぎていた。
何も難しいことを考えることはなかった。
こいつの根底にあるのは、やはりアホという概念なのだ。
由佳の悩みを解決するのに必要なのは、俺が思春期の相談窓口になってやること。
それだけだ。
「いよっし! お兄さんには由佳ちゃんが考えた必勝告白シチュエーションをお見舞いしてやるわ!」
片手を腕に掛けて力こぶを作ってから、由佳はスキップで次のアトラクションへと進んでいく。
そんな必勝法があったらこれまで陵辱されずに済んでただろ、というツッコミは、入れないでおいた。