あ、エロシーンはありません。
毛足の長いじゅうたんの上を要は苛立ちに任せて歩いていた。時折、心配顔で使用人たちが足を止める。だが今日の要はそんなことには構っていられなかった。優雅に微笑んで何でもないのよ、と告げれば済むだけのことなのに、そんな余裕すらなかったのだ。
要はまだ体操服に身を包んでいた。着替えるのを忘れたのではない。何故か着替えが更衣室からなくなってしまっていたのだ。その悪戯の犯人を要はろくに調査もせずに特定の生徒に決め付けていた。吉良絵美佳。体育祭の後、いとも簡単に要が負けてしまった相手だ。
おのれ、吉良絵美佳! どこまでもわたくしを愚弄して!
今日の要の横にはいつもの姿はない。ボディガードの役割を果たしている野木と周藤は学校で後始末を続けている。会長である要だけが先に帰宅するのは気が引けたが、何しろ事は学校の中だけではすまない事態にまで発展しているのだ。
生徒会に手を貸した企業から派遣された人物は、先ほど血相を変えて本社に戻って行った。恐らく時をおかずに会議が開かれるだろう。そこで問題になるのは遠隔操作によるロボットの暴走と、対したロボットについてのことだ。暴走はまあいい。企業的に実験の失敗をした、という結論で落ち着くだろう。だが絵美佳の作ったロボットについては違う。彼らは恐らく目の色を変えて絵美佳とコンタクトを取ろうとするだろう。当の企業のロボットを負かしてしまったからではない。その機能について謎の部分が多いからだ。そしてその謎こそが彼らの入手したい情報なのだ。
だがそうなると今度は要の立場が危うくなる。何しろ、無理を通してもらうために色々な方面に頭を下げたのは要自身ではない。要の生みの親である栄子なのだ。
「全く、冗談じゃないわ!」
要は乱暴に怒鳴りながら歩く速度を速めた。半ば走るようにして自室に戻る。一刻も早く手を打たなければ大変なことになる。栄子は普段は穏やかな風貌をした気品のあるご婦人、と言われているが、その実、怒るととんでもなく怖いのだ。
「まずいわ。絶対に回避しないと」
ぶつぶつと口の中で呟きながら要は部屋の中を歩き回った。服を着替えた方がいい。いつもならその程度のことは簡単に思いつく。だがこの時の要は自分の服装にすら構っていられなかった。蒼白になってあらゆる考えを巡らせる。だが、こういう時に限って一つもいい案は浮かんでくれない。
前回、絵美佳に負けた時、栄子はにっこりと笑ってこう宣言した。今日から半年間、要さんのお小遣いはカットしましょうね。愕然とする要を余所に、またうろたえる父親も無視して栄子はそれを実行した。その間、要はありとあらゆるものを購入する資金を自らがバイトするという苦肉の策で捻出しなければならなかった。他の学友たちが当り前にしていることも、要にとっては苦痛でしかない。要は毎日、歯軋りしながらハンバーガー屋でバイトを続けた。
またある時、やはり絵美佳に負けたと報告した要は一晩中、とある部屋に閉じ込められた。お仕置き部屋と名付けられたその部屋での出来事を要は今更ながらに思い出して身震いした。その部屋は通称、虫の部屋。要の大嫌いな虫が山のように詰められた拷問部屋だった。
絵美佳に負けるたびに要は辛い目にあってきたのだ。今回も例外ではないだろう。しかも今回に至っては母親の力を先に借りてしまっている。お仕置きも当然、今までになく強烈なものになる。その不安が要の歩く速度を上げさせた。足早に部屋を歩き回り、ああでもないこうでもないと独り言を呟く。
「あら、要さん。帰ってたの?」
唐突に間近で声がする。要は予期せぬことに驚愕して思わず悲鳴を上げた。頭を抱えつつ振り返る。するといつの間にか背後に母の栄子が立っていた。三十過ぎで会社の重役を務める栄子は、ぱっと見には二十代に見える若さを誇っている。薄いブルーのスーツ姿の栄子を見止めた途端、要はその場に姿勢を正して慌てて頭を下げた。
「もっ、申し訳ありません! お母様!」
「あらあら、物々しいこと。どうなさったの?」
栄子は要の心情に気付かないのか、手を口許に当ててころころと笑っている。要は背中に冷たい汗を感じながら正直に告げた。
「じっ、実は吉良絵美佳にまた負けてしまって」
するとそこで栄子の笑いがぴたりと止んだ。静かに手を下ろして要に視線を送る。だがその目も表情も笑っていた時と変わりない。にこにことした笑みを見ていた要の全身からどっと嫌な汗がふき出す。
「要さんも相変わらずですこと。でも今日はそれよりも先に要さんに会っていただきたい方がいるのよ」
いつものように栄子は怒ったりはしなかった。先ほどまでと変わりない笑みを浮かべている。もしかして今回は大目に見てもらえたのかしら。要の胸にそんな希望の光が宿った時、タイミングを見計らったように栄子が告げた。
「私はそれよりも先に、と言いましてよ?」
きっぱりと告げた栄子の言葉には口を挟む隙はどこにもない。要は頬を引きつらせながら黙して頷いた。が、その瞬間に栄子が軽く手を振る。ぱこん、と景気のいい音を立てて栄子は要の後ろ頭を叩いていた。
「おっ、お母様!?」
「お返事はきちんと。首振り人形ではないのですから」
あくまでも穏やかに栄子は叱った。聞きようによっては叱っているようには感じられないだろう。だが要は心底、栄子の恐ろしさを知っている。ので、慌てて口頭で返事し直した。
着替える暇もなく、要は栄子に連れられて廊下に出た。向かう先はリビングルームとして日頃から要が利用している部屋だ。栄子の専用室に通さなかったのは、客人が花を好んでいるかららしい。歩きながら栄子に説明をされ、要は出来るだけ素直に返事した。少しでも気を抜くと平手が飛んで来るからだ。
花でいっぱいのリビングルームに入る。そこには見知らぬ男がいた。
「ご紹介するわね。こちら、ルポライターの木崎さんと仰って」
栄子がそう告げると、それまで腰を屈めてばらを熱心に見つめていた男が立ち上がった。年の頃は二十代半ば、といったところか。要は礼儀正しく男に一礼した。
「やっ。どうもどうも。はじめまして」
軽い口調で告げながら男が手を差し出す。要は訝りつつも素直に手を出した。強引に要の手を握ったかと思うと上下に激しく振り回す。要は男の奇異なこの行為に目を丸くした。母親が連れてきたのだからそれなりにお堅い人物だと予想していたのだ。なのに男の様子は要の予想を裏切っていた。何より着ているものがアロハシャツとジーンズなのだから、その軽さも伺えるというものだ。
「えっと、要ちゃん、だっけ?」
栄子に紹介される前に木崎は要の事を言い当ててしまう。そうですの、おほほ。栄子はためらいなくそれを肯定して笑っている。要は男をうろんな目で見やってから握られている手をさりげなく解いた。
「今日のかけっこ、見せてもらったよぉ。あっ、そうそう。俺のことは順って呼んでね」
どこまでも軽い口調で順が告げる。要は引きつりながら栄子を見やった。だが栄子はのんびりと視線を返すだけで何も言わない。
「そのカッコ、なかなか素敵だよねぇ。もしかして要ちゃんってそのカッコで登校してんの?」
「……そんな筈ないでしょう」
殴ってやろうかと思ったが、要は何とか激情を堪えてそう言い返すだけに留めた。すると順がえー、という不服そうな声を返してくる。
このばかをわたくしにどうしろと言うの、お母様。
何度も栄子にそう問おうと思ったが、要はどうしてもその質問をすることができなかった。順は要が聞いていようがいまいが構わないらしく、しごくどうでもいいことを喋り続けている。要は頭痛を抑えるようにため息をつき、頭に巻きっぱなしになっていた鉢巻を指先で押さえた。
この話の中で名乗った名前のせいで、後に面倒なことになります。