それから先のことは、後で人伝いに美優から聞いた話だ。
俺とデラックスジャンボパフェを食べ終えた由佳は、塾の授業の開始を待って着席する生徒たちの前に現れ、こんな話をしたらしい。
「あなたたちに、残念なお知らせがあるわ」
教壇に立って偉そうに腕を組む由佳を、生徒たちは不思議がりもせずに注目していた。
「私は昨日、女になったの」
多分に含みのあるその言葉に、およその事情を察したのが一割と、理解できなかった無垢な少年少女がもう一割、そして残り八割が『意味はわかるがまさか由佳がそんなはずはない』と思ってまともに聞く耳を持っていなかった。
「お前女じゃなかったのか」
そんな煽りを由佳に入れたのが、最前列にいた八割に該当する一人の男子生徒だった。
「なに小学生みたいなことを言っているの。わからない? ほら」
その発言を待ってましたとばかりに、由佳はワンピースのスカートを指で摘んで、ヒラ、ヒラ、とはためかせる。
揺れる影に視線を落とせば、足元にはまだ汚れのないヒールがその存在をアピールしていた。
「どう見たってデート用の勝負服でしょうが。しかも私は、昨日と同じ服を着ているの」
その話の意味は、さすがにまだ中学生の男子には難しかったようで。
素の感情のままに男子生徒は蔑んだ目を由佳に向けた。
「汚えな」
「汚かないっての! 何回シャワー浴びたと思ってんの!」
由佳はツインテールの片方を鞭みたいにしならせて、ビュンビュンと音を立てて男子生徒を威嚇した。
「要はセックスよ、セックス! 女が女になるにはそれ以外にないでしょ! 私は愛に溢れた最高のいちゃいちゃイチャラブセックスをしてきたのよ!! 昨日……てかまさに今朝の数時間前にね!!」
我慢ならなくなった由佳がモザイクの欠片もない発言をして、男子は反応に困って黙り込み、女子生徒たちも気まずそうに机に視線を落とした。
これから受験勉強をしなければならない彼女たちにとって、教室の居心地が悪くなるなどいい迷惑だった。
「何やってんだお前」
そこにプリント束を抱えた講師がやってきた。
由佳は首だけを機敏な動きで真横に振って、その講師を睨む。
「あら、聞いてなかったの。なら教えてあげる」
「聞いてたよ。いいから座れ。これから約一名だけ赤点の再テストだった答案用紙を返す」
「ぬぅっ……こんなタイミングでなんて薄情な……ッ!」
「自覚があるならもっと勉強しろ」
講師はプリント束を教卓に置くと、ペケまみれの一枚だけを取って横に並べた。
「めでたい日なんだからお祝いの言葉くらいあってもいいじゃないの。そんなことじゃ三十過ぎても童貞のままよ」
由佳が余計なお世話を焼くそのネタは、かつてよりその講師が生徒たちにからかわれていた話題の一つだった。
由佳だけがそれを冗談ではなく真面目に心配していて、当の講師からしたらそちらのほうが扱いに困る悩みのタネだった。
「言っておくがな」
しかし、その日の男性講師は、いつもと返しが違った。
生徒たちの前で言いにくそうに口を歪めつつも、由佳の得意げな顔につい反論せずにはいられなかったのだ。
「俺はもう童貞じゃない」
教室中に走る衝撃。
もはや前を向いている生徒は一人もいなかったが、全員が耳をそばだてていた。
「い、いつよ」
愕然とする由佳に、引っ込みのつかなくなった講師も話を続けた。
「ちょうど、先週のことだ」
小さく呟くように、講師は答えた。
それはもはや羞恥プレイ以外の何物でもなかったが、その報告を聞いて由佳だけが目を輝かせて、グワッと身を近づけると講師の両手を包み込むように手のひらを重ねた。
「今夜は一緒にお赤飯にしましょう!」
「やかましい」
そこで二人の漫才は終わって、由佳は無残な点数のプリントを手に自席へと戻った。
空気を読んだ生徒たちも二人の会話の内容にツッコミを入れることなく、授業はつつがなく終了して、由佳は再テストに向けた勉強をすることに。
ほとんど答えそのままみたいな対策プリントを渡されて、とはいえ理系科目はそれだけで解答を導けるわけもなく、由佳は勉強を教えてくれと頼んだとある人物が来るのを空き教室の黒板に落書きをしながら待っていた。
「あ、あの。お前さ」
そこにやってきたのは、由佳にとって比較的面識があるほうの男子生徒だった。
見ただけでも文化系とわかる、社交性はそれほどないタイプの少年だったが、学力に関しては全国模試でも上位に入る優秀な生徒だった。
「わかんないとこあるなら、教えるけど」
下心のある申し出だった。
恋愛方面になるとほとんどの生徒から一歩距離を置かれてしまう由佳だったが、それが全員に対して等しくマイナス要素になるわけではなかった。
男が寄り付かないということは、その分だけ恋愛に疎い人間にもチャンスがあるということになる。
とはいっても、少年もその日までは由佳のことを『顔は良いけど面倒そうな女』ぐらいにしか思っていなくて、どうしてか今日になって急に異性として仲良くなってみたくなったらしい。
望み薄であることは承知の上だったし、断られるならドライに突っぱねられるだけだと思っていた。
しかし、その申し出を受けた由佳は、チョークを粉受けに置くと、柔らかく顔を綻ばせたのだった。
「ありがと。でも、別の人を待ってるから要らないわ」
由佳はくるっと身を翻して、人差し指を唇につける。
その動きに合わせて、ツヤ良く伸びたツインテールが踊るように浮いた。
「恋のお悩み相談なら、逆にお姉さんが聞いてあげないこともないけどね」
上機嫌に微笑む由佳の姿に、少年の胸は思春期の痺れに襲われて、とっさに「そっか!」とだけ返事をして逃げてしまった。
もしかしたらそれは、これまでのような虚勢から来るものではなく、心からの自信がもたらした本来の由佳の魅力だったのかもしれない。
いまさら由佳に惚れてしまったところで、少なくとも同学年の知り合いで由佳が男と付き合うことなどもうないのだが。
「由佳ちゃん、何かあったの? 誰かがものすごい勢いで走って行ったけど」
代わりにやってきたのが佐知子だった。
二人は同じ塾に通っていて、ネカフェでの一件以来、よく話すようになったのだ。
「別に。とにかく、時間がないから、これお願いするわ」
由佳は対策プリントを横長の机に並べると、佐知子と斜めの位置で向かい合った。
「始める前に、一つだけ言っておくことがあるの」
真剣な顔つきで、由佳は佐知子を見据えて、その珍しい態度に佐知子も緊張した面持ちで相槌の頷きをした。
「こうやって勉強を教えてくれるの、本当に助かるわ。だから、その、ありがとね。佐知子も忙しいだろうけど。あと半年、よろしく、お願いします……」
まさかの改まった態度に、佐知子も由佳が変なモノを食べたのではないかと心配したそうだが、それがただの気まぐれでないこともすぐに悟ったらしい。
「うん。一緒に頑張ろ。高校でわかんないことがあっても、また教えるから」
佐知子は由佳の頼みを快諾した。
もとより由佳のことは、ロクでなしなだけで悪人だとは思っていなかったのだが、佐知子も由佳のことを“女の子になった”とこのとき感じたようだった。
「いよっし! こうなったら期末試験で満点取って講師どもをボロボロに泣かせてやるわ」
「たしかにそれは先生みんなが泣くと思うけど、まずはこのプリントを完璧にしようね」
「ミスったら自分に罰ゲームぐらいしないとね。お邪魔な誘惑もおさらばよ!」
由佳は電源を切ったスマホを鞄に投げ入れた。
その真っ暗になったディスプレイの奥には、佐知子が来るまでの待ち時間で、とある二人宛てのメッセージが送信されていた。
『色々と迷惑かけてごめんね。もう心配は要らないから。ありがとう。これからもよろしく』
そんな月並みな言葉が、なかなか言えてなかった気がして、由佳はその飾り気のないメッセージを大の親友に送った。
「さ、まずは数学よ。このギザギザした記号からして謎だわ」
「そこからかぁ」
由佳は筆箱から文房具一式を取り出して、その内の一本を握り込む。
いつにない真剣な眼差しで問題用紙と向き合っていた。
「待ってなさいよ」
スーッと大きく息を吸い込んで、由佳はシャーペンの頭を二回ノックした。