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何が起こったのか、最初判らなかった。見知らぬ男に抱えられて口を手で塞がれる。気付いた時にはもう、優一郎は男に抱えられるようにしてその会社から出てしまっていた。玄関を出た男が優一郎を解放し、深々とため息をつく。
「酷いよ、優一郎くぅん。折角、企画ストップしてたのにぃ」
「あなたは?」
不信感が出来るだけ顔に出ないように務めつつ、優一郎はそう告げた。すると男がだらしない笑みを浮かべて自身を指差す。
「オレ? ただの通りすがりの謎の遊び人だよぉ。そう言ったじゃん」
髪を手でなでつけながら男が告げる。優一郎はさりげなく制服のポケットに手を入れた。残留力チェッカーは無反応だ。どうやら龍神関係ではないらしい。内心で安堵のため息をつき、優一郎はにっこりと笑った。
「なら、僕とは無関係ですよね。では」
優一郎はその場から去ろうとした。が、背中を向けた瞬間に何かに腕をつかまれる。見ると男が情けない顔で優一郎の腕をつかんでいた。
「そんなあ。折角、出会えたんだからさあ。もちょっと知り合いになろうよう」
男がしなを作ってそう告げる。何とも変わった性格だ。優一郎は自分の周囲にいないタイプの男に少々、面食らっていた。が、すぐに平静さを取り戻す。
「僕にそういう趣味はありませんので」
きっぱりと言って優一郎は歩き出した。男が慌てた声を上げて追って来る。時折、つまづいているところを見ると、基本的にそそっかしいらしい。優一郎は呆れたため息をついて階段の途中で振り返った。地下鉄に続く階段の上で男が大きくよろける。焦った声を上げて男の身体が傾く。さすがに優一郎はこれには驚いて反射的に手を伸ばした。
男が階段から転げ落ちる。その寸前に優一郎は何とか男を支えることに成功した。男の身体が傾ぐのに合わせて何気ない素振りで腕を捻り上げる。すると男は情けない声を上げて手足をばたつかせた。
「うわっ、痛い痛い、いたいってばあ!」
「危ないところでしたね」
そう言いながら優一郎はにっこりと笑った。だが男の腕をまだ捕えたままだ。男は半泣きになりながら必死で詫びている。優一郎は男の余りの痛がり方に苦笑して腕を解放した。肩を庇うように抱きながら男が涙目で礼を述べる。
「でもさあ。何でわざわざ企画煽るようなことゆうんだよぉ」
愚痴のような響きで男が告げる。優一郎は階段を降りながらああ、と笑った。どうやら男は先の優一郎の行動が気に入らないらしい。
「仕事の話でしたら、お伺いしますが。そこの喫茶店でどうですか?」
階段の途中で足を止め、優一郎は男を振り仰いだ。すると男が顔を輝かせる。わーい、と言いながら男は優一郎の肩を抱こうとした。どうも感情がストレートに行動に出るタイプらしい。優一郎は伸びてきた手をぴしゃりと叩き落とし、にっこりと笑った。
「名刺、いただけますか?」
当然のように優一郎は告げた。すると男があ、と慌てた声を上げる。
「ごめんごめん。渡してなかったよね。はい」
軽い口調で詫びながら男がポケットに手を入れる。出された名刺を受け取って優一郎は紙片に目を落とした。ルポライターと肩書きには書かれている。だが引っくり返すとそこには木村財閥系の会社名が記されていた。
「神崎葵ね。よろしくぅ」
葵と名乗った男がだらしない笑みを浮かべて身を折る。その礼の仕方だけはやけに洗練されていた。優一郎はふうん、と口の中で呟いて目を上げた。
「葵、さんですね。ルポライターとありますが、取材はお断りします。守秘義務がありますので」
当り前と言えば当り前だ。優一郎は常識的なことを口にしながら階段を昇り始めた。地下鉄の入り口には二、三軒の喫茶店があった筈だ。すると葵は軽薄な笑い声を上げて優一郎の後を追った。
「うん、ルポライターってのは世を忍ぶ仮の姿でねっ。実はそんな仕事はしてないのさ!」
自信満々で葵が告げる。優一郎は半ば呆れつつも名刺をポケットに納めた。葵は嬉しそうに笑いながら優一郎の横に追いつく。ジャケットを着てはいるが、中に着ているのは極彩色のアロハシャツだ。しかも下にはジーンズを穿いている。とても会社勤めとは思えない。だが世の中には様々な会社がある。もしかしたら葵のところは服装にはそう煩くないのかも知れない。優一郎は葵の格好をそう納得した。
喫茶店に入るとさすがに葵もそれまでよりは大人しくなった。どうやら状況を見ることはできるようだ。出されたコーヒーを傾け、優一郎はそう考えた。葵は注文したチョコレートパフェに小さな歓声を上げている。品物を持ってきたウェイトレスに軽い誘い文句を吐いたが、あっけなくかわされている。
「ちぇー。可愛かったのに」
そう言いながら葵は長いスプーンでパフェの山を切り崩しにかかった。
「あのさあ。あの企画、どーしても進めなきゃ駄目?」
スプーンが生クリームをすくい上げる。優一郎はカップを戻して口許を指先で拭った。
「ルポライターの神崎葵さんに、答えるべき質問ではないと思いますが?」
「うええん、優一郎くんがイジメるよう」
泣き真似をしつつ葵が告げる。見た目には葵は二十代半ばだ。優一郎は半ば呆れた気分でため息をついた。が、優一郎の気持ちを少しは理解したのだろう。だってさあ、と葵が続ける。
「ボスが煩いんだもん。あの企画は通すなって」
「名刺をもう一度いただけますか?」
甘えるように告げた葵に切り返す。すると葵は拗ねた顔でポケットを探り始めた。その口許には生クリームがついている。優一郎は指で口許をさして見せた。すると葵がもう、と言いながら指先で生クリームを拭う。
この話では、偽名にしてはいけない名前w